休むということ

人は頑張りすぎると疲れるものです。その疲れは心身に響きます。現代は、脳が付かれているという言われ方もしますが実際には自律神経が疲れているように私は思います。

私もいつも120パーセント出し切るような生き方をしていますから、よく疲れます。疲れても、それがバランスよく疲れている場合は、すぐに回復して日々を味わい深く過ごすことができています。疲れることがわるいのではなく、疲れても健康であればほとんど問題はありません。ここでの健康は、心身の健康で快復もまたバランスよく調っているときです。

しかし何か身体的や心に大きな傷を負ったりすると急にバランスを崩してしまいます。私でいえば、無二の親友の亡くしたり骨折して歩けなくなると自律神経が不調和を起こします。すると、日々に細胞を甦生させて調っていたようなバランスが崩れ、歪な甦生がはじまります。すると、そこから全体のバランスにも影響が出て回復が遅れ気が付くと疲れが蓄積していくようになります。

この疲れというのは、自律神経が調和させているように私は思います。自律神経というのは、無意識や潜在意識にはじまり心臓を躍動させたり、呼吸をして肺を収縮させたり、時には感情と結びつき体をコントロールしたりと常に自分を陰で支えるパートナーです。

そのパートナーとの不調がはじまると、私たちは健康を維持することができなくなります。自律神経を回復させるには、休むしかありません。休むというのは、心身を休ませるということです。それは睡眠がもっとも効果的だともいわれます。他にも呼吸法であったり、ストレッチやヨガなどもいいともいいます。しかし大切なのは、やはり休むということでしょう。これは力を蓄えるということでもあります。

これから活動するために、どう力を蓄え心身を養っていくのか。休養というのは、大きなリズムでの大切な活動の一部です。

来年は、辰年で私にとってはとても意味のある一年です。臥竜のように深淵に沈み、天を仰ぎ観て心を静かに燃やして雲を待つ大切な時期です。丁寧に過ごしていきたいと思います。

本物と五感

人は幼い時に本物に触れることはとても大切です。何が本物で何が偽物かを知ることで、感覚が本物を理解するからです。例えば、生まれてすぐからインスタント食品や化学的に便利に調理された加工食品ばかりを食べているとその味が通常の味として感覚が染みつきます。すると、その味が基準となって美味しいというものや、合っているというものになっていきます。合わせて、食べ方というものもあります。丁寧に味わって食べることで、全身の感覚で味わう食べ方と、一気に流し込むような噛まずに食べるような食べ方をしていたら感覚もそれを基準にして活動することになります。

つまり、この身体や五感というものは五感というものを研ぎ澄ますことで察知する仕組みになっていてその時に本物に触れるということで磨かれるということです。

ここでの本物というものは何か、それは五感を使うものということになります。そして五感を使わなければ使えないものこそが本物ともいえます。むかしの道具なども、今ほど便利ではなくどちらかというと大変不便ですが五感を使うものばかりです。五感を使う道具とは、人間の持っている力を引き出す道具ということです。先ほどの味でいえば、私たちは五感によって味を察知できます。ということは、五感を使う道具を用いてその五感でしか察知できない味を引き出しているのです。

この引き出していくというのは、元々持っているものに近づけるという意味でもあります。別の言い方をすれば、調っている状態にするということです。この調った状態とは、自然ともいいます。不自然とは、歪になっている状態のことです。

私たちは煩雑とした都会ではなく、シンプルで洗練された自然などに身を置くと心身の感覚が覚めわたっていくものです。これも五感が動き出し、自然に調ってくるからです。

つまり本物というものは、この五感によってしかわからないものでありその五感を発揮させることによって私たちは自分というものを自覚し、人間本来の姿を認識し、健康や幸福、あるいは人生までを感覚的に感受することができるように私は思います。

だからこそ暮らしの中で五感をどう磨いていくか、そしてそれをさらにどう高めていくかというのが修養の本質であり、本物を知るということになるように私は思います。

日本人が日本人になるのもまた、日本人として五感で磨かれてきた文化を体験させてこそです。子どもたちのためにも、本物に触れる機会や教育を増やしていきたいと思います。

暮らしの価値

世の中では、人々が物の価値をつけていきますから本物だから高いわけでもなく偽物だから安いというわけではありません。価格というのは、他人の価値で決まっているものですからその価格はそれを求める人と与える人で変わってきます。特に今の時代は、便利さに加え情報格差や情報操作などいくらでも私たちの認識を変えるものがありますからなかなか難しい時代です。

