懐かしくて新しい経済

経済という言葉や思想の変遷を深めていると、今の時代の経済がいわゆるむかしの商人の経済になり、それが価値観として最上のようになってしまっていることがわかります。

日本での経済の本来の意味は6世紀以降から中国の古典に記載のある語句に「世を経めて(治めて)民の苦しみを済う(救う)」という経世済民という言葉が使われていました。これは為政者たちが国を治めるために必要な徳目の一つでした。民の暮らしを豊かにして平和を持続するために、経済を調える必要があったからです。目的は、人民の幸福と国家の安寧のためです。

しかし江戸後期になり貨幣経済が発達してくると経済は次第に社会生活を営むための個人の消費や商売活動のみに意識が変わっています。明治に入り、西洋のeconomyという言葉が入ってくるようになりいよいよ経世済民というものは古い概念になり、新しい経済はいわゆる物の消費や利益を確保し個人が富を確保することのように変わってきます。

三浦梅園先生はそもそも為政者は、富を自分のところに留めてはならないといいます。それをすると単なる商人であると、為政者はその富を必要なところに循環させ自分ではもたず経世済民を怠らないことを説きます。最近近い人を見たなと思い出すと、世界一貧乏な大統領といわれたホセ・ヒムカ氏は経世済民の人物でした。資産はなくても心はとても豊かな方です。

話を戻せば実際に江戸初期の商人の行う経済と為政者の行う経済は別物でした。これにより富が独占され世の中が乱れたことで石田梅岩という人物を中心に商売と道徳の融合を唱え、江戸初期には士魂商才といった老舗を代表とする道徳と経済を一致させるような商人道が実践されてきました。大阪の懐徳堂をはじめ、近江商人などその頃は「三方よし」などの全体最適、利他を主軸にした道徳の経済が繁栄していきました。

この道徳の経済は、決して古臭いむかしの終わったものではありません。私の言葉にすれば「懐かしい経済」です。現代の新しい経済はどこか、個人主義や資本主義でいうところの「主義」に囚われ、自己主義で商売をし、国民全体、世界家族全体を豊かにしようとするものからますます遠ざかっているようにも思います。

実体の経済というのは、マネーゲームのように賢い人たちが富を使ってあれこれと遊んでいるのとは別のものです。自然と共生し、豊かな美しい徳に根差した暮らしの中でみんなで自己修養や集団の自治につとめ人格を磨き社会を調和させていくものです。商人が道徳を忘れてしまったら、国は乱れていきます。

実際に江戸時代初期の商人は、為政者の経済ではなく個人主義の経済でしたから卑しい存在だと疎まれたようです。しかし商人が卑しいといわれていたからこそ石田梅岩は、商売と道徳を一致させる商人道を切り拓きました。そして「お金は堂々と稼いだらいい。ただし、商売は正直と倹約の心を持って行わなくてはならないし、得た利益は、最終的に世の中のために役立てなくてはならない。」といい実践しました。

今は逆に道徳ではない商売の方が尊敬されているという不思議な時代です。現代では、お金持ちが偉い人、経済を動かす権威は立派な人だと尊敬されていますが時代が変われば価値観も変わるものです。こういう時は、尊敬されているのだから誰もここから道徳にとはなりません。だからこそ、何が必要か。それは「恥」の意識であろうと思います。尊敬でも軽蔑でもなく、恥の意識を持つこと。

恥ずかしいことをしまいとする、士魂士道、つまり生き方を実践する経済が必要だと私は感じます。これこそ、「懐かしくて新しい経済」になるように思います。

人間は時代の変化と共に価値観が変わります。しかしよくよく歴史に学び直し、価値観が変わっても、変えていいものと変えてはいけないものをしっかりと心に保ち実践することで子孫の永続と繁栄があります。

