あるがままの心で

最近は、特にスケジュールに管理されることが増えて時間というものを忘れるという体験が減っているように思います。毎日の予定、毎週の予定、毎月の予定と目白押しです。時間に追われるような生活をしていると、時間を気にするあまりにその「今に集中」していくことが難しくなるものです。

つまり「今」というのは、時間を忘れているときに感じるものです。

私たちは時というものも、過去、未来、現在などと時間の流れで認識しています。しかし実際には、そんなものはなく私たちはこの今の連続によって生きているだけです。過去に会ったことも、今を刷新することで過去も換えられ、同時に未来までも換えていきます。これは今がどうかというだけで時間は関係がないというのが本来の今であるということです。

今を深く味わうことは心に残ります。心は常に今と共にあります。そう考えてみると、心は時間とは関係がないところに存在しているということです。常に心は変化に感応し順応して記憶していくということです。

だからこそ心を生きるというのは、時間を生きるのではなく今を生きるということになります。

今を生き切る人生というのは、あるがままの心で生きる人生ということです。

あるがままの心は、自然に生きているあらゆるいのちの現象と同じです。すべての生命は生き死にを含めたあらゆる事象のなかであるがままの心を謳歌します。木々が風に揺られ、鳥が歌い、小さな虫たちも躍動しています。それは心が感じるままであるということです。

頭を使うことも現代社会では必要でそういうように教育され文明に適応してきましたが、だからこそ何のために生きるのかという原点をしっかりと掴んでおきたいと私は思います。

子どもたちがこれからの未来に、希望と感謝で生きていけるように今を大切に暮らしをととのえていきたいと思います。

水の知恵

水という存在はむかしからとても不思議です。いのちそのものであり地球を包んで循環しているものでもあります。この世の中は水が浸透し、水が巡ることで多くの生き物たちを育て助けています。つまり陰の立役者でもあり、欠かすことができないもっとも偉大な存在が水です。

しかも水というのは、目に見えるものもあれば空気中の湿度のように目には見えないものもあります。しかし明らかに私たちはこの水が通過しあうことでいのちを分け合っているのです。

例えば、雲が山に来て雨を降らします。その雨は山から流れ出て川になり海になります。そしてまた雲になり山にもどってきます。問題は、そういう水の流れを邪魔してしまうことが様々な問題を発生させます。

その代表的なものがダムです。水は本来は非常にシンプルで本質的な循環を産み出します。山から最初に流れ出てくる水が清らからで新鮮な水として流れ出します、山の麓ではその水を好む生物たちがその水の恩恵でいきいきと活動します。川エビやカニ、ヤマメやアユなどもいますし他にもその周辺には清流を好む存在がいます。そこから川に流れていきますがまずここにダムをつくればその周辺の生態系が変わっていきます。

水はすべての生命を通り、その生命を通る過程で必要ないのちを透過しながら次の養分へと結びます。水には、他のいのちと結合するという徳目がありそのすべてを通ることでいのち全体の流れを結ぶのです。

この結び目には、それぞれが水と共に生きる記憶があります。水がその記憶の間を伝いながら悠久の時間をかけて活動しているともいえます。つまり水は言い換えれば偉大な記憶装置のようなものです。記憶を留めて記憶を循環させていくことで、私たちはご縁の世界を生き、すべてを中和させていきます。

水には不思議な力がありますが私たちはまだその一端を知っているだけです。当たり前すぎてわからなくなっていますが、本来は水は神秘の塊です。

今回、鏡師と一緒に過ごしていくなかで改めて水の持つ神秘的な力を実感することができました。水にうつるあらゆる真実を深めて、子どもたちにその恩恵の偉大さを伝承していきたいと思います。

竹垣の修繕

昨日、聴福庵の竹垣の修繕を行いました。毎年、2回ほど柿渋を塗り棕櫚縄で結び直したりしていましたが少しずつ傷んできます。蔓が巻き込んで壊したり、雨風でどうしても木材が腐食してきます。竹も時間が経てば、表面にざらざらと埃がついたりして傷みます。

お手入れをしていくことで長持ちしますが、油断していると急に壊れた気がしてきます。しかし実際には急にというのはなく、心を籠めて丁寧に観察していればどこが壊れてくるかなど次第にわかり早めにととのえておけばお手入れも少しで済みます。

もともと現代はやることが多く、少しでも気を抜けば忙しくなってしまいます。暮らしが消費に傾いていて、消費することで経済を活性化するというモデルですから世間の空気がそういう消費やスピードの空気です。特に都会に住めば、この空気はさらに密度が濃くなります。何かをやっていないと不安になるかのようにあらゆるものに手を出していきます。情報化がさらにそれに拍車をかけていきます。