例えば、食糧難や資源が不足すると宝石や貨幣はあまり価値がなくなります。それは宝石や貨幣は目先の食糧にはならないからです。本当の危機が来れば、今の時代の価値は一掃されて別の価値が発生します。砂漠で飲み水が高額なのは、不足するからです。不足すると価値が出て、それを手に入れようと人は躍起になるものです。

その逆に、物が溢れて便利で何でも手に入る時代は食糧や資源は価値がなくなります。そして貨幣や宝石はじめ贅沢品が価値がでます。この数年の変化をみていたら、人々の物に対する価値も変わってきています。それだけ流行や時代の変化によって、価値は変動し続けているのです。商売人というのは、それをよく観察して人々の価値に合わせて取り扱うものや売り方などを変えていきます。

しかし、よくよく観察していると普遍的な価値というものがあります。それは健康に対するものであったり教育であったり、あるいは時間、場所、それに安心や幸福というものです。

一般的に、人は競争することや目先のメリットを追い求めていると普遍的なものの価値よりもそうではないものに価値があると信じ込んでいきます。思い込みで生きていると、本当に自分にとって価値があるものとそうではないものもわからなくなっていきます。

私たちの暮らし方を観察していると、それがよく分かります。暮らしというのは、人間の生き方でありどのように暮らしていくかによって価値も変化させていくことができます。むかしの懐かしい暮らしには、むかしの懐かしい価値がそのまま残っているものです。

私が実践する暮らしフルネスは、そういう懐かしい心や大切な価値を守り続けていこうとした人々の記憶と一緒に生きていくことに似ています。年末に入り、世間は猛スピードで市場経済の活性化に尽力していますがふと足を止めてみると変わらずに流れている自然のリズムや宇宙のいのちの鼓動があります。

丁寧に一つずつ、呼吸をするように暮らしを味わっていきたいと思います。

お迎えする心

昨日は、12月13日ということで聴福庵の煤払いを行いました。一年間、お世話になった竈の周辺や台所、神棚をきれいに掃除して浄化していきます。みんなで朝から作業をして、夕方までには終了しました。一見、綺麗にみえても灰や煤は隅々まで広がっていて煤払いをしたあとの空気中の埃や塵がずっと舞い上がっていました。

むかしからこの日に、煤払いをする行事を日本人は実践してきましたがきっと同じように灰や煤の埃まみれで掃除をしたのだろうと懐かしい感じにほっこりしました。煤払いが終わった後に、神棚に一年間の感謝をし、正月を迎えるための準備がはじまります。

気が付くと暮らしもしっかりと調ってきて、仕事しかしていなかった頃が懐かしく思います。私たちは、色々なものに囲まれて暮らしを調えています。その暮らしの道具たちや暮らしの場にどれだけ感謝できているでしょうか。立ち止まることもなく、見向きもしない日々を過ごしていたら当たり前の感謝にも気づき難くなることです。

本来、神様をお迎えするというのはおもてなしの実践です。私たちのおもてなしとは、神様に対してなのでお客様は神様ということになります。そういう気持ちで丁寧に浄化して場を清め調えるというのは私たちの先祖から今にいたるまで連綿と繰り返してきた日本の伝承の一つです。

私は、聴福庵に倣い学んだのはそのおもてなしの心です。すべての道具や場が、お越しになる方々へ向けられ静かにその様子を見守っていく。心は、四方八方すべてに調和しそれがすべて慈悲の心になっていること。

居心地のよい場所というのは、お迎えする心がある場所です。そういう場所にするところには、たくさんの神様がお越しになるようにお客様もまたお越しになるように私は思います。

来年は辰年で、歳男です。ご縁からまた古民家甦生を新たに一軒、手掛けることになりましたがその辰年に相応しい場所になりました。聴福庵で学んだことを基本にして、神様を迎えるような場所に丁寧に丹誠を籠めて仕上げていきたいと思います。