子どもたちのためにも、利己主義の経済に呑まれないように恥の感覚を磨いて仲間共に徳積みの実践を続けていきたいと思います。

真の経済

三浦梅園先生の著書に「価原」(かげん)というものがあります。これはコトバンクによれば、「1773年(安永2)の著書で、題名は価(賃金、物価)とは何か、価の本質の意とします。これを河上肇が1905年《国家学会雑誌》で、ついでまた福田徳三が、それが貨幣数量説〈金銀多ければ物価貴し金銀少ければ物価賤し〉というグレシャムの法則(悪幣盛んに世に行はるれば精金皆隠る)を主張していることを指摘して以来、江戸時代の経済論、貨幣論の傑出したものとして有名になったが論は広く政治政策論にも及んでいる。」とあります。

貨幣による支配が強まりはじめたこの時代、その貨幣の本当の意味について考察されたものです。現代では、世界中のありとあらゆるところで貨幣経済が浸透して貨幣による世界の支配や競争が激化しています。今から250年も前に書かれた本ではありますが、これだけの時間が経過しても本質は全く変わらないというところが真実を持っているということでしょう。

この価原のことを東京大学名誉教授で梅園学会会長の小川晴久氏が高崎経済大学で行われた梅園学会22回(平成12年度第1回学術講演会(講演抄録))の中でお話されていて大変参考になるので引用させていただきます。

「経済には二つの対立する形態がある。乾没(かんぼつ)と経済である。乾没は相手から富を吸いあげる意で、「利をもって利とする」商賈(商人)の術、経済は経・世済・民(世を経おさめ民を済すくう)の意で、「義をもって利とする」王者の道である。

乾没は今日の意の経済(エコノミー)、経済は政治経済学(ポリティカル・エコノミー)=福祉に当る。(梅園が今日我々が当り前のこととしている経済を乾没という言葉で理解していたことに注意。)そして経済という言葉は当時は経世済民以外の意味では使われていなかったことにも。この二つの形態があることを前提にして、梅園は価原で次の三つのことを強調した。

(1) 豊かさはお金ではなく、水火木金土穀の資源(民用)にあること。また民が豊かであること(民富)が国富であること。

(2) したがって為政者は民富につとめなければならず、富を自分の手元に吸い寄せようとする商人の術、すなわち乾没の手法を用いてはならないこと。国や天下を治める方法は、いつも経世済民的方法でなければならぬこと。

(3) その上で廉恥(れんち)礼譲の風を興すこと。

廉とは欲がないこと、利を人に推すこと。礼譲とは人に譲ること。これは争奪とは反対の態度である。人に譲るとは、目上の人に譲る、弱者に譲る、自分よりもふさわしい人に譲ることである。そのためには衣食が足りなければならない。梅園は礼楽制
度を作らねばならぬと言っているが、この制度は恥の感覚と譲るという精神の二つを根幹とする」

紙幣や貨幣はそもそも交換するための道具の一つであり、生産したものや自然にあるものではありません。そしてそれはくまで資源を大切にみんなで守り育てるため、また民が仕合せになるために用意されたものです。だからこそ人間社会の政治は、経世済民であり、先祖から子孫へと譲られていく徳の循環を守るために誰かやその世代だけが富を独占せずにそれをみんなが分け合い助け合うような仕組みにしようとすること。そのうえで、人間としての自己修養をそれぞれで実践し、利他と譲り合い、分度や推譲、また道徳に適ったものにしていこうとしたように私は思います。

この価原は、自分の分度に応じて不正をしないことを説き、利用・厚生・正徳こそ恥の中心であるといいます。

本来、金融システムや貨幣の仕組みが問題ではなく「人間の問題」であることは誰が考えても突き詰めればそこにいきます。我々人類が貨幣という道具をどのように用いるかで世界がどのようになるのかを予見している著書であるともいえます。これはテクノロジーも同じです。道具は使い手によって、産み出されるものだからです。

