ハタラキ続ける存在

私には尊敬している人がいます。その人はすでにこの世にはおられませんが存在はいつまでも生きておられます。人は生死だけではない、存在というものを持っています。これはいのちという言い方もします。別の言い方ではハタラキと呼んでもいいかもしれません。

生前、死後の別なく、ハタラキ続けておられる存在。ハタラキが観えている人たちはそのハタラキそのものの存在に感謝をします。これは自然界も同じです。自然の生き物たちはいのちがあります。そのいのちのハタラキをしてくださっているから感謝しあうことができます。この世界、宇宙にはハタラキをしていないものなどは存在せず、常にハタラキ合うことで調和しています。

存在がハタラクからこそ、その感謝を忘れないというのは先祖が喜ぶ生き方です。なぜなら先祖もまた終わったものではなく、今でもハタラキ続けてくださっているからです。

私たちの物質的な見方では不思議に感じますが、無から突然有がでてきます。何もないところから出てくるからそんなはずはないと思うものです。それは意識が同様です。なぜこの意識が産まれてくるのか。そのはじまりは何か、誰がつくったのか、深めてみるとそこには偉大な存在があることに気づきます。

この時代、というよりも人類は目覚めというものを必要とします。常に気づいて目覚めることで今の場所をよりよい場所へ移動していくことができます。今居る場所はどのようなところか、この環境のなかで自分はどのようなことをしているのか。人間は環境の影響を受けて抗えないからこそ、様々な問題は環境に現れていきます。

私たちがもっとも平和で謙虚だった環境はどのようなものか。こういう時代だからこそ原点回帰する必要もあります。自分が産み出す環境がどのような環境であるのか。それぞれに環境を構成する一人として、みんながそれぞれに気づき目覚めていくしかありません。

自然に包まれているのを感じる感性、童心という好奇心、呼吸するたびに感じる感謝の心など、もともと在る存在に気づいてこそハタラキのなかで仕合せを味わうことができます。

尊敬している方がいつまでもハタラキを与えてくださっている感謝を忘れずに、私も子どもたち子孫のためにハタラキのままで今を磨いていきたいと思います。

自然とのかかわり方

自然とのかかわり方ということについて少し深めてみます。そもそも自然と人間というものを分けて考えるとき、人間は自然の一部ではなく別個の存在であるかのような認識をするものです。しかし、私たち人間の身体はすべて自然が形成したものでありこの身体こそまさに自然そのものの一つです。

別の言い方をすれば、自然との関わりとは自分自身の身体との関わりにも置き換えることができます。自分の身体の声を聴いて大切にしていけば自ずから自然の声もまた聴こえるというものです。

しかし現代社会をみると、身体にとってよくないことばかりが環境に発生しています。環境問題も突き詰めればこの身体との関わりと繋がっているのです。

例えば、合成甘味料や防腐剤を使った食材、簡単便利にレンジで食べられるレトルト食品、他にも栄養に偏ったサプリや薬、脳ばかりをつかって運動をしない生活習慣、自然のリズムを無視したスケジュール優先の心身の酷使、他にもあげればきりがないほどです。

若い時は、対応できても年齢を経ていけば身体はボロボロになってきます。これは現在の自然環境でも同じことが起きているのです。

もう早くから自然の声を聴こうという活動をしてきました。しかし、自然よりもお金儲けや権威権力権利の肥大化に力を注ぎ、比較競争、国家管理していくなかで自然の声よりも人間の周囲の声ばかりが入ってくるようになりました。

身体でも少し問題が起きると、周囲がああすればいいこうすればいいと処置や対応策ばかり出てきますが根源的な解決をするのではなくあくまで対処療法によってその場を乗り切るだけです。環境問題も似たようなもので、根源的なものはできないことになっていて新しいテクノジーや治療法に期待しては何も変えようとはしないものです。

人間は根源的であればあるほどに魅力を感じないようで他にすぐに目に見える解決法を躍起になって探してはそれをお金で買い上げていきます。結局は、人間の欲望が勝ってしまうということです。

