自然の和

自然農の畑に出ると猪があちらこちらと土を掘り返していました。柵を設けていたのですが、植物が巻き込み柵を押し倒してそこから侵入したようです。猪とも5年の付き合いですから、大事な場所だけは掘り起こさず手入れをしていない場所を中心に掘り起こしていました。

不思議ですが自然農の畑にあるものたちに敵意は一切感じず、最初に周りの農家さんから聞いていた鳥害も虫害も獣害も多い場所だと言われていたはずがほとんどその害を感じず、むしろ食べるものは足りているだろうか、こちらが遣り過ぎてはないだろうかと心配するばかりで一緒に暮らしている仲間という感じがしています。

生きているのは私たち人間だけではなく、すべての生き物たちは食べ物を食べなければ生きてはいけません。人間は自分たちのことばかりを心配しますが、山に食べ物がなくなってきて下山してきている動物たちの状況を少し慮る気持ちをもってあげたいと感じます。

山の食べ物がなくなってきたのは、動物たちの生息地域が人間により減らされているからです。それに酸性雨が降ることで、土壌が悪化し森の状態も貧しくなってきています。酸性雨が降れば、化学反応を起こし土中のアルミニウムが溶け出します。すると根が弱り樹勢も衰えるという悪循環です。

動物たちが山奥の自分たちの生息領域を超えて出てくるのはそれなりに理由があるからであり、その意味から自分たちの不自然な暮らしを見つめ直す機会にしていけばいいのでしょうが世界的に森林は伐採されこのままでは地球のほとんどが人間だけで埋め尽くされていくのでしょう。

地上には人間以外の生き物たちが棲んでいますから、本来の豊かな生活を取り戻していくことができればきっとそういう生き物たちと穏やかに暮らせる時代がまたくると思います。

そして今は人間が最強のようになっていますが、植物たちはとてもすごいチカラを持っています。今回の柵も植物たちが覆いかぶさり重さで押し倒しました。少しずつのチカラ、広がるチカラ、伸びるチカラ、繁るチカラ、引き出すチカラ、呼び起こすチカラ、縮むチカラ、他にもありますがそのチカラは膨大で無限です。

この生命力溢れる植物たちに私たちは敵うことはありません。

結局は、抑え込んで我が物顔で好き勝手なことをしたとしても永くは続かず必ず共生して折り合いをつける日が訪れます。そうなることを分かっているのなら、生き方と働き方を考え自然に沿った暮らしをしつつ、人間社會も豊かにしていく道を探っていった方がいいように思います。

聖徳太子が目指した政治のように、「和をもって貴しとなす」という穏かに一緒に暮らしていく世の中は普遍的な自然の摂理を語っているように思います。

自然に近づけば近づくほどに、自然の持つ共生の醍醐味を感じます。

今回のことからも、学び直し、尊敬の心を大切に「自然の和」を実践していきたいと思います。

  1. コメント

    「すべての言動には理由がある」と言われますが、これは、人間だけではなく、動植物においても言えるでしょう。しかし、その「事情を察する余裕」が、人間側にだんだんなくなってきています。人は、「余裕がない」と優しくなれません。「ギリギリ」というのは、危機と隣り合わせで、決していいバランスとはいえません。バランスを保つためには、相手の事情を慮ることができるだけの余裕が必要です。それが、柔軟性として和の支えになるのではないでしょうか。

  2. コメント

    共生をしていくには繋がりが観えている必要があるように思います。猪といえば干支を思い出してしまうぐらいで、日頃それが自分にどう繋がっているのかは意識していなければ観えてきません。逆を言えば観えていないからこそ和を乱しても平気ということなのかもしれません。広く永い目で繋がりを感じていきたいと思います。

  3. コメント

    不自然な暮らしが様々なものに影響を与えている、そのことを自覚しなければならないと感じています。知らず知らずのうちに自分もしていることがあるかもしれませんが、そのことで他のものにとって迷惑を掛けているそのことは頭に入れておかなければと感じます。人間関係だけでなく他のことにおいても、相手だったらを考え行動を見直していきたいと思います。

  4. コメント

    自分ではなく、周りを心配する生き方は自分も周りも同じ、箸やコップも同じという見方が大切なのだと今日のブログから学びました。どんなものも根っこは繋がっているからこそ、自分の生き方も根っこのままでありたいと思います。

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