お掃除の仕合せ

昨日は、禅僧の友人と一緒に宿坊でお掃除をしました。お掃除に取り組む姿勢にはいつも感銘を受けます。お掃除には生き方が出てきます。そしてその人柄も出てきます。

私は暮らしフルネスの実践をするなかでいつも掃除ばかりしています。なので人から見れば、一緒にいると掃除ばかりしている人になっています。しかし実際に私は10年くらい前までは掃除はほとんどしないタイプでした。それが気が付くと、掃除ばかりの人生になっています。

掃除をするとき、一緒に掃除をすることも増えてきます。すると、お互いに掃除をしながら生き方を学び、人柄を感じます。丁寧に拭き掃除をし、人がしないところまで片づけたり、見逃さずにその時に拭き清める。そんなことをしているうちに、心がととのい場も清められます。

場というものは、その人の生き方が凝縮したものです。その場にその思想、生き方、熱量ありとあらゆるものが宿ります。だからこそ、その場のお手入れが必要でそのお手入れをもっとも効果的に行っているのがお掃除というものです。

心が荒んでくると場が乱れます。そういう場をみていると埃だらけであったり、雑然として散らかっていたりします。きちんと片づけて掃除をしていれば、何が乱れているのかがわかります。しかし乱れていることが分からないくらいになっているからそれが場に現れてきます。

自分自身がお掃除をすることは、自分自身が気づかなくなっている初心や本心、志を確認する大切な時間にもなります。そして自分自身を場に投影し、自分を磨いていく大切な時間にもなります。

日々のお手入れ、日々のお掃除は、生き方のお手入れ、人格を磨いていくことなのはやってみるとすぐに気づきます。

遠方より朋がきて、一緒にお掃除ができる仕合せに感謝しています。

ありがとうございます。

本来の子孫

私の志は子どものためです。この子どもは、子孫とも言いかえれます。自分がここまで生きてこれたご恩に対して報いたい、そういう感謝の気持ちがあります。同時にこうしてくださった親祖から先人たちへの尊敬と感謝もあります。続いていくもの、繋がっているもの、結ばれているものに永遠の徳を感じるからです。そういうことから、私は初志や理念を子ども第一義と掲げてきました。

しかし周囲は何のために今、これをやっているのかというのはそんなに見えません。やっている行為や具体的な事象のことから、きっとこうだろうやああだろうと決めつけられそういう人になっています。そのうち、勝手に期待されたり噂されたりするものです。そのほとんどは当たっていないのだから気にはしないのですが、人間は周囲や身近な人が影響を受けると悲しくもなるものです。

江戸時代の儒学者に佐藤一斎がいます。この方の言志四録は、西郷隆盛、吉田松陰なども座右のように学んだとあります。その言葉には、志を貫くために必要な知恵がちりばめられています。私も海外に留学するとき、または仕事をはじめてすぐのころは何度も読み返していました。しかし、壮年になった今でもその知恵は燦然としています。

志は、自分自身が見失いそうになるものです。それだけ目の前のものや周囲の言葉、心の安逸に流されていくからです。志を立てているからこそ悩み悶えます。しかしその時こそ志は成長し、磨かれ、研ぎ澄まされていきます。まるで人生の砥石のように志が自分を研いでくれます。

子孫のためにと取り組むとき、大切な知恵が言志四録の89条にあります。

「当今の毀誉は懼るるに足らず。後世の毀誉は懼る可し。一身の得喪は慮るに足らず。子孫の得喪は慮る可し。」

これは自分自身に対する世の中の評価などは恐るに足りないが、後世までもその世の中の評価が遺ることは恐ろしいことだと考えなければなりません。自分自身における利害得失などは心配しなくてもいい、しかし子孫の代までの利害得失はよく考えなければなりませんと。

子孫のためにと決めているのなら、今の時代の自分のことなどはたいしたことではありません。だからこそ今の世の中の評価や嘲笑など気にはせず、至誠を貫きなさいということです。

私が尊敬する吉田松陰も、そして二宮尊徳も同じように先の時代を見据えて、その時代を生き切りました。私も心に同志がいますから、同じように生きたいと願っています。競争や比較、そして評価にさらされてきた子ども心はそれだけ世の中を気にする人を増やしてきました。

そうではない世の中にしようと社業を立ち上げ、今では徳を立てようとしています。それは社会がよくならなければ、子孫を守ることができないからです。自分の子孫ではなく、世の中の子孫が本来の子孫です。

