本質を愛する人間~何のために生きるのか~

私は、こだわりが強いと色々な方に言われることがあります。この「こだわる」という語は、もともとは「ものごとがどとこおる」「つっかえる」など執着を表す言葉でした。国語辞典の大言海では、少しという意の「こ」に差し支える、支障があるという意味の「さわる(障る)」が転じた「たわる」という言葉だともいわれています。

つまり「こだわりが強い」とは、執着が強いと訳されるのです。しかし、よく料理人のこだわりや、職人のこだわりなど、妥協も一切なく本質を徹底するために削れるものはすべて削り落とすほどの熱意や情熱を傾けたものもまたこだわりが強いといわれます。

そのほかにも、オタク気質や誰にも評価されなくても自分の道を貫き通す人にもこだわりが強いといわれます。

このこだわりという言葉は、決してマイナスなイメージだけではなくプラスのイメージもまたあるのです。特に私は、本気の仕事に携わるとき本気の人と一緒に働くことに喜びと幸せを感じます。それはこだわりがある人たちだからであり、本質を愛する人たちだからです。

だからこそ私にとっての「こだわり」とは何かと定義すると、「本質かどうか」にこだわっている人ということです。つまりこだわりが強いという言葉の同定義は「本質的である」ということです。

限りなく本質に近い人、本質そのものが観えて本質のままに仕事を遂行する人はみんなこだわりが強くなっていきます。何にこだわっているのか、それは本質にこだわっているのです。

例えば、何かの物事があったときそもそもの目的から必ず考えます。その上で、何がもっとも目的に適ったものか、そしてどのようにその目的とプロセスを合致させていくかと目的から離れることはありません。

一般的には、すぐに他人の評価や、世間の物差し、業界の常識や過去の経験則、もしくは保身や楽を選ぶことから本質から離れていきこだわりも薄くなっていくものです。しかしそんなことをしていたら目的を見失い、結局は無難なものを選ぶことがもっとも最良という判断を持ってしまうものです。

それでは何のためにやるのかというこだわりを捨てなくてはなりません。私は何のためにやるのかさえ失わなければ、特にこだわっているものはありません。周りがこだわりが強いという反面、私自身はこれだけはというものや優先順位の高いものだけは決して妥協しませんが、それ以外は特にこだわっていることはほとんどありません。

こだわりが強いのは本質や目的だけで、あとはこだわりは薄いのです。

今更ながら、このブログを書きながらも私は目的にしか興味がないことに気づいていますからやっぱりこだわりが強い=本質を愛する人間なのかもしれません。

引き続き子どもたちのために、この日々のブログも精進していきたいと思います。

変化と調和

人にも個性があるように道具にも個性があります。それぞれの個性があるからこそ、その個性をどのように配置し活かすかはその活かす側と活かされる側の調和が必要です。その調和が居心地の善さを生み、全体に安心に満ちた豊かな空間ができていくのです。

そしてその豊かな空間は、四季折々において変化します。家であれば和室を彩る様々な冬の道具たちから季節が変わり夏の道具たちに変わっていくように、それぞれの配置も、そして活用方法も変わってきます。

日本人には「見立てる」という文化があり、それまでの使い方を別のものに見立てて活用したりする創意工夫の感性があります。例えば、水差しを花瓶にしたり、和紙をお皿にしたり、あるものをいかようにも見立て直して活用するのです。

人も同じく、時代が変わり季節が変われば活用方法も変わってきます。本人たちにとっては居心地が善い場所から動きたくないという意思もありますが実際に時代が変わり季節が廻れば、新しい場所を探すか、見立て直して変化をするか、役目が出るまでじっくりと待つしかありません。

その時に如何に全体に調和するかは、道具であれば道具の寛容性や柔軟性、人間であれば素直さが大きな影響を与えるように思います。どのような状況であったとしても、お役に立てるのならと素直な姿勢の生き方をしている道具や人はどのような状況の変化の中で大きな役割を果たし調和してくれるからです。

