変化の創造

成熟してきた業界のことを観察していると、今までの仕組みが邪魔をして変化が停滞していしまっているところがよくあります。その時代時代に、課題がありそれを解決するためにはじまるのですがその時に作った仕組みやシステムが陳腐化してくるのです。

その時は、それでよかったものが時代が経つとそれが変化の邪魔をするのです。そもそも移り変わっていくということが分かっていれば、移り変わる中で何が今の時代の要請なのかということを常にとらえて学び続けることができます。しかし、日々の忙しさに追われてそんな時間が取れなくなると次第に移り変わることを忘れてしまいます。

あまりにも目先のことや日々のことに追われていくと、人は変化に疎くなるのです。

変化していくためには、少し忙しさから離れて世の中の変化をよく見つめ直す時間が必要です。もしくは、忙しくしない日々を生き、常に変化というものを見つめる観察眼を養う必要があるように私は思います。

かつての人たちは暮らしの中でその観察眼を磨いてきました。

日々の小さな変化、自然の変化に目を凝らし、小さな虫一つ、植物の変化一つを気づき、そこから世界の変化を予測していました。自然界にも兆しというものがあり、世界の反対側で起きていることでも小さな自然の変化から想像することができるのです。

今は、テレビやインターネットで世界の反対側の情報も映像などで入ってきますがむかしは長い時間と小さな変化を観察することで情報を入手したのでしょう。もともと地球は球体ですから、投げたものは長い時間をかけて返ってくるものです。これは意識の変化も同様です。歴史が刻まれていく中で、人間の意識も少しずつ変化していきます。

コロナがあり、戦争があり、人間の心理や感情も刻々と変化していきます。

毎日は同じように見えても同じことは一つもありません。

その時々によく観察し、原点回帰しながらも何が変わったのかを見極めて順応していくしかありません。昔と比べてではなく、まさに今がどうなっているのかに集中するということでしょう。

子どもたちの未来のためにも、新たな変化を創造していきたいと思います。

英彦山の甦生のはじまり

昨日は、英彦山の宿坊、守静坊に120人以上が集まりみんなで茅葺屋根の茅を運び入れました。大きなトラックで6台分くらいあったでしょうか。一軒の家の屋根にこんなにも大量の茅を使うのかと驚きます。先日、阿蘇に茅を刈りにいきましたがその作業も大変な作業でしたからこれをこの数と思うと、改めて職人さんたちの労力や仕事に頭が下がる思いがしました。

現在、この宿坊は昭和のリフォームで茅葺屋根がトタン屋根に変わっています。もう地元で茅を育てている人たちもなく、みんなで茅を葺く文化も消失しました。できないのだから他の方法でということで、トタンになったのでしょう。トタンは便利で、茅を丸ごと囲いますから茅に雨が染みこむこともありません。茅は、そのままにしていると傷みますから定期的なメンテナンスが必要になります。

むかしは、常に囲炉裏に火が入っていたから茅も燻されて防カビや防虫などもしてくれ長持ちしました。現代は、燻すこともありませんからすぐに茅も傷んでしまいます。どう考えてもトタンからわざわざ茅葺にすることは見た目が良いメリット以外には大きな費用がかかるし、この先もずっとメンテナンスできるかという問題があるからと二の足を踏む人が多いといいます。それはよくわかっています。一般的には無理だと諦めるかもしれません。しかし、私は別に家をリフォームしているのではありません。

私は、古民家甦生を通して日本の懐かしい未来を甦生しているのです。なので茅葺屋根は私にとってはメリットしかないのです。やらない理由はまったくないのです。この茅葺屋根を葺くという行為自体が、懐かしさの源流であり、現代にも連綿と続いてきた真の日本人の心を甦生することになっているからです。

昨日は、みんなで「結」(ゆい)という体験をしながら、たくさんの茅を運びました。みんなで声をかけあいながら、力を合わせて協力しました。午前中だけでは終わらず、その後は有志が残ってくださって残りの茅もほとんど運びました。体力も消耗し、大変ではありましたがみんな心は清々しく笑顔も多く、素晴らしい人たちが一緒に汗をかいてくださっていることで場所全体が輝いていました。そして200年の枝垂れ桜もそれを満開の花と共に美しく揺れながら見守ってくれていました。

この懐かしい未来の光景は、決して文字では伝えることができません。

この場に参加してはじめて、これが「結」(ゆい)なのかと、直観し実感するものです。私はこの光景がいつまでも子どもたちに遺して続いていけたらいいなと心から祈っています。