世界の子どもたちは今、どうなっているのでしょうか。

子どもの純粋無垢な心はどれだけ尊重される世の中になっているでしょうか。子孫たちの繁栄を願う時、私たちは両親の慈愛の真心に触れるものです。

古の同志の言葉に救われながら、この道をまた一歩踏み出していきたいと思います。

思い邪なし

実力という言葉があります。これは必要な時に発揮される力のことです。日々に最善を盡していく中でその人がその目的を達成するために必要な力が具わっていきます。つまり必要に迫られるとき、その力は具わるということです。

では何が必要で何が不必要なのか、人は不必要なものを持てば持つほどに実力が不足していきます。自分の実力がわからなくなるからです。本当に実力があれば運が巡ってきます。そう考えると、運も実力のうちという言葉はその人が努力して得たことが運につながったということです。

では、何を努力してきたかということになります。王陽明の言葉が参考になります。そこにはこうあります。

「修行は一進一退するのが当然である。他人の非難や嘲笑、または栄誉に関わりなく私欲を取り除き、本来持っている善心に沿って生きる修行を怠らなければ、必ず実力を得るようになる。」
「日常生活や仕事においても、私欲が大きくなっていないか絶えず確認しなければならない。仕事や日常生活においても私欲に克ち本来持っている善心を発揮しなければならない。」
「仕事が上手くいかないことを心配するのは名誉欲や損得の欲にひきつけられて、本来持っている善心を発揮できないからである。大事なのは結果を求めるのではなく、欲に克ち本来持っている善心を発揮することだけだ。」
つまり知良致こそ、実力の本体です。そしてこうもいいます。
「努力することを手がけたばかりで、どうして腹のなかまで光りかがやくようにできようか。たとえば、ほとばしっている濁流を瓶の中に貯えたばかりのときは、はじめは流れがとまっても、やはり混濁した水である。流れをとめて澄ますことしばらくすると、自然と不純物はすっかりなくなって、もとのきれいな水になるようなものである。きみはひとえに良知に立脚して努力しなさい。良知が発現されること久しければ、まっくろなものも自然と光りかがやくようになる。いま速効を求めようとするのは、むしろなくもがなの作為であって、努力したことにはならないよ。」
速攻を求めるのは不自然であり、長い時間をかけて純粋さを発揮していくこと。つまり清め澄ませていくこと。最後にこうもいいます。
「古今の聖賢のあらゆる議論の端々に至るまで全て、思いに邪なし、の一言で要約できる。これ以上、何を言うことがあろう。これこそ、一を知って百に通じる功夫なのだ。」
この「思い邪なし」jこそが、日々の鍛錬であり修養の本懐です。私も学んでも学んでも至りません。しかしそれこそが修行であると念じて、今日も一日、真摯に精進していきたいと思います。

ハタラキ続ける存在

私には尊敬している人がいます。その人はすでにこの世にはおられませんが存在はいつまでも生きておられます。人は生死だけではない、存在というものを持っています。これはいのちという言い方もします。別の言い方ではハタラキと呼んでもいいかもしれません。

生前、死後の別なく、ハタラキ続けておられる存在。ハタラキが観えている人たちはそのハタラキそのものの存在に感謝をします。これは自然界も同じです。自然の生き物たちはいのちがあります。そのいのちのハタラキをしてくださっているから感謝しあうことができます。この世界、宇宙にはハタラキをしていないものなどは存在せず、常にハタラキ合うことで調和しています。

存在がハタラクからこそ、その感謝を忘れないというのは先祖が喜ぶ生き方です。なぜなら先祖もまた終わったものではなく、今でもハタラキ続けてくださっているからです。

私たちの物質的な見方では不思議に感じますが、無から突然有がでてきます。何もないところから出てくるからそんなはずはないと思うものです。それは意識が同様です。なぜこの意識が産まれてくるのか。そのはじまりは何か、誰がつくったのか、深めてみるとそこには偉大な存在があることに気づきます。

この時代、というよりも人類は目覚めというものを必要とします。常に気づいて目覚めることで今の場所をよりよい場所へ移動していくことができます。今居る場所はどのようなところか、この環境のなかで自分はどのようなことをしているのか。人間は環境の影響を受けて抗えないからこそ、様々な問題は環境に現れていきます。

私たちがもっとも平和で謙虚だった環境はどのようなものか。こういう時代だからこそ原点回帰する必要もあります。自分が産み出す環境がどのような環境であるのか。それぞれに環境を構成する一人として、みんながそれぞれに気づき目覚めていくしかありません。

