安心する環境

先日、自然農の畑で高菜の移植作業を行いました。今年は種蒔きから虫の問題、猪の問題、天候の問題など色々と大変でした。無事に育ってくれるかどうかを悩みましたが今ではその大変な困難を乗り越えて生き残った高菜はとても力強く生命力に溢れているように感じました。

うまくいかないのではないか、失敗したのではないか、育たたないのではないかと思うと焦る気持ちが生まれ心配ばかりが増えてきては、あれもこれもといった無理にでも育てようとすることを考えるものです。結果ばかりを心配するのは焦りが出て待てなくなっているということです。待てるというのは結果を度外視して信じるということですから、現象に左右されずに丸ごと信じて真心でやりきっていくのが善悪成否を抜けていけるように思います。

例えば高菜でいえば、手作業で一つ一つの草を除きつつ声掛けをして畑で高菜が安心して育つように場を整えていきます。また高菜に心を寄せて定期的に畑を見にいき、高菜が今、どうしているかを確認して見守ります。

大事なのは、高菜が安心できる環境に醸成されているかといったところをよく見直していきます。

農産物をつくる農家や百姓は、作物が育つ環境になっているからこそ作物が育ちます。今では人間都合で肥料や農薬、遺伝子組み換など環境よりもそのものを変えようとしますが、ますます自然から遠ざかっていきます。

信じるというのは自然と一緒にあるからこそその御蔭様を感じる生き方をすることでもあります。人間都合であまり結果ばかりみて変えようとばかりに躍起になっていると、ますます自然から遠ざかる方ばかりを選択してしまいます。

長い目で観て、私たちは自然の恩恵に上に成り立っているものですがその恩恵を感じて感謝のままに素直に謙虚でいることが安心する環境を醸成するように思います。

失敗するとか結果がどうかもありますが、信じる気持ちのままに深めて学び直していくことで結果を超えた御蔭様の姿が感じられたりもします。そう考えてみると信じることこそが尊いのであって、良いか悪いかはあまり関係がないのが自然だということです。

引き続き子どもたちを信じる自分を磨くためにも自然農を通して、自然の持つ絶妙な見守りを学びたいと思います。

 

  1. コメント

    結果主義と個人主義が相まって、多くの企業では、短期の結果に一喜一憂しています。しかし、結果を気にしながらでは、いい仕事はできません。落としどころに合わせて出す力を調整するのもおかしな話です。基本的には、やるべきことを淡々とやる、誠実にやる、懸命にやるしかありません。その姿勢がどう判定されるかは、天に任せ、その判定を素直に受け入れる。そういう心境でやるべきことに集中したいものです。

  2. コメント

    ここ数年収穫が続いていましたのでどこか採れて当然と思っていた節がありました。何度も蒔き直し諦めず信じ続けるのは容易いことではないことを感じています。種を遺すことは伝承を止めないこととイコールのように思います。自然農においても人との関係においても生き方がそこに現れるのだということを肝に銘じたいと思います。

  3. コメント

    保育でもゾーンやピーステーブル、セミバイキングなどありますが、そこの場が安心できる環境になっているかは、見守る先生たち次第でもあるのだと感じます。自分自身で言えば、モノは揃えても自分が見守る姿勢に信じること、ありがとうの気持ち、一緒にの気持ちが無ければ、主体は子どもにならない事を、いつも実感しています。日々学び、変わっていきたいと思います。

  4. コメント

    「育てるもの」なのか「育つもの」なのか、前提にある意識が大きな影響を持っていることを感じます。それは「やらせるもの」と「(自ら)やるもの」とも言うことができ、主従にも分かれ主体も入れ替わり相反するチカラが生れるようにも思えます。見守りを感じながら、前提が入れ替わらないための環境を大事にしたいと思います。

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