美意識と安心

日本人の美意識の一つに調和というものがあるように思います。自然のあるがままの姿、何もしない洗練された美、そのシンプルなものに徳を感じるものです。調和というのは、無理をしない姿でありないものはない、そこには完全そのものと実感できるものです。

私たちは善く調ったものを観ると安心します。それは調っているものは、自然に近いからです。この自然は、それぞれが安心している姿でもあります。場が調っているというのは、その場が安心しているということです。

万物の条理として、自然というのは絶対に変わらないものではありません。すべては変化していきますから調和もまた変わってきます。変化に対する調和があるということです。

例えば、花生けに花を活けても次第に枯れていきます。そして季節は廻りますし暮らしもまた変化していきます。その変化に対して、私たちは変化に合わせて花を生け直していきます。そのことによって調い、安心するのです。自然の変化に合わせて自分を変化させていくところに調和があります。そしてこの安心が美意識として私たちの心に薫ります。

つまりは美意識とは、安心することであり、安心とは自然であるということです。

不思議なことですが、自然のリズムやいのちの循環というものは私たちに全体との一体感を与えてくれます。これは私たちが個として認識する切り離されたものではなく、常に一体になって活動しているということの事実です。

変化の豊かさというのは心の豊かさであり、自然と共に歩んでいくいのちの喜びは、心の喜びです。日々、この今今を大切に味わって安心していきたいと思います。

日本人の美徳

先日、私たちが三浦梅園先生の生誕300年を三浦梅園生家で行った日がちょうど36年前に日本文化研究の第一人者であり、 日本文学の世界的権威でもあり日米友好だけでなく世界と日本を結ぶ懸け橋である恩人、ドナルドキーンさんがこの旧宅に来訪された日であったと人づてにお聴きしました。不思議なご縁に感動しながらも、日本人とは一体何かを求め続けておられた方が三浦梅園先生を訪ねておられることに共感しました。

このドナルドキーンさんは、1922年に誕生し18歳の時に「The Tale of Genji(源氏物語)」と出会ってから96歳でお亡くなりになるまでずっと日本の文学や文化の魅力を伝えることに没頭し、膨大な研究成果を発表し続けた方です。東日本大震災のあとは、被災地で懸命に生きる人々の姿を見て、「いまこそ、日本人になりたい」と日本国籍取得の決意を表明し日本人になられました。この姿に感動し、勇気をいただいた方もたくさんいらっしゃったことと思います。日本人よりも日本を深く愛した方という印象がありますが、日本人とはどういうものだと感じたのでしょうか。

私は直接お会いしたことがないのですが、きっと誰よりも日本人になられた方だったかもしれません。生前の様子からは、謙虚さや奥ゆかしさを感じます。もともとの源氏物語の何に感動したのかを調べると、「『源氏』の中には戦争はなかった。私が生きている現実とは反対の美しい世界が広がっていたのです」と。日本人に持つ平和感、美徳について何かを察知されたように思います。

この日本の美徳というものは、今はどこか遠いむかしのことのように語られます。しかし、現代においても日本人ならば必ずその美徳を持っているものです。震災の時に助け合う道徳的な姿であったり、人間として恥ずかしいことをしたくないと心に尋ねる姿勢であったり、真面目で正直、実直であったりです。

ドナルドキーンさんは東京から歴史的建造物が姿を消すことについて「日本人は繊細な国民なのになぜ平気なのか」と悲しんでおられたそうです。心が痛むところや懐かしい未来を尊ぶ姿勢にも日本の心を感じます。

日本の心はどこあるのか、私はそれは先人からの和魂、和の系譜の中にこそ今も生き続けているように思います。中江藤樹、熊沢蕃山、二宮尊徳、石田梅岩、菅原道真や聖徳太子、道元禅師など思想や生きざまの中に余韻がいつまでも薫ります。

日本を世界に伝えるということは、生き方で伝承するということでもあります。日本人になったドナルドキーンさん、お会いできませんが心に薫る美徳の人です。ご縁を感じつつ、自分の役目を果たしていきたいと思います。