自然に包まれているのを感じる感性、童心という好奇心、呼吸するたびに感じる感謝の心など、もともと在る存在に気づいてこそハタラキのなかで仕合せを味わうことができます。

尊敬している方がいつまでもハタラキを与えてくださっている感謝を忘れずに、私も子どもたち子孫のためにハタラキのままで今を磨いていきたいと思います。

掃除の功徳

昨日は、英彦山の守静坊の庭池の掃除を仲間たちと一緒に行いました。いつも思うのですが、みんなで一生懸命に協力して取り組んでいると知恵もでて作業もはかどります。

作業のあと、みんなで食べるご飯が美味しくいつも清々しい気持ちになります。今回は、畑で収穫したさつまいもを私が炭焼き芋にしてエバレットさんはお手製のお味噌汁を振る舞ってくれました。

秋晴れで紅葉づいた青い空の下でみんなで囲み団欒をする喜びは格別でした。

釈迦に掃除の功徳というものがあるといいます。

1. 自身清浄(自分の心が清められる)
2. 他心清浄(他人の心まで清めることが出来る)
3. 諸天歓喜す(周囲の環境が活き活きしてくる)
4. 端正の業を植ゆ(周囲の人の心も物事も整ってくる)
5. 命終の後、まさに天上に生ずべけん(死後、必ず天上に生を受ける)

というものです。まさにこれは徳の循環であり、功徳の本質が記されます。

どのようなものを磨いているのか、何のためにやっているのか、そしてこれがどんな意味があるのか、それは磨いている人が気づくものです。自らの人生の一つの道を歩む心得としての魂を磨いていくという実践。

いつの時代も同じように生きた人たちがまさにここに挑み、人格を高め、世の中の大切な役割を担ってきました。誰もがやることではなく、誰もやらないこと、誰も気づかないからこそ人知れず磨くのです。

仕合せというものは、足元の宝に気づくかどうかです。その宝は、足元を磨くかどうかともいえます。掃除の有難さは、足元に気づく機会を与えてくれることです。遠くばかりをみて、周囲ばかりをみて、自分のことばかりを気にしていたら足元の宝に気づけません。

池の掃除をしながら、長い時間をかけてきたあらゆる歴史が綺麗に流されていくのを感じました。またもう使えなくなって役目を終えた道具たちが燃えていくのを見て、そこに一つの歴史が終焉し新たなものが誕生したことも憶えました。

掃除はあらゆることを甦生するための大切な実践徳目です。

これからも暮らしフルネスやお手入れを通して、子孫へ徳を顕現させていきたいと思います。

結びの甦生

人はあらゆるつながりの中で生きているものです。そのつながりは網目のように広がり、それが結ばれています。蜘蛛の巣のように空中に網をはり、その中を揺らいでいるかのようです。

このつながりや結びつきというのは、点ではありません。つねに結ばれているからそれは全体を感じるときに結びつきを深めていくことができます。

現代は、分断の世の中で専門的に分化して理解していく手法が学問の中心になっています。何かを分けて考えているうちに網であることを忘れていくのです。循環もまた、途切れ途切れになっていて結ばれているようで分かれています。

その分かれているものを無理やり結ぼうとしても、分かれたあとは結び直すと歪になります。結び直すには、まず丁寧に解く必要があります。その解くというのは、なぜ絡まったのかということを一つ一つ見つめていくことです。

これは歴史を甦生することに似ています。本来、あったものが絡まっていくことを遡りそれを取り払い、綺麗に手直しし、元の状態に戻します。これは分断される前、つまりは分断されていなかったことに気づくプロセスのことです。

私たちは分化し分断したといくら思っていても、本当は分化して分断されていないことに気づきます。それは私たちの命も同じです。先祖代々、親祖にはじまり今まで途切れたことがなったからこそ今の私は生きています。

これは分断されず分化されていないことの証明でもあります。

本来、世界というものは元を辿れば一つです。人類も遺伝子が解明したように元々は同じ先祖を持ち、今も同じ命として結ばれています。肌の色も移動する中で変化しただけで、言葉も違いも文化の違いも風土に合わせて染まっただけです。元は同じ、一緒の存在で結ばれています。