本来、自然のリズムで生きていけば自然の循環を身近に感じてどのようにお手入れをしていけばいいかを暮らしをととのえながら組み立てていきます。それは今ではむしろ正反対、自然の利子で得た分をどうみんなで分け合うかという発想になります。なければないなりに工夫し、あればそれを使って修繕をしたり未来への徳を譲る活動をしてきたのです。

話を竹垣に戻しますが、聴福庵の竹垣は透かし垣です。もう一つの和楽の竹垣は遮蔽垣です。境界を示し風通しのよいものと、お庭の目隠しやプライバシーを守る意味もあります。

竹は天然の素材で毎年間引いていくことで美しい竹林ができます。またタケノコなども美味しく、旬を味わい健康にもなります。間引いた竹を家のあらゆるところに活用でき、しかも丈夫で長持ちし柔軟で使いやすい素材です。竹をつかった伝統工芸もたくさん出ていますがこれも自然のリズムと自然からの利子を活用した知恵です。

私たちはどうやったらこの地球で長く豊かに仕合せに暮らしていけるのかを考えて創意工夫して今があります。縄文時代より前、もう数万年も前からみんなで豊かに仕合せに生きていくためにあらゆることを実験して取り組んできたように思います。その知恵は古臭い過去の産物ではなく今でも最先端であり新しく、そして錆びつくことのない叡智そのものです。

竹垣は修繕したおかげでその場所にさらに深い愛着がわいてきます。さらにお手入れをして長持ちさせたいという気持ちも増えてきます。豊かさというものは、こういう物だけではなく心の豊かさや足るを知る感謝とともにあります。

子どもたちに暮らしの豊かさと仕合せ、暮らしフルネスの実践を伝承していきたいと思います。

歴史を前に進める

過去の歴史の中には、時が止まっているままのものがあります。本来、何もなかったところに人が物語をつくります。そしてその物語は、そこで終わってしまうものか、それとも続いていくものか、もしくはまた再開させるのかはその歴史の物語を受け継いだ人の判断になります。人は、このように自由に時を止めたり動かしたりしていくものですがそれは物語の中にいる人たちでしか繋いでいくことはできません。

いくら文字でそれを知識として分析しても、それは止まった歴史です。生きている歴史は知識ではなく知恵として受け継がれていきます。歴史を受け取った人のその後の行動で甦生するからです。これを遺志を継ぐともいいます。

その前の歴史がどのようなものであったか、それを学んだ人がその歴史を前に進めていきます。その人が進められるところまでを進めたら、それを継いだ人がさらに前に歴史を進めます。こうやって過去にどのような悲しい歴史があったとしても、それを転じてそのことによってさらに素晴らしい未来が訪れるように歴史を変えていく人たちが現れることで過去の歴史も肯定されます。

この時、悲惨な歴史も未来がそれによって善くなっているというのならただ可哀そうな存在にはなりません。後世の人からは感謝され、大切に思われ、偉大な先祖であったと慕われ尊敬されることもあります。しかし時を止めたままにしたり、悪いことのままで終わらせてしまうと人は歴史に学ぶことができません。

世の中には終わらせてはいけない大切な知恵が入った歴史がたくさんあります。私の周りにも、子孫の仕合せを願い取り組んできた先人たちの想いを深く感じるような場所がたくさんあります。

その方々からの遺志を感じ、過去の歴史の続きを紡いでほしいといった願いや祈りを感じることもあります。今の私をはじめ、私たちが生きているのは先人たちが人生をかけて大切ないのちを使ってくださっているからでもあります。

その願いや祈りは、世代を超え、身体をこえて伝わっていくものです。これを伝承ともいいます。伝承するというのは、歴史を生きてその歴史をさらに善いものへと転換していく私たちの生きる意味でもあります。

自分のことばかりを考えて、世代を省みて未来を思わなければ歴史はそこで途切れてしまいます。自分の中にあるあらゆる想いや祈り、そして願いを忘れず一つ一つの歴史を丁寧に紡ぎ修繕し、お手入れしながら子どもたちに譲っていきたいと思います。

雷のこと

深夜に大きな落雷があり目が覚めました。夏も終わりに入ってきましたが、積乱雲が巨大化しているのは目にみてもわかるほどでそれと同様に落雷も巨大化しています。この落雷の巨大化は、気候変動とも密接に関わっているといいます。

米カリフォルニア大学バークレー校のデービッド・ロンプス氏は、温暖化が進むにつれ、雷雨の規模はますます爆発的になると述べています。その理由は「温暖化が原因で、大気中に含まれる水蒸気の量は増加する。『燃料』が増えるほど、点火した時に爆発の規模が大きくなる可能性があるのと同じだ」といいます。

