本物の体験

誰もが毎日、様々な体験をするものです。その体験は、自分の思い込みで行う体験と自分の澄んだ心の側の体験というものが二つが一つになっているものです。これは内省をするとよくわかりますが、知識の中での他人軸や人間軸での認識ともう一つは知恵の中での自分軸や自然軸での認識があるということです。

人には誰もが刷り込みというものがあり、嘘を信じ込まされているものです。それはある時から知識を覚え、その知識が当たり前になっているほど信じ込まされているなかで常識というものを持っていきます。周りが言っていることを鵜呑みにしているうちにそれを疑うことをやめてしまいます。すると本当のことがわかっても、自分の常識に合わせてなんとか修正をしようとしているものです。常識と違うものは、混乱するから修正しようとするのです。水が燃えたり、火が流れたり、風が固まったりとおかしなことがあることはおかしいと何かの間違いだと補正しようとするのです。

人間が信じる世界というのは、実際には人間の常識の世界ということでしょう。信仰心というものも宗教が組織を保つために嘘で塗り固められた権威みたいなものもあるのでそれを信じているというのは自然や宇宙とは関係がないことのようにも私は思います。

本来は、嘘かどうかは自然や宇宙の観察に由ります。つまりそこに人間の知識が介在せずにありのまま、あるがままを直感するということです。この直感というのは、感じたままに直に観るとも言えます。何も濁り澱んでいない知識、つまりは知恵のままに素直に直観するということです。

空を空で観ず、海を海で観ない、そのままにあるがままに観るということです。これは自分というものにも言えるものです。自分を自分として観ないということです。すると常識を外していくことが重要になります。

日々の自分の体験は、思い込みがしていることなのか、それとも思い込みのない自分がしているものなのか。思い込みのない自分がしている体験こそ、本物の体験なのです。

こんなことを書いても、ちょっと変だと思われるかもしれませんが私が目指すのはこの世で本当の体験をして魂を磨く仕合せを味わいたいということですから引き続き、自然にこだわり続けていきたいと思います。

私の好きなもの

自分の好きなことを掘り下げてみると、自分の得意なことや興味関心があることに気づきます。その好きなことというのは、単に物質的な好きなものではなく具体的に取り組んでいこうとする気持ちの好きな方に自分の本心があることにも気づきます。

例えば、私は小さい頃から発明が大好きでした。自分にしか観えないものを形にしていくのは気持ちがよく、それが何の役に立つのかわからなくてもなんでも創造していました。また大人になると発明は多種多様になり、調理なども好きで様々な組み合わせで実験したりして楽しんでいました。今でも、何か新しいことをするのが好きなのは発明したいからです。

この発明の意味は辞書には従来みられなかった新規な物や方法を考え出すことであるとし、また自然法則を利用した技術的思想の創作のうち、高度なものともあり、物の道理を明らかにするものともあります。

私の興味関心は自然にこそあり、人間の知識ではなく自然そのものを明らかにしたいということが好きであることがわかります。本当のことを知りたい欲求や、元々がどうだったのかということを学びたいという願望はとても強いように思います。このかんながらの道ブログも、元来の道を探るために日々に深めているものでもあります。いついかなる時も、自然を観察して自然の道理を読もうという意味では自然科学者に憧れたのかもしれません。三浦梅園先生を尊敬するのもその根っこのところの共感にあるようにも思います。

また他にも好きなことといえば、浄化することです。この浄化は、今の言い方ではシンプルにすること、洗練させることです。磨くことといってもいいかもしれません。何かを為さなくても、日々に磨いたり洗練させたりシンプルにするのがとても好きです。もっと言えば、本物が好きともいえます。本物にしたいのです。

この本物というものの定義は自然になるということです。不自然を正して自然に帰す。先ほどは、発明ということで自然を知りたい願望でしたがそのあとは自然を知って自然に原点回帰したいという願望です。それも単にむかしに戻すというようなことが自然とは思ってはいません。今更縄文時代にというのは不自然です。今の時代に産まれているのが自然ですから、今の時代でもどうあれば不自然ではないかを試行錯誤するのが好きなのです。