人間は受け身になって人間的な自立を諦めるとすぐに外的環境の仕組みや便利を重んじてすぐに奴隷のようになっていきます。ミヒャエルエンデの時間泥棒ではないですが、時間奴隷と貨幣奴隷になっていくものです。そのようにならないためには、人間は今一度、どうあるべきかを立ち止まって考え直す必要を感じます。

三浦梅園先生はその人間教養や修養の大切さを、「正徳」という言葉を主軸に語られています。そしてこの正徳の経済とは、民の仕合せのために相互扶助や互譲互助、利他による喜びの徳を循環させよと仰っているように私は思います。

虚構経済のマネーゲームではなく、実体と実践がある経世済民をもう一度、見直す時機に来ているように思います。私が取り組む、徳積循環経済やこれから子孫のためにできることをみんなと語り合っていきたいと思います。

道徳の実践

二宮尊徳に分度と推譲というものがあります。これは自分の分限を定め、倹約をしその余剰分を未来への投資にまわしていくという仕組みでもあります。しかしこの分度は、とても奥深く単なる金融的な分度だけではなく自分というものを真摯に理解し、先祖からの恩徳に深く感謝して、子孫へその恩を譲るために丹誠を籠めて真心で尽力していこうとする恩返しの意識でもあります。

例えば、お金で考えてみたらすぐにわかります。一般的に自分がお金を何に使っているか、そのお金はほとんどは自分の生活が裕福になるためです。あるいは、今だけを乗り切るためのものです。しかしもしもそのお金を未来の子孫のために有意義に使いたいと思うのなら何に投資するでしょうか。子孫のために美田は買わずという言葉もありますが、財産を大量に遺しても豪華なものをたくさん譲っても、それでかえって一族崩壊ということがほとんどです。だとしたら、どういう生き方を遺すか、どういう生きざまを譲るかということになるように思います。

つまり何に使うかというのが、自分もお金も大事なことでその使命の在り方の方を磨くのがこの分度と推譲ということになるように思います。

この世には、先祖からいただいた「徳」というものがあります。その徳は、先祖の生き方でありその御蔭様で私たちは今の仕合せを享受されています。その徳をどう子孫へと譲り渡していくか、それは感謝の心があれば気づくものです。

先人たちはみんなそうやって、先祖の恩を粗末にしないように、徳が減らないようにとみんなで意識しあいながら時代を譲り続けてきたのです。例えば、今の時代にやりたい放題にやって資源は使い果たし、様々な文化を破壊しまくって自分の子や孫にそれを譲ったら恨まれるのは間違いありません。何も残っていない廃墟のようなものをもらっても、何一つうれしいことはなく恨めしい気持ちだけが子孫から放たれます。それは自分たちの世代がそれをしたからであり、そうではない未来を創造しようとしなかったからです。

大切なのは、子や孫に何を譲り遺してあげたいか。それを思えば思うほどに、遠い祖先といわれる先祖代々が自分たちに何を譲り遺してくれているかを省みることが大事ということでしょう。

シンプルに言えば、お米をつくることであったり、もったいない、有難いというものを大切にする暮らしであったり、いのちや自然と共生することであったり、御蔭さまやお互い様で思いやり助け合うことであったり、つまり「道徳」といわれるもの全般であったのは間違いありません。道徳は学校の道徳知識のことではなく、道徳という生き方の実践の方です。

結局、貧困の本質はこの道徳が失われたことに起因します。比較も競争も、差別も戦争もすべてここからはじまるのです。だからこそ、そうならない世の中にするために知恵を絞り解決できないかとそれぞれの先人たちが試行錯誤して実践したことの一つに二宮尊徳の五常講、報徳仕法や三浦梅園の慈悲無尽講などがあるのです。

この時代、道徳は蔑ろにして仕組みやシステムや便利な技術革新ばかりを追いかけようとします。人間が人間を育てることをやめてしまった未来、諦めてしまった世の中に希望はありません。なぜロボットに支配されるか、なぜAIに管理されたがっているのか、これも道徳の実践が失われている結果ではないかと思います。

