懐かしい永遠

昨日は、遠方から訪ねてきた友人や仲間たちとお餅つきを行いました。まるで親戚がみんな集まって団欒しているようにお餅つきができ有難い時間になりました。杵と臼と蒸篭や竈も大活躍で、一年の締めくくりに見事な調和をしてくれました。もう数十年も前のものを甦生して使っていますからあちこち傷んでいます。それでも最後まで主人と共にみんなの仕合せに貢献してくれます。

私は懐かしいものが大好きです。その理由は、心が温まるからです。古いものは記憶を持ちます。その記憶は多くの人たちと喜んでくれた記憶です。物は喜ぶのが大好きです。だからこそ、私は物に触れるとき喜びを感じます。私の甦生の裏には常に喜びがあり、その傷を深く受け入れて懐かしい時間を甦生させているのです。

また懐かしい時間は、人とのつながりの中にもあります。人は何処で生きるのかもありますが、誰と生きるのかというものもあります。ご縁のあった絆の方々と一緒に歩める時間は人生の中のどれくらいかわかりません。だからこそその時々を大切にして二度とない一期一会を味わうのです。その時こそ、私たちは懐かしい永遠を生きることができます。

あらゆる物は、時を超えて記憶を刻みます。肉体や精神を失っても、その魂は忘れることはありません。人は心がありますし、物にも心があります。この心の正体は、懐かしい永遠の中にこそあるのです。

私が取り組む暮らしフルネスは、この懐かしい永遠を目指すものです。だからこそ無限に取り組み方があるように無限の生き方もあります。その一つ一つを磨いていくことで、徳を顕現させていくこと。そしてその徳が循環していくこと、自然ともいいますがあらゆるものが結ばれた境地に達していくことのようにも思います。

実際にはとてもシンプルで、笑ってしまいますが懐かしい永遠の中でお餅つきをやったり、太陽を拝んだり、果樹をとったりお米をつくったりしているだけです。

頭で考えすぎず、人間の知性ばかりを頼らず、心を優先して心に従うこと。今年もいい年になりました。ありがとうございます。

本来の事業

昨日は、故郷の庄内中学校の生徒たちの有志が集まり鳥羽池のお手入れを行いました。具体的にはゴミ拾いや廃棄物の回収ですが一年でまたここまで溜まるのかというほどのゴミが溢れていました。生徒たちは明るくなんでこんなものを捨てるのだろうかと口々に話しながら清々しく片付けてくれて本当に有難い気持ちになりました。

ゴミの中には、かなりの大きさのものも多くよくこんなものをと思うほどの粗大ゴミもありました。私はもともと古民家甦生をはじめ、お山の周辺のお手入れもやっていますからゴミは慣れています。それにゴミをよく見つめることも多く、それが綺麗に片付いている景色も見慣れていますからそこまでの抵抗はありません。しかし子どもたちが誰かが捨てたゴミを真摯に片づけているのを見るとありがたい気持ちが先に出ますが同時にいたたまれない恥ずかしい気持ちも出てきます。

大人たちがやってきたことがゴミとして発生します。池をはじめ自然は黙ってすべてを受け容れてくれていますがそこには魚や鳥たちをはじめ様々な生態系が存在しています。なぜこんなものを生み出してしまうのか、そしてなぜゴミになってしまうのか、そこに今の人類が追い求めている価値を感じます。

2時間ほどみんなでお手入れしたあと、集まって少しお話をしました。

一つは、捨てた人がただ悪いではなくこのゴミを観てこれをつくったものづくりに関わる人たちは何を思うだろうかという話をしました。二つ目は、ゴミ拾いのメリットとして自分を磨くことの大切さ、観える世界が変わることで自分が変わることを話しました。三つ目は、故郷と繋がり結ばれる感覚、池が喜んでいることや故郷が善くなっていくことなども話しました。また桜の時期になると美しい景色があること、改めてみんなで取り組めたことに感謝しました。

今回のお手入れを一人でやったら3か月近くかかります。それを大勢いで取り組むから一日で終わります。自分たちの故郷の大切な場所を、みんなで守っていこうとする心に故郷の徳がますます醸成されていくのです。

