日本の甦生

明治時代に、文明開化といって政府がスローガンを打ち出しそれまでの伝統や伝承文化がおざなりになりました。急速に西洋化を促進し、それまでの日本の国体を海外のものに倣い換えていきました。

かつて菅原道真公が、菅家遺誡のなかでわが国固有の精神と中国の学問とこの両者を融合し日本固有の精神を以って中国から伝来した学問を活用することの重要性を強調していたともいわれます。色々な説がありますが、遣唐使を廃止したのち天平文化を開いたその後の日本人たちはその意味を深く理解していたようにも思います。

今の日本は、本来の日本人の大切にしてきた和魂の道を歩んでいるでしょうか。風土も国土も文化も異なるなかで、何が真の文化かということも失われ、そして何が本物なのかということも忘れてしまっています。権威のある人が本物といえば本物と信じ込み、生まれたときからあると思えば最初からあったと思っています。

しかし、和魂というもっと原初からあったもの、そしてもともとこの風土によってとても長い年月を経て自分たちの風土に適ってきたものがわからなくなっているようにも思います。

明治時代に挿げ替えられた様々な文化は、今の日本にも大きな影響を与え続けています。西郷隆盛もまた明治のころの人ですが、その人はこういう言葉を遺しています。

「広く諸外国の制度を取り入れ、文明開化をめざして進もうと思うならば、まず我が国の本体をよくわきまえ、道徳心を高めることに努め、そのうえで、徐々に外国の長所を取り入れるべきである。ただみだりに模倣すると、国体は衰え、徳も廃れて、救いようがなくなってしまい、結局は外国の支配を受けるようなってしまうのである。」

この最後の「結局は外国の支配を受けるようになってしまう」という言葉は今を予見しているようにも思います。

私たちの国体とは何か、それをよく見極めるとありますがこれができている人がどれだけいるのかということに由ります。日本とは何かということを真に自覚できているかということです。そうすれば、徳はさらに増し、国体も栄え、ますます日本は救われるということです。そうすれば独立自尊した国家として、日本人は世界の中の日本として世界の中で大切な役割を果たしていけるように思います。

この先の時代のことを思えば、日本という国体は今こそ見直し、原点回帰してそこからもう一度、学び直す必要を感じています。根源的なものから取り組むというのは、大変なことのように思えますがこれほど安心できるものはありません。

良いところを取り入れるには、基礎や基本が立っている必要があります。今はその原初の日本、根源の日本がどこにあるのかもわからないでしょう。それを私は暮らしの中で甦生しています。

引き続き、子孫のためにも暮らしフルネスを磨いていきたいと思います。

時代の先取り

私たちは子どものときに、子ども時代というものを体験します。それは生まれてすぐのころから、物心がつくくらいまでの間にあまり覚えてはいませんが子ども心のままに周囲の世界を見渡して学びます。

この時の学びというものは、周囲がどうなっているのかでその時代に適応していくという学びです。これは人間に限らず、すべての生き物は生まれるたびに微修正をしてその時代に順応していこうとします。寿命が長い生き物はわかりにくいですが、寿命が大変短い生き物などは細かく修正をし続けて対応していきます。菌類などもよく観察すると、すぐに環境に適応しようと修正と変化をして生まれ代わります。

この代々生まれ変わると仕組みは、もっとも子ども時代が影響を持ちます。何らかの役割をそれぞれの個体が持ち、全体に役立つように変化していくのです。私たちは個別になり個人になりましたが、地球全体で観たら個ではなく繋がっている全体の一部です。

この体の体毛一つでも、一本の毛は個ではあっても体の一部ではあります。その体は見事に循環していてどの機能もどの部位も役割がないものは一つとしてありません。個だけを見ると関係がないように見えても実際には深く関係しあっています。先日も歯の治療をしましたが、歯は体の状態と影響しあい、歯をみれば健康がわかるとまでいいます。

歯も乳歯といって生後六か月頃から生え始め、二~三歳で完成します。それが六歳頃から徐々に永久歯と交代していきます。この時期の歯は、何のために生えてくるのか、そして永久歯と交代するのか。これは、先ほどの子ども時代の体験によってその時代に適応するという仕組みと大いに影響しあっていると私は感じます。