道具も、いつもと異なる使い方をされていても役に立てる喜びに仕合せそうな雰囲気を感じます。その証拠に使われている道具はいつも磨かれ、手入れされキラキラと輝いて存在感が増していきます。愛着が湧き、またつかわれるという好循環です。

一生懸命にいる場所を照らす、この生きる姿勢が全体調和や全体快適になり自分も活かし全体を活かす生き方になっていくようです。

時代が変わり、季節は大きく変わります。私もあといくつの季節をこの世でみんなと一緒に過ごせるかわかりません。しかしご縁があった仲間たちや道具たちが、出会えてよかったとお互いに感謝し合えるような絆を深めて豊かな生を全うしていきたいと思います。

子どもたちにつながる生き方を譲り遺していきたいと思います。

家の寿命

先日から木造中古住宅の甦生をはじめていますが、すでに間取りの問題などが出てきています。もともと建てる時に考えた住宅設計と現代に活用しようとするときの住宅状況では間取りが異なります。むかしの日本家屋のように、襖や障子で間仕切りされているのであればまだしもその後のリフォームなどで個々の部屋に分かれドアがつけられてしまうと使い道が急激に狭まってしまうものです。その場しのぎの住宅のツケがそのまま子孫に渡されていくのは家もまた同じです。

家を直すとき私がまず間取りの解体から入るのは、そもそもの家の暮らしから設計されておらず不便さの中にある「家の寿命」のこともよくよく考えてあげる必要があるからです。つまり家に住む人間だけではなく、家にもいのちがある存在として認め、家が長生きできるようにしてあげることが自分たちがそこに住む期間を安心して永くできるコツであると私は考えています。

平成19年の国土交通省白書で家のじみょうのい平均築後年数の国際比較が調査されています。そこには日本では30年、アメリカは55年、イギリス77年と書かれています。残念ながら日本の家の寿命の短さは先進国の中でもトップです。

ヨーロッパでは、むかしから昔ながらの家のままに親から子へ、そして孫へと受け継がれていくようになっています。パリの街はナポレオン三世が150年前に作った街並みと住宅がそのまま現在に至る基盤となり、そのままの形で残存しています。パリの家の平均築年数は150年です。日本でも、長崎街道をはじめ街道筋にある木造の古民家は築150年以上のものがたくさん建っています。しかし現在、お年寄りも施設に入りあまり住んでいるところがなく空き家になって廃墟と化しているところが増えています。本来の棟梁の魂の籠った立派な木造建築が、手入れされずにそのまま廃墟になっていくのは見ていて深い悲しみを覚えます。

日本の家の寿命が短い理由は、一つは戦後大量に建てられた大量生産大量消費の住宅の質がよくなかったことと、国の法定耐用年数が決められており、木造住宅なら20~22年で資産価値がなくなると判断されるため古くなると壊してまた新しく建てようと考える傾向があったこと。他にも、個人主義の歪んだ価値観が入ってきて、日本の家で暮らす価値観が変化してきたこと。便利で快適な生活を求めて都会に出てマンションやアパート暮らしをはじめて元に戻れなくなったもの。

もっとも大きな理由は、使い捨ての文化が当たり前になり欧米のように「家を長持ちさせよう」という意識が失われたことかもしれません。

しかし結論から言えば、日本の住宅の寿命は欧米に比べ短くなっており住居費の負担が増えるばかりです。そうなれば、子どもたちに譲り渡していく家がなくなればそれだけ住居費はかさみ、若いころの生活が厳しくなります。子どもができ育てていけば自ずから学費や生活費などの出費もかさみますから家は寿命が長い方が本来は価値が向上していくのです。

家の価値を高めるためには、暮らしの充実と家の修繕を続けていく必要があります。いつも綺麗に保つ工夫や、物が増えすぎない工夫、そのどれもむかしの人たちが実践てきた和の家の文化に残っています。

和の家を甦生させることが、現代でもむかしの家を復古起新し対応していくための方法です。引き続き、家を学び直しながら子どもたちに譲り遺していきたいものを甦生させ続けていきたいと思います。

 

 