人はみんな、みんなのものだと分かち合う時、そして誰もが地球では家族の一員だと助け合う時、私たちはそこに繋がっている存在、結ばれている存在の有難さに気づきます。他人と貸し借りができるのも、そして知らない人たちでも協力し合えるの、その時、心はとても豊かになります。懐かしい先人の生き方や知恵に触れるとき、私たちは何かを思い出しています。その何かは先人が私たちに遺してくださった大切な心を伝承し、その当たり前ではないことに感謝を思い出しています。そして私たちはその結ばれてきた今までのご縁の尊さを思い出すのです。

私たちは、ずっとむかしから今も結ばれ合っています。それをまたこの時代も結い直すことが、これまでもこれからも仕合せになっていくための知恵なのでしょう。

英彦山の甦生のはじまりが、この結からであったことに深く感謝しています。

歴史の大切な1ページを皆さんと一緒に、結でめくれたこと一生忘れません。英彦山のお山の徳が引き出された瞬間を感じました。ここからは引き続き、徳を磨き、英彦山から日本全体へとその徳を顕現させ子どもたちの心のふるさとを甦生させていきたいと思います。

一期一会をありがとうございました。

知恵の本質

経験というものは知恵そのものです。人は経験をするという時点で知恵を得ているともいえます。経験をよく観察すればするほどに、そこには知恵が隠れていることがわかります。失敗をすることも成功をすることも、それは実はどちらでもよく大切なのはそこから何を学んだかということです。

この経験は、時間が経つことで観えてくる境地があります。経という字は、もともと縦軸の意味があります。つまり長い時間をかけて培われてきた知恵のことです。お経もひょっとしたら、その経の意味もあるのかもしれません。

そしてその縦軸の経験をじっくりと何回もその時々で観察してみる。すると、時間が経つにつれ、経験の質量が増えていくにつれ知恵が鮮明にかつ多面的に入ってくるようになるのです。

一つの小さな経験が、他の経験の助けにもなります。

よく一つを極めた人が、他でも極めていく道楽者の人たちをみかけますがこれはあらゆる経験から知恵を会得しその知恵によってまた別の道も達していくのです。先達というのは、あらゆる知恵を会得するような経験や体験を修練を積んで得た人です。

私たちは今、頭ばかりつかって知識を得ていますがそれで分別知は磨かれます。わかりやすく整理され、複雑な言語を使い分けまた新しい定義の言葉を産み出せます。しかし現実の世界では、現場がありますから場に真実が出てきます。

その場は、身体感覚や五感、そして直観や第六感などあらゆる全体を駆使して知恵を活用していかなければ物事を真に理解し全体と調和していくことができません。つまり知恵が必要になるということです。

子どもたちには、知恵を学ぶことの大切さを背中で伝えていきたいと思います。自分を信じて、経験をすること、観察すること、そして修練を積み、知恵を磨くことを伝承していきたいと思います。

和やかなテクノロジー

最近、ある人の紹介で「カーム・テクノロジー」(穏やかな技術)のことを知りました。これはシンプルに言えば、人、情報、自然が一体になって調和したテクノロジーのことを言うそうです。

もともと今のような情報社会になることをユビキタス・コンピューティングの父とも言われる有名なエンジニア、マーク・ワイザー氏はすでにその当時から予見していました。そしてそのワイザー氏が、現代のようなユビキタス・コンピューティングの時代に「カーム・テクノロジー」というコンセプトが必要になると予言していました。

このコンセプトは、テクノロジーが暮らしの中に溶け込み、自然にそれを活用しているという考え方です。このコンセプトは約四半世紀を超えて、人類に求められてきているテーマになっているということです。日本でも、この考え方を実装するためにmui Labという会社が京都に創業しています。この会社が監修したアンバー・ケース著の『カーム・テクノロジー 生活に溶け込む情報技術のデザイン』(BNN 2020年)にわかりやすくその内容の一部を整理しているので紹介します。

「テクノロジーが人間の注意を引く度合いは最小限でなくてはならない」

「テクノロジーは情報を伝達することで、安心感、安堵感、落ち着きを生まなければならない」

「テクノロジーは周辺部を活用するものでなければならない」

「テクノロジーは、技術と人間らしさの一番いいところを増幅するものでなければならない」

「テクノロジーはユーザーとコミュニケーションが取れなければならないが、おしゃべりである必要はない」

「テクノロジーはアクシデントが起こった際にも機能を失ってはならない」

「テクノロジーの最適な容量は、問題を解決するのに必要な最小限の量である」

「テクノロジーは社会規範を尊重したものでなければならない」

もともと、この「カーム・テクノロジー」(穏やかな技術)はなぜ必要になるのか。これは私なりの考え方では、自然を尊重するなかで如何にテクノロジーとの共生をするかは人類が生き延びるための普遍的なテーマだからです。これは避けては通れず、やり過ぎればどの文明も自分たちの技術によって滅ぶのです。これは歴史が証明していますからいつの時代でもその時代に生きる人が取り組む課題になるのです。そしてこの課題が発生する理由は、そもそも道具というものを使い進化するということの本質にこそあります。