戦争というのは一体何かと最近はよく考えます。

子どもたちの100年後、1000年後の未来に何を遺していけるのか。

本来の結びつきを甦生することではないかと、使命を感じています。引き続き、暮らしフルネスの実践とつながりを甦生して未来を易えていきたいと思います。

暮らしフルネスの理解

昨日は、ある自治体の職員さんたちが聴福庵に視察に来られました。あまり対外的には視察は受け容れていないのですが、かねてから深いご縁のある地域の方々でもあり共に学び合う気持ちで情報交換をする機会がありました。

私はよくそもそも論の話ばかりをします。そして目標よりも目的の話をします。また対処療法よりも根源的な解決方法について話します。時間軸も長く、短期的な評価は後回しに行動し実践している事例ばかりを話します。こういうことを並べていたら、世間一般的に流行っているまちづくりの話とは異なり聞いている方も固定概念との折り合いがつかず大変そうです。

しかし実際には、歴史を学べばその意味がわかります。

いくらその時々で最高のものであってもすぐに人が代わり時代が代わり価値観が変わればあっという間に最悪の結果になったりもします。その時々の最高の方法や答えだと思えるものほど信用のないものはありません。だからこそ私は先人の知恵や、伝承された文化の知恵を重宝してそれを現実の取り組みに取り入れているのです。

ただしこれはどれも評価しにくいものです。中庸のようなものであり、中心を捉えることができなければ理解していくことも難しいものです。世の中はほとんど二元論で考えられます。それは言葉という道具が便利な構造をしている分、分断したもので知識を理解するという仕組みになっているからです。

本来は分かれていないものも分けて考えているうちに専門的になって知識は偏りますが、実践していなければ中庸も中心も捉えることはできません。それが知恵だからです。

私はどうも知恵を話しているようで、そもそも知恵だから話でわかるというのは限りなく不可能です。なので共に実践して体験しながら学んでいく、共に知恵を使い共有していくという方法が必要です。

それがあまり視察を受けても意味がないことがわかり受け付けなくなっている理由にもなっています。一緒に実践したり学び合ったりするには場が必要です。その場をどのように創造するかは、共に志を持ち取り組む仲間になっていくということでもあります。これは自分に見返りを求めず徳を積み、子孫のために何をするか決めていくことに似ています。

まだまだはじまったばかりですが、同志が増えていくのを感じます。真摯に日々の暮らしフルネスの実践を丁寧に取り組んでいきたいと思います。

危機に備える

過去の飢饉のことを調べているとそのほとんどが人災であることに気づきます。もちろん、気候変動で寒冷化することはあっても死者の出ない場所もあれば、大勢の死者が出た場所があります。それを調べているとそのほとんどが人災が原因なのです。

例えば、古語に備えあれば憂いなしという言葉があります。飢饉や災害は必ずあるものとして、真摯に備えていれば災害がきても協力して乗り越えることができます。その災害のあることなどを完全に無視して、政治的に備えをすべて放出するようなことをすればそのあとに真の災害に見舞われます。食料危機はまさにそういう時に発生します。

現在、ウクライナとロシアの戦争で世界食糧危機になることも予想されています。世界の穀物を生産している両国が戦争することで食料が世界に流通しなくなっていきます。アフリカをはじめ、輸入に頼っている国が食糧不足で苦しみます。お金ばかりを追いかけて農業を儲かるものだけに特化したことで本来自給に必要な主食の材料が失われていることも危機を加速しています。

もろもとウクライナでは、ホロドモールとう飢餓がありました。これは1932年から1933年にかけてウクライナで起きた人為的な大飢饉です。この時、国民の5人に1人が飢饉で亡くなったといいます。5人といえば、家族に1人は飢餓で失ったという具合です。これはロシアのスターリンの政策によっての人災でした。すべての農作物や食料すらも徴収された人々は、鳥や家畜、ペット、道端の雑草を食べたといいます。そしてついには病死した馬や人の死体を掘り起こして食べ、子どもやお年寄りも食べ、そのことからチフスなどの疫病が蔓延してさらに亡くなりました。常に町の中は死臭が漂っているようだったといいます。

今の日本では想像もできないことですが、天明の飢饉でも同じことが田沼意次の政策によって発生しています。一人の政治家の間違った正義によって多くの人たちが死んでいく。これは時代が変わっても何も変わりません。

だからこそ、政治家をはじめ、統治する人たちは常に油断なく謙虚に将来の災害に備えて目先の損得ばかりを追いかけずに丁寧に備蓄を増やし、危機への対策をしっかり講じておく必要があるのです。

現場を無視し、現実を直視せず、誰かの理想論だけを信じ込まされていつも犠牲になるのは弱い立場の人たちです。よく耳を傾け、何が起きているのか、どうしてそうなるのか、そこに必ずヒントがあります。