健康というものも失ってみてはじめてその価値が分かったりします。健康のときは、欲望が勝りますが一度身体を壊すと健康の有難さが骨身に沁みて欲望が消失していきます。本来の仕合せや健康を取り戻す過程で、自然の有難さを痛感して反省するのです。

つまりは纏めると、環境問題の解決は一人一人の自分の問題を解決するということに尽きるということです。

自分一人がまず自分の身体とよく向き合って身体の声を聴いてととのえていくこと。身体はどのような暮らしを望んでいるのか、そして心身は何を求めているのか。その一つ一つと丁寧に毎日向き合って暮らしを改善していくことだと私は思うのです。

暮らしフルネスは、まず足るを知る暮らしからはじまります。欲に目を晦まされているものを少し離れ、落ち着いて今に集中します。土に触れ、風に揺れ、火に癒され、水に清められ、月に諭され、太陽に元氣を戴く。つまり「いのち」を喜ばせていきます。

地球というものは本来、いのちが喜び合う場所です。そして本来の人間は、いのちを輝かせる存在です。いのちが輝き合うような暮らしを実践することこそ、真に環境問題を解決する根本的な方法だと私は答が出ています。

議論をすることも大切かもしれませんが、議論よりも実践していく方が自他一体の仕合せに貢献できます。自他が喜び合うような暮らしをととのえていくこと。私は私の場所で、世界の環境問題を解決する答えを生きていきたいと思います。

結びの甦生

人はあらゆるつながりの中で生きているものです。そのつながりは網目のように広がり、それが結ばれています。蜘蛛の巣のように空中に網をはり、その中を揺らいでいるかのようです。

このつながりや結びつきというのは、点ではありません。つねに結ばれているからそれは全体を感じるときに結びつきを深めていくことができます。

現代は、分断の世の中で専門的に分化して理解していく手法が学問の中心になっています。何かを分けて考えているうちに網であることを忘れていくのです。循環もまた、途切れ途切れになっていて結ばれているようで分かれています。

その分かれているものを無理やり結ぼうとしても、分かれたあとは結び直すと歪になります。結び直すには、まず丁寧に解く必要があります。その解くというのは、なぜ絡まったのかということを一つ一つ見つめていくことです。

これは歴史を甦生することに似ています。本来、あったものが絡まっていくことを遡りそれを取り払い、綺麗に手直しし、元の状態に戻します。これは分断される前、つまりは分断されていなかったことに気づくプロセスのことです。

私たちは分化し分断したといくら思っていても、本当は分化して分断されていないことに気づきます。それは私たちの命も同じです。先祖代々、親祖にはじまり今まで途切れたことがなったからこそ今の私は生きています。

これは分断されず分化されていないことの証明でもあります。

本来、世界というものは元を辿れば一つです。人類も遺伝子が解明したように元々は同じ先祖を持ち、今も同じ命として結ばれています。肌の色も移動する中で変化しただけで、言葉も違いも文化の違いも風土に合わせて染まっただけです。元は同じ、一緒の存在で結ばれています。

戦争というのは一体何かと最近はよく考えます。

子どもたちの100年後、1000年後の未来に何を遺していけるのか。

本来の結びつきを甦生することではないかと、使命を感じています。引き続き、暮らしフルネスの実践とつながりを甦生して未来を易えていきたいと思います。

土間の魅力

昨日は、古民家の和楽で朝から掃除をしながら友人たちと一緒に銀杏拾いを行いました。土間では、色々な人たちが行き来してそれぞれに近況や雑談をして楽しみました。

土間は、縁側と同様に日本家屋の魅力の一つです。外と内をゆるやかにつなぎ、家と自然との境界を結ぶものでした。外からもは入りやすく、内からも出やすい環境は人をつなぎ、人との関係性も豊かにします。

この土間の歴史はもともとは縄文時代の竪穴式住居にあるといいます。あの建物を観たことがある人はわかりますが、床は全体が土間でその上に藁などを敷いて暮らしました。 藁ぶきの古民家の原型は、竪穴式住居であったことは簡単に想像できます。

