自然生態系を育てる

田畑に出れば様々な虫たちや動物たちが繁殖していることに気づきます。山林の中とは異なり、人間が作物をつくるために作業している場ですからそこには人間を中心にした独自の生態系が存在しています。

例えば、ピーマンやトマトを育てればそれを食べるカメムシが集まります。カメムシが集まればそれを捕食する虫たちが集まってきます。他にもそこに育てる野菜の種類によっては同時に増えていく虫たちもまた集まっていくのです。

このように生態系は自分たちが育てるものによってそれが餌になり、その餌を食べるものたちが増えることでまたその増えたものを餌にするものたちが集まっていきます。

一見、田畑では何も起きていないように観えても確実にそこには、人間の創りだした環境が出来上がっていると言えるのです。そうやって自分たちが用意した環境の中では、一時的に大量の虫たちが発生します。餌があるから増えることが出来るのですが、それを減らすために農薬をまいたりします。

実際は、少量ならば増えないものを一つを大量に育てるから別の一つも大量に増えていきます。そうやって増えていけばその周りにあった虫たちや動物たちの生態系も変わっていきます。本来、そこになかったものを育てるということは生態系を変えてしまうということでもあります。

田畑をはじめて何を育てるか、それは生態系を育てるとも言えます。それは自分のカラダにも言えるものです。人間の身体の中には無数の菌類が腸内で生息しています。その菌類の餌を何にするかは、腸内の生態系を変えてしまうことです。餌がどのようなものを食べ続けるかで腸内の菌類のバランスも変えてしまいます。あまりにも腸内のバランスが崩れるとお腹を崩しますが、これは田畑でも同じことが言えます。イナゴが大量発生したり、特定の虫や動物が現れて荒らされてしまいます。

自然界というものは常に生態系が関係しており、その場所や広さ、周りの環境と密接なのです。私たちが作物を育てるとき、それは同時に生態系を育てているとも言えます。どんな生態系を育てていくかは、その人の生き方がきめるとも言えます。どちらにしても、大量生産大量消費は同じく大量の生態系を産み出しますから生態系を乱す範疇を超えてつくるということはそれだけ生態系に対する認識が必要になろうと思います。

自然の許容範囲を知るということは、生態系を学ぶということに似ています。どこまでが許容範囲なのかは、周りへの思いやりに比例するように思います。分を超えるとすぐに問題は発生しますから如何に謙虚であるかは、自然界の理法に適うかどうかを左右します。

自然は正直ですから、謙虚である意味を正しく学べます。子ども達のためにも生態系を思いやる農法を学び直したいと思います。

  1. コメント

    メダカを飼いはじめ、植物と自分以外に身近な存在がいるとそこに関係性が生まれます。家を空ければ大丈夫だろうかと心配になります。一人だったら気にならない、気にしないこともそうはいかず、餌や水をあげているあたりに自分がしているというより、メダカや植物に自分を育ててもらっているようにさえ感じます。一人でいると何かと思い通りいきますが、自分を中心に考えず周囲との関係の元で自分自身を活かしていきたいと思います。

  2. コメント

    あらゆるものは繋がっていますから、ひとつの作為が、どこにどういう影響を与えていくかはわかりません。実際には、何年も経たないと、ほんとうの影響力はわかりません。私利私欲の発想は基本的に短期です。「生態系」を指標にすると、目先の欲望やその場しのぎの発想は、無責任であり、分をわきまえていないということになるでしょう。本当の「謙虚さ」とは、「縁起の理法」に基いて、未来に対する自らの「責任」を追求する姿勢から生まれるのもしれません。

  3. コメント

    自分の体の中の生態系を感じるというのはとても興味深く、今まさに何かを教えて下さっている機会をいただいているのだと思います。身近に食事療法の実践者がいることも何かの縁であり、致知の済陽氏の記事からも、小松先生の著書からも、何か根底にある大きな繋がりのようなものを感じます。決して自分の為にあるのではないこのメッセージに気づいていきたいと思います。

  4. コメント

    頂いためだかを育てる環境をということで、持ち帰った時の発泡スチロールでビオトープを作りました。そこに炭を敷き詰め、植物を入れ、めだかやどじょうを入れていました。
    この休暇中に子ども達と採った川エビを先日入れたのですが、エビだけが全滅してしまいました。その他の水槽にもエビは入れたのですが、そこは大丈夫でした。なぜなんだろうと、調べていますが今自分自身が思いつくのは生態系の種類の単純さかもしれないと感じています。立ち上げたばかりのビオトープにはまだ生命の種のバランスが整っていないことや、種類事態も少ないことが考えられました。そこで、近隣の色々な公園で子ども達と遊ぶついでに植物を仕入れてみました。まだ分かりませんが、自分自身に沢山育てたいという願望があり、生命たちに窮屈にさせてしまっていることも振り返り続けて感じてきました。
    そこにいる命の気持ちに一つ一つ、立ってみると、
    やはり、「我」が見えてきます。ビオトープの中から
    バランスを学んでいきたいと思います。

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