コスモリテラシー

暮らしを守るとはどういうことかと考えることがある。

山に行けば、様々な動植物や昆虫が棲み分け暮らし、川に行けばそこでも同じく小さな生物から大きなものまで棲み分け暮らしている。土の中では微生物をはじめ、小動物など多種多様な生命がそれぞれに棲家を分けて暮らしている。

人間だけの暮らしを良くしていくことだけが暮らしを守ることではない。本来、暮らしを守るとはこの世に棲家を分けて暮らしているすべての命を守ることが暮らしを守る事なのである。

自分たちだけの暮らしを守っていては、地球上で棲み分けている私たち共生の生命の暮らしが持続して保障されることはない。今の人間は、常に自分の暮らしばかりを守ることに必死になりもっと身近にある様々な命を大切にすることを忘れている。そのツケで原発事故にあるようにもう生命が棲み分けすることすらできないような棲家にし、暮らしが壊されていくのをいよいよはっきりと目の当たりにするようになってきた。

自然の中にあるとても繊細かつダイナミックな繫がりから秩序を学ぼうともせず、いのちよりも欲望を優先していつまでも生きていたらそういった普遍的な秩序の中にある穏やかで平和な心を持つことも失われていくものである。

最近のニュースでは、熊や猪などの野生動物が人里で人を襲ったというニュースがある。また空に鳥がいない海に魚が消えたや、身近に虫が大量発生したり雑菌が人を襲っているともいう。

これはなぜなのかは明確である。

もともとの命の営んでいる領域へ、勝手に人間が私欲を優先し踏み込み奪い去ったことで、以前から棲み分けていた居場所で暮らしくことができなくなったからである。誰だって自分の暮らしができなくなれば新しく暮らせる場所を探そうとするものであるし、暮らせるようにしてくれる仲間や絆を探そうとするものである。

神社では杜というものがある、決して人間だけが生きているわけではないということを学び命を尊重し合うために杜を遺し、自然と共生していくなかで御蔭様であることや他の命がいただくのだからもったいないや、滅多にないような恩恵に感謝する有難いということを自然の秩序から学び暮らしを守ってきた。

幸せで居続ける事は、それぞれの命の暮らしを守る事であることくらい本当は知っていたはずがちょっと目新しいマシーンや科学に目を奪われると、長らく手と手で交わした自然との交流を手放してまでその便利さに心を奪われた。今では、すべてが自分の手を汚さずに便利に楽に生きていこうとすることが暮らしを守ることであると勘違いすらもしている。

自分の生活が裕福になる陰には、様々な暮らしを奪われている優しく穏やかな命が存在していることにも目を向けないくらい忙しくなってしまっては自他含め命は粗末にされるもの。

悲しい苦しいと泣き叫んでいるのは、自他の魂である。

未来を鑑みれば、子ども達にはナチュラルリテラシーを身に着けていくことがこれからの時代大事なっていく。本来の自然から秩序について学び、西洋と東洋の価値観を融合するコスモテラシーを持てる人物として成熟していく必要がある。

これは私の造語だけれど、暮らしを守るには自らがコスモリテラシーを学ぶ必要がある、そしてそれはすべての命が観えている人物に育っていることである。

人間の成熟とは、別に何か超能力を使うことでもなく、何かよほどの徳や人格を持てばいいというものではない。当たり前のことをもっと自然に感じて、様々な秩序を自らに内包し、世界の中で自分らしく自立できることをいうと私は定義する。

これからの子どもたちの未来に思いを馳せると、命の絆の大切さを思わない日はない。刷り込みを取り除けるように、環境保育や自然教育の本質、ナチュラルリテラシーと人間の本質、コスモリテラシーをまだまだ極めていこうと思う。

未来への希望は子どもたちのためにも、今、どう生きるのかを一人一人が考えて主体的に決めることだと自らで示していきたい。

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