子どもたちが取り組むことは小さな一歩ではありますが、大きな未来がある一歩です。

本来の事業というものはどういうものか、それは単に利益や売り上げが上がることや経済活動が拡大することや雇用が促進され税金が集まることなどではありません。むかしの日本の先人たちが行った事業とは、「子孫のために何を遺せるか」というものが本来の事業であったのです。今では名事業家と呼ばれる人たちは、効率的にお金儲けが上手い賢い人たちの代名詞になっています。しかし実際の事業家とは、徳を積む人たちの代名詞であったはずです。

時代が変われば価値観も変わり、言葉の表した意味も変わります。しかし時代が変わっても徳は変わらずいつまでも燦然と輝き、道をまた探り歩けば光が当たるものです。

引き続き、故郷の徳に見守られながら丹誠を籠めて事業に取り組んでいきたいと思います。

いのちといのり

昨日、ミトラ教のことを書きましたが古代の信仰というものはあらゆる宗教に大きな影響を与えています。そもそも人が信仰をするのはなぜなのか、いつからはじまったものなのか。これは誰にも分りません。しかし、最初から信仰という心があることは感覚的には理解できるものです。

この信仰の源流はいのりです。特定の神様や何かの教えや存在などを信じる前にいきものはいのちを持ち、いのります。例えば、親が子どもを守ろうとするように、死にたくないと抗うように、あるいは喜怒哀楽の感情をはじめ子どもが好奇心が溢れるように最初から私たちに具わっているものです。これは無機物においても同様に、太陽に照らされたり水が流れたり風が吹くたびにいのりは起こります。

このいのりを感じるところに最初から信仰もまたあるということです。その信仰は何処から来るのか、それは最初からという言い方もしますが無からとも言えます。無から湧いてくるような存在こと信仰の原点ともいえます。

それが一部の宗教者たち、あるいは人間という社会の価値観によって信じるものを教育するという行為がはじまります。そこから宗教として継承されていきました。すると本来の信仰がなんであったか、何が原点で源流であったかを忘れてしまうようにも私は思います。

誰でもわかるようにすることは便利なことですが、そのことで本当のことがわからなくなるというのはとても残念なことです。人間はわかることで、気づかなくなります。本来はわからなくてもいいから気づくことということを持っていましたが、今ではみんな必死にわかることを優先して勉強して刷り込まれていくのです。

今の時代は、そのわかってきたものでは気づかなくなっていることに気づき、本当の気づきを得る時代だと私は思います。言い換えれば、先人たちや親祖たちが気づいたものに自分たちも気づく時代に入っているともいえます。

改めて、本来の姿から学び直すことはいのちやいのりを甦生し、わかってきたことを手放すことが大切だと私は思います。

子どもたちがいつまでもこのいのちの存在に見守られ仕合せを味わえるように環境をととのえていきたいと思います。

甦生の伝承

今日はクリスマスイブですが、日本では日本的に発展したクリスマスを楽しみます。もともとイエスキリストの誕生日とされているこの日に、キリスト教でもない人たちがお祝いをするのは本来は不思議なことです。日本人は、和魂洋才というように日本的な精神で海外の異文化を吸収していきます。最近は、吸収というよりただのコピーになっているものもたくさんありますが本当は日本文化がしっかりと基盤にあれば日本はなんでも日本文化の器に乗せられるという包容力があります。

日本人が日本文化を自分のものとして伝承されることではじめて様々な文化の本質を取り入れることができます。そういう意味でも、なぜこれをやるのか、元々これは何かということを大切にしていく必要性を感じます。

話をクリスマスに戻すと、この行事はもともと冬至と深い関係があります。これは古代のローマ時代にミトラ教の冬至の祭日にクリスマスというキリスト教の祭日が重なるようにしたことからはじまります。ローマがキリスト教を採用するにおいて土着の宗教と争わないように調整したものといいます。

実は新約聖書においては、イエス・キリストの誕生日についての記述はないため、イエス・キリストの誕生日は本来は不明です。それをミトラ教の冬至の行事と合わせて今ではクリスマスになっています。なのでキリスト教としてはクリスマスとはキリストの誕生日ではなくキリストの誕生を祝う祭日という定義です。