それを突き詰めていたら、暮らしフルネスになっていくということでしょう。そう考えてみると、好きなことをやっているものです。せっかくなのでそれを世の中のために役立てようとして、それが仕事になるものを探しているということです。世の中の人に貢献するために発明していますが、なかなかこの発明が時代に適合するのには時間がかかります。

引き続き、それも楽しみ味わいながら発明の人生と自然の道を歩んでいきたいと思います。

場と気の流れ

私たちは場を考えるとき、空間というものの中にあるものを捉えます。空間は空っぽではなく、その空間には気が宿ります。この気というものは、気の流れともいいますがそれぞれが結ばれて気を関係しあうことで空間の中に絶妙な調和をもたらすものです。

例えば、自然界でいってもどの位置に山があり谷があり川があるのかでもその空間の場の空気は変わってきます。よく空気が美味しいという言い方もしますが、そこには空気を美味しくするような場が調っているということです。

これは空気に限らず、水でも火でも、絶妙な調和をもたらせている場所が力を宿す場になっているということです。むかしからそのような場所は、祈りの場所にしたり、癒しの場所にしたりと工夫されてきました。

私たちの感じる居心地のよさというもののまた調和をするときに感じるものです。つまりこの調和を本能的に自覚しているということになります。安心ともいい、喜びともいいます。

こういう場づくりはどのように行うのか、私は自然の中にその調和を見出していきます。そこにはそうなるように絶妙に仕組まれた経緯があります。その経緯を読むのです。

経緯というものは、ご縁とも言い換えることができます。これでは抽象的になりますが、実際には場と縁というのは切っても切り離すことができないものです。このお互いの関係性に気付けるかどうかが善い場を形成するための要諦になります。

ある山に入り、光と水と風、そして木々と音と火や煙、土と岩の絶妙な場所で人が祈る。これだけでもそこには見事な調和や場が誕生します。

つまりこれは気の流れの話です。気をどうするのか、気をどうしたのか、これはその気が観えていること、気を動かせる人、気を鎮められる人というように調和に導く存在の関係性の中で醸成されていきます。

私が場の道場のなかで特に磨いているのはこの一点といっても過言ではありません。この気の流れを読む力は、日々の一期一会のご縁を大切にしていく生き方によって高まっていくものです。

何のために場をつくるのか、この問いが大事になります。

引き続き、子どもたち、子孫のためにも廃れていくものを拾い集め、本来のいのちを場に置き換えてさらなる徳を磨いていきたいと思います。

先人からの願い

昨日は、千葉のむかしの田んぼと福岡の場で新嘗感謝祭を行いました。この行事も会社みんなで取り組みはじめて10年以上になります。毎年、お田植祭から草刈り、そして収穫し食べているお米の新米を御蔭様に感謝してみんなで一緒に食卓を囲み団欒します。汗水流して共に働く仲間と同じ釜の飯を食べることの仕合せは本当に格別なものです。

私は今回は、縁あって福岡の場でお祀りしたり祈祷をしたりすることが中心になりましたがこうやって毎年、色々なことがあっても有難いお米を一緒に食べられる喜びを深く感じています。

私たちは現代の食生活ではお米離れが増えていきました。お米がなくても生きていけると勘違いするくらい、お米以外のものを食べています。また食生活が変わると、お米に対する思いも失われてきています。

そもそもお米が日本になかったころは、植物では山にある樹木の実などを採取して食べていました。人口が少ない時はまだしも、現代のようにこれだけの人口を養える食べ物などはほとんどありません。

よく考えてみると、地球の人口が80億人を超えるというのはそれだけ食べ物があるということです。食べ物がなければ人口を維持することは不可能です。私たちの食糧問題というものは、大量生産大量消費するなかで発生したことで本質は増産できる仕組みが発明されたことによって発生したともいえます。