植物も同様に、種を蒔いて一世代が交代してまた次の種をつけていくまでに環境に適応していこうと種を微修正していきます。

つまり何が言いたいかというと、保育者や教育者はその道理や原理を自覚しそれだけ時代を先取りして環境を用意していく必要があると私は思うのです。

これを悪用すれば、管理するために刷り込むことでロボットのようにしていくこともできます。しかし本来の生命の原理からすれば、自然に未来を先取りしようとする子どもや種から学び、どういう環境にしていけばいいかと学び直すこともできます。

自然の道理で運ぶ世の中であれば、親孝行が当たり前ですが不自然が横行する世の中になれば子孝行こそ当たり前の道理になっていきます。如何に、子どもから学び直していくか、如何に種や菌から学ぶか。それが今の時代に普遍的な保育や教育の道理になろうと私は思います。

子どもたちの御蔭さまであることを忘れずに、日々に精進していきたいと思います。

一線を越える人

昨日まで神奈川から私の尊敬する方が滞在されていました。この方は、若い時から自由に生きていてすべてのことに対して一流の感性を磨かれています。その方がつくるものは、すべて芸術品でそこには一切の妥協もありません。自分というものを知り、自分というものを探して日々に研鑽を怠らない。まるで剣道の達人のような風情を醸し出しています。

最初にお会いした時も、その佇まいは徹底されており二度目にお会いした時は愛や懐、その大きさを感じました。三度目にお会いした時は、愛の深さや厚い優しさ、純粋な生きざま、人間力を感じました。

かつて西南戦争のとき中津藩の武士、増田宋太郎という人物が西郷隆盛のことを「一日先生に接すれば、一日の愛生ず。三日先生に接すれば、三日の愛生ず。 親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は善も悪も死生を共にせんのみ」とまでいった言葉があります。

人は人間力を観るとき、その人の器の大きさ、そして一緒にいることでその人の深い愛を感じるのです。自由に生きると愛を生きることになります。そして愛に生きる人に触れると人はその愛の大きさに感動するのです。

人間力を磨き上げていくなかで、人は同時に愛も高めていくように思います。西郷隆盛は「敬天愛人」を座右の銘にしていました。まさにそれを感じる一日になりました。

人は感動することと、感動させるということがあります。人を感動させるというのは、その人が一線を越えていることを感じさせます。この一線とは何か、それは私心を捨てるような一線ではないかと私は思います。西郷隆盛は、「総じて人は自分に克つことによって成功し、自分を愛することによって失敗するものだ」ともいいます。

人は何かのためにという目的を持ちます、そしてその目的はそこにいのちを懸けてでもというものがあります。その人が、それをするのは何かのいのちを懸けているのです。そういう本来の自分というものを持てる人は、自由人であり仕合せな人であろうと私は思います。

人生の中で、同じような生き方や生きざまを志す人に出会い、薫風をいただけることはとてもありがたいことです。子どもたちや未来世代のために、学んだこといただいことをさらに研鑽を積み、還元できるように精進していこうと思います、

ありがとうございました。

道を磨く

人は、自分の生き方を定めて歩んでいくとそこに生きざまというものが出てきます。その人が大切にしていることをその人自身がどれだけ真剣に大切にするかは、次第にその人の人格を磨き上げていきます。自分が何者なのかを知るというのは、自分が何を大切にしているかを知るということでもあります。その大切だと気づいたら、それを守れるかというのが日々の真剣勝負ということになります。

目標や目的というものがありますが、そのどれもが自分の大切なことに対しての目標と目的ということになります。そしてその人生道中にさらに自分を知るためのご縁に巡り会い、本当の自分になっていく喜びに出会います。

この本当の自分というのはどういうものか、それを知ることが道ではありますがその道は自分の大切なことに気づくことが道ということでしょう。

誰かや何かと比べたり競争したりの環境の中にあると、自分の大切なことは後回しになっていくものです。自分に気づく前に、その刷り込みや環境に気付けるかというのは最初の通過点です。

空気があることに気づいているか、自律神経がいつも働いていることに気づいているか、この目が見える理由、耳が聞こえる理由、なぜ喜怒哀楽があるのか、心や魂の存在に気づいているかなど、もともとの原点や存在そのものが観えるかということが重要になるように思います。