またこのミトラという神様は仏教とも結びついて弥勒菩薩(みろくぼさつ)となります。これは世界の終わりに人々を救う仏にとして、終末論と救世主を持っている存在ともいわれます。またミトラはミトラスあるいはミイロとも呼ばれそれがミロクの語源だそうです。

太陽が復活するという意味と重ねてあり、元々はすべて太陽信仰があらゆる宗教とも結びついたということでしょう。よくカラスなども使いにでてきますが、これも色々な宗教とも結ばれます。

長い年月をかけてもともとあったものが、様々に融合して今に発展してきました。本来はどの宗教も根源は一つであり、太陽や月、星々などの天体、そして地球の自転を中心にした自然観と結ばれています。

改めて行事の意味を深めつつ、すでに知識として残っているものではなくもともとや根源から甦生を伝承していきたいと思います。

当たり前を拝む暮らし

昨日は、朝から会社の仲間たちと一年を振り返り昼からは結の方々と共に暮らしの中で冬至の時間を過ごしました。また夕方からは祐徳石風呂サウナに入り音楽を味わい直来で備長炭で煮込んだおでんを食べ団欒しました。みんなで持ち寄った「ん」のつく食べ物を発表したり、昨年のことを思い出してみんなで語り合い、来年の予祝をしておめでとうをし運気を上昇させました。

私は、何かのイベントのように物事を行うのが苦手であまり好きではありません。刹那的なものは何か人間の作為的なものを感じてしまいます。もちろん、好き嫌いというだけで悪いことではないので時折それもありますが苦手ということです。

例えば、昨日は冬至で日の入りをみんなで眺めて拝みました。奇跡的に日の入りの瞬間に冬の厚い雲の間から差し込んできた神々しい光に包まれました。お祈りをして法螺貝を奉納したあとさらに光が増し振り返ると一緒に拝んでいる友人たちの顔が光で真っ白になっていました。その神々しさにまた拝みたくなり感謝しました。

私たちは何かを拝もうとするとき、何かの建物越しに拝んだり、あるいは石像やあるいはお経などを通して祈ろうとします。しかし、本来の神々しいものはもっと自然的なものやいつもある当たり前の存在にたいして拝んだ方が深い感動や多幸感が得られるものです。

これは自然であり、人為的ではなく作為もないからです。

古来より私たちの先祖は、自然に太陽や月や水や空気、星空をはじめあらゆる存在の偉大さに気づく感受性を持っていました。だからこそ、当たり前の中に足るを知り真の豊かさや喜びを味わっていたのです。

何かと比較することもなく、何かに勝ち負けもなく、効率や効果なども一切とらわれない、ただそこにあるものに感動していたのではないかと私は思います。

その証拠に、私たちの感受性の中には自然を美しいと感じる調和の心が具わり、同時に五感や六感というような感覚が反応するからです。人間の脳みそで構成された世界ではなく、本来の自然として刷り込みも囚われもない赤子のような心があるのです。

そしてその感性や調和を優先して生きることが、本物の暮らしであり私たちがこの世で許されたいのちの尊厳でもあります。

自然を尊重する生き方は、余計なことをなるべくしないという生き方でもあります。それはあるものを観ては、足るを知り、真の豊かさを謳歌するという一期一会の日々を生きるということでしょう。

子孫のためにどのような暮らしを遺していけるか、そして今にその暮らしをどう甦生して伝承を続けていくか、遠大な理想にむけて日々は小さな暮らしの連続です。この日を大切にして、次回の立春に向けて暮らしを調えていきたいと思います。

浄化の一日

今日は、冬至です。外は一面の銀世界で雪景色です。畑の高菜もすっぽりと雪に隠れ、寒々しくもところどころ深い碧い空から光が漏れてきます。日本は四季が豊かで、毎日外を眺めては変化を已まず飽きることがありません。

同じ場所にじっと佇んでいても、これだけ四季の変化の彩りがあれば退屈することはありません。むかしの先人たちは、この変化に驚き好奇心を働かせ色々な暮らしを紡いできたのでしょう。