この増産の仕組みは、冷静に観察すれば一気一斉に搾取する技術を発展させたということです。自然のルールを人類は無視しようと決めたということでもあります。資源をこれでもかと自然から絞り出す仕組みを考え、後のことなど考えずに取り続けるという手法の発展です。これは資源が取れなくなったらそこで終了ですから、取りきれるまではありとあらゆる方法を使って続けられるということです。

もはや誰も気にとめないほど当たり前になっている世の中になって久しいものですが産業革命以降、資本主義もですが膨大にあると考えられた地球の資源をそれぞれの国家が我先にと奪い合い続けてきました。そのためには、人口を増やし貨幣を増産し流通させ、潤沢な資源を世界に売りさばき他の資源を買い続けて国力を富ましていきました。国力を増す際に、軍事力も増強しミサイルを増やし続け、同時に金融も増やしてきました。

世界は少しずつ資源が失われていくなかで、残りの資源の奪い合いが熾烈になっていくのも予想できます。

むかしの稲作は、みんなで手を取り合って作物を育てていきました。豊作の時は、みんなで食べ物がある喜びに感謝して仕合せを嚙みしめたように思います。自然のルールと等しく、食べ物があることが当たり前ではないほどにぎりぎりの生活をみんなで送っていました。時には飢饉が起きてたくさんの人が亡くなりました。しかし、そのことがかえってお米の大切さや日頃から備えることへの重要性を学び、助け合いや思いやりなどの相互扶助の精神も育っていきました。謙虚さを磨いて自然に対する姿勢を育ててきたのです。

しかしあまりにも膨大な資源が目の前にあればそんなことは感じないかもしれません。以前報道で作りすぎた野菜を大量に捨てているものをみても少し足りないくらいの方が、みんなが大切にしようと思うものです。いくらでもある資源、あるだけ使い切る資源というのはかえって徳を損ね、本来の有難さや感謝を感じにくくするものかもしれません。例えば、空気がなくなるといったら人類はどうなるでしょうか。もっと汚さないように、もっとなくならないようにと丁寧に呼吸をするはずです。

常に有難いと思う気持ちのままでいることは、私たちのいのちを長く助けます。引き続き、子孫のためにも先人からいただいた遺徳をさらに善いものへと発展させ、暮らしを紡いでいきたいと思います。

真の知識

文字という発明は、私たちに知識を固定する仕組みを与えてくれたともいえます。本来なら口伝や一子相伝のように文字ではないもので伝承するものが文字によって大勢の人たちの間で理解されて使うことができるようになりました。

私も法螺貝をはじめてから、結局は耳や吹き方、その生き方などは貝から学ぶことを通してかつての文字がなかった時の伝承に触れて理解したことがあります。実際には文字では伝承できないことがほとんどで私たちは渾然一体になっているものをそのまま直感することで真の知識を会得しているともいえます。

しかしこの言葉の問題というのは、言葉で理解する限界があります。最初に分化したものを使ってそこから一つにしていくというのは難しいからです。言い換えるのなら、分かれたものを一つに戻すというのはできないことだからです。戻そうとしても、戻った時には別のものになります。つまりはこの世の中は、常に新しくなっているもので同じものはありません。一つとして同じものはなく、同じように見えても明らかに別のものになるからです。

そう考えたときに、私たちが錯覚するのは同じものがあると勘違いすることです。同じ日がある、同じことがある、みんな同じなど、あり得ないことを想像しては同じではないことに苦悶するのです。知識ばかりを持つと、この同じものがあると思い込むようになるように思います。

一期一会というものもまた、人生二度なしというものもまた、状態が常に何かと呼応して変化し続けているということです。

私は今、足を骨折して安静にしていますがじっとして何もしないと動かないでいると周りが動いているのがよくわかります。自分が静止することで、周囲の動きがよく観えるようになるという具合です。変化というものも、同じことを同じように繰り返していればいるほどに同じではないものがよく観えます。