等価交換できない存在~徳循環~

この世の中は、なんでも等価交換できるわけではありません。価値に見合ったそれ相応のものと交換するというのは、あくまで人間の狭い視野で行われるものです。例えば、この自然界でいのちを活かしているあらゆるものと同等のものを用意することはできません。

人間が水や空気、太陽の恵みや大地とどう等価交換するのか。いくらお金があっても、それをお金とは交換できません。人間が作り上げた価値と交換はできても、自然や宇宙などのすべては本来交換することができないものです。

何でも価値や価格でばかりにそのものを測ろうとし、損をしたとか得をしたとかいうのはとても料簡の狭いものです。そのものの価値は、そのものの本当の価値を見出せる人にはわかります。それはお金では測れず、世の中の常識でも量れません。

むかしからそのものの価値を知る人たちは、善を行い徳を積みました。それは等価交換できないことを知り、少しでもその恩恵に報いようと感謝を循環させていったからです。

この世の理として、私たちは自然の大きな恩徳によって生きることができそれが失われればこの世を去るしかありません。さも人間が自然を牛耳っているように錯覚したとしても一度の災害ですべてを失う可能性もあるのが自然の猛威です。

だからこそ謙虚に交換できないものの価値を認め、いくらそれが宗教だと揶揄されようと、妄信的だと馬鹿にされようと、そういった交換できない価値のために祈り、その恩恵をいただける存在に感謝しながら生きていくことで私たちは傲慢になるのを抑制しみんなで平和を築いていくのです。

大前提として、等価交換できない偉大な存在をどれだけ身近に感じているか。ただ感謝のみという存在にどれだけ報いているか。ここが何より私たちの社會の在り方や暮らしの根本と深くかかわっていることを忘れてはいけません。

子どもたちは生まれながらに、その価値の偉大さに気づいています。お父さんやお母さんの存在、自然の存在、あらゆるものへ感謝の気持ちで生きています。価値を測ったりすることもせず、ただその偉大な存在に甘え、偉大な存在と共生し、自分もその恩恵に報いるようにすくすくと成長をしていきます。

私たちの身近にいつも寄り添い、見守る存在はすべて「徳」です。この徳に貢献していこうとすることこそが「利子」を増やしていくことであり、その利子によって私たちはまた恩恵の一部に感謝というもので還元されていくことができるのです。

徳の循環の仕組みは、この価値を変換し無価値にし徳に還元することです。

子どもたちのためにも、このプロジェクト、覚悟をもってやり遂げたいと思います。

シェア=共有 (自然循環の仕組み)

シェアリングエコノミー(共有経済)というものがあります。これは一般的にはヒト・モノ・場所・乗り物・お金などを含む個人が所有する活用可能な資産をインターネットを介して個人間で貸し借りや交換することで成り立つ経済の仕組みのことをいいます。

このシェアリングエコノミーの市場は今後は国内でも急速に拡大していくと考えられ、一般社団法人シェアリングエコノミー協会と株式会社情報通信総合研究所(ICR)と共同で日本のシェアリングサービスに関する市場調査をしたところ、2018年度のシェアリングエコノミー経済規模が1兆8,874億円を超え、さらに2030年度には11兆1,275億円と約6倍になると予測されています。

本来、個人間や社会全体で「シェア(共有)」しようという考え方は、決して今にはじまったことではありません。今までの日本でも、支え合いや助け合いの中でそれは当たり前に行われていたものでした。それが次第に個人主義が進み、関係が途絶え、それを新たにビジネスとして担うようになってきたとも言えます。

特に今の時代のように、大量生産され物質文明が発展し物があふれかえってしまった世の中においては物を新しく買うよりも物を共有して活用した方がいいと考える人が増えるのも当然とも言えます。

一度しか使わないものを一度切りで購入して、要らなくなったら処分というのではそれにかかるコストも大きくみんなでシェアした方がお互いにメリットがあります。そのメリットをシェアする中で新しいつながりが生まれ、社会に助け合いや支え合いが生まれるきっかけになるかもしれません。