時代が変わっても、自然の巡りや変化、その循環の妙には魅せられ続けます。故郷にあってその変化を味わえることに深い喜びを感じます。

今年は振り返ってみると、病気に怪我に死別にと苦しく辛いことが思い出されます。しかし同時に、新たな出会いと挑戦、徳を実感するような出来事も思い出します。人生は、一期一会とはわかってはいても生々しい出会いと別れに一喜一憂するものです。

今思えば、二度と同じことはなくそしてこれからも二度と同じことはない。この世のすべては変化しないことはなく、元に戻ることはないということを実感することばかりの一年でした。

健康の有難さは年々より明白になり、自分の役割や天命もまた近づいてくることも明瞭になります。

家族や仲間との旅路もいつか終わる日がきます。恩師やメンター、同志たちも同様です。冬至だからか一年の終焉と人生の終了を思います。そして同時に、甦生といって新たになることの意味を感じます。何が終わり、何がまた新たになるのか。何が集まってそして役目を終え分散し、何がまた新たに集まるのか。

思いというものがこの世を創造し、思いによって世界はできます。

一つの思いを思い出し、新たな思いを思い出す。

出てくる思いにしたがって、また綴る新たなご縁と物語に一期一会は存在します。太陽を浴びる時間が一番少ないからこそ、闇の有難さを感じます。穢れを祓い、浄化するよい一日にしていきたいと思います。

暮らしフルネスの冬至祭

いよいよ明日は、暮らしフルネスの冬至祭が行われます。そもそも暮らしフルネスは、足るを知る暮らしのことで暮らすだけで仕合せという暮らしそのものに生き方や人生の在り方、生きざまなどがすべて凝縮されたものです。人間は自然のリズムから遠ざかり人間だけの刷り込まれた世界にいると喜びが半減していきます。もともと私たちは、全体と一緒に生きているいのちであり、その循環のなかで役割をいただき天寿を全うしていきます。この寿命というものを深めると、自然に四季のめぐりの素晴らしさや暮らしができる喜びを味わえるものです。

話を冬至に戻せば、明日が北半球において太陽の位置が1年で最も低くなり、日照時間が最も短くなる日です。この冬至を境に、23日から日照時間が長くなります。むかしの人たちは、太陽を観て生活をし、月を観ては内省をして暮らしを紡いできましたからこの太陽が最も短い日はもっとも不安になった日でもあったでしょう。そこから、生まれ変わりという「甦生」の意識が誕生し、古いものが新たになりそして力を取り戻すと信じられたのでしょう。

この甦生は、日本だけでなく古来から世界各地でも似たような行事がありこの冬至の祝祭が盛大に行われています。クリスマスなども誕生祭ともいいますが、この太陽とのつながりからだともいわれます。

中国においては、陰が極まり再び陽にかえる日という意味で「一陽来復(いちようらいふく)」といって、冬至を境に運が上昇すると信じられていました。運とは、下降もすれば上昇もします。太陽がまた上昇してくるということを意識して、太陽の力の恩恵を肖り自分も天高く昇っていこうとしたのかもしれません。

この冬至には、運を上昇するために「ん」のつくものをたくさん食べるといいといいます。由来は、いろはにほへとの最後が「ん」になるのでそこからまたはじまるという意味もあるとの説も。阿吽のうんも「ん」で終わり、すべての終わりは「ん」からというのできちんと終わるということを意味するのかもしれません。

また春の七草があるように、冬の七草というものがあります。これは、なんきん:南京、かぼちゃ、れんこん:蓮根、にんじん:人参、ぎんなん:銀杏、きんかん:金柑、かんてん:寒天、うんどん:饂飩です。

他にも、体を温める作用の強い野菜を七つ集めて冬の七草ともいいます。それは白菜、大根、ネギ、春菊、キャベツ、小松菜、ホウレンソウの七つです。またゆず湯といって、強い臭いで邪気払いをして穢れを祓うというものもあります。冬至にゆず湯に入ると風邪をひかずに冬を越せると信じられてきました。

