真実を見抜くちから

人間は知識が多くなってきて、分別された情報を認識することで様々なことを確認するようになりました。そのことで同時に、「何のためにか」という本質を考えず、どうするかばかりを考えるようにもなりました。便利な社会というものは、如何に簡単に安易にスピーディに物事を解決する価値観が中心になっている社会です。

ここでの便利な社会というのは、自分都合の社会のことを言います。何でも自分都合で好都合になることがもっとも良いものだと考えるのです。これと反対に不便というものがありますが、これは相手都合、つまり自分以外の都合に合わせるから不都合となります。

例えば、自然界に生きていたら自分都合であることはほとんどありません。農業一つとってみても天候も思い通りではありませんし、育つ作物もそれぞれですし、天敵なども出てきて無事に収穫できるとも限りません。自分たちにとっては不都合だらけです。しかしそれは全体にとっては都合が良いという考えもあるからです。

得てして自分にとって不都合なことは全体にとっては都合が良いことばかりです。それは万物は循環していますから、自分の都合を周囲に優先させればその都合によって不都合の人が出てくるのです。しかし実際は、権力や人間の身勝手によって都合が悪くなることを排除してきたのが便利な社会ですから都市の中では可能でも、都市から離れると急に不都合に順応することがなかなかできないものです。

田舎にいけばわかるように、交通手段もありませんし、街灯もないですし、インターネットも繋がりません。人間には大変不都合ですが、他の自然の生き物たちには都合が善いのです。

人間の慾は限りなく、どこまでも都合欲なるように広めていきますから世界中あちこちが便利である世界に換えようとするのかもしれません。それが人間関係の中でも発生していますから、今は人間関係も都合の良い人ばかりが増えてきているように思います。

人間が謙虚さを失うとき、そこには便利な社会が増えていくのでしょう。

生活の中に敢えて不便を取り入れること、つまりは周りを思いやることで私たちは自分たちの慾を御して暮らしてきたのかもしれません。子どもたちのためにも「本当は何か」という本質に立ち返り、常に本質を考え抜くことで便利さの陰に隠れている”真実を見抜くちから”を育てていきたいと思います。

  1. コメント

    何の為かを握るのは自分であり、周りが握っているかいないかは自分の”何の為”かとは関係がないにも関わらず、自分を振り返ると不便さや伝わらなさに感情が生まれます。その感情に左右されるのは自分が握っている手綱の弱さを感じます。特に家族や親族となると、感情が強く、条件に左右されたくなってしまいますが、そんな時こそ手綱をしっかりと握り、頂いている機会と自覚し、豊かさを味わって行きたいと思います。

  2. コメント

    内省をしていると思っても、実は内省でなかったのかもしれないと危機感を感じています。客観的に分析していても一向に真実が見えないのは、相手に寄り添っていなかったからかもしれません。外野から見てるだけでなく相手の心を慮り、普段から寄り添うことをもっと大事にしていきたいと思います。【●】

  3. コメント

    「自分にとって好都合なことは便利であり、便利なことは幸福である」という公式を持ってしまうと、「自分にとって不都合なことは不便であり、不便なことは不幸である」ということになってしまいます。不便でも、求めなければ不幸ではありませんが、一旦、求め始めると、与えられないことが不幸の原因になります。「求める」とは「期待すること」であり、期待の方が大きければ、せっかくの親切も感謝して受け取れません。「求めることで幸福になる世界」ではなく、「与えられるものを嬉しがり、与えられることを楽しめる世界」を生きたいものです。

  4. コメント

    自分以上に家族を含めた自分のことを慮ってくださっていたことに驚きを感じ、大切な姿勢をリアルな実践としてみせていただいたのだと感じています。周囲を思いやり心をはなさない生き方に変えていけるよう実践を大事にしていきたいと思います。

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