三浦梅園先生の生誕300年のご報告

御蔭様で無事に三浦梅園先生の旧宅で生誕300年の行事を実施することができました。素晴らしい天候に恵まれ、この時期としては最も過ごしやすく穏やかな気候で心も体も深く癒されました。今朝から雨が降っていますが、改めて奇跡のような一日であったと感謝に包まれています。

遠方から多くの仲間たちが前入りしたり早朝からも駆けつけてくださってお手伝いをいただきました。また現地でも時間をかけてお手伝いいただいた方々やこの日のために準備を調えてくださった方々も参加し家族のような雰囲気でした。

行事がはじまると、みんなで三浦梅園先生と代々のお墓の清掃や旧宅のお手入れを行いました。人数が多いこともあり、あっという間に美しく綺麗に調いました。そして英彦山の古文書から甦生した伝説の和漢方不老園をみんなでお茶にして飲んで寛ぎ、三浦梅園先生の菩提寺である両子寺の寺田豪淳さんと300年の法要を行いました。宗派などを超えて暮らしのなかでみんなで遺徳を偲ぶ時間が懐かしく、緩やかな時間と一緒に般若心経を唱える調和に有難い気持ちになりました。250年前から吹き続けられた懐かしい法螺貝を吹いて奉納しました。

その後は、シンポジウムと移りました。改めて300年前、三浦梅園先生が過ごしたこの場でむかしの梅園塾のように30名の仲間たちが語り合い、学び合い、生き方を磨き合いました。

まず各々三浦梅園先生のことをどう感じるかを話し、信条を伝え取り組みを話しました。先生の条理学、自然観、生き方、そのあとは、真の経済ということをテーマに「価原」という先生の著書から学んだことを議論しました。登壇者からは、現代の貨幣経済の問題、時間泥棒のこと、限界集落や相互扶助の大切さ、懐かしい経済について語り合いました。また参加者からも格差経済のこと、連携経済のこと、協働創造のことなど、多岐に及び、時間があっという間に過ぎてしまいました。そして最後は、三浦梅園先生の慈悲無尽講を現代に甦生させるための挑戦を有志でやろうとなりその場でブロックチェーンの徳積帳を使い結に参加し両子山、両子寺周辺の自然環境や行事、お祭り、経世済民を実践するためにみんなで徳の積みたてに参加してくれました。内省シートを記入し、それぞれに気づきや知恵を書いていただき、来春にまたこの場で集まることを約束しシンポジウムを終えました。

お昼は、持参した自家製のむかしのお米をつかった酵素玄米のおむすびを火鉢を囲んでみんなで食べました。また友人の高橋剛さんのお父さんからもパンの差し入れがあり、みかんやお菓子などを食べて心温まる時間を過ごせました。その後は、親友の雲水、星覚さんが中心になってみんなで三浦梅園先生の里で「遊行」を行いました。ぶらぶらと目的を持たずに、先導する杖に委ねて歩くのです。私が先月の遊行中に骨折をして歩けなくなり、歩くことを一時中断することになってはじめて気づいたことなどを伝え、その歩くことの意味や感覚をみなさんで味わっていただきました。法螺貝が里に響き渡り、地域の方々もたくさん出てきてくださって賑やかさに喜んでいただきました。

最後は、みんなでまた生家に帰り一日を振り返り感想を伝えあいました。懐かしい未来、一期一会の場にこうやって一緒に過ごせたことに深い感謝がありました。ご挨拶をして、再会を楽しみにみんなでお別れしました。感謝の余韻の残る、かけがえのない一日になりました。

人生というのは、一度きりです。何を最も大切に生きていくかは、その人の心が決めます。真の豊かさとは、心の中にこそ存在します。真に豊かに生きておられた三浦梅園先生の生き方の余韻や空氣を存分に味わうことで私たちの心にもその片鱗が宿りました。