先人の危機管理や危機対策に倣い、本来の政治を甦生する必要があります。本来、政治は、危機から救うためにあるものです。まずは自分自身が感覚がマヒしないように、常日ごろから危機に備えた行動を実践していきたいと思います。

拝む実践

先日、ある方から「拝む」ことについてのお話をお伺いすることがありました。人がなぜ拝むのかという問いのことです。その方は、拝むのは拝まれているからこそ拝むのだということです。

挨拶なども近いものがありますが、相手が挨拶をするから挨拶をします。相手が挨拶をしていないと思っていても、こちらが挨拶をしていると思えば挨拶をするものです。これはすべて相手が先に自分に対して挨拶をしてくださっていると思うと挨拶を先にするのは特段おかしなことではありません。

拝むというのは、その方が仰るにはご先祖様をはじめ、多くの方々があなたのために拝んでくださっているということ。その思いに対してもったいないと思うからこそ拝むのだといいます。

そこから、少し振り返ってみて一体誰が自分を拝んでいるのだろうかと思い出すとまず祖母のことが浮かんできます。祖母はいつも家族のこと、孫のことを神仏に拝んでいました。毎朝、毎晩、事あるごとに拝んでいたように思います。そして今度は、母です。母も気が付くと、祖母の後をついでいつも神仏に拝んでいます。きっと同じように家族のこと、孫のことを拝んでいます。

よく考えてみたら、ずっと誰かに拝まれてきた記憶があります。それがご先祖様であったり、家族であったり、友人、仲間たち、そしてご縁の結ばれている方々などが瞼の裏に映ります。そして、もう一つ、頭では考えられませんがずっと以前に先祖たちが結ばれた人たちがお互いに助け合い救い合い、恩返しや恩送りをしながら拝んでいる姿が想像できます。いつかこの御恩をお返ししますと誓い合った絆や徳、感謝の循環が今の私にも降り注いでいます。

そういう人たちが天国や別の次元からいつまでも拝んでくださっていると感じるのです。偉大な経糸と、現在に直観する横糸、それが網の目のように網羅されて今の私がその一つとして存在しています。それは拝むことに由って結び目が光り、拝み合う力によって繋がっていることに気づくのです。

手を合わせて拝むことは、拝んでくださっている方々へ向けての大切な感謝のご挨拶なのかもしれません。

大事なことを忘れないよう、当たり前ではない有難いことに気づけるよう、いつも真心で拝む実践を続けていきたいと思います。

ご縁を活かす

人の出会いや繋がりには必然性があるものです。これはよく考えてみると、連続しているからにほかなりません。一つの出会いは途切れているのではなく、ずっと今もつながっています。それが節目節目に何かの形でご縁を実感できているということだけです。

つまりご縁というのはすべてご縁というものであることがわかります。天網恢恢疎にして漏らさずという言葉があります。この世は網の目のようになっていて、その網の目の中で私たちは結ばれて生きています。

これが一人一人の自意識が自我によって自分というものを分けて世界を認識していますが、実際には偉大な意識の中で常にご縁と共に存在しているということになります。

この存在という意味を深めてみると、すべてのこの世に目に見えるものは勿論のこと、目に見えないものにいたるものもご縁のむすびのなかにあります。誰かが作ったもの、もともとそこにあったもの、存在というのはまるごとあります。

その意味を深めて、そのご縁をどのように結びなおすのかというところにご縁を活かす妙味があるように私は思えるのです。

ご縁を活かすというのは、悠久の関わりや結びつきを時代時代にどのようにほどいて結びなおすかということです。それは着物の糸をほどいてもう一度反物をつくり別の着物にするように、私でいえば古民家や古材をどのようにいのちをつなぎあわせて甦生していくかに似ています。

別のものを組み合わせているのではなく、ご縁を活かすということです。

先祖のつながりなども、前世のつながりなども目には観えません。しかし、ご縁をよく味わっているとこれはきっと先祖から今までそしてこれからのためのご縁であることに気付きます。

全て繋がっていると思って生きている人は、どのようなご縁であってもこの先にどのように変化していくのかが直感します。どういうご縁であっても、自分自身がご縁を大切に生きていくことが大切であり一期一会であることに集中することがそのご縁を生きる実践になります。

子どもたちにも素晴らしいご縁が結ばれていくように一期一会の日々を歩んでいきたいと思います。