現在は、シェアするための法の整備や安全性などいろいろと課題もありますがそれも次第に改善されより一層ビジネスが多様に発展するのは時間の問題です。所有から共有へというのは地球の資源が次第に枯渇していく中で、市場も過渡期になり必要に迫られてきたからだとも言えます。そして人と人の間の「つながり」が歪んだ個人主義により断絶されてきた中で、そのつながりを新たにシェアし直そうという人間の心の本能もあるように私は思います。

これらのシェアの概念構造は、突き詰めていけばいくほどに自然の循環の仕組みが働きます。子どもたちに譲り遺したい未来へ向けて、色々と学び直して挑戦してみたいと思います。

 

 

岐路

国連から提案された「SDGs」というものがあります。
このSDGs「SustainableDevelopment Goals(持続可能な開発目標)」の頭文字を取った言葉で、2015年9月の国連総会(連加盟国193国)で採択された具体的行動指針のことです。すでに2001年に策定されたミレニアム開発目標(Millennium Development Goals:MDGs)の後継として国連で定められ2016年から2030年までの国際目標として認知されています。具体的な行動指針は、17のグローバル目標と169のターゲットからなり、飢餓、貧困、気候変動の進行、生物多様性の劣化などすぐにでも解決したいと思われる項目が入っています。
日本政府も「SDGs NOW! 17 Goals to Transform Our World」の動画で告知を展開しています。17の項目と169のターゲットは、総務省のサイトからPDFをダウンロードできます。この共通のキーワードの「持続可能」というものが何度も提言されるのは、言い換えれば近い未来に持続不可能な社会が訪れようとしているということです。
持続不可能な社会とは、では何かということです。それは人間がこの地球上で生活することができなくなるということでしょう。その理由は様々にありますがもっとも大きな原因は、自然と人間が乖離している世の中にしているからだと私は思います。
そもそも人間も自然の一部であり、自然物です。その自然物であったはずの人間が、人工物を創り上げ自然から乖離した都市というものを形成しました。そしてその都市というものを、自分たちの中で快適な仮想空間にしそこに消費を通して資金が流通するような仕組みを構築しました。都市の中で行われていることが自然とは別物ですから、その都市に運び込まれる様々なものは自然を搾取したものになります。
大量に生産し、大量に消費する、そこで都市を機能させますから消費されて捨てられていく自然の破壊の量が明らかに自然が創造するスピードを超えたとき持続は不可能になります。
自然の利子で暮らしていた時代から、自然へ借金して暮らす時代へと移ったことが今の持続不可能な社会を実現させてしまいました。しかし人間の欲望は果てしなく、自転車操業のように走り出したら止まれない今の世の中で如何に方向を転換しようかとそれぞれの人たちがそれぞれの場所で向き合っています。
自然と共生していた時代の懐かしさは、今のグローバリゼーションの波の中で消えかけているように感じます。もはや、このまま人類は滅亡に向かっていくのか、それともここで自然に帰るのか。もしくは第3の自然と共生する世の中にするのか。それは現代の世代の一つの大きな使命であることは間違いありません。

だからこそ、私たちは何をもって自然と共生するというのか。そしてどのような暮らしが自然を尊重して自らを立てることになるのか。
人類の自立に向けて、みんなで協力し合ってその答えを生きていくために挑戦を続ける必要があるのです。

子どもたちが100年後も1000年後も安心して、楽しく豊かに生きていくことができる社會を遺してあげたいとみんなそう思うはずです。
手と手を取り合い、子どもたちのために協力していきたいと思います。

花の生き方

花を見て美しいと思う心が人間にはあります。なぜ美しいと感じるのか、そしてなぜ大自然を観て人は心を揺さぶられ感動するのか。心がそう思うのは、そこに確かな宇宙の法則のようなものがあることに気づきます。

この世に生まれてきて、私たちはいのちの価値を知ります。そのいのちの価値は、今を精いっぱいに生きているものによって気づかされます。私が花を見て美しいと感じるのは、今を精いっぱいに生きているからです。

そして百花繚乱の美しさを放つものを観て感動するのが、それがみんなが活き活きと豊かに仕合せに生きている姿を体現しているからです。花が美しいのは、その精いっぱいな姿。