本末転倒という言葉もありますが、人間はすぐに本末転倒します。何が枝葉末節であり、何が根源根本であるか。引き続き、先人の遺訓や生きざまから懐かしきを思い、新たな今を創造していきたいと思います。

問題と仕組みの本質

二宮尊徳先生の発案した講に、五常講というものがあります。これは世界初の 信用組合 と言われ、仁・義・礼・智・信の五つの徳に由来して名づけられたものです。 無利子・無担保(但し返済時には冥加米を支払った)で1人あたり100日を期限として貸し出し、不払いについては共同責任として組合員が負担したという仕組みです。

この仁義礼智信の仕組みとはどういうことか。これを童門冬二さんの著書「二宮金次郎」(集英社文庫)でわかりやすく解釈しています。

「多少余裕のある人から、余裕のない人にお金を差し出すことが必要です。いわば推譲といっていいでしょう。これが仁です。そして、借りたほうが約束を守って正しく返済することを義といいます。また約束を守った後、必要な資金を推譲してもらったことを感謝して、その恩義に報いるために冥加金を差し出したり、また、返済について貸付金に当てるときも、決して威張ったりしないこと、これを礼といいます。また、どのようにして余財を生じ、借りた金を早く返すか、つまり約束を迅速確実に守るかである仁義礼智信の五つが必ずともなっているのです」

つまり、お互いにこの仕組みを使っている間に仁義礼智信の徳の実践を行っているという仕組みです。制度はあくまで、人間を教育しながら制度を実現するという知恵が入っています。

私はブロックチェーンに取り組む中で、技術革新というものは人間の影響次第で善いことにもなり悪しきにもなることを感じています。もともと教育に携わってきたからこそ、人間の問題を解決しない限り、そのほかの問題は根源的に解決することはないからです。

結局は、それを生み出すのも使うのもそして発展させるのも人間ですから人間が真に徳に目覚め育っていなければ仕組みや制度は人間の欲をさらに助長させていく一役ににしかなりません。それぞれが自利のことばかりを優先していく中で、いくら制度や仕組みを換えてもそれは所詮時間が経てば問題の前よりもややこしい問題へと発展していくのです。これは歴史の必然の一つです。

だからこそ人は人のことを解決しなければなりません。孔子や仏陀をはじめ、徳を求めた人たちは、その順番を重んじました。二宮尊徳先生もまさに人間の問題をどうするかに向き合ったからこそこのような仕組みを発案し、「報徳仕法」を実践されたように思います。

三浦梅園先生もまた同じように、慈悲の村になるための仕組みに取り組みました。人間として最も大事なものは何か、それを優先してそれに相応しい仕組みを実践していくのです。

今の時代は、仕組みばかりが盛り上がり、人間がどうかという教育のことはあまり出てきません。GAFAをはじめ、人間をまるで物のように見立ててはその人間の欲がうまく巡るように金融の仕組みを組み立ててはそのシステムの開発に余念がありません。

人間が自分で自分の問題を解決しようとしないというのは、自立とは程遠い姿です。そして便利なものでそれを解決しようとするところに技術革新も環境革新も問題があります。そんな便利に人間が自分のことを育てようとせずに、仕組みだけで解決させれるはずはありません。そしてそれが果たして人類の未来や子孫にとってどうかと考えたときに、安易な選択はできないものです。

歴史に学ぶというのは、どの時代でもどう普遍的な問題に真摯に向き合ってきた生き方があるか。人間は何をもっとも優先することが必要なのか。改めて、シンポジウムではこの辺のことを話し合いたいと思います。

現代の慈悲無尽講

現在、保険や共済など当たり前に日常で使われていますがこの仕組みが生まれる歴史というものがあります。むかしから危機に備えるための仕組みというのは、私たちが社会を形成する根源でもあり本来はそのためにコミュニティも組織も集団も形成してきたともいえます。