遺された人生、先祖代々の遺徳に感謝して丁寧に使わせていただき300年後の子孫のために今日も大切に使っていきたいと思います。

ありがとうございました、これからもよろしくお願いします。

懐かしい徳

昨日は、三浦梅園先生の生家のご仏壇と墓地にご参拝をしてきました。いつも清浄な雰囲気が佇むこの場所にはまるで今でもこの場所にいらっしゃるような気配があります。

私は古いものや懐かしいものに触れる機会が多く、他人よりもそういう気配を感じやすいタイプのように思います。特にこの数年、古民家甦生や遺跡のお手入れを続けていくなかでより一層感じやすくなっているように思います。

三浦梅園先生の墓地は、先生がご存命の時に散在してあったご先祖様のお墓を一か所に集めて丁寧に配置しています。こういうことをしようとするのは、なかなかできることではありません。田口正治氏が書いている、三浦梅園人物叢書にこういう文章が残っています。

「今登って来た参道はずいぶん急な坂道であるが、梅園は毎日三度父母の墓に詣ったという。老年になってからでも二度はかかさなかった。それは雨の日も風の日も、もし昼間所用があって果さなければ夜ふけてからでも必ず実行したという。梅園の長男修齢の書いた『先府君孿先生行状』にこのことを記し、「死ニ事(つか)フルコトカクノ如シ。生ニ事ヘシコト知ルベシ」とある。梅園は偉大な学者であったのであるが、同時に道徳実践の真に高徳な先生でもあったことを知る。」

私も参拝が5回目になりますが今回は特に松葉杖での移動だったため結構な気力が必要でした。三浦梅園先生は亡くなる二日前まで、欠かすことなくこの道を往復し日に三度ほど参拝されていたといいます。

こういう実践の姿勢こそ、懐かしいものを大切にする生き方であろうと私は思います。この経糸との意識があってこそ、私は徳を磨いていくことになるように思います。

世界はグローバルで横糸のことばかりみんな追いかけます。拡大も成長も、広がるばかりで慎むことや謙虚であることを忘れています。だからこそ、今のような日々に忙しくなるような生活になったようにも思います。

時代が変わっても、本来の人としての生き方、何を大切にして生きていくかはみんな同じです。三浦梅園先生の生き方から、これからの在り方をみんなで気づき直していきたいと思います。

小さな改革

マハトマ・ガンジーの思想に、七つの大罪というものがあります。これは現代の人類の価値観に警鐘を鳴らすものです。そこにはこうあります。

1.理念なき政治 (Politics without Principle)
2.労働なき富 (Wealth without Work)
3.良心なき快楽 (Pleasure without Conscience)
4.人格なき学識 (Knowledge without Character)
5.道徳なき商業 (Commerce without Morality)
6.人間性なき科学 (Science without Humanity)
7.献身なき信仰 (Worship without Sacrifice)

そもそも、これらの7つは本来はこうではなかったものがこうなったというものです。つまり政治は理念あるもの、富は労働するもの、快楽は良心あってこそ、学識は人格がつくる。商売は道徳であり、科学は人間性によるもので、本来の信仰は献身であると。この逆になっているのが今の時代の価値観ということです。

例えば、金融や経済などはわかりやすく一部の富の独占と貧困と飢饉によって貧富の差は拡大しています。道徳を忘れてしまえば、商業はますます世の中を非道徳の環境に貶めていきます。ガンジーはこういいます。

「私は、あなたが正しい手段で手にした資産を捨てろとは言わない。しかしその資産は、決してあなた自身のものではない。それは人々のために役立てることができるように、あなたに一時的に預けられているものだ。そのことを忘れてはならない。」

富や財産は決して自分のものではなく、これは単に預かっているものでありまたみんなで循環させていくために活用しようといいます。私たちの身体も同じで、預かっているもので正しい生の循環を止めてしまいどこかで留保し続けたらそこから癌になるものです。経世済民とは、誰かが富を独占し確保するのではなくみんなにサラサラと血液が流れ浄化されるように循環させていくところに幸福もあります。自然と同様に、自然から預かった環境を自分の天命を全うし、また好循環の一部として生を喜び全うしていくことが本来の姿です。

個人主義、利己主義が蔓延する競争と不安の世の中においては、商業が道徳的でなくなる理由はよくわかります。だからこそ、同時に道徳といった、徳が循環する経済を創造しようとしてこそそこに経済大国として世界を調和する大切な役割があるように私は思います。