元来、道具というものは、全て使い方から産まれるものです。そして使い方は、使い手の人間力そのものによって最大効果を発揮します。使い手が如何に人間的な徳を磨いてきたか、そしてその徳を積む環境の中で道具と調和をはかったきたか、そこには時代に反映された生き方と働き方があります。

道徳と経済の一致の話も同様に、人はどの時代においても謙虚や自然への畏敬、そして自分たちの文化や歴史を洗練させてきました。この時代においても、それは必要で今の時代は特にテクノロジーで便利になり過ぎているからこそ危険なのです。

自然環境が破壊されるのもまた、その行き過ぎた消費文明の中の技術主義にこそあります。技術が技術を調和するには、確かに私もこのカーム・テクノロジーが行き過ぎたテクノロジー依存の人類には必要だと実感しています。道具だけ進化させても人間力が伴わなければ片手落ちになるからです。それは、今の人類の核の利用をみても明白です。

私ならこういう時は先人に倣います。自立した先人たちがずっと大切にしてきた伝統的な日本の和の暮らしをととのえながら、その時代に発明された道具を必要最小限で最大の効果を発揮する仕組みを知恵として生活に取り入れるのです。

私が提唱する暮らしフルネスは、古民家の懐かしいもの、宿坊の仙人的な知恵に囲まれていますが文明のテクノロジーは否定していません。むしろどれだけテクノジーを人間力で高められるかに興味がありそれを実現させようと取り組んでいるのです。これを徳という砥石を使ってやりましょうと話しているのです。言い換えれば、私なら穏やかではなく「和やか」というでしょう。そしてこの和やかな暮らしこそ、人類を救うと私は確信しています。

和やかなテクノロジーを、この日本、この福岡の地から発信してみたいと思います。

平和を持続させるために

私は、20年間、子どもに関わる仕事をしてきました。その子ども観というものは、子どもは生まれながらにしてすべてが備わっている完全な人間そのものであるというものです。

人間そのものというのは何を言っているのかというと、人間とは徳そのものであるということ。もう一つ進めると、もともとのいのちはすべて徳であるというものです。これは人間に限らず、全てが完全ですべてがいのちの一部。それを尊重しようという考え方です。

これは子どもに限らず、私は万物全てに徳が備わっていると思っていますから現在の古民家甦生だけではなくすべて取り組んでいるものはこの初心と観点を働かせて実践しています。

足りないから補うのではなく、本当にそのものの役割を発見して活かしていくという発想です。これは日本人の伝統的な価値観、もったいないなどにも通じるものがあります。

子どもは最初からすべてを備わっているからこそ、余計なことをしない。余計なことというのは、備わっていないと、足りないと、これはダメだや間違っているなどをということを無理やりに教え込まないということです。きっと、何か理由があってそうしているのだろうと尊重し尊敬して見守るということです。

これが私たちが社業で取り組む、見守る保育の考え方から学んだことです。

子どもは丸ごと信じてこそ、本当の意味で私たちが子どもから学び直し、子どもように素直で正直なままに自立して自分の天命を全うしていくことができると私は思います。

そもそも自立というのは、自分の自立ですがこれが人類の自立にもつながります。今のように世界を巻き込む戦争が起きそうなときこそ、教育者たちは真実と向き合い、平和ボケするのではなく「真の自立とは何か」ということを正対する必要があります。

真の自立をするのなら、人類はもっと優しくなり思いやりを忘れずに悍ましい戦争もなくなっていきます。人の心が貧しくなり、荒廃するからこそその結果、環境に現れていくのです。だからこそ、人の心に真の豊かさを甦生させていくことが末永く平和を持続するための知恵でもあります。

私が取り組む、場も暮らしフルネスも起点はすべて子どもを見守ることからはじまっています。こんな時だからこそ、希望を忘れずに自分の天命を全うしていきたいと思います。

真の知恵

現在、英彦山の宿坊の甦生に取り組んでいますが、仲間や同志たちからたくさんのメッセージや連絡が入ります。私が今、ちょうど必死に取り組んでいるのを汲んでくれているのか、温かく強い言葉をたくさんかけてくれます。

みんなそれぞれの場所で、自分の信念と生き方を守るために自己と向き合い周囲に流されずに踏ん張っています。時代の中で、何度も生まれ変わる中でこうやって友達に再会しそれぞれで励まし合っていくのはとても仕合せなことです。

コロナで不要不急といって、色々なものが失われていきました。

その中には、決して不要不急ではなくても普遍的で何よりも大切な伝統や文化、そして伝承なども失われていっています。そして経済を優先するように働きかけ、経済と関係ないものは後回しという具合にもなってきています。