日々の日記や反省、振り返りなども同じように過ごしても感じること気づいたことはほとんど新しいものです。これは常に何かが融合し続けて已むことがないことを意味します。

人間関係も然り、自分の身体も然り、そして運命もご縁も然りです。

三浦梅園先生は、反観合一という思想を持ち座右としていまし。これは反転にして観察し、一に統合するように言われます。もともと何のためにこれをするのか。自然というのは渾然一体です。それを観察して科学にするのだから、当然分かれたものを観る必要があります。しかし分かれたものを観ても、元の姿がわからないのだからそれを反転させてもう一度、最初が何かを直感する必要があります。

私は先ほどのように、同じものはなく常に新しくなるのだからその新しいものを知り、古いものを融合し続けることが真の知識には必要だと感じています。そしてそれは切り取られた知識にするのではなく、実際に生活に即してその人の性格や人格になったときはじめて実現するものです。簡単に言えば、法螺貝を知識で学ぶのではなく法螺貝のようになったときに真の知識を得るという具合です。

そこには、そのものと対話しそのものと一つになろうとする精進が必要です。そういうものを仙人ともいい、道とも呼んだのかもしれません。引き続き、自分の実体験を以って、自分の観察したものでかんながらの道を拓いていきたいと思います。

水のある暮らし

ここ数年は、寒暖差が激しく英彦山においても突然に積雪がということがよくあります。昨年は、配管が凍結で破損したことなどもあり早めに対応してきました。もともとこの配管が破裂するのは、科学的には水が氷ることによって約1.1倍の大きさに体積が膨張するからです。

水というのはとても不思議で、よく考えると蒸発したり凍ったり、あるいは混ざり合ったりあらゆるものに変化していきます。そしてそのどれもが不思議なものです。

例えば、水は体積で自分よりも密度が高いものが沈みます。そうではないものが浮かびます。それに浸透圧で様々なものの溶け込んでいきます。植物をはじめ私たち人間もこの水によっていのちは巡り、水が通ることによって循環を促します。

水を知ることが、何よりも山の暮らしには必要なことです。英彦山の宿坊では井戸を甦生し、井戸を利用しています。水道も来ていますが、今ではほとんど井戸が中心です。

井戸水は年中一定の温度を保たれています。それは地中の水を使うからです。この地中の水は凍っておらず常に地下を流れ続けています。植物たちもこの地中の流れている水を使うから冬も活動を続けています。

氷河期を乗り越えてきた生き物たちは、ほとんどがこの地中の熱によって守られてきました。火を使わなくても温かい温度を確保できる地中は、私たちにとっては何よりも有難く、また水が動ける状態であるから私たちも生きていくことができています。

この水が凍らない状態をどう保つかということに知恵が必要です。宿坊はすでにかなりの冷え込みで、冬の厳しさがますます家全体に響きます。梅雨から夏の湿気が嘘のように今度は激しい乾燥がはじまります。厳しい冬を乗り越えるために、雪国と同じような水を絶やさない生活がはじまります。

都会にいれば、便利な生活の中でそんなに水のことを真摯に向き合って大切にしようとはなかなか思えないものです。環境の力というのは偉大で、学ばなくても自然にその環境によって意識も感性も磨かれていきます。

子孫のため、先人からの教えを伝承するためにも水のある暮らしを繋いでいきたいと思います。

本来の在り方

私の尊敬する三浦梅園先生は、ご先祖様への信仰が大変深い方でした。常に先祖を敬う心に篤く、実父の死後には三浦家一統の墓石を一ヶ所に集め、一日三度の墓参を欠かさなかったともいわれます。これは最晩年まで続き、老齢に至ってからも、一日二度の墓参は欠かさなかったそうです。そして梅園がこの墓参をやめたのは、自身の死の数日前であったともいわれます。

私も、幼い時から家から2キロほどあるお地蔵様のある場所にご先祖様とのご縁を深く感じて今でも欠かさずお参りにいきます。その関係性は、親子のようでもあり、親友のようでもあり、あるいは夫婦のようでもあり、いついかなる時も見守ってくださっている大切な存在です。