何のために私たちは人間関係や人間社会を形成するのか、それはシンプルに言えば助け合うことができるからです。助け合う中に喜びがあり、愛があり慈悲もあります。そういう人間として与えられた徳を活かそうとする仕組みが相互扶助であり互譲互助のシステムを発展させてきました。

保険と共済の違いは、保険は営利を目的にされていて共済はそうではないことと定義されます。共済は組合員が一定の掛け金を払えば不慮の事故などのときにそこから支払われるものです。保険は、自分が保険に加入して掛け金を支払えば保険会社から支払われます。

今の時代は、本当に貧しい人たちが入れるものではありません。どちらかといえば、お金を盛っている裕福な人たちが加入しているものがほとんどです。江戸時代には、無尽講という仕組みが誕生します。これは本当に苦しむ人々のために、それを見捨てるのではなくみんなで助け合おうとするものです。今ではバラバラ個人主義が当たり前で自分のことは自分でなんとかしろという様相ですが、かつてはみんなで共同体として一緒に生きる存在としての緩やかに結ばれている個がありました。誰かが困ったときにはみんなで乗り越えようと知恵を出す中に、相互扶助の仕組みがありそのことによって村が助け合うことを大切にするような意識に変わっていったのでしょう。

よく考えてみれば、村の移動もできずその場所でなんとかしないといけなかった時代、その土地で困ったことをみんなでなんとかしようとするのは善い村です。善い村には善い人が集まり、善い暮らしができます。今でいうまちづくりの根幹はこの助け合いの仕組みが柱になっていたように私は思います。

三浦梅園先生のいた富永村も同じように、あまり豊かな村ではなく農民は不作や災害で苦しむことが多くありました。そこで「慈悲無尽」という仕組みをつくります。

これは、①みんなが助け合いを理解すること。②みんなができる範囲で、米麦お金を出し合うこと。③出せない人には無理には出させないこと。④集まったものを毎年活用し増やしていくこと。⑤みんなで相談して一番困った人から順に助けていくこと。

としました。この仕組みは、その後、明治に入り保険や共済が出てくるまで190年以上村で利用され多くの人たちを助ける仕組みとして活用されてきました。例えば、明治時代に入ってからそれまでに貯めたお金で田んぼを購入し「慈悲無人田」と名付けて収穫されたお米を売ってそのお金で村人を救済していきました。

次第に、個人主義が蔓延して範囲が拡大し不正をする人やねずみ講のように組織を増やして詐欺行為をする人たちがでてこの仕組みも失われていきました。これは本来の心の救済が失われ、単に物の救済に変わっていったからかもしれません。目的が、単なる金銭のことになってしまえば本来の助け合うことを常に意識して善い人、徳を醸成しようとした話ではなくなってしまいます。

ではどのようにして、現代にこの慈悲無尽講を甦生させることができるのか。それを私はブロックチェーン技術を活用し徳積帳によって実現させてみたいと思っています。

歴史に学び、先人の遺徳に発明する。御蔭様に何よりも心から感謝しています。

自然の羅針盤

来週末にいよいよ三浦梅園先生の生家で生誕300年の行事を行います。300年前と同じ間取りで生家が残っているということも奇跡ですが、その風景や暮らしの気配も残っているのを実感できることもまた奇跡です。

今から300年前というのは想像できるでしょうか。3年の10倍が30年でその10倍が300年です。日にちで計算すると109575日、時間にすると2629800時間です。一般的に人間は自分の一生くらいしか、実感できる感覚は持っていないものです。例えば、1万年といわれてもピンときませんし、46億年といわれても相当長い時間かかったくらいの認識でしょう。

人間は時間というものを考えるのも、人間の知識によって創作されています。そもそも自然には時間というものがあるのか。そこから疑う方が本当の時間というものを認識するのにいいのかもしれません。禅の道でも今しかないといいますが、自然には時間はなく今のみだと私は思います。

