灯りの余韻~炭の仕組み~

炭を使った暮らしをはじめてみると、如何に炭が温もりを与えているのかを実感するようになってきました。一日のはじまりと終わりに炭を熾しているだけで時から離れ自然に近づいていきます。

そして炭はコツを掴めば、火の調節もとてもしやすく便利な現代の道具よりも微調整がききます。それに一度火が入れば、小さな火が残りますからいつでもまた熾し直すことができ火を絶やさなければいつでもまた復活するということにも気づけます。灰も大切な役割をし、燃え尽きてなおその火を守っています。この炭で沸かす一杯の御茶は本当に格別で生きている仕合わせを感じるほどです。

この炭というものの温もりは、普通の薪やガス、石油で燃やす火にはないものです。それらの火は燃え盛る太陽だとしたら、炭の火はそれを受けて光る月のようです。月はその光の中に温もりを宿します。同じように炭にもその炭の中に温もりが宿るのです。

炭に火が入れば、炭のいのちが燃え始めます。その炭のいのちは透明な灯りを自らの呼吸で点灯させていきます。その点灯した灯りが周りを暖め、同時に私たちに温もりを感じさせます。この優しく包まれる灯りの中で、私たちは一日のはじまりの意味を知り、一日の終わりの意味を感じます。この炭が産み出す「灯りの余韻」は、心に深い味わいを与えてくれます。

人生は一瞬です、そしていのちは熱を帯びてはその熱が次第に冷めて消えるか最期には灰になっていきます。血液が赤く体温を維持するために呼吸するように炭もまた赤く温もりを維持するために呼吸をします。火吹竹で息を吹き込み元気になる炭のように、私たちもまた息をして元気になります。

火に空気の中の何かが反応することで、温もりというチカラが出て来ます。その自然が熔け合う瞬間に私たちは灯りの余韻を感じて心が癒されていきます。火は人の心を投影します。その人の心の安らぎは火の中にも顕れます。炭のない暮らしは人心の荒廃を進めているように私には思えます。これは昔からの稲作の仕組みがなくなって協力しなくなったように、炭もまたこの人の手で炭を扱う仕組みがなくなって温もりが失われてきたようにも思います。

灯りの余韻を大切に味わう心のゆとりを炭と一緒に育てていきたいと思います。

子ども達のためにも、自分が灯を消さないように実践を大切にして見守っていきたいと思います。

  1. コメント

    炭の働き知れば知るほどすごいなと思うと同時に、自分も炭のように場面に応じて役割を務められたらどれだけいいだろうかと感じます。以前、新潟の古民家で火吹竹を使い息を吹き込みましたが、最初は中々上手く届きませんでした。コツを掴むまでは息が漏れ自分が苦しいばかりですが、しっかり吹き込めると音も違います。背中を押す後押しが少しでもまっすぐ届くよう、自分自身の姿勢を見直していきたいと思います。

  2. コメント

    昔から行われてきたことにはいろいろな効果・効用がありますが、それが新たに商品化されるときには、その機能が絞られ、それ以外のムダは出来るだけ省かれます。その結果、安くて便利だけれども、その機能以外は味わえない、余裕がない商品がたくさんできてしまったようです。そういう意味では、便利にすることと引き換えに、目に見えない大事な効用をたくさん捨ててきたのかもしれません。「機能としての部分最適」を寄せ集めても「暮らしとしての全体最適」にはなりません。「便利」ということの危うさを改めて感じます。

  3. コメント

    古民家や久高島で炭を扱った際、あのような場だからこそガスで火をつけるのとは全然違う感覚を味わえました。このブログを読み始めていると、最初、炭のことではなく人間の魂のことのように思えました。簡単に火はつかない、一度火がつけば赤々と内部が燃え続ける、人間の姿勢もそこから学べたのかもしれません。簡単については消える使い捨てのような火ではなく、内側から燃え続ける火を持ちたいと思います。

  4. コメント

    木を燃やして温まる薪と、木を燃やしたエネルギーを詰め込んだ炭と、どちらも同じ木でありながら隠と陽があるのかと、読む中で感じます。実践の経験が自分には無いためイメージしかありませんが、そこにある何かには、また一つ価値観の深化があるように感じます。深めてみたいと思います。

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