問題の元

昨日は、大阪のある園へ訪問し保育の書類についての話し合いを行いました。書類が煩雑になっていき、書くことの意味や目的というものが分からなくなってくるものです。どんな方法で書けばいいかを議論する場は沢山ありますが、なぜ書くのかということから考えなければならないように私は思います。

本来、問題というものは問題の元があります。それは、基本というものかもしれませんがどのような目的があるからどのような問題が発生しているのかをよく洞察しなければなりません。

問題の元とは、その問題が発生する原因のことです。方法論を議論しているときは、すでに脳が楽をしたいから逃げている状態とも言えます。人間というものは、楽をしたいから方法論にいくのであってそもそも楽をせずに意識を改革しようと思うのなら方法ではなく根本論になるのです。

人は何かを継続するときの意識の持続というものがあります。それをやっているうちに最初の意識から外れて基本の技術もつい忘れて入れなくなってしまうものです。

意識を一点に集中しなければ、最期まで遣り切り遣り遂げるということは難しいのです。一つには、意識しなくても基本の技術は欠かさないでいられる状態までになっているかどうか、もう一つは意識そのものの質がどうなっているかがあるように思います。

技術の方は、先ほども書いたように基本を忘れない程に習熟している、自然にできるまでに技術が上がっているということです。そこに意識の質を変えていくということがあります。この時の意識とは何かといえば、怠惰かどうかということです。意識が怠惰であれば、楽を選んでサボるばかりでどんなことをやろうとしても言い訳を先立てて方法論にばかり逃げるのです。

二宮尊徳に、「勤労」、分度、推譲、至誠があります。この勤労とは、勤労意識のことであろうと私は思うのです。

そしてその意識を付けるためには、書くということ、書くことで意識付けするという意識の勤労もいるのです。保育でいえば、如何に発達段階を意識付けするか、発達に照らして子どもから保育を学んでいくのか、それが基本となるのです。

スポーツの基本に、走り込みがあるように、それが当たり前のところになっていなければどんなスポーツもできないように応用から入ってはいけないのです。

常に基本を鍛錬しつつ、応用を行うということが真の技術になるからです。真の技術のためには、その技術を磨くための意識付けがいるように思います。それが実践とセットになって繰り返し磨かれていく中で、応用の技術もまた展開されているのです。

話を戻せば、根本に合わせて基礎を訓練することが何よりも先に意識付けられることで応用の時の基盤になるということです。

意識付けのための実践の一つとして、この書くということはとても効果があることのように思います。自分の意識改革ができれば、現実が変わってくるのだからまずは意識を変えるという根本を外さないことが基本の技術であろうと思います。

理念があるからこそ、何をやることがもっとも楽ではないかを確認していくことで減らせるものと減らせないものが自明してくるように思います。理念を優先するということは、楽な方を選ばないで挑戦を已めないということなのでしょう。

安易な方法論の議論にならないように、姿勢の方を常に省みていきたいと思います。