こうやって私たちの先祖は、自然を深く尊敬し暮らしの中で自然と共に生きてきました。現代は、お金や経済のことばかりで忙しく仕事ばかりに追われる日々に流されてしまいそうですがふと足を止めて、一生に一度しかないこの日を深く味わうことで人生の真の豊かさや自然への感謝に気づきたいものです。そしてそういう偉大な存在への感謝を仲間と共に音楽を奏でながら喜んでもらおうとするのがお祭りです。

子孫のためにも、知恵や慈悲を伝承してよりよい徳を循環させていきたいと思います。

徳育と伝承

故郷や地域の歴史を深めていると、立派な功績を遺してくださっている偉人に出会います。特に、子孫のためにと活動して命を賭して取り組んだ人の遺徳は今でも地域の宝として残っています。

時代背景が変わり、暮らしが変わっただけでなく大切にしてきたことも変わってきました。今があるのは、当然、むかしの御蔭の集積であり、私たちはその積み立ててきた徳によって存在することができています。恩人たちの恩を如何に次世代に伝えていくかは、人がその場所でより善く幸せに生きるためにも子孫への教育は重要になってきます。

この子孫への教育とは何をすべきか、それは徳や恩を伝承することだと私は思います。学校の一般的な教科などを教えることも大切かもしれませんが、そもそも自分たちのルーツがどうなっているのか、そしてなぜこの土地で今の自分たちが暮らしているのかなどの原点や文化などを学ぶことで自分たちがどう生きるのかを感じるように思います。

私もルーツを辿ったり、故郷の遺徳を学ばなければ自分の心身を通して脈々と流れている生きている歴史を知ることはありませんでした。なぜ今、此処にいるのか、そしてこれをやるのかなどの理由の初種はすべてむかしからの結びや繋がりにあります。

そして出会う人たちもまたむかしにご縁のあった人たちばかりで、あるいはその志を同じくする仲間や友人たちが姿かたちを変えて顕れているからです。言い方を換えれば、懐かしい人たち共に懐かしい時間を味わいながら時を旅しているともいえます。

この時の旅を知ることは、自分がなぜ今、ここにありこれをやるのかを知ることであり天命を知り安心するためにも重要です。

現代は、歴史も過去の終わったものになり、遺徳も古臭い昔話になっていたりします。本来の意味を忘れ、現代の目先にどっぷりと沈んでしまえば時の旅をしていることを忘れて今の享楽にただ浸ってしまうものです。

自分の天命を思い出すことや、自分の仕合せやご縁に立ち返るためにはまず自分のルーツを知り今までのすべてに感謝する機会を持つことが重要だと私は感じます。子孫の仕合せもまたそこにあります。

教育の中でももっとも尊いこの徳育を伝承していきたいと思います。

徳の余韻

むかしから水路を引くというのはとても大きな事業だったことがわかります。今では機械も設備も方法も増えてあまり河川工事についての関心がなくなりましたが、かつては河川が氾濫するたびに農民をはじめほとんどの人たちの暮らしが破壊されました。

私が甦生している飯塚市幸袋の古民家も、何度も川が氾濫し家が浸水した形跡があります。2階にはいつ川が氾濫してもいいようにと五平太船が括りつけてありました。むかしの人たちは自然の猛威に対して、なすすべがなく苦労が多かったことがわかります。

