大学の知恵

古典、四書五経の大学を改めて読み直して徳の循環を考えているとこの文章の中に徳のすべてが知恵として記されていることに気づきます。

「大學の道は、明徳を明らかにするに在り。民に親しむに在り。至善に止まるに在り。
止まるを知りて后定まる有り。定まりて后能く靜かなり、静かにして后能く安し。安くして后能く慮る、慮りて后能く得。
物に本末有り。事に終始有り。先後する所を知れば、則ち道に近し。
古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の國を治む。
其の國を治めんと欲する者は、先ず其の家を齊う。
其の家を齊えんと欲する者は、先ず其の身を修む。
其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正しうす。
其の心を正しうせんと欲する者は、先ず其の意を誠にす。
其の意を誠にせんと欲する者は、先ず其の知を致す。
知を致すは、物を格すに在り。
物を格して后知至る。
知至りて后意誠なり。
意誠にして后心正し。
心正して后身修まる。
身修まりて后家齊う。
家齊いて后國治まる。
國治まりて后天下平らかなり。
天子自り以て庶人に至るまで、壹に是れ皆身を修むるを以て本と爲す。
其の本亂れて末治まる者は否ず。
其の厚くする所の者を薄くして、其の薄くする所の者を厚くするは、未だ之れ有らざるなり。」

何度読み返しても、本当のこと、真実を述べられています。二宮尊徳が、明徳を明らかにすることは道徳の至極、そして民を新たにすることは国家経論の至極と言いました。これが至善に止まるということだとも。道徳と経済の一致の真髄は、この大学にこそあるということです。

この最初の「大学の道は明徳を明らかにするに在り民を親た(あらた)にするに在り、至善に止まるに在り。」を説明するためにそこから解釈があるというのがこの大学の特徴です。

世界を修めるというのは、自分自身を修めることからはじまります。自分を修めることで世界もまた修まります。これは天子と呼ばれる天命のある人であろうと、一般的な人たちであろうとすべて同じ道理ということになります。どうしても私たちは自分以外のところのせいにして、物事を変えようと欲します。しかしそもそも国というものはそれぞれの意識の中にあるものであって、その意識がみんなよくならなければ国というものも善くなりません。

私たちはまずその意識をどのようにするのか、それぞれの人が持つ天から与えられた徳性を磨いていくことからすべてがはじまるといいます。如何に思い込みの世界から抜け出して明徳を明らかにするのか。これは一人一人が真の知恵を持てるかどうかにもかかっています。

修身というのは、今ではあまり使われなくなりましたがそれぞれが暮らしの中で如何に日々の自分自身の徳を磨いてととのえていくかが私たちが安心平和を維持する知恵ということでしょう。

子どもたちにその知恵が伝承していけるように、カタチもととのえていきたいと思います。

徳の循環する世

世界中で気候変動の影響を感じる映像が出てきます。どこかで大雨が降ればどこかが干ばつになります。地球は一つとしてバランスをとりますから、環境が変わっていくのは今にはじまったことではありません。

どの国境でどの立地にあるかで私たちは住みやすいところもあれば住みにくいところもでてきます。ある場所は極寒の地、またある場所は砂漠、またある場所は火山や湿地であったりもします。人類は、その場所を離れていくものもあればその場所で知恵を出し工夫して順応したものもあります。それもまた選択の歴史であり、今も私たちは新たに選択を迫られています。ひょっとしたらこの先、地中や地球外、あるいは仮想空間などに移動していこうなどという未来もあるかもしれません。栄枯盛衰、これは自然の摂理です。どの時代、どの場所にいても、如何に自然と共生していくかは私たちの使命でもあります。

そして環境の変化で大変苦難の時代があったとしても、人類はその中でも仕合せを求めて生を全うしていきました。私たちの生命はどんな環境下であっても仕合せに生きているものもあれば、その逆もあります。大事なのは、使命を全うするということです。

そして使命を全うするには自分というものを知る必要があります。自分を知るには、自分の根を知る必要があります。根は地球につながっているところに存在します。まるで先祖から今の私たちに結ばれているように根もまた張り巡らせています。