よく私は道端のたんぽぽを観ては足を止めるのですが、それはたんぽぽが太陽に向かって一生懸命その精いっぱいに生きている姿に心を打たれるからです。そしてその精いっぱいな姿はいのちの美しさをそのままに表現しています。

人生は一度きりと知ってはいても、人はあれこれと雑念を持ち、今を生ききることをやめてしまいます。そうやって今を精いっぱい生きていないものは、美しさが翳ってくるものです。どんな境遇にあってもどんな環境であっても、あのたんぽぽのように生きていくことは美しく、私の理想の存在です。

最後に松下幸之助さんはこんな言葉を遺しています。

『今というときは、この瞬間しかない。この一瞬一瞬を精一杯生き切る、その積み重ねが充実した人生をつくり、躍動を生み出すのである』

充実した人生と躍動感、まさに花の生き方です。

花に学び、いのちの花を精いっぱい咲かせていこうと思います。

弱さこそ強さ

人は弱さを否定して強くなるよりも、弱さを肯定して手に入れる強さの方が本当の意味で真の強さを手に入れることができるように思います。弱いものがダメで強いものがいいということが叫ばれる競争社会の中で、本来の強さとは何かということを一度向き合う必要があるように思います。

大前提に競争社会の中にいれば、弱さはまさに命とりになります。強ければ生き残り、弱ければ消滅する。弱肉強食であると教わってきましたが、実際には自然界は人間が言うような弱肉強食をしていません。

むしろ共存共栄をして助け合って存在しているのです。

そのために、確かに見た目には弱肉強食をしているように見えますが実際には弱さを力にして強みに替え、強さを謙虚に必要最小限で生きていきます。人間の言う身勝手な弱肉強食は、個としての強さ、権力的な強さ、能力的な強さこそ力だというような言い方をして弱さを否定します。ここでの弱さは、個としての弱さであり能力及び、あらゆるものが非力であることがダメであるとしその逆を強さと呼ぶのです。

自然界は、弱さを強みにして、その弱さを絆にしてつながり合っています。例えば、一人ではできないことはみんなで力を合わせます。これは弱さが強みになった瞬間です。

チームや仲間を形成するのは、それだけ私たち人間が弱い存在であったからです。特に恐竜の時代も含め、私たちは非力な存在でした。一人ではどんな動物にも負けてしまうほどの弱さがあったのです。それを強みにするために、私たちは協力し協働して弱さを絆に結び付きました。

現在では、身体的な武器が弱いからこそ道具を発明しここまでの科学を発展させたのも弱さを強みに替えたのです。

弱いからダメという発想は、本来の私たちの人間の真の強さの否定になっています。その証拠に、現代は個ばかりが強調され協働することや仲間と共生することなどが蔑ろにされています。

本来の私たちの最大の持ち味まで捨てて、単なる目先の力に頼ろうではあまりにも視野が短く狭いように感じます。未来の子どもたちは、もしかしたら今よりも大変な自然災害や人災に巻き込まれることもあります。その時、どのように乗り越えていくか。私たちがそれを繋いでいく責任があります。

弱さは私たちの最大の武器であったことを、正しく伝承して大変なときこそ力を合わせて乗り越えてほしいものです。子どものためにも、私たちは古に学び、今に智慧を甦生させていきたいと思います。

全体を活かすための環境を創造する人~管理とは何か~

組織には管理職というものがあります。この管理とは「よい状態であるように気を配り、必要な手段を(組織的に)使ってとりさばくこと」と辞書にはあります。

この管理の語源は「管轄辨理(かんかつべんり)」という言葉が略されてできたものだといわれます。「管」は門を開閉する鍵であり「轄」は、車輪が外れないようにするためのくさびのことであるといいます。つまりもともとは権限によって支配するという意味があったようです。

現在の管理職に対するイメージが一般的に支配的なものになっているのは管理社会など、管理とつくと権限で支配しているようになっているからです。海外ではこの管理職をマネージャーといいます。そして管理することを「マネジメント」といいます。