この今のみとういう、感覚は過去や未来の今ということではなく流れている最中の今のことです。滝行をすると、よくわかるのですが流れている水の中に身を投じると流れているものの中に入ります。流れているそのものを感じるとき、私たちは今を味わえます。自然も同様に頭で考えるものではなく、ずっと変わり続けていることを感じるようなものです。しかし人間は知識を持ち、頭で考えるようになっていきましたからこの感覚は微睡んでいきました。今では、もうそれがどうだったかを思い出すこともありません。

毎日の喧騒に追われる中で、ほとんど人はこの自然の時間という今のみを感じることはなくなりました。マインドフルネスとか色々とビジネスに取り入れていますが、不自然だなといつも感じます。そのマインドフルネスですら、効率をあげたり効果を出したりと人間の作為が働いています。結局、人間のみの優先される人間の世の中にしてしまうことで私たちはもともとある普遍的な道を感じる力を失いました。

しかし、今もむかしもどんなに世間が人間優先であっても上手にバランスを保ち、徳を積み、先祖や子孫のためにと今を善くする実践を貫いた人たちがいます。その人たちは、真に天命を生き、自然と調和して暮らしを遺してくれました。

まさに時代の羅針盤です。

その羅針盤において、最も自然の羅針盤を持つ人こそ三浦梅園先生だったのではないかと私は思います。それは生家や墓場においてそれを直感することができます。人間は知識とは別に意識というものがあります。意識は磨いていけば、澄ませていけば感覚的に直観できるものです。

大切な人類の節目に、今こそ自然羅針盤が必要です。時間を超越してメッセージを発信していきたいと思います。

自然体の道

人は無理をするというのは過信があるものです。もっとできる、もっとやれるというように頑張りますがその時は自信ではないものです。ついなんでも無理をしてしまいますし、そういう教育を施されてきていますからそれが苦しみの原因にもなるのです。

自然体でいるということは、何よりも楽しめますが不自然になるから苦しくなり無理が発生するともいえます。

松下幸之助さんにこういう言葉があります。

『苦しかったらやめればいい、無理をしてはならない。無理をしないといけないのはレベルが低い証拠。真剣に生きる人ほど無理はしない。無理をしないというのは消極的な意味ではない。願いはするが無理はしない。努力はしても天命に従う。これが疲れないこつである。』

無理する人は、無理をしないのは頑張っていない、或いは努力が足りない、逃げているなど消極的なものと思い込み決めつけているものです。しかし実際には、天命にしたがうとかご縁を信じるという努力をしていないともいえます。全部必然と思い、無理をせずに取り組むことこそ自然体に近いように思います。

また無理をしないことは他にも大切な要素があります。松下幸之助さんはこうもいいます。

『富士山は西からでも東からでも登れる。西の道が悪ければ東から登ればよい。東がけわしければ西から登ればよい。道はいくつもある。時と場合に応じて、自在に道を変えればよいのである。一つの道に執すればムリが出る。ムリを通そうとするとゆきづまる。動かない山を動かそうとするからである。そんなときは、山はそのままに身軽に自分の身体を動かせば、またそこに新しい道がひらけてくる。何ごともゆきづまれば、まず自分のものの見方を変えることである。』

何か事件があったり、挑戦しているなかで行き詰ったり、困窮や困難に陥ったりします。しかしそういう時に、無理に同じことをまたやろうとするのではなく、別のやり方、別の観方、別の道があるとするメッセージとも受け取ればいいのです。つまり、無理をするよりもそこから別の道にいけばいいと楽観的に捉えていくことが大切だということです。道は無数にあるという考え方だからこそ、その方が別の道がひらくと思えばいいということです。

大切なのは、挑戦をし続けること、継続して目的地に向かっていくことであってそのためには一度、降りてもいいし、別の道を探してもいい、最後まで諦めていないのだからそれは逃げたのでも努力していないのでも、頑張っていないのでもないのです。