まさにこの時代、この変化の時をどのように協力して乗り越えていくか。自立分散型、いわゆるDAO的なつながりのなかでどうみんなで調和していくか。太古の時代から、私たちは「和」にその解決法を見出してきました。人間も喜び、また自然も喜ぶ道。かんながらの道です。

私が思う、自然との関わりというのは、私たちの暮らしを本来の全生命が喜び合えるものに還るものです。それは徳が循環するような世の中にしていくことです。これをもう忘れてしまっている現代においては、何が自然を喜ばせるのか、そして自然とは何かというところの定義から学び直す必要があります。

暮らしフルネスはその道に入るための一つの扉です。

子どもたちに、いつまでも仕合せや福が結ばれていくように徳の循環する世の中に近づけていきたいと思います。

歴史を前に進める

過去の歴史の中には、時が止まっているままのものがあります。本来、何もなかったところに人が物語をつくります。そしてその物語は、そこで終わってしまうものか、それとも続いていくものか、もしくはまた再開させるのかはその歴史の物語を受け継いだ人の判断になります。人は、このように自由に時を止めたり動かしたりしていくものですがそれは物語の中にいる人たちでしか繋いでいくことはできません。

いくら文字でそれを知識として分析しても、それは止まった歴史です。生きている歴史は知識ではなく知恵として受け継がれていきます。歴史を受け取った人のその後の行動で甦生するからです。これを遺志を継ぐともいいます。

その前の歴史がどのようなものであったか、それを学んだ人がその歴史を前に進めていきます。その人が進められるところまでを進めたら、それを継いだ人がさらに前に歴史を進めます。こうやって過去にどのような悲しい歴史があったとしても、それを転じてそのことによってさらに素晴らしい未来が訪れるように歴史を変えていく人たちが現れることで過去の歴史も肯定されます。

この時、悲惨な歴史も未来がそれによって善くなっているというのならただ可哀そうな存在にはなりません。後世の人からは感謝され、大切に思われ、偉大な先祖であったと慕われ尊敬されることもあります。しかし時を止めたままにしたり、悪いことのままで終わらせてしまうと人は歴史に学ぶことができません。

世の中には終わらせてはいけない大切な知恵が入った歴史がたくさんあります。私の周りにも、子孫の仕合せを願い取り組んできた先人たちの想いを深く感じるような場所がたくさんあります。

その方々からの遺志を感じ、過去の歴史の続きを紡いでほしいといった願いや祈りを感じることもあります。今の私をはじめ、私たちが生きているのは先人たちが人生をかけて大切ないのちを使ってくださっているからでもあります。

その願いや祈りは、世代を超え、身体をこえて伝わっていくものです。これを伝承ともいいます。伝承するというのは、歴史を生きてその歴史をさらに善いものへと転換していく私たちの生きる意味でもあります。

自分のことばかりを考えて、世代を省みて未来を思わなければ歴史はそこで途切れてしまいます。自分の中にあるあらゆる想いや祈り、そして願いを忘れず一つ一つの歴史を丁寧に紡ぎ修繕し、お手入れしながら子どもたちに譲っていきたいと思います。

むすびの真心

昨日は、カグヤの初心会議のワークショップで「むすび」の体験をみんなで行いました。具体的には、合気道の極意に触れるような体験をいくつか行いました。現代は、型を中心に形式的なものが武道になっていますがどの武道も突き詰めれば戦わない知恵を極めたもののように私は感じます。

矛盾ですが、戦わないで勝つというのが真の勝利ということでしょう。我をぶつけ合い、感情や闘志を戦わせるのは周囲は興奮しますがそんなものは本当の力ではないということでしょう。本当の力は、大切なものを守るためのものでそれはすべて生き方に関係しているようにも思います。

私たちにはもともと「軸」というものが具わっています。この「軸」は辞書では車の心棒、回転の中心となる棒。また 中心や基準となる直線。そして物事の中心、大切なところと記されます。

軸が定まっていないと、色々なことに振り回されてしまいます。言い換えれば、軸がどこにあるかで自分がブレなくなるのです。むしろ、周囲のブレの影響を無効化することもできます。

