体験の尊さ

私達すべての生きものは、人間を含め体験しないと分からないようにできています。

それは一度しかない自分の人生の中で、何を自分がしたいのか、何をしたがったのか、そういうものはすべて体験を積み重ねてみてはじめて自明していくものだからです。

この積み重ねていくというのは、言い換えれば時間を遡っていくもののように思います。つまりは体験を内省することで、その内省の意味を辿っていくかのようなものです。

過去から未来へも、未来から過去へも、今の積み重ねの中に存在するものです。これらの時間軸は自分で勝手につくりだしているもので、自然には今しかありません。そう考えれば体験の中にこそ私たちは生死を超越したところに棲んでいることを実感するということなのではないかと思います。

すべての生きものというものは、そのものの体験を通して学んでいきます。それは自然界では当然のことで、自然の循環に従って自分たちが体験したことを子々孫々へと引き継いでいくのです。今が積み重なっているだけという見方をしてみれば、その時代時代に内省をしてきた分の歴史が在るだけということです。

これを思う時、体験しないということがどのようなことかを考えてみるのです。

体験というものの尊さというものは、内省することによってはじめて得られるように思います。なぜなら、内省することが正しく体験をすることだからです。

毎回毎回の出来事はその瞬間瞬間に確かに意味が存在しています。それはマクロからミクロを観るように、ミクロからマクロが観えてくるように、一部と全体というものは首尾一貫してつながっているからです。その「つながっている体験」というものをどのように捉えているか、どのように味わっているかで人生全体というものが顕現しているように思います。

少しこんなことを書くと哲学のようになるのかもしれませんが、そうではなくそもそも体験こそが人生であるということを改めて実感するということだと思います。体験というものを大事にしていくには、体験しないことよりも体験していく尊さを実感する方を優先していなければなりません。そのためにも内省を続けて積み重ねていくことで、そのつながりを切れないようにと努力することが必用ではないかと思います。

長くなりましたが、体験も内省も今も、「つながり」の中で用いる言霊ということです。

だからこそつながりが観える人は、生死を超えた今を見つめます。しかしつながりが観えない人ではいつも未来や過去を憂慮するばかりで自分の今が分からなくなってしまいます。怒涛の如く過ぎ去る日々にも流されない平常心を持てるかどうかがより善く歩んだ道の姿なのでしょう。

ですから体験の尊さを忘れはいけません。なぜなら体験してみようと試みること、チャレンジすることが人生を切り開くことなのですから。

体験を勇気づけるゲーテの名文をいくつか紹介します。

「涙とともにパンを食べたことのある者でなければ、人生の本当の味はわからない。」
「つねによい目的を見失わずに努力を続ける限り、最後には必ず救われる。」
「 とにかく、とりかかれば心が燃え上がるし、続けていれば仕事は完成する。」
「 自分を信頼しはじめたその瞬間に、どう生きたらいいのかがわかる。」

体験することで得るものが真の智慧であり、そこに道を歩んだ軌跡が永遠に遺ります。最後にゲーテはこう問いかけます。

「君は本気で生きてるかい?」

取り組みを恐れずに取り組まないことを真に畏れ、前進していきたいと思います。