長い時間をかけて、用途にあわせて発展させていったのです。これが江戸時代の頃には、土間から小上がりになり板間や畳といった裸足であるくスペースになりました。そのままご近居さんや友人、来客の交流の場になりました。

これは縁側と同じく、プライベートではありますがパブリックな空間になっているということです。かつて日本人がどのように生きてどのように周囲と協力して暮らしてきたかは日本家屋から感じます。

特にこの縁側と土間は、周囲に閉じずにいつも開こうとするつながりや関係性を大切にして見守りあってきたことを直観させます。現代では、個人主義が入ってきて家は完全にプライベートになっています。誰でも入ってくるということはまずありません。鍵が閉まっていて防犯上危ないからとなっていますが、外と内をつなぐゆるやかな関係性までなくなったことで孤立も感じやすくなったのかもしれません。

土間は他にもみんなで一緒に作業をする場所であり、共に食事をするところでもありました。また家畜といって生活を支え合った仲間を守る場所でもありました。土間にいると安心するのは、こういう先人の知恵がいつまでも空間に宿っているからです。

時代が変わっても、本来の生き方を体験すると安心して豊かです。子どもたちにも、先人たちがどのように長く暮らしを味わってきたのかを具体的な実践を通して伝承していきたいと思います。

ご縁を活かす

人の出会いや繋がりには必然性があるものです。これはよく考えてみると、連続しているからにほかなりません。一つの出会いは途切れているのではなく、ずっと今もつながっています。それが節目節目に何かの形でご縁を実感できているということだけです。

つまりご縁というのはすべてご縁というものであることがわかります。天網恢恢疎にして漏らさずという言葉があります。この世は網の目のようになっていて、その網の目の中で私たちは結ばれて生きています。

これが一人一人の自意識が自我によって自分というものを分けて世界を認識していますが、実際には偉大な意識の中で常にご縁と共に存在しているということになります。

この存在という意味を深めてみると、すべてのこの世に目に見えるものは勿論のこと、目に見えないものにいたるものもご縁のむすびのなかにあります。誰かが作ったもの、もともとそこにあったもの、存在というのはまるごとあります。

その意味を深めて、そのご縁をどのように結びなおすのかというところにご縁を活かす妙味があるように私は思えるのです。

ご縁を活かすというのは、悠久の関わりや結びつきを時代時代にどのようにほどいて結びなおすかということです。それは着物の糸をほどいてもう一度反物をつくり別の着物にするように、私でいえば古民家や古材をどのようにいのちをつなぎあわせて甦生していくかに似ています。

別のものを組み合わせているのではなく、ご縁を活かすということです。

先祖のつながりなども、前世のつながりなども目には観えません。しかし、ご縁をよく味わっているとこれはきっと先祖から今までそしてこれからのためのご縁であることに気付きます。

全て繋がっていると思って生きている人は、どのようなご縁であってもこの先にどのように変化していくのかが直感します。どういうご縁であっても、自分自身がご縁を大切に生きていくことが大切であり一期一会であることに集中することがそのご縁を生きる実践になります。

子どもたちにも素晴らしいご縁が結ばれていくように一期一会の日々を歩んでいきたいと思います。

教育の醍醐味

昨日、かつてある高校で3年間一円対話を実践し指導してきた生徒に改めて一円対話の意味を説明する機会がありました。これは卒業論文の研究テーマを一円対話にしてくれたことからのキッカケです。関わったのは7年も前になりますが、それがいつまでも心に残りこのように自分が教員になっても大切にしたいと思ってくれていることに有難い想いになりました。

教育の面白さは、見返りのないこと、そして長い年月をかけて醸成されそれによって世の中がさらに善くなっていくことです。私も保育に深く関わってきましたが、創業して21年になりますから最初に関わってきた園児たちは間接的にももう20歳を過ぎています。