敵対関係というものも、敵にならなければ無敵です。

この無敵というのは、最強の力を獲得したから無敵になると思い込まれていますが本来は読んで字のごとく敵がいなくなるから無敵です。以前、木鶏の実践を学ぶ中で無敵になることを説明されている故事を知りました。闘鶏の話でしたが、最後は木鶏になり無敵になったということです。

これを同様に、軸を立てることができそしてむすぶことができるのなら私たちは無敵になるということです。無敵になることが目的ではなく、むすびの生き方を実践することが大切だということでしょう。

様々な他力や様々な自他一体の実践によって、大いなる一つの力そのものとむすばれていく。我を通そう、自分の力だけに頼ろうとすることは力を働かせたのではなく、力は偉大なるすべてのいのちを活かすときにこそ発揮されるということ。

頭でわかるのではなく、それを日々の暮らしや実践の中でととのえていくことが大切であることを学び直しました。暮らしフルネスに通じる体験で、すぐに取り入れられるものばかりでした。

子どもたちに、先人の生き方、その知恵を伝承していきたいと思います。

子ども第一義とは

私たちは幼い頃からあらゆるものの真似をして成長していきます。周囲を観ては、その環境をはじめその環境に適応した生き物たち、あるいは親や周辺の大人、そして兄弟姉妹の姿から学びます。この学ぶということの語源は、真似ぶからという説もあるのがわかります。

そう考えたときに、私たちは子どもたちにとってもっとも大切にしないといけない教育環境は真似されるものかどうかということです。そして真似されるということは、それだけ周囲が魅力的であるか、そして真似したいと思われるような生き方をしているかということは重要です。

子どもたちがあのように生きてみたいと憧れるような存在があればあるほどに、子どもは自らの可能性や夢を拡大していくことができます。つまりは目標として憧れ、そこに向かって真似してみようと思うようになるということです。

この子どもの憧れというものこそ、子ども心の正体でもあります。

子ども心というのは、別の言い方では好奇心ともいいますが子どもがワクワクしたり目がきらきらして夢中になり没頭できるものとシンクロしているということです。これは幸福感を感じているのであり、生まれてきた喜び、自分の使命に直結して全体と結ばれ存在を全肯定できている状態ともいえます。

いのちというものは、そのままの存在でそのままに役立て、そのままで喜べるとき私たちはいのちがイキイキと輝きます。いのちが充実している姿のことです。現代では、何が幸福で何が不幸かもその定義もお金や地位や名誉、財産を多く持っているか、五体満足かどうかなど色々と欲望の話が中心です。

しかしすべての生命やいのちや存在は、ありのままで自然、あるがままで仕合せを感じられるように完全無欠で誕生してくるものです。そこにみんなで近づいていこうと自然界は共生しています。人類もまた同じように、技術や知識で進化したとしても根本的には何も変わっていません。人類の本質や幸福というものは、時代が変わろうが世界が変わろうが普遍的です。

だからこそ私たち、今を生きる大人は子どもの憧れるような生き方と働き方をしているかどうかが常に問われるように思うのです。私がカグヤで子ども第一義の理念を掲げ、働き方と生き方の一致を実践するのもすべては子どもの未来から逆算して今を想像するためです。

たとえ今の時代、それが不可能のように見えても子どもの未来を思えばそれに挑戦する価値があります。暮らしフルネスもまた、それを実現するための挑戦に他なりません。

改めてお盆休みを豊かに暮らしていると、子どもの憧れる未来に思いを馳せます。今の自分の生き方を内省して、襟を正して社業を取り組んでいきたいと思います。

戦争の本質

戦争の足音が少しずつ身近に迫ってきています。こういう時にこそ歴史を直視して、なぜ戦争が起きるのかということを見直す必要があるように思います。私たちは、戦争は国家が起こしているもののように思っています。しかし、この国家というものの正体はとても曖昧なものです。

そもそも集団というのは曖昧で、集団をコントロールするものがあってはじめて集団は存在します。人々は集団ではなく一人一人の意思があって存在するものです。その一人一人の意思があれば戦争は未然に防げるものです。