このマネジメントというものの意味は、アメリカでマネジメントと父と呼ばれたP・Fドラッガーは「組織に成果を上げさせるための道具、機能、機関」であるといいます。そしてその管理者をマネージャーといって「組織の成果に責任を持つ者」と定義します。つまり組織に成果を上げさせるための仕組みがマネジメントであり、組織が成果を上げるように働きかけその責任を持つ人をマネージャーというのです。

さらにそこからマネージャー(管理職)の役割の代表的なものを具体的に記します。一つ目が「組織が果たすべきミッションを達成する」こと、そして二つ目が「組織で働く人たちを活かす」こと、最後が「社会に貢献する」ことだといいます。つまりみんな会社の目的や目標のために協力しながら、それぞれが尊重され自己実現も同時に行い、一人ひとりが活かされるように全体最適と全体快適を創造し、長期的な眼差しで短期的な日々の仕事をコントロールしながら社会全体に善い影響を与えていく仕事ということです。

私の今の言葉でシンプルに定義すると管理職とは、「全体を活かすための環境を創造する人」ということでしょうか。

これは私たちの会社で現在、むかしの田んぼを一緒に運営している不耕起栽培の農家の達人の方々が稲が育ちやすいようにあらゆる管理をしていることがモデルです。その管理の考え方は、自然の道理に精通し、もっともどうすれば稲が活き活きと生長するかを中長期、そして温故知新した自然と科学の技術を駆使して見守っています。その管理はまさに「全体を活かすための環境を創造」をしています。

例えば、多様な虫たちが活動しやすいように活かす智慧。そして稲たちに厳しい環境と慈愛の真心をかけてはしっかりと稲自身が最高の一生を送れるようにサポートする智慧。そしてその育ったお米は、社会全体に対する大きな影響を与えているのです。

私のイメージし定義する、管理職や管理者、マネジメントやマネージャーはこのむかしの田んぼを一緒に運営する農家の実践のことです。

みんなが安心して活き活きと生を全うしつつ、田んぼも自然も同時に見守っていくには組織をどう活かして成果を出していくのかの様々なことを改善し取り組んでいく必要があります。

ただ単に、一方的に肥料や農薬をまき機械で管理するという農業もありますがこの時の管理者は全体を活かし環境を創造したのではありません。同じ成果でも、プロセスが異なれば管理職や管理者の定義がまったく異なることをマネージャーは理解しなければなりません。

育てるということがどういうことか、育つということが持つ意味は何か。そこをまずしっかりと学び直し定義することで、これからの多様化社会の在り方を見つめ直す機会になると思います。

子どもたちが安心して新しい環境や社会を創造していくためにも、そのモデルになっていきたいと思います。

 

物語の意味

物事には必ず物語がついてきます。その物語は、短期的にはわからないものですが長期的になればなるほどその物語の本質が現れてくるものです。

これをご縁ともいいます。

そのご縁は決して偶然ではなく、先祖代々、長い時間をかけて刻まれてきたもので同時に結ばれてきたものです。それを時空を超えて、今の私たちが体験してつながりを確認するとき物語が現れてくるのです。

なぜこの人と出会うのか、なぜこのような体験をするのか、突き詰めて深めていけばその原因は必ず過去の何かに行き当たります。だいぶ前、つまり生まれる前のこともありますから思い出すのは難しいものがあります。しかし辿っていけば、偶然とは呼べないあまりにも不思議なことに巡り合うのです。

まさにここに物語があります。

物語があるということは、ご縁があるということです。だからこそ大事なのは、物語があるということを感じる感性を磨いていくことです。その感性が磨かれている人は、ご縁を大切にします。そしてそのご縁の意味を時間をかけて丁寧に紡いていきます。そして現れた意味に対して素直に従い、結実させていくからです。

良いか悪いか、正しいか間違っているか、メリットがあるかどうかなどは物語においてはたいした問題ではありません。物語があることにこそ意味があり、物語を紡いでいくことこそが人生の意味になる。

一期一会というのは、その時に生まれた言葉なのかもしれません。

引き続き、ご縁を大切にして子どもたちに繋がりを託していきたいと思います。