命維れ新なり~維新の本質~

今年の大河ドラマ「花燃ゆ」では吉田松陰の妹の文を主役にしたものが放映されます。吉田松陰は優しく暖かく見守る家族に恵まれていることは松陰の過去の手紙から察していましたが、妹についてはあまり関心を持っていませんでした。今回の大河で妹がどのように松陰の影響を受けて生きたのか、私なりにも深めてみたいと思います。

吉田松陰は、孟子を使った講義を野山獄で囚人仲間に対して行いました。野山獄ではお互いの得意なところを学び合おうと学問を続け、その中で自らは孟子の解釈を語りました。その講義録を「講孟剳記」といい、完成したものを「講孟余話」といいます。

孟子は、江戸時代では禁書とされ社会秩序を乱すものとして読むことも禁じられていました。儒教は別名で「孔孟の教え」と呼ばれるのに、孔子は読むが孟子は読んではならぬというのはおかしな話です。孟子は、性善説を唱え人間の本性は善であると言いました。それに対して荀子は性悪説を唱えその反対を言いました。

しかし、本来は善も悪も一体であり真善と真悪は極め尽くせば最善であるのだから言っていることは同一のことなのでしょう。ただ解釈の仕方としては、孟子は惻隠の情という言い方をし、どんな人間も幼い子どもが死にそうならかわいそうだと思う真心が誰にもあるように人は思いやりを持って産まれてくるものだと言ったと私は解釈しています。

赤ちゃんが笑顔になるように、周りのことを思いやるようにできるのは人間は地球の中で見守られ多くのつながりの中ではじめてこの世に産まれてきます。生き物を殺して食べては存在しているのが私たちですから自然の慈愛は偉大なものです。

そう捉えてみれば、「人間の本性は善である」というのは言い換えれば「自然の本性は善ですよ」という意味になると思いますからこれは孟子の言う通りです。人間を含めて自然に生き活かされるものは全て善なのでしょう。

孟子は、孔子と同じく王道政治について語りました。今の時代の言葉にすれば、王道社會とはどういうものかを広め続けました。王道とは、人道の極みであり何よりも人間として正直である道とは何かを説いたのです。人間として正直であるというのは、お互いに思いやりを忘れずに助け合って見守り合う協力調和した世界の実践を行うことです。

それを君子とはどうあるべきかと、国を治める人たち(政治家やリーダー)に対して誠の政道とは何かを全国各地を行脚しながら民衆をはじめ国王へ教えを広めました。今も昔も人類は安心して暮らせる平和な社會を夢見てきました。その夢の実現をしようと語り掛けた教えは2500年を経ても燦然と光っているのはそれが本物本質であるからなのでしょう。

その大河ドラマの中で、妹の文が詠んだ孟子の一文がありました。

「庠序学校を設け為し以て之れを教ふ。 庠なるは養ふなり、校なるは教ふるなり、序なるは射なり。 夏に曰ふ校、殷に曰ふ序、周に曰ふ庠しょう、学は則ち三代に之を共にす、皆な人倫を明らかにする所以なり。 人倫の上に明にして、小民の下に親しむ。
王者の起る有り、必ず来たりて法を取る、是れ王者の師と為すなり。 」

私の勝手な現代意訳で申し訳ありませんが、(名君の居た世は常に学問をするところ全てにおいて正直正道を何よりも重んじ人としてどうあるべきかを明らかにしました。そうやって正直正道をみなで実践しているものであってはじめて民は王道を知り、それを広める王をお手本として正しい法に則っていきました。)と。

さらにここから「維新」という言葉が続くのです。

『詩に云う、 周は舊邦と雖も、其の命維れ新たなり、と。 文王の謂ひなり。
子、力めて之を行はば、亦た以て子の国を新たにせん、と。』

また現代意訳ですが、(詩経にこうあります、周は旧い国ではあるけれど、その命は維新されていると。これは文王が言うように徳を大事にして自らが実践すれば同じように国のいのちは新しく生まれ変わり続けるのです。)と。

「命維れ新なり」

正月を迎え、一年の新たな始まりに於いてこの「維新」という言葉。神道の式年遷宮のように「いのちが新らしく甦生する」ということを行うのは、それを実践するものたちの生き方や生き様、いわば道に由ってということなのでしょう。

孔子と孟子の行間からもう一度、仁義の本質を学び直してみたいと思います。

 

  1. コメント

    真善も真悪も極めれば最善と言う言葉に何か強く惹かれます。光と影もどちらかではなく、両方共に太陽の恩恵であり、その本質まで見抜くことと、本質で生きる事でミマモリストに近づくのだと思います。片側だけの見方を捨て、福になる眼差しを学んでいきたいと思います。

  2. コメント

    先日の「花燃ゆ」第一話観ていて熱くなるものを感じました。翌日に視聴率が歴代ワースト3位と出ており、観ていた自分にとっては世間の関心度に驚きました。
    「子どもたちが憧れる会社」とは、と実践を積み発信していく中で、大河を観て、そして改めて留魂録を読み直しながら生き方遺すということがどういうことなのか、以前に比べ感じるものが増していっているのを感じます。大河に出演している俳優陣よりも、吉田松陰や松下村塾に通った面々の生き方を観たいと思うのは、先人に自分が憧れるところがあるからなのだと思います。憧れる人に自分が少しでも近づいていけるよう、観るたびに感じ、気付くものがあれよう実践していきたいと思います。【●】

  3. コメント

    「世界」は、私たちの認識のしようによって、いかようにも違って見えるのではないでしょうか。ひとつは、「自分の心の写し鏡として見える世界」であり、ひとつは、努力・精進によって「気づいた分だけ明らかになってくる世界」です。これは、悟りの高まりに応じて、この世の真の価値と美しさがわかってくる世界でしょう。ただ、注意すべき、もうひとつの「世界」があります。それは、「自分の仮説に基づいて現れてくる世界」です。「人は、自分の仮説を証明するように生きる」と言います。したがって、どんな仮説(人生観、人間観)を持って生きているのか、そこを間違わないようにしたいと思います。

  4. コメント

    新年を迎え新たな気持ちで日々が始まりましたが、心の余裕を失えばわずか数日でも尊徳翁の言う田畑の草が生い茂ってしまうように思います。それでも社には実践を重んじる風土があり、日々新たになれる環境があることが有難いことだと感じます。今日の念頭祈祷や新たな実践もしっかりとその意味を捉えていきたいと思います。

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