自然の指導法

人生を素直に伸ばそうとするのには、訓練や特訓というものがあります。

訓練とは、辞書には「あることを教え、継続的に練習させ、体得させること。」とあります。これは心技体が合わさるまで毎日、日々に練習をし意識しなくても自然にできるようになることであろうと私は思います。

もう一つの特訓というのは、辞書では「特に厳しく訓練すること。」とあります。これは相手を強くするために厳しい訓練を行うということでしょう。

指導者というものは、相手に合わせるところと相手には合わさないところが必用だと思います。相手に合わせるというところは、相手の特性をみてこちらが学び柔軟に対応することを言い、相手に合わせないというのは相手に期待し、可能性を信じて情熱をもって厳しく接していくことであろうと思います。

甘えというものはどこからでも入ってくるものです。その甘えとは何かといえば、自分の力を見限ってしまうことのように思います。言い換えれば言い訳などもそうですが、自分ができるのはきっとこの辺までなのだと自分自身の常識に囚われてしまうということです。それを負け癖というようにも思います。

そうならないためには日々の努力を軸に据えた「猛練習の仕方」を覚えなければ、その練習は本質的な練習にはならないこともあるように思います。

自分のできる範囲で留まり、限界に挑まずにできそうなところを目標にしていても人間は強くはならないように思います。限界とは求めない気持ちから生まれてくるものですし、限界を超えるほどの努力をやろうとしないのは脳みそが常識に刷り込まれてきている証拠だと戒めなければならないように思うのです。

人間が強くなるというのは、もっとできると信じる事ですがそのためにはそこには共に指導する人がその人のことをどこまで信じて関わるのか、自分自身が可能性高めどこまで本気で接するのかといった愛があるように思います。

その人のことを信じるからこそ、本気で諦めない。その人を強くしてやろうと念じるからこそ徹底して繰り返させるということであろうとも思うのです。

諦めないというのは、負けたくないということであり、これを克己心というようにも思います。粘り強さには心の力が必要ですが、これは何度も何度も繰り返していく中で今度こそはと日々に挑む気持ちがあってこそ伸びていくように思います。

挑戦者というのは、必ず最期は勝利すると信じるものです。

何事も、挑戦するならば克とうとするならば本気で行うことが自然であろうと思います。不自然な動きを戒め、何事も自然であるかどうかを徹底して内省し、常に日々に訓練が本気であるかどうかを指導の理論の根幹にしていこうと思います。