場を思い出す

昨日は、暮らしフルネスで自然農の体験をしたいという方がきて夏野菜の畑を一緒に取り組みました。はじめてこれから農的な暮らしをはじめるとのことで、何もしたことがなくてもやる気はとてもある方でした。

思い返せば、私も幼いころより祖父の手伝いで畑にはよく連れていかれましたが自分が本格的に野菜やお米をつくるようになったのはまだ十数年くらいなものです。しかも仕事をしながらの隙間時間でだったので、失敗も多く、思ったようにならないことばかりでした。

今では、野菜の性質をしり、土を理解し、風や水の通し、虫や動物への対策なども体験し自然に畑をつくり収穫をしています。しかも、どうやったら美味しく食べられるかも学び、自然農家のような暮らしができるようになりました。合わせて、今では山での暮らしもはじまりもう一歩前に進めて山での暮らしを体験しています。

みんなはじめは初心者です。誰が偉いとか、誰がすごいとかではなく、あのすごい人も偉い人もみんなはじめては初心者です。それを継続していくなかで、様々な失敗や成功を繰り返し実力が磨かれ結果としてできるようになります。

初心者だからダメではなく、いつかはできるようになる人のことを初心者というのです。私も現実的には、不可能と思えるようなことをたくさん体験してきました。特にはじめてやるときは現実に直面してたじろくこともありました。

しかしそれでも周囲に支えてくれる人や、見守ってくださる方が顕れ気が付くとできるようになっていました。こうやって人は、思いがあれば仲間が集まり伝承されることで継承されていくのです。

特に土を触ることや、野菜を育てることはもう何千年も前から私たちの先祖がはじめたことを私たちは今も取り組んでいることになります。できないはずはなく、忘れているだけです。

忘れているものを取り戻すことこそ、私は真にできることであろうと思います。問題は、どのように思い出すかということです。子どもたちのためにも、思い出すことが忘れないように場を調えていきたいと思います。

自生自然

宿坊の庭をお手入れしていますが、水生植物たちを水の流れにあわせて配置しています。また石の配置や土の量も細かく調整しています。今まで単なる岩がゴロゴロと落ちていた場所に、橋を架け、石を配置します。すると、そこが一つの落ち着く場所へと様変わりしていきます。

なぜ然るべきところに配置すると心が落ち着くのか、それはそこに自然の姿を直観することができるからです。自然というものの中に、人間が入っているという安心感が落ち着くという気持ちを創造しているのです。

本来、自然というと野生という見方もあります。そこには人間が入っておらず、自然は野生のままということでここが落ち着くという具合にはすぐにはなりません。その野生の中に、人間がどのように入っていくかで人間も混じり合った野生、つまり自生自然となります。

そこでは、自然のあらゆる生態系と混淆して渾然一体になっていきます。

すると、人間が自然の中に入ることで人間と相性の善い植生や昆虫たち、あるいは菌類までが集まってくるのです。その中で心も調和するような暮らしがはじまれば、長い歳月を経て仙人がいるかのような雰囲気が出てきます。それがわびさびと言う人もいれば、懐かしいという人もいます。

いにしえから今までの間、私たちはどのような暮らしを結んできたのか、そしてどのような生き方を尊んできたのか。その原点に出会えます。それがお山での暮らしの正体です。

自生自然がはじまり、これからが本番です。

引き続き、子どもたちの未来のためにも今どのような調和が必要なのか。この場所で実験していきたいと思います。

暮らしフルネスの日々

昨日から英彦山の守静坊で結の人たちと一緒に仙人苦楽部と古い参道をお手入れしています。もともと、私はこの仙人苦楽部はイベントのようにしたいわけではなく日々の暮らしの中で知恵を持った人たちと共にすることでその生き方や先人からの遺徳、さらには叡智を子孫へ伝承していこうとする活動になります。