そのうえで、自分の身の回りの環境が如何に不自然かがわかるという境地を得ます。つまり何が自然で何が不自然かということが気づくのです。すると、すべてのものには役割があり自分にもそれがあるということがわかります。これは他を比べての役割ではなく、自分というものの役割そのものに気づくということでしょう。

自分の初心や大切なことに出会えれば、そこからはそれをどう守り育てていくかという自分との正対、自分になるための精進になります。

暮らしというのは、その日々の中で自分の大切なものを守る実践道場でもあります。どう生きるか、どう生きたか、どう感じたか、どう守ったか、そうやって道は連綿と永遠に結ばれ繋がっています。

この今と自分を大切にして、さらなる道を磨いていきたいと思います。

道育

世の中では有名でなくても偉い人といわれていない人でも立派な方がたくさんおられます。市井の賢人や偉人、あるいは聖人ともいうべき人がおられます。その方々の生き方や言葉には、知恵だけではなく魂が宿っていて心を深く打つものです。

人にはそれぞれに気づいたり学んだり発見したりとタイミングがあります。そのタイミングは、鳥の雛が卵から産まれ出ようと殻の中から卵の殻をつついて音をたてた時、それを聞きつけた親鳥がすかさず外からついばんで殻を破る手助けをする啐啄同時と同じです。

求めているときに、絶妙な手助けがある。これはまさに一緒に学び合い育ちあう関係だからこそ実現するものです。

そう考えてみると、これはすべての生き物に当てはまることです。植物であっても、種を蒔いても芽が出るかどうかは種によります。いくら雨が降っても、求めていなければ芽吹くことはありません。また季節のこともあり、栄養なども同じです。昆虫も等しく、それぞれがそのいのちの成長に従って適切に与える存在があることで啐啄同時は存在することができるのです。

今の時代のように、詰め込み教育や放置教育ばかりをしていたらこの啐啄同時のことはわからなくなるでしょう。覚えないのは単に勉強不足と思うようになり、できないのは指導者やその環境が悪いからとなるのかもしれません。

本来、教育というのは道の中にあるものです。志を持つ者同士が、どのようにその道を歩んできたのかを訪ね、そこにお互いに必要な知恵を分け合います。またそれぞれの徳性や性格、そして才能や感性などの異なりもあり適切にアドバイスをし研鑽する方法を導いていきます。

それぞれに道で学んできたことがありますから、お互いにその道を語り合い学び合うときに道がまた拓けていくのです。教育というのは、本来は道育であり、自然と共生して存在するようなものです。

子孫のためにも、あるべき原点を学び直しながら新たな道を拓いていきたいと思います。

道の歩き方

天命と人道というものがあります。これは天はそのまま命であり、人はそのまま道であるともいいます。天地自然と人間社会の中で生き活かされている私たちは、その両輪を暮らしの常としています。

そもそも天命というものは、俟つことしかありません。これはその人に命じ与えられた命令であり役割とも言えます。不思議ですが、天命というのは自分の真心や素直さに応じて、またその時々の純粋な喜びによって感じ得るものです。別に運命とか宿命とかもいいますが、結局は天命は自分ではどうにもならない事実のことです。その事実は事実そのままですから諦めてはじめて真の事実を直感できるものです。自分は他人ではなく、自分にしかない人生を生きるのなら人はみんな自分に正直に自分の天命に従うことしかできません。

全ての生き物は、その天命を感じて自然と歩んでいます。この自然というものが天命というもので、それを古来日本では「かんながら」とも呼びます。日本人の持つ自然観は、この自然に逆らわずに応じて天命のままにあるがままということでしょう。

そして道というものは、人間の道です。これは思いやり助け合うという徳で結ばれた繋がりによって仕合せを生きることです。みんなの喜びが自分の喜びであり、自分の喜びがみんなの喜びになるように世の中が安寧に安心して平和であることに向かっていこうとすることです。これも不思議なことですが、人間は(というよりすべての生き物)はみんなで助け合い生きることを最初から具わって生まれてきます。分類わけされた生命ではなく、すべての生命は全体が調和し循環することを通してみんなで助け合い思いやり生きようとすることです。