思い出すと、あの頃も今も変わらずに未来へ希望を持ち、子どもたちがこの先の人生を真に豊かに幸福になってほしいと祈りながら取り組んでいることは同じです。有難い人生を戴いたことに改めて深く感謝しています。

取材の方は、そもそもなぜ一円対話をはじめたのかというものでした。

改めて、ヤヌシュコルチャックのこと、二宮尊徳のこと、良寛さんや親鸞さん、吉田松陰や郷中教育など自分に影響を与えたことを整理して話をしていると私も初心を思い出すいい機会になりました。

世界が戦乱になってからの対処療法ではなく、未然に如何に防ぐのか。未病のうちにいかに健康を維持するのか、そのために教育が大切であることを改めて説きました。そして今のように伝統文化のこと、伝承のこと、知恵のこと。先人への感謝と供養、そして子孫たちへつないでいくことの本当の意味なども話をしました。

今の世界の社会が今のようになったのは、ここ数十年の教育がどうだったかを証明するものです。そして今さに今、よく洞察し反省したことを如何にこの先の数十年に活かしていくのか。悠久の歴史の中で、教育は循環し反省と改善を繰り返していきます。

人類は、何度も似たような歴史を体験し同じ状況に陥ります。現在のような人口が増えた時代はここ数千年でははじめてですし、現代文明の石油や金融をはじめとした科学技術も軍事技術も進んだのもはじめてです。

しかし人間の本質は変わったわけではありません。

この短い一生で果たして何ができるだろうか、それを思う時、私はやはり徳や教育の方に深い意味を見出していきます。今だけ、金だけ、自分だけというような歪んだ個人主義や権力権威主義といわれていますが人類は本当は今生きていられるのは、先人たちの苦労や努力、いのりがあってこそです。

大切なことを忘れず、常に初心をお手入れし日々の暮らしから改善していきたいと思います。

いのちの甦生

私たちの身体は、いのちをいただくことでいのちを活かします。この世のすべての存在はいのちを移し替えることによって存在しているともいえます。あらゆるいのちを転換して移動しているともいえます。これが循環の本質でありいのちの姿です。

そのいのちの移動で大切なことは、いのちを壊さないように丁寧に移し替えることです。例えば、いのちを壊すというのは心を籠めない、丁寧に扱わない、粗末にする、差別をするなどという時に行われます。その逆に、尊敬をし、真心で接し、大切に扱い、感謝すればいのちは甦生します。

いのちというものは、関係性の中、つながりやご縁の中にこそ生きているもので私たちはその「いのち」をいただき暮らしを営むものです。

一番悲しいことは、単なるいのちのない物として扱われることです。いのちがあるものを、いのちがないように扱われることで循環が止まります。いのちの循環が止まるというのは、つながりが断絶するということです。自然が失われるということでもあります。

私たちはそもそも自然という有機的なつながりの中に存在します。この宇宙もまた、いのちと捉えたらすべてはつながって存在していることに気づきます。その中の一つに私たちがあります。

死は死ではなく、新たないのちになっていくという感覚もまた同じようにいのちを大切にする生き方を通して感じられるものです。いのちは水の流れのようにありとあらゆる物質を透過し、通過することですべてのいのちをつなぎます。

私たちは水がなければ生きていけないのは、いのちの循環ができないから死ぬのです。肉体的な死だけではなく、私たちは空気中の水分、あるいは食べ物を通しての水分などいのちを吸収しいのちを転換して元氣を保っているともいえます。

現代は、いのちをあまり感じない生活が増えてきました。これは自然の循環をとめてしまうような環境が増えたともいえます。本当の環境問題とは何か、それは温暖化でもなければゴミ問題でもありません。これはいのちの問題のことです。

いのちを直視して、いのちを大切にする暮らしが私の実践する暮らしフルネスですが、いのちの甦生を通して自然の循環も甦生させていく必要性を感じています。知識ではなく、知恵としてこれを実践してこそ意味があります。知ることとわかることは異なります。知っても知っただけであれば、何も変わりません。