人生は、ちゃんと自分の目的に向かうように潜在意識や内面の自分、あるいは本当の意識は導いていくものです。それを信じて、道は無数にあると思うこと、これしかないではなく、あれもあるこれもある、自分にしかない道があると辿り着くことの中に人生の妙味があるように思います。

追い込まれないよう、追い詰めないよう、自然体で何でもちょうどよかったと楽しく融通無碍に道を歩んでいきたいと思います。

本物

私たちは便利な世の中で加工食品も増え、保存技術も様々に開発され消費期限も伸びてなんでも食べられるようになりました。しかしその分、便利な食品ばかりが台頭しむかしからあるような自然のもの、本物、手間暇かかるもの、期限が短いものは失われていきました。

同じ名前であっても、むかしの本物と今の加工品はまるで別物になっているものがたくさんあります。例えば、私は100年前の梅干しをいただき今も大切に食べていますが今の時代の梅干しとは全く異なります。食べ比べするとすぐにわかるほど、梅干しの味が異なるのです。どう異なるかといえば、塩も今の塩よりもずっとしっかりと塩の味がし、梅干しもほんの少し舐めるだけでも今の梅干しの数個分食べたほどの満足感があります。

他にも私は伝統固定種の高菜を無肥料無農薬で自然のなかで育てていますが、それを漬物にし食べますが市販されている高菜の漬物とは全く味が異なります。その異なる味は、味付けという問題ではなくもともとの素材を含め時間も道具も取り組み方も全部違うといったことから生まれる味です。

つまり味というのは、ある意味五感の一つを使うものですから誤魔化せません。しかしそれを誤魔化せるとしたら、本物がこの世から消えてしまえば誤魔化せるのです。誰も本物を知らない世の中にすれば、誰も本物が何かがわからなくなるからです。

その仕組みで世の中は本物が失われていき、別の本物にとってかわられます。これは決して食品だけに限らず、ありとあらゆるものがこの仕組みで別物になっていくのです。

見た目が同じでも別物になる、似たように似せても別物になる、理屈では同じでも別物になる、しかしそのどれもが本物として表現されて残っていくのです。これはとても残念なことのように思います。

むかしの本物を知っている人が、食べたり触ったり、聴いたり感じたりすればすぐに本物かわかりますがそれを知らないまま、別の本物を教えられた人たちは思い込みや刷り込みも入ってきますから余計に本物を見出すことが難しくなります。

経済というものは、この本物を駆逐するときに便利さを利用して拡大していくように思います。本物の経世済民もまた、同じ仕組みで消えていきました。今では徳を当たり前のように語る経世家もほとんどいなくなり、得ばかりを競いあう経営者ばかりが常に争いしのぎを削っています。自由や豊かさも、むかしの本物を知る人が失われ今ではそれも別物に換えられました。

子どもたちや子孫に何を遺していこうかと考えるとき、できたら本物をそのままに遺してあげられないかと願います。引き続き、本物に取り組んでいきたいと思います。

シンプルなもの

シンプルなものというのは洗練されているものです。言い換えればそこには嘘がありません。嘘とは何かと定義すると色々とありますが、簡単にいえば何かを盛っている、足しているともいえます。嘘も方便という言葉もあります。これは便宜的にスムーズに事が運ぶために嘘も役に立つという意味で使われます。つまりは、嘘というのは本当のことではないということです。

では本当のことは何か、それはとてもシンプルなものです。つまりそのままあるがままの姿であることです。例えば、健康というものも何か特別な健康食品を食べたら健康になるかというとそうではありません。シンプルに当たり前に自然に学び、自然の力が入るように育てられた風土の旬のものをその素材のいのちが壊れないようにして食べれば健康を保ちやすくなります。

しかし実際には都会的な生活で風土からも離れていますからそんなことはできないと健康食品やサプリが流行ります。健康を手に入れるためには、そういうものを摂取しないとと大量にドラッグストアやコンビニで栄養剤や健康食品が流通しています。また偉い先生と呼ばれる大学やその道のプロや専門家が、それぞれに効能や特徴、効果などを科学的に分析し、地味な成果を少し「盛って」話をします。それが嘘になっているということです。しかし口をそろえて、嘘も方便といいますから結局この方便を使うというのが嘘ということなのでしょう。