絶滅なども求めてはなく、みんなで地球の中で循環して暮らしていこうとするのが生きる道なのです。その最たるものとして、人間はみんなが仕合せになるようにと頭で考えて取り組んできました。それが道の極み、つまり人道だったからです。人道とは、シンプルに言えば徳の政治を行うことでありみんなが如何に助け合い思いやり仕合せで暮らしていくかを実現していくことです。自他一体、全体快適を目指して生きてきたともいえます。

今の時代、人道が廃れたといえる理由は徳が循環をやめ、生き物たちは日々にこの瞬間も絶滅を繰り返しています。これは天命の問題ではなく、人道の問題です。この天道と人道というものは、本来は表裏一体です。

人道もまた私利私欲を諦めることによって、本来の自分に目覚め真心に従うと素直になり謙虚になって人は優しくなるものです。つまりこの天と人には共通の道があるのです。

人事を盡して天命を俟つことも、天命を盡して人事を俟つことも道の歩き方の格言です。この世も人も、本来は知識などなく知恵もありません。本来はそのままあるがままに存在しているだけです。実体などなく、何もない、しかし何かあるように私たちは生きていきます。

悟ることがゴールでもなく、単に人は歩んでいるだけですがそこに確かな道なるものは目には見えにくくなてきたとしても普遍的に存在します。この普遍的な道をどう歩むかということだけは、途切れることはなく確かに存在しているのを感じます。それを志とも言い、この心のままに生きる道は無窮で無限ということかもしれません。

今の時代もまた先人たちの時代の集積によって今の道に続いています。これから新たな道を辿るのに問題解決をするために発明するのも大切ですが、後かたずけや方向転換なども同じくらい重要になります。今を生きてきた連続にある今が道である以上、私たちは道を振り返り、またこれからの道をどう歩むかを一人一人の覚悟で決めていくしかありません。私も私なりのかんながらの道を歩んでいきたいと思います。

真の自立

私たちは暮らしを通して、何をもって自立しているのかということを考えることができます。例えば、お金に依存しているのか、あるいは権力に依存しているのか、権威に依存しているのか、それはその人の生き方からもわかります。知らず知らずのうちに、私たちは依存していることを勘違いしてそれを自立と思っていたりするものです。

産業革命以降は資本主義経済がグローバリゼーションの名のもとに、世界の隅々までいきわたりました。経済に依存する仕組みは、地域のあちこちにまで蔓延しそれまで自然と共生して生きていた人たちまでも経済に取り込まれていきました。その結果として、人類のほとんどがお金を中心にした経済に依存していきました。

今では、お金がないと生活していくことすらほとんどできません。ほんの少し前まであったような身の回りの自然がつくってくれた利子をみんなで分け合いながら生きるといった自立は消えてしまいました。

日本では、働かないこと税金を納めないことは軽犯罪のように扱われ必ず経済に依存しなければ存在すらも認められないほどです。気が付くと、経済に依存しなかった文化や伝統はほとんど消えてしまいました。何らかの経済に依存することが、その文化や伝統を認めるための条件になっています。そうしているうちに純粋なものや純度の高いもの、お金や経済とは無関係であったものが濁り澱み、本来の真理そのものではなくなってきました。

例えば、利益が出ないものは自立していませんから本物風でもいい、多少それっぽく説明して嘘のようにならなければいい、あるいは見た目だけでも同じであればいいとまで変化しています。こんなものは先人の遺してくださった伝統文化を真に伝承しようと志した人たちならすぐにわかりるはずです。食品であっても、時間と手間暇がかかるものはほとんどなくなりました。気が付けば、名前は同じでも工程を省き、添加物で胡麻化します。他にも挙げればきりがないほどで、もはやこの世の中で接するものは本物がどれかもわからない始末です。

現代の人間の進化というものは、果たして本当に進化と呼べるものなのか。核兵器をつくり、AIや金融をさらに経済の依存に活用して誤魔化すことばかりを繰り返していく。むしろ人類は大幅に退化しているのではないかと気づくはずです。