今回は、長年放置され誰も通らなくなってしまった古道が土砂や枯れ木、水害などで破壊されていてそれをもう一度甦生し、参道を歩けるように繋ごうとする活動です。

もともと道が廃れるというのは何か。

これは道を歩かなくなるからです。道が歩かなくなるのはなぜか、それは本来の道がわからなくなるからです。本来の道とは、いにしえのむかしからどのような心でその道を歩いたか、その人たちが通り続けるところに本当の道があるのです。

この道を甦生しようとするのが私の試みです。

そして道を甦生するには、どのような心であるか、どのような精神であるか、どのような姿勢、どのような生き方、どのような働き方、どのような人たちかということがとても大切になっていきます。

心を一つに合わせて、道を甦らせていくのです。

有難いことに、この道を甦らせたいという声をかけたら有志が集まってきます。その人たちは、損得度外視で徳を積むことを喜びに参加してくださいます。そういう人たちとこの人生で出会い、そして共に汗を流し、一緒に喜び合う時間はまさに真の豊かさと邂逅があります。

道は途絶えたのではありません。

道を見失っているだけです。そして道は見失ったらもう一度、みんなでこの道だったかと探し出せばいいのです。そして道が見つかったならそれをお手入れしてもう一度歩き始めればいいのです。そうしているうちに、道が踏み固められまたむかしの道が新しくなり道の続きがはじまります。

参道を甦生するというのは、どういうことか。また英彦山やお山から教えていただきました。心から感謝しています。皆さんと一緒に参禅し、穏やかな気持ちで感謝し合える暮らしはまさに道そのものを再発掘できます。

暮らしフルネスな時を、今日も過ごしていきたいと思います。

憧れる生き方

子どもの憧れる社会の一つに、仕事観というものがあります。将来、自分は何をして生きていくか、それが自分の仕合せや喜びにどうつながっていくのかということをわくわくと取り組める社会のことです。

日本は、義務感や責任感が仕事をすることの基本として教えていてあまり楽しそうにしていたり、自由に働いていることを良いことのようには教えません。特に学校というところもハードな仕事で残業もなく、精神疾患などが増えているということもよくニュースで流れています。

本来、憧れる職業の上位にあったものが今ではハードワークの代名詞のようになり担い手も減り、子どもたちもその仕事を夢とはしなくなりました。子どもたちにキャリア教育を指導することも大切かもしれませんが、本来は自分たちがどれくらい豊かに幸せに楽しく働いているか、そんな環境を調えているかということに向き合う方が先ではないかと私は感じます。

そういう私も、日本の社会のなかで目立つとすぐに色々と厳しい指摘があります。どれも有難い言葉として受け取ってはいるものの、子どもたちのこの先の行く末のことを思うと本来はもっと寛容な部分があってもいいのではないかと思うのです。

みんな勇気を出して、人と異なることをしてでも世の中のお役に立ちたいと思っているものです。しかし何か新しいこと、理解できないことをやろうとするとすぐに否定されたり、クレームが入ってきたりします。もちろん、新しいことをやるには秩序が乱れることもありますがそれでも何のためにやるのか、その初心が何か、目的がどうなのかを聴いてみるとそれはこの先の未来に必要なことだったりすることがほとんどなのです。

そういう時は、文句を先に言うのではなくどのようなフォローができるだろうか、どのように見守れるだろうかというのが大人の対応ではないかと感じるのです。子どもたちが同じようなことを挑戦し、新しいことをして世の中や社会をよくしたいと夢に挑戦するとき、自分はどちらの大人でありたいか、どうせ無理だと諦めるように促すのか、それともやったことは必ず意味があるから、フォローしたりカバーするから挑戦してみようと励ますのか。私は、これからを生きる子どもちたちが理想の社会を築いていけるように見守りたいと思うのです。