私が最も尊敬するところは、この墓前や先人、況や先人やご先祖様という自分が今まで結ばれてきたものとの深い対話こそ後世に遺すべき真の学問の在り方ではないかと直感するところです。まさにこの生き方は、真実を見極めるためにもとても大切な実践であると私は感じます。

人は何のために学問をするのかということがあります。三浦梅園先生は、こういう言葉を遺しています。

「学問とは、飯と心得るべし。腹に飽くがためなり。掛物のごとく人に見千ためにあらず・・学問は置き所によって善し悪しがわかる。臍の下善し、鼻の先悪し」

とも。知識というものを持つと、人はすぐに掛物や見世物のようにすぐに使おうとします。現代は情報化社会で、それを生業にしている仕事もありますから特段それが悪いことのようには思わないものです。しかし、本来の学問とはどういうものか。それは生き方です。その人そのものの存在が学問をする姿勢かどうかは特に気を付けていく必要を感じます。またこうも言います。

「知識というものはそれが学習者の心に同化し、かつその人の性格に顕れるときのみ真の知識となる。」

真の知識とは何か、それは人格になったときとも。人間力と学問は一体になっているということでしょう。なぜ人間は学ぶのか、何のために学ぶのか、学ぶとな何か、そもそも人間とは何かということを見極めた言葉のように感じます。

私が今回、シンポジウムを三浦梅園先生の生家にこだわったのもそれが三浦梅園先生の遺徳を学ぶことになると直感するからです。それは長子、三浦黄鶴が父親についてこういう言葉を遺したからです。

「死に仕ふることかくのごとし。生に仕ふること、知るべし」

みんなで墓前に参り、そのあとに、生家で語り合うことの偉大さ。そして真の遺徳とはご先祖さまのことを尊重してこその真の学問への道であると確信するからです。

今の時代もむかしの時代も関係がなく、本来の在り方を見つめていきたいと思います。

記憶の創造

見ず知らずに他人が知り合いになり、その関係が深くなっていきます。人の幸不幸は出会いが決めるという言い方もしますがお互いの記憶の中で結んだ関係がお互いの喜びや悲しみ、苦しみや安らぎにもなるということです。

ご縁が人生ともいえるのは、その思い出や記憶が自分の人生ともいえるからです。だいぶ思い出せなくなってきても、仲間や友人がその時のことを鮮明に覚えていたりもします。懐かしい友人との思い出話は、その頃の記憶を呼び覚まします。そしてその時の感情や思い、出来事から学んだことや気づいたことも思い出します。

もう随分むかしのことで忘れて失われているようでも、その時のご縁があった人や物、場所に触れると失われずに自分の中に生きていることがわかるのです。こうやって、体験した記憶というのはどこかいつまでも自分の生と共にあります。

たとえば、懐かしい場所というものがあります。自分は覚えていなくても、先祖や先人たちが深く関わったところなどもどこか心が落ち着くものなどあります。私の記憶ではなくても、先祖の記憶が自分の何かに宿っているのを感じるものがあります。

それは物でも同じです。私は古民家甦生をするので、古いものに触れることが多いのですが触っていると何かそのものが何かの記憶を持っているのを感じます。それは傷跡から感じたり、丁寧に手入れされていたものなどに触れると感じるものです。

つまり記憶や思い出というのは確かな事実であり、失われることは永遠にないということでしょう。ただ、それを思い出す人たちがいるということです。思い出すには、私たちもその先人たちの記憶のなかで同じように歩み続けていく必要があります。ある時、思い出すのはその場所にそのものにその人にまた再会するということです。

長く生きていれば、何度も再会する人もいれば再会しない人もいます。しかし子孫は、姿形を換えて何回も巡り会うこともあります。道は無窮で奇跡の連続です。

ご縁を大切に、心を静かに、さらに美しい記憶を創造していきたいと思います。

それぞれの役割

人にはそれぞれに役割というものがあります。その人の分があります、それを自分とも言います。身体も同じく、一見、小さな役割の部位であろうがその部位が体の全体を支えているものもあります。骨折などをすると、特に足の小さな骨折であってもそれが全体を支えている貴重な場所であることはすぐにわかります。