しかし地球や自然の中に住んでいるのですから私たちは何をもって真の自立をするということなのかということに、向き合うときが必ずやってきます。この経済の依存の仕組みを考案してから約300年くらい自然から離れ、お金に依存し、時間をかけて人間を分断していきました。今では材料になるネタが尽きて静かだった戦争が音を立てて激しい戦争へと様変わりをはじめています。

むかしは経済のことは経世済民といわれ、徳と財は一致して暮らしの中で恩が循環していた世の中はほとんど崩壊して久しくなり徳はもう見えません。経済によって物質化した社会の中では目に見えないものは排除されていきました。本来の人の間の自立は相互扶助であり互譲互助です。それが単なる経済の道具になってしまい、助け合いや道徳も経済がなくてはできなくなりました。経済が最も奪ったものの一つがこの人徳というものかもしれません。

私たちが真の自立を目指すためにはまず自分が何に依存しているのかに気づくことからのように思います。そしてその依存のバロメーターこそが、「暮らし」であると私は思います。この暮らしは単なる日常生活のことをいうのではなく、何と共生しているか、自然や徳とどう結び合っているのかという実践のことです。

経済にどっぷり依存した暮らしのスタイルのなかでの暮らしは、アラスカでも大都会のような高級なセレブな生活を持ち込めることになっていたり、ホテルに宿泊しても自分の好き勝手にライフスタイルを保てますよというものが今でいう暮らしになっていたりします。これなどは完全に経済に依存している偽の自立そのものとはいえないでしょうか。

自然と共生してきた自立は、軸足は常に自然と共にありますから経済がさらに潤沢に増していくだけで自然の破壊はさらに進んでいくだけです。田舎を再生しようと、地域創生などといっては経済を持ち込んできますがそんなことを繰り返していたら人間は経済によって全滅してしまうかもしれません。

私たちはそろそろ軌道修正して大きな災難が訪れる前に、子どもたちや未来世代のためにも少しずつでも変えていこうと努力や忍耐、苦労を厭わずに挑戦するときが来ているように思います。それは暮らしを変えていくという挑戦です。一人一人が、みんな小さな暮らしでも変えていけばそれが長い年月を経て、偉大な変化になっていきます。

愚かなことのように思えても、むかしからそうやって先祖や先人たちは徳に報い、恩を譲ってきてくださったように思います。まずは自分から真の自立を目指して暮らしフルネスの挑戦を続けていきたいと思います。

別の道

歩くことを深めている最中に、骨折をして歩けなくなってしまいました。一本歯下駄を履いて宿坊の石階段や湿った土をうまく歩けずそのまま倒れてしまい身体を支えていた脚の甲の骨がパキンという音と共に折れてしまいました。

骨折は40年ぶりで驚きましたが、それよりも遊行をはじめてあと90キロほど残っているところで歩けなくなるという状況に驚きました。同時に、今月は友人や同志たちの文化伝承の行事のお手伝いにいく予定だったのと一緒に歩くのをサポートしていただく方々に申し訳ない思いです。捻挫や簡単な骨のヒビくらいなら歩こうとしましたが、医師からは完全にストップされ安静にしています。

これも遊行の醍醐味と、遊行は引き続き深めながら歩くことの有難さ、そして日常を支えてくださっているあらゆるものへの感謝を感じていきたいと思っています。

そもそもこの一本歯下駄は天狗下駄とも呼ばれ山伏や僧侶などが山で修行を行う際に履いていたとされ、それは山の傾斜を上り下りする際に大変便利であったためだと考えられています。大地に対しで平行に保つのにはこの1本が歩きやすいのです。ただ、横移動など、難しく私の場合は高い段差と横移動と杖がうまく調わずに倒れてしまいました。治ってからまた履くのは少し不安になりますが、下駄の問題ではないので色々と丁寧に向き合ってみようと思っています。

人生は思い通りにならないことの連続です。道を歩めば、歩けなくなることもあれば走れなくなることもある。橋が濁流で流されることもあれば、見失い迷子になってしまうこともあります。それもまた道ということでしょう。

目的地がなくなるわけではなく、別の道があったり、今は休めと言われたり、あるいは新たな道が観えてきたりと道は無窮です。

歩くことは少しお休みし、治療を優先しては別の道を辿ります。どの道も諦めなければ面白い道に出会い目的地に近づきます。子孫や未来世代のためにも、体験を活かして学び続けていきたいと思います。