人は自分が仕合せでなければ、人の仕合せを喜べません。まずは自分自身の幸福、仕合せを感謝で磨いて高めていかなければ他人の成功や成長を支援できないように思うのです。

だからこそ、このいま、この瞬間を大切に夢を生き、夢を味わい、苦労ができる有難さや挑戦させていただける喜びに感謝していくことからが子どもの見本になるように思います。

まず正しいことを教えるよりも、喜びを感じてもらうことの方が生き方は換わるものです。引き続き、子どもたちの未来のためにも自分の生き方で力になれるように精進していきたいと思います。

太古の未来

私たちが集合意識の中で持っているものに「個」というものがあります。英語で言えば、「I」というものです。私ともいいます。個人主義という言い方もあります。現在は、自国ファーストといって自分の国のことだけを優先するという風潮になっていますがこれも個に偏重することによって行われているように思います。

太古のむかし、私たちはどれくらい個というものを意識したのだろうかと想像してみます。縄文時代、あるいはもっと前の時代。どう生きたのかと思いを張り巡らせてみます。

ひょっとしたら、個別の意識はなくみんなで一緒に生きているという感覚が強かったのではないかと思います。動物植物たちももちろん競い合って生きているように感じます。自然淘汰されるなかで、強いものが生き残ります。それを弱肉強食というような言い方もします。しかしよく考えてみると、この考え方も人間が勝手に集合意識の中で刷り込んだ思い込みの世界です。

本当に、自然界、あるいは動植物たちはそう思っているのか。

個を突き詰めると短命になるのではないか、そんなことを思うのです。今の経済のあり方や教育の仕方からすれば理屈では説明できない理解できないものかもしれません。しかしあまり個の意識がなかった時代は、果たして自分のためだけに財を独占しようとしたり、短絡的で短期的なリターンを求めたかなと感じるのです。

そもそもいのちは循環していて、みんなつながっていて分かれていないし個も存在していない、ただいのちの天命というか役割やお役目が存在しているということを達観的にみんな当たり前に意識するかのような自然観がある生き物たちは、そんなに自分がとか私がとかを優先していなかったようにも感じます。

現に、動植物たちも争ってはいるように人間が見えていても実際には形を変えた共生をしているとも言えます。みんな分け合いながら、助け合いながら生きているという見方もできます。つまりは、物事のとらえ方や意識を変えなければ太古の人たちの生き方を感じることはできないということです。

現代からすれば、太古の時代というのはちょっと理解し難いことばかりかもしれません。しかし、太古の人たちから現代を観たらもっと理解し難いことをしているようにも思います。

人間は一体、何がしたかったのか、その問いは終末期まで続くものです。

しかし何が仕合せかというのは、記憶の中にいつまでも残っているもののように思います。懐かしい記憶を辿りながら、真の豊かさや仕合せを子孫たちに伝承していきたいと思います。

変化の正体

私たちの日常は同じ日々、同じものがあるように感じられていますが実際には同じというものは一つもありません。同じであるものを探しても、いくら同じ型で大量生産したとしても同じではないのです。時間もたてば、そこで使われている材料やタイミングも異なります。そしてそれに触れた時点で、また同じものではなくなります。

ミクロでみても、人間や生き物も細胞一つ一つは常に入れ替わっていきます。体にいる菌においても、あらゆる組み合わせで一緒に生きています。同じということはありません。またマクロでみると、私たちの地球も時速1,600kmで自転しながら、太陽の周りを時速10万kmで公転しています。しかも太陽系は銀河系の軌道を時速85万kmで公転し、銀河系は膨張する宇宙とともに秒速630km(時速約216万km)の速度で移動しているともいわれます。

止まっていると思っている時間や場所であっても、私たちは猛スピードの中で遠くへと運ばれている最中ということで同じ時、同じ場所はないのです。常に一期一会であり、二度と同じ今はないともいえます。

しかし人間は、妄想というか概念の中に同じものを無理やり構築していきます。同じではないことにクレームを出したり、いつまでも同じ状態が続くことが当たり前だと思ってしまうものです。健康も、いつまでも元気だと錯覚していますし空気や太陽などもいつまでもあるものと思うものです。