わかることは、知恵の中に生きているいのちがつながっている証拠です。子どもたちにも知恵が伝承していけるように丁寧にいのちことを実践していきたいと思います。

いのちの養生

昨日は、堀池高菜の漬け直しを行いました。春先に漬け込んだものをこの時期に漬け直せば来春までまた漬かります。長いものでは9年目に入ったものがあり、3年目や今年のものもあります。長い時間をかけて漬け続けるにはコツがあります。

私はもともとこの堀池高菜は、供養のために続けています。採算度外視で儲けるためにやっているわけではありまんから唯一無二のものです。

例えば、30年以上農薬も肥料の入れない畑で自然農で行いこの地域にしかない伝統固定種の種のみでつくります。樽は吉野杉で塩も平窯天日塩、また天然秋ウコン、蓋は楮の和紙で閉じています。そして発酵場は林の日陰の風通しの良い場所で備長炭と共に寝かせ続けます。

こんな環境の中で育っていますから菌もイキイキしています。はじめて3年目くらいまでは腐敗することがありましたが今ではほとんどそれもありません。手塩にかけて塩梅をみながら丁寧に関わっていく。ずっと生きているものとして関わりますから大切に一緒に育っている家族のようなものです。

現代は、大量生産、大量消費で儲かるためにあらゆる作業を省いて効率優先、合理化優先していきます。すべては売り物、そして買い物にするために加工するのです。

私は加工することは儲かるためだとは思っていません。加工するのは、大切に扱うためのプロセスだと思っているのです。私が手掛けるこの堀池高菜は生産、加工という名の家族と共に暮らす豊かで仕合せな営みなのです。

その営みのなかで出来上がったものだからこそ、舌先三寸では味わえない深い滋味があります。その滋味を感じていただける人たちからは、本当に喜ばれ、運がよくなりそうだと感動されます。

この場所、この土地ならではの風味は風土がつくります。

そしてその風土で育ち、風味をわかる人だからこそ滋味が出せるのです。身土不二という言葉もあります。これは『体と土とは一つである』という意味です。私たちは土を食べる化け物ですからその土地の味はその土の味でもあります。

今では遠くの食べ物をどこでも便利に食べれるようになりました。しかし本来、食事というのは食養であり大切ないのちの養生の根源です。

だからこそこの土地に来て、この土地で自然に食べてもらうことこそがその土地のいのちを味わうことになります。

私がやっていることは、今の資本主義社会でやっている儲けるための食事とは異なるものになります。だからこそ儲からないし売れないし売らないのでは誤解され、道楽や趣味のようにいわれます。しかし本来、伝統文化や伝承というものはそのためにやっているのではなく、先祖代々、豊かに暮らし仕合せにいきる知恵を自分も同様に生きているということを守っているだけです。

子どもたちや次世代、子孫へ知恵が伝わり同じような仕合せが繰り返されるように今の時代の価値観に流されずに本質を保ち喜びを楽しむのです。これからますます遣り甲斐も生き甲斐も増えていきますから大切にいのちを養生していきたいと思います。

 

天災ではなく天福

自然の猛威が増しています。台風14号が上陸しましたが、遠くにあっても暴風で激しく家が揺れてあちこち軋む音が聞こえて眠れませんでした。

天災は忘れた頃にやってくるという格言があります。これは常に天災は人間の活動とは別に発生しているもので地震も台風等の自然災害が多い風土である日本では日常的です。

しかし人間の方は、そんなことよりも人間の欲を優先しお金を稼ぐことに意識を奪われ経済活動の方を最優先にしていくうちに自然災害が身近にあることすら忘れてしまうのです。これが本当の災害の正体であり、自然災害よりも人間の災害であることも歴史が証明しています。

まだむかしの方が、自然の身近に住んでいつ災害が来てもいい暮らしをしていましたから災害が来ることを常に意識して人間の災害を気を付けていたように思います。建物も住む場所も、そして常備食も保存食も災害に備えているような生活です。慎ましいけれど、災害に備えて暮らしをととのえていたのです。