この方の研究によれば、降水量とCAPEという2つのパラメーターを複数の気候モデルに適用した結果、世界の平均気温が1度上昇するごとに、落雷が約12%増加することが分かったといいます。そこから気温が今世紀末までに4度上昇すると、落雷は50%近く増加することになるという。落雷は現在、世界で年間2500万回発生していますが威力も回数もその倍になるということです。

今までの落雷でも、自然の猛威や威力に慄いていましたがさらにそれが激しくなっていくのを想像すると怖くなります。昨夜も、今までにないほどの激しい光と音、そして何よりも地震のような地鳴りがきて眠れませんでした。

特に地鳴りと音は今までにないほどで、これが毎年増加していくと思うとどうなっていくのかと心配になります。

もともとこの夏の雷の原理は、地面からの水蒸気が上昇気流で昇っていきます。それが冷えて氷や塵などが摩擦して静電気が発生します。積乱雲の上部にはプラスの電気が帯電し、下の方にはマイナスの電気が帯電し、地上のプラスの電気が引き上げられてつながったときに雷が発生するという流れです。上空の電気が増えて持ちきれなくなっているときに、地上の電気とつながり流れる、それで落雷ということになります。

この時の稲妻と雷鳴の仕組みですが、一般的に落雷のときの放電量は、数万〜数十万A、電圧は1億〜10億ボルトあるそうです。稲妻の温度は3万℃以上にもなります。 3万℃以上の稲妻が通った部分の空気は瞬時に熱せられ、瞬間的に膨張することで激しい雷鳴が鳴り響きます。遠いとゴロゴロとなり、近いとバリバリとなります。

落雷している場所の確認は、光ってからの音がなるまでの秒数で10秒間で約3.4キロあるといいます。光とほぼ同時に音がなればもう身近に落雷が発生しているということです。

むかしから雷は、日本では雷神とされ稲の神様ともされてきました。古代の人たちは、雲が光、その光が地上に降りてくることをどう感じたでしょうか。田んぼに落ちれば、稲が元氣になり豊作になるなど体験から雷の徳を学んだのかもしれません。

これから雷が巨大・激化していきますが、自然現象から学び直して子どもたちにその意味や徳を伝承していきたいと思います。

むすびの真心

昨日は、カグヤの初心会議のワークショップで「むすび」の体験をみんなで行いました。具体的には、合気道の極意に触れるような体験をいくつか行いました。現代は、型を中心に形式的なものが武道になっていますがどの武道も突き詰めれば戦わない知恵を極めたもののように私は感じます。

矛盾ですが、戦わないで勝つというのが真の勝利ということでしょう。我をぶつけ合い、感情や闘志を戦わせるのは周囲は興奮しますがそんなものは本当の力ではないということでしょう。本当の力は、大切なものを守るためのものでそれはすべて生き方に関係しているようにも思います。

私たちにはもともと「軸」というものが具わっています。この「軸」は辞書では車の心棒、回転の中心となる棒。また 中心や基準となる直線。そして物事の中心、大切なところと記されます。

軸が定まっていないと、色々なことに振り回されてしまいます。言い換えれば、軸がどこにあるかで自分がブレなくなるのです。むしろ、周囲のブレの影響を無効化することもできます。

敵対関係というものも、敵にならなければ無敵です。

この無敵というのは、最強の力を獲得したから無敵になると思い込まれていますが本来は読んで字のごとく敵がいなくなるから無敵です。以前、木鶏の実践を学ぶ中で無敵になることを説明されている故事を知りました。闘鶏の話でしたが、最後は木鶏になり無敵になったということです。

これを同様に、軸を立てることができそしてむすぶことができるのなら私たちは無敵になるということです。無敵になることが目的ではなく、むすびの生き方を実践することが大切だということでしょう。

様々な他力や様々な自他一体の実践によって、大いなる一つの力そのものとむすばれていく。我を通そう、自分の力だけに頼ろうとすることは力を働かせたのではなく、力は偉大なるすべてのいのちを活かすときにこそ発揮されるということ。

頭でわかるのではなく、それを日々の暮らしや実践の中でととのえていくことが大切であることを学び直しました。暮らしフルネスに通じる体験で、すぐに取り入れられるものばかりでした。

子どもたちに、先人の生き方、その知恵を伝承していきたいと思います。

子ども第一義とは

私たちは幼い頃からあらゆるものの真似をして成長していきます。周囲を観ては、その環境をはじめその環境に適応した生き物たち、あるいは親や周辺の大人、そして兄弟姉妹の姿から学びます。この学ぶということの語源は、真似ぶからという説もあるのがわかります。