私たちの身体というものは、一つも無駄なところがなくそのどれもが大切な役割を果たします。表面上は観えないものほど、重要な役割を果たすのです。現代は、目に見えることばかりが価値があると信じられている世の中ですから目に見えないような大切な役割をするところを価値がないとすぐに放棄したり蔑んだりするものです。

しかしその場所があることで、全体がはじめて機能するところもありますから目立たなくても、陰でひっそりとしていても、その重要性を感じるのです。これもまた役割ともいえます。

私はむかしから、この目に見えないけれど最も大切なものであったり、陰ながら何よりも支えている存在などに憧れてきました。なぜなら生命というものの本体は、その陰ながらの存在によって常に活かされていてその存在の偉大さに感動するからです。

何もなさなくても、地位も名誉も権威も権力もなくても存在しているだけで偉大なものがあります。実際には、そういうものがないものの方が価値を人間で裁くことができず真に偉大なものです。

例えば、水や太陽、空気も同様です。宇宙も同様に、人間の価値基準で役割を持っていることばかりをみんなで求め合いますがその物体ができる一つ一つは、陰ながらの無限の存在や役割によってはじめて成立します。

私が大好きなものに、炭がありますが炭もまた一つの役割の結晶ですがその炭を活かす存在は火であり木であり空気であり水であり菌です。役割は誰かからの評価ではなく、そのものの存在の理由です。

自分を知るということは、そのものの存在の理由を確かめていくことに似ています。

その人にしかわからないご縁、その人にしか与えられていない天命、安心して立命する日々の暮らしの営みのなかにその役割と喜びもあります。心を静かに、深く音を鎮め、感覚を研ぎ澄ませていきたいと思います。

美しい心

昨日、長いお付き合いのある心の優しい方から骨折のお見舞いにシクラメンやご自宅で育てた牛の牛乳やアイスクリームをいただきました。今年はお互いに大切な人を亡くす辛く悲しい経験を体験し涙を流してきました。真心の人は、生き方そのものが真心で発する言葉も優しく、眼差しも美しく、感謝の雰囲気に溢れています。

心の人の生き方をこれまでの人生でもたくさん観てきましたが、その心の人の御蔭で心が導かれ真の自分を保つことができています。心の香る美しい人は、いつまでも心の中に懐かしく映しだすことができます。その余韻は永遠です。

ではどうしてその心の美しい人になっていったのか。人は最初は産まれながらに美しい心を持っています。この美しいというのは、純粋無垢な心です。その純粋無垢な心は美しさの原点です。しかしそれが、成長にするにつれ、様々なことを体験していくなかで次第に曇っていきます。頭で考えるようになるのです。知識がついて知恵がつけば、その曇りはますます深く厚くなっていきます。そのうち、心とは何かということまで頭で理解し、頭が心の代わりを担うようにもなります。

便利な世の中になればなるほどに、心は使われなくなり次第に亡くなっていきます。それが忙しいということです。できることが増え、頭がよくなればなるほどに心は貧しくなり曇っていくのです。今は、便利という欲と豊かさを選んだ、、そういう時代なのです。

しかしそうやって得たものを捨てていく人もいます。知識も知恵もあるのに、それを使わずに心を使うのです。不便であっても、不器用であっても、他人からどう思われても心を用います。なぜなら、自分の本心を大切にしたいと決めているからです。

自分の本心を生きる人は、自分の心に従い自分の心のままに生きていきます。そしてそれはその人の心がそうさせます。心はいつそれに気づいたのか、それは深い悲しみを体験したことにも由るのではないかと私は思います。

それを慈悲心とも呼びます。これは心の純粋な姿の顕れです。心は元来、この慈悲心の塊です。不思議なことですが、私たちは生死を繰り返しながらこの深い慈愛と慈悲を学び続けました。それが美しい心の本体だと私は思います。

これからも残りの人生、人はいつかは必ず肉体が滅び死にますがそれまでこの世にいるうちは真心のままに生きていきたいと思います。ありがとうございます。