歩こうとすること

先日の遊行を通して歩くということを改めて考え直しています。現代は交通機関が発達し田舎でも車社会になってほとんど歩くことはありません。この歩くというのは、単に二本足で移動するということのほかに、自然に帰るということがあるように思います。呼吸をするように、本来は人間は歩く動物です。犬も猫も、あらゆる生き物はそれぞれに歩くことを已めません。歩くというのは、生きるということであり道を歩むということもあります。

例えば、私たちの身体は重力によって支えられています。無重力で歩けとなると今のように歩くことはできません。そう考えてみれば、私たちは歩くことで筋肉や骨、血液からあらゆる肉体の機能が活動し調うようにできています。

じっと動かずに寝ていたら人間は筋肉が固まってきます。寝返りも打たなければそのままでは問題がでてきます。つまりいつも体はこの地球の重力と連動して今の状態を保っているということになります。

よく変な姿勢を続けたり、座り続けたりするとのちに神経痛や骨格の病気になったりします。これも歩くことで調えていれば予防できるようにも思います。

つまりは私たちは静止しているよりも、歩くことの方が本来の中庸を保ち、自然の一部になりやすいということになるのではないかと思うのです。

また歩くことで呼吸も整い、歩くことで全身の筋肉をほぐしていきます。その調和の状態は当然、脳にも心にも大きな影響を与えるように思います。そしてその時、私たちは脳で考えるのではなく身体で考えるようになるのです。

身体で感じたことを頭で気づくときに、人は全身全霊で妙智にたどりつくものです。歩くというのは、歩こうとしないと歩けません。この歩こうというのは、考えようと思うことです。この考えようとするのは、真理や本質に辿り着こうとするものです。

歩くというのは、それだけ考えることと一体でありその中で感じ合うものかもしれません。引き続き、遊行を通してさらに一歩ずつ丹精を籠めて歩いていきたいと思います。

家に選ばれる生き方

現在、古民家というものはあまり価値がないものになっています。特に日本では、土地の方が価値があり家の方はほとんどは価値がないと売買されているところがほとんどです。産業革命以降、家もまた物質の一つとなってしまい本来の家の持つ意味や価値も変容していきました。

もともと、建物は単なる物ではありません。そこには場があり、いのちの宿り、私たちが生きているように家もまた一緒に生きています。私たちが家に帰れば安心するのは、生きている家に住んでいるからです。「ただいま」と「おかえり」とあいさつをします。この言葉は、武士の挨拶が語源だといわれます。

「よくご無事でお帰りなさりました」そしてまた、「いってきます」と「帰ってきます」を合わせ、”今から出かけます、そして帰ってきます”と再び帰って来ますという意味が込められた言霊だともいいます。

家は、出発点であり終点でもありいつもそこに自分が居るという只今の場所でもあります。それは単なる持ち物ではなく、自分の心身の置きどころでありいのちの根があるところともいえます。

私がお手入れし共に住む家は、どこも深い歴史を持っています。その先人たちや先祖、そして地域の中で大切に建っている場所を丁寧に調えて暮らしを紡いで伝承しています。

これは単に家を買い取ってリノベしてオシャレに改装して、それを転売しているのではありません。そこに流れている縦の文化、そして暮らしの伝承を継続して前よりも美しく磨いて未来世代へと紡ぐために行っています。

仲間が増えていくことは有難く、単なるモノ好きな人ではなく純粋な伝承者が集まっていくように家もまた人を選び、そして人もまた家に選ばれて磨かれていくのです。

資格というのは、今は誰かが基準を決めて評価されて有資格者になりますが本来は家がその人を選び、選ばれた人がそこで暮らしを磨いていくことで真に資格のあるものに変化していくものです。

私の言うお手入れとは、そういう日々の暮らしの中の伝承を通して徳を磨き、その家やその場所に相応しい人になっていくための修養の一つです。

故郷にはまだまだ先人の遺徳がのこっています。未来世代が少しでも豊かな心が伝わっていくように、伝道していきたいと思います。