それが時として災害や病気、死に直面した時などにバグが発生します。こんなはずではないや、こんなことが起きるはずはないと思うのです。しかし、よく考えてみると同じような日々が送れることが奇跡そのものであり、同じであると思えることが当たり前ではない有難いことであることがわかります。

同じものはないからこそ、同じようなものに感謝の気持ちが湧いてきます。

この今も、今日も、同じようにあることが如何に奇跡であるか。そういうものに気づく感性は、変化に気づく感性ともいえます。変化し続けているものに合わせて、自分も変化させ続ける。そうやって万物は全体と調和し続けています。先ほどのミクロであれば、体の変化に意識を合わせていくこと。そしてマクロであれば銀河や宇宙の動きそのものに意識を合わせていくこと。

人間は自分の都合で変化をやめるとき、知恵から離れます。知識というものは、意識の固定に役立つのであり知恵の活用にはほとんど役に立ちません。私たちの感覚というのは、それだけ変化に適応するように備わっているということです。

この世の中は、感覚といのちが構成されているもので本来は成り立っています。そういういのちの繋がりやいのちの変化にいかに感覚を研ぎ澄ませていくか。これからの時代、人間が社会を切り取って同じであると洗脳する意識のなかで本来の変化に適応する力がそれぞれに求められるはずです。

こういう時代だからこそ、先人が研ぎ澄ませてきた感覚を大切にしていく必要を私は感じます。子どもたちにも感覚の大切さに気付いて、それを磨き直していくための環境をととのえていきたいと思います。

観音様の生き方

観音様を深めていますが、観音様の真言というものがあります。この「真言」とは古代インド語のサンスクリット語でマントラ(Mantra)と言われる言葉のことで「真実の言葉、秘密の言葉」という意味です。空海の般若心経秘鍵によれば「真言は不思議なり。観誦すれば無明を除く、一字に千理を含み、即身に法如を証す」記されます。私の意訳ですが、真言はとても不思議なものである。この真言をご本尊を深く実観するように読んでいると知らず知らずに目が覚め、一つの字の中に無限の理を感じ、直ちにそのものと一体になり悟ることができるという具合でしょうか。

この観音様の本来の名前はサンスクリット語では、「アヴァローキテーシュヴァラ」(avalokiteshvara)と記されます。もともと般若心経などを翻訳した鳩摩羅什はこれを「観世音菩薩」と訳し、その観世音菩薩を略して観音菩薩と呼ばれるようになりました。この鳩摩羅什(Kumārajīva)という人物のすごさは、母国語がインドでも中国でもなくウイグルの地方の言葉が母国語でしたがその両方の言語の意味を深く理解し、それを見事な漢訳の言葉に磨き上げたことです。これは仏教の真意を深く理解し、それを透徹させてシンプルになっているからこそ顕れた言葉です。これは意味を変えないままに言葉と事実の折り合いをつけその中庸のまま中心が本当はどういう意味かという真意を的確に理解しているからこそできたものです。これによって仏の道に入りやすくなったということに厚い徳を感じます。

今でも私たちはそのころに漢訳されたお経を読んで生活しています。西暦400年ごろから今でも変わらずそれが普遍的に読み継がれるのはそれだけその言葉が磨かれ本質的であるということの証明でもあります。そこから約200年後、三蔵法師で有名な玄奘三蔵はこの観音経の真言を「ava(遍く)+lokita(見る)+īśvara(自在な人)」とし観自在菩薩と訳します。つまり鳩摩羅什による旧訳では観世音菩薩とし、玄奘三蔵の新訳では観自在菩薩となりました。