もっとも危険なことは、集団に依存し一人一人が考えなくなることかもしれません。一人一人が、真摯に考えて戦争の意味を深めていけば誰かの操作されることもコントロールされることもありません。

戦争は人間が起こすことだからこそ、人間がなぜ戦争を起こすのかを深く見つめる必要があります。誰かの利益が誰かの不利益になるからこそ、利益を得たい人たちが戦争を利用するともいえます。その戦争を利用する人たちが、国家というものを持ち出し、国民を使って利益を確保しようと戦争にしていくのです。

利益と不利益、争いはいつまでもなくならないのはその権利を奪い合う構図がなくならないからです。哲学者のサルトルが、「金持ちが戦争を起こし貧乏人が死ぬ」とも言いました。

権力者になるということが戦争をいつまでも終わらせないのです。そして守るための平和、平和であるための武ではなく、武を権力を維持するために使うのが戦争なのです。動物たちが行う戦争は、あくまで生きるため、そして守るためです。権力を永遠に維持するためではありません。

ダライラマ法王はこういいます。「たいていの軍事行動は、平和を目的としています。しかし現実の戦争は、まるで生きた人間を燃料とした火事のようです。」と。

ひたすら燃料を投下しては、燃やしていく。何のためというと、そこに権力や利益があるように思います。そして内村鑑三はこういいます。「戦争は戦争のために戦われるのでありまして、平和のための戦争などとはかつて一度もあったことはありません。」

生まれたばかりの赤ちゃんが戦争をしたいとはいわないものです。誰かに助けられなければ生きてもいけない自分が誰かを殺そうとはできないはずです。助けてもらってこの世に私たちは存在しているともいえます。

助けれてきたいのちだからこそ、助け合う社会をつくることが仕合せになります。産まれたままの赤ちゃんのまま死ぬまで助け合って生きられたらそれが平和であろうと思います。

原爆の日である今日は、なぜ原爆がつくられ落とされたのか、色々と考えを巡ります。子どもたちのためにも平和について伝承していきたいと思います。

 

知恵風の知識

ソクラテスという人物がいます。わかっている範囲だと、古代ギリシアの哲学者。アテネに生まれる。自分自身の「魂」(pschē)をたいせつにすることの必要を説き、自分自身にとってもっともたいせつなものは何かを問うて、毎日、町の人々と哲学的対話を交わすことを仕事とした人とあります。

有名な名言に、「無知の知」や「徳は知である」などがあります。特にこの「無知の知」(または「不知の自覚」)は自分に知識がないことを自覚するという概念のことです。

これは「自分に知識がないことに気づいた者は、それに気づかない者よりも賢い」という意味です。これはある日、友人のカイレポンから「アテナイにはソクラテスより賢い者はいない」と神託があったことを知り、自分が一番の知者であるはずがないと思っていたソクラテスはその真意を確かめるためにアテナイの知識人たちに問いかけを繰り返していきます。そしてその中で「知恵があるとされる者が、必ずしも本物の知恵があるわけではない。知らないことを自覚している自分の方が彼らよりは知恵がある」と気づいたという話です。

私はこれは知識の中には知恵はなく、知恵の中にこそ真の知識がある。みんなが知識と思っているものの中には知恵がなかったということでしょう。

これは現代の風潮をみてもわかります。最近は特に、自分で体験せずに知識を得たい人が増えています。実践も体験もせず、気づいたこともなく、気づいた気になれるもの、わかった気になれるもののためにお金を払って知識を購入しています。

お金持ちは時間がもったいないと思い、体験しなくてもその知恵をお金で買おうとします。しかしその知恵は、知恵と思い込んでいるもので本当の知恵ではなく知識です。知識を知恵と勘違いしているからそういうことをしようとします。

オンラインでの講習会や、流行りの講演にいっても知恵のように知識を話していますがその知識は使おうとすると知恵が必要です。しかし知識が知恵になることはなく、知恵だけが知恵になるものです。知恵は知識にはなりますが、それはあくまで知恵を知識にしただけで知恵ではありません。

