子どもが鏡

ドイツ研修も5日目を迎えた。

森の幼稚園からはじまり、ミュンヘンで2番目に規模の大きな幼稚園を視察した。

学校の理念が保育に顕われ、それが子どもたちに顕われてくるものでどの施設を視察しても目には見え難いところでそれぞれの園の環境を感じることができる。

小さな社会が空間に存在し、その社会をどのように見守るのか。

いつの時代も、子どもを見ながら私たち大人が如何に今を真摯に生き切るかというのは鏡のように反射して映し出すものであろうとも思う。

鏡と鏡に映る間にこそ、そこに浮き上がってくる本当の姿というものがある。

それを如何に洞察しバランスのとれた自然の姿かを観照するか。

人は生き方そのものでしか、人を感化できず、まずは子どもにとって恥ずかしくないような自分らしい命を尽くしていくことが根本に据えておく必要があるのではないかと改めて感じる。

どのような自然の状態の時、子ども達の本性が発揮されるか。
そこにどれだけ自分の心の鏡に「信」の空間が存在しているかによる。

子ども達同士の関係性もその空間に信が入っていれば見守るとなり、そうでなければ放任となる。一見、何もしていないように見えたとしてもそこに信が入っているかどうかはすぐに分かるもの。

子どもが情緒が安定するのも、信じてくれていると本人たちが感じているからである。

それを自らで信じていないはずだと思っていては情緒が安定するはずはない。

如何に信じてくれるものに対して見守っているというサインを送るか、そのサインは「信」の行動や環境によって合わせていくのである。親子の道ではないけれど、親が子を見守るように丸ごとでなければそれはできないのである。

そして子としての自分を見守ることができる人が、自他を見守ることができる。それはまるで鏡のように自分の生き方や生きざまが、保育に顕われているのである。

その道をどのように歩むのか、保育者のその歩み方に勇気づけられ、保育者のその生きざまに憧れ、保育者のその歩む後ろ姿に大人としての畏敬の念、自然そのものを感じられるのであろうとも思う。

今回の研修で得た視察もまた、どのような生き方であるかであったように思う。

まだまだ分からないことばかり、これから年を経て師ののようにたくさんの体験をし、その歩み方で信を感じている妙味の境地もいつの日か味わえるのではないかとワクワクしながら子どものように無邪気に自分らしい命を輝かせていこうと思います。

子どもこそが自分の映し鏡である。

私たちの目の前にいる子ども達も、そしてこの自分の心の子どもも周囲の人々も自分を含む空間の中の今というものを映しているのです。

有難い旅に出逢い、自分と向き合い、そして学び直しの日々はまさに今も充実しています。

  1. コメント

    以前一面鏡張りの部屋に入ったことがあります。そこでは本物の自分がどこにいるのか分からなくなり、錯覚に陥ります。子どもたちのためという声をよく聴きますが、本当に子どものためになっているのかを考えると、疑問を感じさせられることもあります。姿かたちが同じであっても、本物を掴む難しさ、洞察力が試されることを感じます。大人が作り出す理想の子ども像ではなく、目の前にいる子どもたちを自分の目で確かめることが大切だと思います。
    自分の言動は普段自分の目では見えないからこそ、人の行動から自分を正していこうと思います。

  2. コメント

    自分の性根を鏡に映すことが出来れば、自覚することは容易なのかもしれませんが、いわゆる鏡には姿かたちしか映らないことだと思います。では、自分自身の心を映し出す鏡はどこにあるのかといったときにそれは、二つあるのだと教えた頂いたように思います。一つは、子どもや、友人、同僚、など生きて行く中で関わっている方々といった自身が積み上げてきたご縁にあるようにも思います。また、もう一つは、心の鏡であるように思います。自分を正直に見つめ、受け止めるその心の強さと自分を信じぬく力が、心に鏡を持たせるのだと思います。
    両面から、自分自身を良く見て、自身と対話していきたいと思います。

  3. コメント

    見守るというのは言葉や行動からではなく「信」という自分の心からがはじまりだという事を感じます。また、これは保育園や幼稚園だけに必要な事ではなくやはり人と人が関わり生きていく中で必要なものだと思います。又子どもたちに対して見守るという事を教える事はやはり出来ないのだという事を感じました。先ずは自分自身が心から周りや子どもたちに信を持つ事、それを子どもたちが自然に感じ次の世代に引き継がれるものだと思います。

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