そう考えたときに、私たちは子どもたちにとってもっとも大切にしないといけない教育環境は真似されるものかどうかということです。そして真似されるということは、それだけ周囲が魅力的であるか、そして真似したいと思われるような生き方をしているかということは重要です。

子どもたちがあのように生きてみたいと憧れるような存在があればあるほどに、子どもは自らの可能性や夢を拡大していくことができます。つまりは目標として憧れ、そこに向かって真似してみようと思うようになるということです。

この子どもの憧れというものこそ、子ども心の正体でもあります。

子ども心というのは、別の言い方では好奇心ともいいますが子どもがワクワクしたり目がきらきらして夢中になり没頭できるものとシンクロしているということです。これは幸福感を感じているのであり、生まれてきた喜び、自分の使命に直結して全体と結ばれ存在を全肯定できている状態ともいえます。

いのちというものは、そのままの存在でそのままに役立て、そのままで喜べるとき私たちはいのちがイキイキと輝きます。いのちが充実している姿のことです。現代では、何が幸福で何が不幸かもその定義もお金や地位や名誉、財産を多く持っているか、五体満足かどうかなど色々と欲望の話が中心です。

しかしすべての生命やいのちや存在は、ありのままで自然、あるがままで仕合せを感じられるように完全無欠で誕生してくるものです。そこにみんなで近づいていこうと自然界は共生しています。人類もまた同じように、技術や知識で進化したとしても根本的には何も変わっていません。人類の本質や幸福というものは、時代が変わろうが世界が変わろうが普遍的です。

だからこそ私たち、今を生きる大人は子どもの憧れるような生き方と働き方をしているかどうかが常に問われるように思うのです。私がカグヤで子ども第一義の理念を掲げ、働き方と生き方の一致を実践するのもすべては子どもの未来から逆算して今を想像するためです。

たとえ今の時代、それが不可能のように見えても子どもの未来を思えばそれに挑戦する価値があります。暮らしフルネスもまた、それを実現するための挑戦に他なりません。

改めてお盆休みを豊かに暮らしていると、子どもの憧れる未来に思いを馳せます。今の自分の生き方を内省して、襟を正して社業を取り組んでいきたいと思います。

子ども心と子ども時代

昨日、ある動画を観る機会がありました。それはオードリーヘップバーンの生涯の動画でした。子ども時代に戦争に巻き込まれ、その後は脚光を浴びるような人生を歩み、最後まで子ども心を失わずに子どもを守り続けた人生の動画です。

映画を見たことがありますが、子どものような大人の様子に一様にみんな感動するものです。子どもでもなく大人でもない、その中間のような存在はひときわ私たちの心を揺さぶります。

その中間を生きていたオードリーヘップバーンだったからこそ、生涯をかけて子どもに対して深い愛情をかけたように思います。子どもの定義が、単なる大人と子どもという比較ではなく自分の内面にある子どもであることを語ります。そしてこういう言葉を遺します。

「子どもを無視して 子ども時代を無視するのは 人生に背を向けるのと同じだ 子どもは自ら声を出すことはできない 私たちが代わりにしなければならない。」

自分の人生のなかでもっとも無視してはならないものこそ子どもであり、そしてその子どもの頃に生きた自分を受け容れることです。子どもを無視するというのは、自分の人生を半分やめてしまったことと同じです。その子どもは、日ごろは抑え込まれているからこそ誰も声が出せなくなってしまっている。だからこそ、子ども心を守る私たちが実践し仲間を助け出していくのだという意味だと私は解釈しています。

私がカグヤで子ども第一義の理念を掲げて今も子どもの志事に取り組むのもほぼ同じ理由です。子どもを第一義に取り組む、この時の子どもは子どもが子どもらしくいられる世の中にしていくためでもあります。そのためには、子どもを無視するようなことをするのではなく、子どもを尊重するような世界にしていくことです。

私たちは本来、自然に自分の人生を全うできるような仕合せで豊かな時代を生きていました。それが戦争や競争、差別や貧困によってそれが失われていきました。人間の持つ一つの本性ですが、自然と共生していく生き物たちは自然から学び自然から離れずにひとつのいのちを充実させて終えていきます。そのいのちは全うし、唯一無二の喜びと仕合せを生き切ります。子どもの頃に感じたことをどう癒し、どうゆるすかは大人の話ですが子どもに大人になることを急がせたり無理にそうさせることは不必要です。

