社会的責任と本質

企業の社会的責任としてCSRを取り入れている企業は増えている。

環境に対して配慮していくことは、持続可能な社会を維持するためにも必要なことであり企業は社会のために存在するのだから当然、競争ばかりで自分ばかりを優先するのではなく周囲を豊かにしていくために循環するように務めることは必須課題でもある。

現在、何かをはじめようとするとそれはすぐに法令のようにしようとするけれど本来、商売は物々交換からはじまりそれから人の顔という信頼を通じてお金という信用取引があったものが、今のような顔も見えないビジネスに変化してきたことも起因する。

ここでの顔の見えないビジネスというのは、グローバリゼーションという世界戦略の中で流通するエゴやサービスに傾倒しすぎているようなものであると私は思う。

今でも田舎にいけば、昔からの生活を維持しているお年寄りもいる。

それは農業、漁業であったり、自分たちだけでも食べていければいいというものであり「生きていくこと」に意識を置いて繰り返しやっていけることを大切にしている。

しかし今では、農業も大規模である必要があり、漁業も大漁に得なければお金にならないから生きてはいけないという風に、生活するためにはもっと稼がなければという原理が働きさらに競争からスピードが増したことで様々な異文化や価値観が折衝し勝ち組負け組など市場はさらに競争を深めていく。

国民の営利のためなら何をしてもいいと植民地的な発想で金融全体を走らせるような考え方が、弱い立場の人権を侵害したり環境持続不可能な社会へと悪循環を巻き起こしているようにも見える。

企業自体がそういうことをやめなければということで企業に倫理観をということでもCSRを用いたのだろうけれど、実際は自己満足のものが多く見られ正しくなっていく例は少ないようにも思う。

以前から私は両立するには本質であること、つまり「本物」を行うことの大切さをずっと考え抜いてきた。

それは善いことを行うことで善く稼ぐということであり、それは三方にも善い仕事が皆に善いお金を循環するということであり、これを言い換えれば経済と道徳の一致、つまりは本質本業こそが正しい仕事であると言い切れるような善い循環を生むビジネスを行うことであると確信してやっている。

環境と言えば、巷では自分たちの一部だけで偏ったものを本物のエコやロハスやスローだといい、もしくは何かよほどの大きな寄付をして社会奉仕したなどと広い範囲でやったから貢献しているなどというけれどそれがCSRの本質だとは私は思えない。

企業の社会的責任とは、人間の道として社会が永続し善い循環を続けていくためにそれぞれが自らの本業の質を高め道徳に根ざしつつ日々を正していくことであると私は思う。

教育や福祉もしかり、金融や流通などもしかり、どんな職業であれ差別せずに自分の中で思いやりを循環させるような働きかけを続けることで、社会的責任を果たし、全ての生命が共存共栄する地球の資源を皆で大切に平和利用していくことになっていくものだ。

サスティナブルであるとは、循環していく社会のままであること。

その循環とは自然界と同じく、皆で偉大な恩恵を謙虚に分度を弁え感謝で享受していける社会のことであると私は思う。

これからの時代は、きっと社会に必要とされなければ生き残ることはできない。昔から普遍的に守られてきた価値観こそが最先端の価値観になっていく時代に入ったと思っている。

見た目や目先の損得ではなく、循環できるような会社であることを理念に掲げ、不動の覚悟で取り組めるかどうかによるもののように思う。それは別に古臭くなればいい、何か聖人君子になればいいというのではなく、本質を究めていくことであると思う。

これからが本格的な刷り込みの取れる社会がやってくる、付け焼刃のものではなく企業が社会的責任を果たせるかどうか、すべてがひっくり返るような経済社会の先をいけるように精進していきたいと思います。

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