テレビや報道、ありとあらゆる情報は少し盛っています。なのでそれが当たり前になっている世間では、嘘が当たり前で本当のことは面白くもありません。方便が上手な人たちが世の中では目立ち、注目されます。それがバレないようにまた別の方便を磨いていきます。まるで方便合戦です。

そういう私も、会社で営業をしていた期間も長く、また大勢の人に話をする機会が多かったから相手が喜ぶように、またみんなが感動するようにと努力しているうちに話を少し盛る癖がつきました。しかし、歳を経て、色々なことを体験し、徳を積むことなどに真摯に取り組むようになってくるとこの方便が自分を苦しめることがわかってきました。

自分が少し盛る癖があると、その分、本当のことやシンプルなことに自信がなくなってくるのです。もっと周囲が喜ぶようにや感動するようにとやっていると、何が本当で何が嘘かがわからなくなるのです。

実際の人生を顧みると、波乱万丈なことばかりでそれをそのまま伝えた方がみんなが驚きます。そこには嘘がなく、特に盛るわけでもなくあった事実をありのままに伝えるだけです。これは自然でもあります。他にも、私の場合は古民家甦生や自然農など他にも自然物を使って色々と発明するのでそれをそのまま伝えた方がみんな驚かれます。そこには盛る必要もなく、ただあったことを伝えるのみです。すごいと見せる必要もなく、ただそれをシンプルに伝えるだけです。

本物というのはとても力があるものです。なぜなら嘘がないからです。嘘で塗り固められた本物風というのはどうも嫌な香りが匂ってきます。そこには心地よい余韻もありません。

子どもたちは刷り込みがないからこそ本物がわかります。子供だましのような世間とは別に、子どもに誠実に子どもに方便を使わないでシンプルなものを伝承していきたいと思います。

いのちの本体

家の庭の景色はいよいよ秋から冬の気配です。鳥の乾いた鳴き声や、枯れ葉に朝露がかかる様子、また無風で何も動かずに冷たい空気、夜空に寒さで揺れる星月などを眺めるととても味わい深いものがあります。

不思議なことですが、加齢とともに秋冬や侘びさびなどの美しさ、夕陽や静けさなどが居心地がよくなってくるものです。いのちというものは、自然のリズムに私たちが合わせています。自然から切り離されて人間中心に時間もスケジュールも動いていますが、心は自然のリズムに沿って心身を委ねているものです。

その証拠に身体も冬は節約し、春は毒を抜き、夏は燃焼し秋は貯えます。これは私たちが自然のリズムに合わせているからです。人間の傍で生きている他の生き物たちも似たようなリズムで共生し助け合って暮らしています。

体の声を聴くことは、心の声を聴くことであり、心の声に従えば、体の声にも従っています。つまりは身体一如であり、自然身体も一如ということです。

だからこそ、心で季節を味わうことや、体で季節を体験することは自然と安らぎ自然の豊かさを直感する大切ないのちの呼吸になります。

私たちはいのちを感じるとき、そこに呼吸があります。深夜に目が覚めて、ふと自分の呼吸に意識を集めてみます。すると、それが自然や宇宙、自然と一体になっていることに気づくものです。私たちは呼吸を通して、自然の一部として共生しており、同時に呼吸によってあらゆる意識と結ばれているともいえます。空気というものは、いのちの本体ともいえます。

どこから出でてどこにか帰る、その扉は空気だけが結ばれ通じているものです。この何もない中に無尽蔵の何かがあるという意識こそ、自然を観察する醍醐味かもしれません。

季節は微細にまたダイナミックに変化しています。その豊かさに感謝しながら、豊かな今を味わっていきたいと思います。