平和にみえるこの時代も、子どもは大人の戦争に巻き込まれていきます。できる限り、子どもを守り、子どものためにできることをやることが真の平和を維持することでもあります。

真摯にこれからも自分の役割と全うしていきたいと思います。

戦争の本質

戦争の足音が少しずつ身近に迫ってきています。こういう時にこそ歴史を直視して、なぜ戦争が起きるのかということを見直す必要があるように思います。私たちは、戦争は国家が起こしているもののように思っています。しかし、この国家というものの正体はとても曖昧なものです。

そもそも集団というのは曖昧で、集団をコントロールするものがあってはじめて集団は存在します。人々は集団ではなく一人一人の意思があって存在するものです。その一人一人の意思があれば戦争は未然に防げるものです。

もっとも危険なことは、集団に依存し一人一人が考えなくなることかもしれません。一人一人が、真摯に考えて戦争の意味を深めていけば誰かの操作されることもコントロールされることもありません。

戦争は人間が起こすことだからこそ、人間がなぜ戦争を起こすのかを深く見つめる必要があります。誰かの利益が誰かの不利益になるからこそ、利益を得たい人たちが戦争を利用するともいえます。その戦争を利用する人たちが、国家というものを持ち出し、国民を使って利益を確保しようと戦争にしていくのです。

利益と不利益、争いはいつまでもなくならないのはその権利を奪い合う構図がなくならないからです。哲学者のサルトルが、「金持ちが戦争を起こし貧乏人が死ぬ」とも言いました。

権力者になるということが戦争をいつまでも終わらせないのです。そして守るための平和、平和であるための武ではなく、武を権力を維持するために使うのが戦争なのです。動物たちが行う戦争は、あくまで生きるため、そして守るためです。権力を永遠に維持するためではありません。

ダライラマ法王はこういいます。「たいていの軍事行動は、平和を目的としています。しかし現実の戦争は、まるで生きた人間を燃料とした火事のようです。」と。

ひたすら燃料を投下しては、燃やしていく。何のためというと、そこに権力や利益があるように思います。そして内村鑑三はこういいます。「戦争は戦争のために戦われるのでありまして、平和のための戦争などとはかつて一度もあったことはありません。」

生まれたばかりの赤ちゃんが戦争をしたいとはいわないものです。誰かに助けられなければ生きてもいけない自分が誰かを殺そうとはできないはずです。助けてもらってこの世に私たちは存在しているともいえます。

助けれてきたいのちだからこそ、助け合う社会をつくることが仕合せになります。産まれたままの赤ちゃんのまま死ぬまで助け合って生きられたらそれが平和であろうと思います。

原爆の日である今日は、なぜ原爆がつくられ落とされたのか、色々と考えを巡ります。子どもたちのためにも平和について伝承していきたいと思います。

 

かんながらの道

先日、ある方から本をいただきそこに「誠実自然」という言葉を見つけました。誠実と自然をそのまま並べていた言葉でしたので気になって改めて意味を深めてみました。そもそもこの誠実という言葉は、辞書をひくと「誠実」とは、私利私欲がなく、誠意・真心をもって人や物事に対する様子と書かれます。

さらにこの誠の文字の成り立ちをみると、「神様への祈りが成る」と書き、「想いが神様に真実と証明されたこと」ことを意味するそうです。そして「実」は實とかき、「本当のことがみちる」意味になります。字も「祭壇に貝(’宝)をたばねたものの組み合わせでここから真に中身があるものとされました。

誠実とは、嘘偽りなくそのままであるという意味です。

そしてこのあとの「自然」という言葉、この言葉もまた誠実と同じくあるがまま、そのままであるという姿です。別に無理に自分を装うのではなく、いつもの自分のままであること。これは別に自分のすべてを見せるという意味ではありません。いつも心を開いて神様や天に対して恥じることのないありのままの自分でいることを心がけようとするものだと私は思います。

自然体というものは、自分の定めた初心に対して正直で素直であるということです。つまり自分の心を優先していく生き方を実践しているということです。西郷隆盛なら敬天愛人ともいいましたし、吉田松陰は至誠ともいいました。

天地自然の一部として自分が自分のままに心に正直に生きていくことは、そのまま自然の天命を生きるということでもあります。天寿を全うする生き方をすると、人はその人をみて感動するものです。

私たちは地球が創造したものですから、心は地球そのものです。地球の心を生きることができたとき、そこは自然になります。これを私は「かんながらの道」と呼んでいます。

立場や生まれも異なっても、同じように生きた人。大和魂や武士道を実践した人がいることを知ると嬉しくなります。子どもたちのために、私も生き方を大切に残りの人生を自然体で全うしていきたいと思います。