心の感覚~直毘感の世界~

先日、祖母が亡くなり通夜の席で臨終のお話を叔母からお聴きしました。

祖母は最期は病院でしたので、呼吸器をつけてもらっていたので声が出せなかったようです。しかし、御縁のある沢山の方々や親族が駆けつけ声をかけると笑顔を浮かべていたようです。その笑顔で万感の言葉を発していたと、口々に語ってくださるのを聴いていると、改めて人と人のつながりの愛を感じました。

古来から人間が死ぬとき、最期まで残る感覚が聴覚であると言われます。最近の脳科学の研究でも脳波を計れば最後まで聴覚が反応することが分かってきているようです。

五感の中で最初に感覚が薄れるのが触覚、その後は視覚、そして味覚嗅覚、そして聴覚と言われます。本来は力が抜けていく中で、もっとも原始的な器官が残るのかもしれません。

しかし耳で声を聴き、それが心に届くというのはそれが対話をするということであるのは間違いありません。

人は耳を使って心を通じ合っていくように思います。話を聴くというのは、心を聴くということです。心を聴くには相手の声を受け止め、そして認め、聴き届けたよという合図があるのです。

言葉は言霊と呼ばれるように心に通じているから心に届くのです。

そう考えてみたら、耳が最期まで残るのではなく「心が残る」と祖母の生き方によって改めて教えられました。

人は人の真心をどんな状況になっても受け止めることができるのです。だからこそ、どんな時でも真心で行動すること真心で実践していくことが愛を通わせることのように思います。

現代の人は頭でっかちになりすぎて頭で考え過ぎる癖を持ってしまい何でも目に見える世界の感覚に置き換えすぎて、本来の五感が分からなくなってきています。しかし本来の六感とは「真心の世界の感覚」なのです。日々に直観を感じるというのは、真心で生きる時にこそはじめて互いに理解できる感覚なのかもしれません。

これを私自身は「直毘感」だと定義しています。

祖母は、あまり口数が多い方ではありませんでしたが美しく優しい瞳を持ち、忍耐強く思いやりのある方でした。大切に箪笥にしまい守ってくださったアルバムに祖母の素朴で純粋な人柄の余韻に今も触れています。

祖母や祖父たちはみんな他界してしまいましたが、いただいた真心、いただいたご縁は大切に御恩返しと自らの使命に活かしていきたいと思います。

 

  1. コメント

    「直毘感」とは何か理解できていませんが、今日健診へ行き科学が発達し瞬時に身長も体重も血圧も何でも測ってしまうことを感じました。小さい頃、家族とは背が伸びたことを柱に線を引きながら一緒に喜び合えましたが、数字を測り次の検査へ廻るこの繰り返しは何だか虚しくも感じます。お金を払い身体を診て頂きましたが、何を診てもらったのだろうと思います。自分はお客様に対してどうか、心を遣って仕事をさせて頂いているか自分に問い直したいと思います。【●】

  2. コメント

    食品偽装の話がありますが、自分の舌ではなく、表示してある情報次第で味が変わるというのも変な話です。同じように、他の五感も、知識や情報、あるいは環境によって、その精度がかなり落ちているでしょう。第六感となると、更に鈍くなっているかもしれません。特に第六感は大事です。この受け取る力を高めるには、心を穏やかにするだけでなく、日頃の心の遣い方もっと純粋なものにしていく必要があると感じています。

  3. コメント

    心の感覚はいつまでも残り、心で誓った約束はその人の姿がなくなっても消えることは無いのだと思います。祖母が亡くなった時に棺にメッセージを入れました。愛嬌ある孫なら祖母は喜んだでしょうが、幼い頃からそのタイプではなかった私は一言「母のことは護りますので安心してください」とだけ書きました。祖母には良い思い出を残してあげることが出来なかったかもしれませんが、母を大切にすることで祖母は喜んでくれていると信じています。

  4. コメント

    父の最期に、手を握り、脈が少しずつ弱くなる中で、最期の最期、力強く握りしめ、目を見開き、ありがとうと言われた事を思い出します。あの時、ありがとうという言葉ではなく、言葉にならないものを受け取りましたが、それは、心を頂いたのではないか、父から子へ心を受け継いでもらったのではないかと、今になって感じます。そう思うとまどまだ、頂いたありがとうの心を使っていない自分に気付きました。大事な事に気付かせて頂きました。ありがとうございます。

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