それが文明の便利さに酔い、栄耀栄華に浸るうちに自然を征服できると思い込みあっという間に自然の畏敬を忘れていきます。これが人間の中にある性質というものなのでしょう。人間という特性の中にこの災害が組み込まれているということです。

人間の災害といえば、思いつくだけでも身近に様々にあります。

例えば、すぐに誰かのせいにすることだったり、自分の問題として考えなくなったり、目先の事象ばかりに囚われて目的を見失ったり、長いつながりやご恩や感謝を忘れたり、目には見えないものを存外に扱ったり、比較競争、嫉妬、差別やいじめ保身などもあります。

こういうものが本当の災害であり、それが増せば増すほどに自然災害の猛威は増していきます。人間が自然であること、謙虚であることを忘れたとき、本当の災害がやってくるということです。

自然災害は正しく恐れているのなら、避けようとすれば避けられるものです。自然の動物や昆虫、そして植物たちも日ごろから自然と共生して暮らしていますから自然災害は日常の一コマにすぎません。人間のように忘れるということはほとんどないのです。

何をしていたから人間が忘れるというのか。それをよく見つめなければ人間はこの先も自然災害の猛威に晒されます。謙虚さを失う時、私たちは自然に人間の持つ性質を思い知らされるのです。

本来、建ててはならないところに自然を征服できたような建物を立てて、住んではならないところに住んでいます。そして食べてはならないものを食べ、取り過ぎてはならないものをすべて取りつくします。歴史を省みることをやめてただ目先の欲望に流されています。そうして忘れるのです。

天災とは本当は何か、これは天の災いではなく天の恵みであり天の教えで天福であるかもしれません。むかしの人は、天に背いていないかを確認するために伝統文化を見つめてきました。今一度、子どもたちにも天災を忘れた日常や環境を与えるのではなく、人間の性質を自覚して自らを磨くような暮らしを学ぶ場を与えたいと切に思います。

子どもたちが天福をいつも感じられるように、生き方を見つめて見直していきたいと思います。

道を歩むということ

今日は、早朝から私の尊敬する禅僧とともに座禅をご一緒するご縁がありました。静かに言葉を交わさずに坐し、只今の心になっていく。そして感謝と共に先人やご先祖さまたちへの御供養と御礼をし参拝する。自然に心は落ち着き、穏やかな風に包まれます。

日々の暮らしをととのえていくはじまりの朝に、静かな時間が持てるということはとても仕合せなことです。私が綴っているブログも、書き出す前に前日にあった出来事を振り返り、内省し、それは一体何だったのかということを学びます。

これは自学自悟です。

本来、学問というのはすべては志があって道が始まります。つまり何のためにやるのかということを忘れずに、日々に取り組んでいくからこそ道の中にいるということです。人は道から外れることは簡単で、あらゆる寄り道をしながら自分にしか与えられていない道を闊歩していきます。

一生は一度しかありませんが、人はみんなこの初志という目的、何のためにやっているのかということを忘れます。時代に流されて迎合していくうちに、純粋な自分の最初の志を失っていくのです。それを忘れていない人は、非常に純度の高い想いで生きていきます。

そしてそういう人の周りには、いつも陰ひなたから支えてくれたり応援してくださる人たちが出てきます。その人たちもまた、その初志を貫徹してほしいと願い、同時に自分自身もそれを実現したいと祈り闊歩していくのです。

道は無窮です。

そしてこの道をもっとも顕すものは自然です。自然とかいて、かむながらと読むという言葉があります。道はこの今も、この先もずっと続くものです。終わりもなければ始まりもない、ずっと道があるだけです。この道は、私が途中でいなくなっても続きますしまた次の人がその道を歩みます。唯、生きるだけの道です。しかしその道は、決して一人ではなく同行二人です。つまり心が常に共にあります。

この先にどのようなことがあるか、それはわかりませんがこの道を歩んでいくことを決めた初心が共にあるからこそいつまでも道を歩むことが豊かになります。

何のためにやるのか、それを常に思い出しては磨き直す。そのような生き方をこの先も続けていきたいと思います。