なので知恵者とは、徳のある人物のことであり、徳を生きるものです。これは世の中のハタラキそのものが知恵であるから使えています。

例えば、二宮尊徳はある知識のある知識人が訪ねてきたときに「お前は豆の字は知っているか」と尋ねた。それでその知識人は紙に豆の字を書くと、尊徳は「おまえの豆は馬は食わぬが、私の豆は馬が食う」と答えたという逸話があります。

これは知恵についての同じ話です。

私は本来の革命は、知識で起こすものではなく知恵がハタラクものであると思います。人類を真に導くには、文字や文章、言葉ではなく知恵が必要なのです。知恵風では真に世界は変革しないと私は経験から感じています。私が「暮らしフルネス」にこだわるのもここがあるからでもあります。

生き方と働き方というのは、単に知識で理解するものではありません。体験して気づき実感して真似ることで得られます。子どもたちのためにも、今日も実践を味わっていきたいと思います。

知恵の甦生

知恵というのは、もともと知識とは異なり使っている中でなければ観えないものです。つまり止まって理解するものではなく、実践したり体験する中でこそはじめて実感でき観えるものともいえます。

例えば、昨日、暮らしフルネスの一環で滝行をしてきましたがこの滝も流れる中でしか滝のいのちを感じることはできません。いくら口頭で滝の話をしたとしても、滝が持つ徳は滝の中ではじめて活かされるものです。

さらには、この滝が知恵として感じるためにはその滝をただの文字や言葉だけにしない知恵の伝道者が必要です。この伝道者は、その価値を知り、その価値を学び、その知恵を正しく使い続けてきた人でなければなりません。

むかしから伝統の職人たちのように、意識を継いでいく人があってはじめてその真の技術が温故知新されアップデートしていけるようにその本になっている知恵が伝承されなければ伝統はつながりません。

つまり知恵こそ伝統の本質であり、知恵を活かす人こそ真の伝承者ともいえるのでしょう。

時代は、時代と共に時代の価値観があります。戦国時代の知恵の活かし方は平和な時代は使えません。その逆も然りです。つまり時代に合わせて価値観が変わっていくのですから、知恵はそのままに使い方や仕組みは変える必要があります。

先ほどの滝行も同じく、一昔前の使い方をしていても知恵が伝わりません。知恵を伝えるには、今の時代の使い方、活かし方が必要になるのです。これは意識も同じです。現代の知識優先の考え方を意識優先の生き方に換えていく。そうすることで、眠っていたり忘れていた知恵が甦生していきます。

知恵の甦生は、人類のこの先の未来、子孫たちの永遠の仕合せには欠かせないものです。地球がバランスを保つように、人類もまた長い歴史の中でバランスを保っています。この時代は、バランスを保つために舵をきる必要がある時代でもあります。

子どもたちに真の知恵が伝道していけるように、暮らしフルネスの実践を積んでいきたいと思います。

暮らしフルネスの場数

情報過多の時代、脳の認知も過労になります。以前、修験道のことを英彦山の禰宜さんにお伺いしたときに深夜からずっと山歩きをして身体感覚が極限まで過労したときに何も考えなくなることがいいということを聞いたことがあります。

きっとその時、脳の認知がなくなり力が脱落して空や無の状態になるように思います。脳は、あらゆるものを仮想に創造しますから今ここにあるという意識を遠ざけてしまうのかもしれません。

しかし本来、脳は、短期的な危険を未然に察知したり想像をしたりするのにはとても大切な役割を果たしています。しかしそれが行き過ぎると、疑念や不安などをつくり実際にないことまで創り出したりそれを事実だと思い込んだりもします。思い込みの強さというは、記憶を捻じ曲げていきます。人は世界をそれぞれに持っていて、それぞれの世界を生きています。

事実が同じであってもある人は、平和で安心の楽観的で穏やかな世界に暮らしていたり、あるいは疑心暗鬼と不安、悲観的で恐怖の世界に暮らしていたり、それはその人の心の持ち方で決まっていきます。

心の持ち方というのは、常に初心を忘れずに今起きていることを意味づけして自分のありたい方へと転換していくような実践です。つまりどんなことがあっても、「これでいい」とし、それを上手に受け容れて目的に回帰していく原動力にしていくということです。

