剣聖や医聖の生き方

塚原卜伝という人物がいます。のちに剣聖と呼ばれる人物です。戦国時代に戦わずして勝つという思想を持ち、その極意である一之太刀は「国に平和をもたらす剣」であるとされ尊敬されたといいます。

よく考えてみると、戦国時代はまさに戦いの世の中です。戦いを終わらせるために新たな戦いをしては戦国時代は終わりを見せません。仮初の平和というのは、強いものが出て仕方なく戦わないでいるだけで弱くなればまた争いの世の中です。人類史の歴史は、いつまでもこの戦いを続けています。戦いというのは、ある意味で人類にインプットされた必然なのかもしれません。

だからこそ、どう戦いを終わらせるのかというのが勝つということかなのかもしれません。この剣聖の塚原卜伝は、無手勝流といって戦わないための仕組みを考案しました。その一つは、戦わないということを極めることで未然に戦いを防ぐ意識であったり、あるいは敢えてそれを避けるために行動するということです。侍であれば非常に憶病にみえますが、実際の戦いでも一度も負けたことがありません。この負けるということの定義が、一般的な勝ち負けではないことはすぐにわかります。

そういえば以前、似た話で扁鵲のことを書いたことがありました。これは中国の同じく春秋戦国時代の伝説の医者のことです。この扁鵲はその時の皇帝から認められた真の名医ですが兄弟の中ではもっとも自分の医術が低いといいます。それは長兄は発病する前に未然に防ぐ人で、次兄は病気が軽いうちに少ない薬と施術で治す人で、扁鵲は病気なってから人を治す人だからだといいます。

発生する前に決着が着いているというのが、まさに戦わずして勝つということなのでしょう。

今の時代の有名人や評価されている人たちは、果たしてどれが一番でしょうか。私は塚原卜伝や扁鵲の長兄のような人物こそがこの世を平和に導く真の聖者ではないかと感じます。もちろん、それぞれに役割がありますがだからこそそういう市井の隠者のような人物を探し求める必要があるのではないかと思います。

世の中の変革は、決して目立つような派手なところ、権力があり膨大な財力や名声があるところで発生しているのではありません。塚原卜伝や扁鵲の長兄のような人物が裏で支えているのでしょう。私もそうありたいと思います。

子孫のためにも、人類の未来のためにも徳を磨いて徳の循環する世の中に貢献していきたいと思います。