そんな中、浮羽とのご縁から五庄屋物語というのを知りました。むかしの道徳教育の教科書(協同)にも掲載されていたそうです。そこにはこう記されます。

「久留米〔現福岡県久留米市〕の東、筑後川の流れに沿う地方では、川よりも高所に田畑があるため、水を引くことが不便で作物が出来ず農民は貧しい暮らしをしていました。寛文3年〔1663年〕にこの地域の庄屋五人(栗林次兵衛・本松平右衛門・山下助左衛門・重富平左衛門・猪山作之丞)が、村々の貧困を救う方法はないかと考えた末、筑後川に大きな堰を設け掘割を作って水を引くより他はないと決しました。しかし大河である筑後川に堰を設けることは莫大な費用がかかる大工事であるため、財政難であった久留米藩(有馬藩)は彼らの申し出をなかなか認めようとはしません。そこで五人の庄屋達は費用は自分らの身代を潰してでも自分らで賄い、また工事が成就しなかった場合には自らの命をもって償うと血判することで久留米藩の許可を得ることに成功しました。この計画に賛同し協力しようとする他の庄屋達はいるものの、中には堰建設により洪水の恐れが生じるという理由で反対した庄屋も多々見られました。ついに大工事が始まりましたが農民達は「五人の庄屋を死なせてはいけない」と言って懸命に働き計画通り大きな堰が完成し、村々に筑後川の水が行き渡るようになりました。すると工事に反対していた庄屋達は、堰の水利にあずかりたいと願い出てきました。最初から五庄屋に賛同していた庄屋達は、彼らは工事に反対していたのだから我々の村に水が来るまでは差し控えさせるようにと申し立てました。が、五人の庄屋は「この工事はもともとこの地方のために起こしたことなのでその水利はできるだけ広く受けさせたい」と答え、反対していた庄屋の村々にも水を分け隔て無く与えるようにしました。この地域が収穫の多い豊かな土地になったのは、この五人の庄屋をはじめ村々が心を合わせ必死になって尽くしたおかげであります。我々の住む市町村は、昔から人々が協同一致して郷土のために力を尽くしたおかげで、今日のように開けてきたのです。協同の精神は、人々が市町村を成し、全体を繁栄させる基であります。」

実際に筑後川に来てみると、その雄大な流れと広さに驚きます。この数年、豪雨災害で何度も氾濫していますが近隣の山々から流れ込んでくる水は膨大です。それが有明海まで流れていくのですが、下流の方は水嵩も増えていくのもすぐにわかります。しかしこの河川は、扱い方次第では人間には大変な恩恵を与えてくれます。

偉大な事業というものは、目先の損得では行われません。だからこそ人は自分の身可愛さにそういう事業に反対するものです。遠大でさらに徳に関する事業こそ、余計なことはせずにこのままでいいとする人が多いものです。

しかし子どもたちや子孫のため、未来のためを思うと自分たちが犠牲になっても構わないという生き方の人たちが時代を超えて徳を推譲していくものです。

先人たちの遺徳を偲びながら、この浮羽で何ができるのか、よく省みて活動していきたいと思います。

石といのち

世の中には、どのように形成されたものかがわからない鉱物というものが存在します。私もむかしの日本の石風呂を現代に甦生するときに、色々と鉱物を調べましたがその奥深さにはとても驚きました。私たちが石として観るものも、同じ石は一つとしてこの世に存在しません。いくら分類わけしても、成分や配列、そして重さから形にいたるまですべて異なっています。加工をしたとしても、その性質は同じものはなく関係性によってもまたその土地の地場や使う人によっても変化しますからまさに石は一期一会です。

その石の中でも、長い歴史があるものがほとんどで長いものだと数十億年前、隕石にいたっては数百億年前というものまで存在します。この世に形成している鉱物がこれだけの長い年月、一期一会に姿を留めては力を発揮しているというのは宇宙の偉大さの一端を感じさせるものです。

特に地球の中にある石においても、薬石と呼ばれるもの、そしてあらゆる奇跡を引き起こすものなどもあります。私は薬石を深めていたときに、その石から出ている何かというもの、あるいは石が吸引していく力があることなどを学びました。これは感覚的なものでまだ科学的には証明されていないものがほとんどです。

例えば、水を入れることで水に伝導する波動のようなものであったり、火を入れることで遠赤外線が別の何かに入れ替わっていくように神秘的な変化を促します。他にも、音を響かせることで石もその音に反応して別の音を奏でます。石というものは、無機物だと人間は認識しますがそうではなく一つの気が集まった集合体でありこれはいのちそのものの姿とも言えます。

私たち人間は、自分と同じものしか生きていないと認識します。例えば、動いているもの、血液があるもの、手足があるものなど、人間と同じ要素があればあるほどいのちがあると思い込みます。しかし宇宙から観たら、人間は単なる一つの細胞の一つであり全体を構成しているものはもっと偉大なものです。

石を深めるということは、いのちを深めることです。今週は、穢れを祓うために石風呂を使いますがまさにこの石と水と火と風と光と闇と木と音の総合芸術を味わいます。ご縁のある方々と一緒に、本来の徳が何かを磨いて心を調えていきたいと思います。