そしてガンジーはこうもいいます。

「何かを訴えたい、意志表明したいと思ったときに、それを話したり書いたりする必要はない。行動し、生き様で示すしかない。私たちは一人一人の生き様を、生きた教科書にしよう。誰もがそこから学び取ることができるように。」

ということで、私は三浦梅園先生の慈悲無尽の生き方に感動し、それを実践して現代に甦生させてみようと思います。困難や非難もあっても、まずは試行錯誤してみてそれをみんなと切磋琢磨してこの時代の世代の役割を果たしていきたいと思います。

歴史に学ぶ

時代が変わると、人の価値観も変わります。偉い人になろうと人は努力しますが、時代の価値観が偉い人もつくりますから今の時代の偉い人は何かということを考える必要を感じます。

例えば、ある時代は徳の高い人が偉いといわれていたことがあります。その時代は、みんなで高徳の為政者を望みました。またある時代は、戦に強い無敵の為政者を求めてその人が偉い人になりました。またある時代は、お金持ちで成功者がもっとも偉い人といわれるものもありました。その時は、経済に影響を与えていることが偉い人となります。

時代が何を求めているかで偉い人も変わります。人間は、自分にとって有益であること、都合がいい人を偉い人にするものです。偉い人になった人は、その役目を演じて偉い人にまつり上げていかれるものです。実際には、偉い人に依存してしまえばみんなが自立することを怠ってしまいます。むかしから日本には、草莽というみんなで助け合ってみんなで偉い人になろうとする意識がありました。つまりは、自分には何ができるかと真摯に初心に向き合って互譲互助しながら自治を実現してきたものがあります。それが「講」という形でも各地に遺っているものです。

改めて、歴史に学ぶ必要があるのは時代が変わっても普遍的なことを学び直し今どのようにあるかを問うためにあるように私は思います。

陽明学の安岡正篤氏がこのような言葉を遺しています。

「偉くなることは、必ずしも富士山のように仰がれるようになるためではない。なるほど富士山は立派だけれども、それよりも何よりも立派なのは大地である。この大地は万山を載せて一向に重しとしない。限りなき谷やら川やらを載せてあえていとわない。常に平々坦々としておる。この大地こそ本当の徳である。我々もこの大地のような徳を持たなければならぬ、大地のような人間にならなければならぬ。」

偉くなることは、大地になること。大地は本当の徳だといいます。徳を持つことこそ真に偉くなることであるといいます。またこうもいいます。

「ずるいことをやったり、人を押しのけたりして、地位や財産をつくるのも人間の能力、知能のひとつであります。それを使っていろいろのことができる。できるけれども、そんなことができても、これは人間としては少しも偉いことではない。社会的には偉いかも知れぬが、人間としてはむしろ恥ずべきことであります。何を為すか、何をしたかということと、彼はどういう人間か、いかにあるか、ということとは別である。」

社会的な偉さよりも、本来の偉さとはどういうことか、人間として恥を説きます。また同時に人物の偉大さについてはこういいます。

「環境が人をつくるということにとらわれてしまえば、人間は単なる物、単なる機械になってしまう。人間は環境をつくるからして、そこに人間の人間たるゆえんがある、自由がある。すなわち主体性、創造性がある。だから人物が偉大であればあるほど、立派な環境をつくる。人間ができないと環境に支配される。」

偉い人は環境をつくる人であると。環境に支配されない人であると。まさに、先ほどの大地の徳を観ては自立の本質を直感します。そしてこうも言います。

歴史はくり返す。たいていのことは古典の中にある。何千年もたっているのに、人間そのものの根本は少しも変わっていない。自分が創意工夫し、真理を発見したと思っているが、それは大変な錯覚で、すでに古典にのっていることを知らないのだ。」

人間の根本は時代とは関係がない。古典というのは、先人からの知恵であり子孫への伝承です。三浦梅園先生がいた時代、そして300年後の今。まさに今こそ、歴史に学び300年後の未来へ向けて対話をする場が必要だと私は感じてシンポジウムを実現することにしました。

混迷する世の中で、普遍的な道をどう切り拓いていくか。子孫のためにも、実践を積み上げていきたいと思います。