それを私の観音経の解釈では「円転自在に物事の観方を福に循環する徳力がある」と現代に訳します。つまり、自分の物事の観方を変えて、すべてのことを福に転換できるほどの素直さがある仏ということです。これは観直菩薩でもいいし、調音菩薩でもいい、観福菩薩でも、そう考えて訳している中で当時最もその人が深く理解したものを言葉にしたのでしょう。大事なのは、その意味を味わい深く理解し自分のものにしていくということが親しむことであるしそのものに近づいていくことのようにも思います。

最初の観音様の真言に戻れば、観音菩薩の真言は「オン アロリキャ ソワカ」は「Om arolik svaha」といいます。これもまた私が勝手に現代語に意訳してみるとこうなります。

「おん」=私のいのちそのものが

「あろりきゃ」=穢れが祓われ清らかさに目が覚め、物事の観方が福となることを

「そわか」=心からいのります

『私のいのちそのものが穢れが祓われ清らかさに目が覚め、物事の観方が福となることを心からいのります。』

とにかく「善く澄ます」ことということです。実際にその言葉の意味をどのように訳するかは、その人の生き方によって決まります。その人がどのような生き方を人生でするかはその人次第です。それは自分でしか獲得できませんし、他人にはどうにもできないものです。しかし、先人である観音様がどのように生きたのか、そしてどのような知恵があって自ら、或いは周囲の人々を導き救ってきたか、それは今もお手本にできるのです。

私たちが目指したお手本の生き方に観音様がとても参考になったというのは、私たちのルーツ「やまと心」が何を最も大事にしてきたのかということの余韻でもあります。

時代が変わっても、響いて伝わってくる本質が失われないように生き方で伝承していきたいと思います。

 

 

命の経済と徳の循環する経済

ジャックアタリ氏という人物がいます。この方は、1943年、アルジェリアの首都アルジェ生まれで思想家、経済学者、文筆家と言われます。具体的にはフランスのミッテラン元大統領の経済顧問を務めた後、欧州復興開発銀行の初代総裁、経済成長に関する仏政府委員会委員長などを歴任されています。

最近、「レコノミー・ド・ラ・ビー(命の経済)」という著書が出て早速購入してみました。すると、私の目指している徳積循環経済や暮らしフルネスに近いことが書かれていて驚きました。

知の巨人による近未来の予測は、現実的には歴史に則ったもののように私は思います。ジャックアタリ氏も、利己主義がつくりあげた経済ではなく利他的なものが必要ではないかと、私は二元論は嫌いなのですが敢えて両輪という言い方をし、片方だけではなく同時にもう片方の車輪をまわしていく必要性を実践で伝えています。

ジャックアタリ氏の命の経済にはこういう文があります。

「私が今後の世界で鍵となると考えるのが「利他主義」だ。他人のために尽くすことが、めぐりめぐって結局は自らの利益になる。例えばマスクを考えてみよう。他人を感染から守るために着けるが、同様に他人も着ければ自分の身を守ることにつながる。「利己的な利他主義」の好例だ。自らに利益がなければ、人は利他的になりにくい。外出制限は利他主義の対極にある。自己の中に閉じこもるだけの愚策であり、経済危機も引き起こした。パンデミック後の世界は他者としての将来世代の利益を考慮しなければならない。何が将来世代にとって重要なのか。政治家らも考える時だ。人類の安全保障や将来のため、生活のあり方や思考法を変えて「命の経済」に向かわなければならない。新型ウイルスに限らず、気候変動による危機なども叫ばれる中、国際社会には総力を挙げた取り組みが求められている。」

言い換えれば、もっと子孫のための経済をつくろうということです。縦の糸のことです。本来は、縦軸という連綿と続いてきた人類が最初からずっと大切にしてきた徳の循環があってその中に横軸としての地球規模というものがあるということです。

利己的というのは、今の自分たちの世代のことしか考えず判断したり行動することです。それぞれ一人一人が、己に打ち克ち己を律するのは子どもたちや子孫のことがあるからです。