古語にある「禍転じて福にする」というのもまた、心の持ち方の実践ともいえます。

脳の認知に縛られないで心の在り方の方に軸足を置いていく。バランスを取るというのは、身体の重心や軸を保つということに似ています。背骨が一緒についていきながら移動していくように、初心が一緒についていくように移動させていくということ。

何のためにこれをやるのかということを、忘れないでい続けるというのは日々の自己内省と自己鍛錬によるものです。

よく考えてみると、人間は自己を真に育てあげていくことで世界を変えていくことができます。どのような世界にしていくかは、一人一人の心の中にあります。その世界になるようにするには外側の世界に軸足を置くのではなく、あくまで軸足は自分の世界をととのえていくことに置き、バランスよく移動していくことに似ています。

脳と身体の関係もまた、日々の暮らしをととのえていくなかで磨いていくのかもしれません。小さな日常の移り変わりの中においても、大きなハタラキがあることを知り、そのハタラキが世界を真に豊かにするということを知覚できるのもまた日々の精進です。

心静かに、暮らしフルネスの場数を増やしていきたいと思います。

閻魔の知恵

先日、あることから閻魔帳のことを調べる機会がありました。これは人は亡くなってから閻魔大王が持つ、死者の生前の行動内容が罪や悪、そして善、すべてが記録されている手帳のことです。これを参考に、死者の天国行き、地獄行きを決めたというものです。

そういえば、幼いときにこの話を何かで聴いて悪いことをしないようにしようと思ったことを憶えていますが普段は思い出すこともなかなかないものです。その中で、浄玻璃の鏡というものがあります。

この閻魔帳に書いていることをみて、問答していきますがここで嘘をつくと舌を抜かれるといいます。舌を抜くというのは、もう嘘がつけなくなるということをいいます。

しかしなぜ閻魔大王はそれが嘘かどうか、なぜ閻魔様に分かってしまうのかというとこの閻魔帳とは別のものでその人の生前の行動をそのまま映し出す水晶でできた大きな鏡でその人をうつします。つまりその人の心を映すものです。これを浄玻璃(じょうはり)の鏡といいます。この鏡を通してその人の行動が周りの人をどれほど喜ばせたか、悲しい目に合わせたか、それまで映し出すので嘘かどうかわかるのです。

この話は、目に見えている世界のことをいくら誤魔化しても心の世界のことは誤魔化せないということを示唆しているように思います。

また仏陀が閻魔大王の話をするとき、善を観ては善に気づかず、悪を観ては悪を気づかず、そのことをなぜ深く反省しないのかと説きます。心の鏡に照らし合わせて、素直な心で反省しなかったのかと。

素直に反省したのなら、それはすべて一切が自分の因果応報であるということを話します。だからこそ、こうなったのだということも。

そう考えてみると、この閻魔帳と浄玻璃の鏡は一対であることがわかります。どちらかだけであっても裁けず、それが一つであるからこそ真に裁くことができるように思うのです。

自分で蒔いた種ですべてのことは発生する。だからこそ、心に聴いて内省し、そして気づいたらすぐに行動すること。自分で蒔いた種をちゃんと責任をもって果たしなさいということを教えているように思います。これは徳の話と同じです。

自分の喜びがみんなの喜びになり。その喜びがまた自分の喜びになっていく。この喜びの徳の循環をどう積んでいくか。それが問われているということです。

今の時代、情報化社会である意味このような閻魔大王や閻魔帳、浄玻璃の鏡のことなどは特にweb3.0と盛り上がっているところでは聞くことも気にすることもありません。しかしむかしの人たちは、根の教えにこの仏陀の教えが文化として根付いていましたから特に丁寧に慎重に嘘がないようにと誠を盡していたかもしれません。

一人一人が内省して気づき合い、そして反省したら改善するという実践を行っていけば浄玻璃の鏡も閻魔帳にもすばらしいことが記録し、記憶されていくと思います。

先人の知恵を現代に活かし、徳の循環する仕組みを伝道していきたいと思います。