将来世代のことを思えば、自分たちはもう一度今の暮らしそのものを見つめ直す必要があると感じています。それが私の提唱する暮らしフルネスです。暮らしを変えていけば、おのずから生き方も変わります。暮らしは、人の生き方の顕現したものであり、どのような暮らしを続けるかは子孫に譲り残していきたい徳を積むことになります。

まさに今の時代は、誰かに依存したり特定のリーダーや国家に命を委ねるのではなく自らの命を自らが責任を持ち、いのちが喜び合うような社会づくりをみんなでできるところから実践していく必要を感じます。

暮らしフルネスの実践を使命感をもって取り組んでいきたいと思います。

場の伝承

むかしの遺跡に巡り会うとそこには色々な人たちの思いが結ばれている痕跡があります。かつての人がどんな思いを持ってその場に関わったのか、そこには物語があり歴史があります。

静かに思いをその場所に佇み、巡らせているとその場所から聴こえてくる音があります。この音こそ思いの本体であり、その音を聴くことによって人々は心が結ばれ調和していくようにも思います。

この音とは、物語でありその物語をどのような心境で聴いたかという生き方が顕現したものです。私たちは生きていると、手触り感というものを感じます。体がある感覚であり、それを触れるという感触です。いのちはこの感覚を通して生きていることの実感を得られます。物語というのは、まさにその感覚の集合体でありその物語に触れるときに人は感覚が目覚めるともいえます。

遺跡というものは、触れることによって目覚めていきます。教科書や本に書いているものをみても伝わってはきません。その場所にいき、お手入れをしてこそ感じられるものです。

そもそも修養するということや、修行をするというのもその場所によって磨かれるものです。その場所とご縁を結び、その場所から感得したものを共感し伝承していくなかで顕在化していきます。

その感性は、五感や第六感と呼ばれるものによって得られており知識ではなく知恵であることは自明の理です。

本来のあるべき姿、人々が何千年も前からどのように様々な知恵を伝承してきたか。その仕組みは、知恵を知恵のままに感受するものです。

子どもたちの未来のためにも、本来の伝道や伝承が知識にならないように実践を継承していきたいと思います。

いつまでもご縁

人生は出会いと別れの連続で存在しています。生まれる前から出会いが始まり、死んでも別れは終わりません。常にご縁に生き、ご縁に死に、生死をめぐるご縁というものがあるだけです。そのご縁は、いろいろな理由をつけては関係性が結ばれますがある時には親子になり、またある時には夫婦になり、またある時には敵味方に分かれていきます。

その関係の中で、お互いに生き方を重ねながら学びあっていきます。学びあうというのは、成長しあうということでもあり一緒にご縁を磨きあっていのちを分け合っていきます。

このいのちの分け合いというのはご縁の本体でもあります。どのようにお互いのいのちを分けたのか、分け合ってきた歴史こそご縁の軌跡でもあります。その分け合ったいのちが、次の何のいのちに結ばれていくのか。それは出会い別れを繰り返しながらかたちを変えては循環していきます。このいのちの循環こそが、ご縁の素晴らしさであり奇跡です。

この今も、私たちは何かを食べ、そして飲み、空気を吸って吐いてはいのちを保っています。これも何かのご縁でそうなっていて、また私たちはそのいのちを分け合い新たないのちに甦生させています。

そもそも甦生というのは、いのちが循環することをいいます。私はいのちとしてそのものを感受し、そのいのちを新たないのちとして結び直すことを意識して暮らしを紡いでいます。本来、自然がわかるというのはこのいのちの道理や仕組みのままで存在しているということであり人間はそのとき、真の仕合せに気付けるように思います。

そしてそれを私は徳を積むとも定義しています。もともと存在するもの、そのいのちに感謝して新たないのちのご縁でいる。

いつまでもご縁であると思えば、この今のご縁を深く味わうことこそが人生の醍醐味であることに気づきます。子どもたちとのいのちのご縁がどうなっていくのか、とても楽しみです。