実はいつの時代も、今回のコロナのような感染症が流行した時もあり、今のように戦争が起きて日常生活が一変したことは人類は体験してきたのです。

しかし今でも、文化が失われず、日本人としての生き方がそれぞれの人や場所に遺っているのはそれは先人たちがどんな過酷な環境下であっても守り通してきたからに他なりません。

つまり今の自分の存在こそが、先人の生きた努力の結晶の証なのです。

そこに私たちは真の誇りと心のやすらぎ、そして居場所を得るのです。

最近は、居場所がないと苦しんでいる人が増えています。それは先祖や先人たちとのつながりが希薄になっているからです。私は家系図を辿ったこともあり、そして家系図で出会った先祖をその後にお祀りすることになり、今では歴史のつながりの深い場所や人、そしてご縁を大切に生きています。

御蔭様でいつも心の深いところに居場所があり、いつも身の周りには先人からの知恵とご加護とお守りに包まれて暮らしていくことができています。

私に言わせれば、「コロナで不要不急だからこそ、本当に大切なものを守る。」ことが今を生き、これからを生き延びるための真の知恵だと感じています。文化に携わる友人たちは、みんな今、大変な想いをしながら自己を磨き利他に挑戦しています。

私もみんなの元氣の一つになれるよう、みんなが勇気を出すためのチカラになれるよう、私の持ち場を守っていきたいと思います。

お互い様の存在

人は人を信頼していると、色々な助けが入ってきます。その助けは、その人に勇気を与え、その人が持っているポテンシャルを引き出す原動力になっていきます。私の人生を振り返りと、いつも人に助けてもらってきた人生であることがわかります。

その助けは、もっとも身近な家族、そして親族、そして同志や友人、またはこれまで出会った素晴らしい生き方をなさっている先人たちからいただきます。そういう思いをいただきそれを心に抱いて挑戦していきます。

この挑戦は、当然結果も出しますがそれ以上にそういうものをいただいて挑戦したという事実に心底救われます。救いというのは、助けと共にあり人が助けを求めるとき救いが顕れるのです。

そしてこの助けには、大前提として人を信頼しているというその心を研ぎ澄ましていることが大切だと感じます。それは赤ちゃんから学び直せます。私たちは最初は赤ちゃんからはじまります。産まれてすぐの私たちは裸一貫で自分だけでは生きていけません。そこで親を頼り、周囲を頼り、はじめて生きていくことができます。

最初からそんな状態ですが自立していく上で、自分も同じように赤ちゃんを守るような力を持てるようになっていきます。しかし、よく考えてみると思うのです。実は、いくら大人になっても自分だけで生きることなど不可能ではないかと思うのです。

だからこそ私たちは自立というものを勘違いしてはならないと思うのです。自分一人できるようになるから助けを必要としないのではなく、常に生まれてから死ぬまで私たちは助けてもらうことで生きていけます。助けてもらう状態、つまり人を信頼したままで、今度は助けをお返しできる人になりたいと「お互い様」が当たり前にできるように学び盡していくのです。

お互い様というのは、感謝を忘れていない赤ちゃんの心であり感謝そのもので信頼している人間そのものの純粋な姿でもあります。子どもたちに、何かを遺したいと精進していますが私自身は子どもたちからいつも救われています。子どものことに関われる人生に心から感謝しています。

これからも子どもや赤ちゃんから人間としての純粋で素晴らしい存在を学び続けていきたいと思います。

日本の初心

現在、英彦山の宿坊の甦生に取り組んでいますがいつものことながら困難続きです。だいぶ、これまでの経験から慣れてはきていますが信じているものの現実の対応には決断ばかりが必要で心身の疲労は蓄積していきます。

振り返ってみると、これまでも古民家甦生は無理難題ばかりの連続でした。当然ながら、費用の問題。大工さんや職人さんたちは一生懸命に取り組んでいますからそのお支払いが必要です。なぜ今までなんとかなってきたのが不思議で、その都度に知恵を出したり周囲の方々からのご寄付があったりして何とかなってきました。

そして次に建物の問題。私がやるところは皆が手入れをやめて荒廃していよいよ最期かというところのものしかご縁がありません。中もぐちゃぐちゃで、木材などもシロアリ被害にあっていて思った通りに工事が進みません。

他にも私の無知からの不手際でご迷惑をおかけしたり、本業の仕事ができなくなりみんなに迷惑をかけたり家族との時間が減り家事を任せきりになっていたりと、いろいろとあります。

何よりももっとも大変なのは、本質を守り続けるためにブレないで最後まで貫遂するための自分自身との正対です。

私が取り組むときに最初に決めるのは、「家が喜ぶか」「本物の和にしたか」そして「子どもに恥じないか」と定めます。今回の宿坊はそれに加えて、お寺ということもあり「布施行」を貫き仲間を増やし、「いのりの場」として子孫に繋ぐためのプロセスを重んじたかと、取り組みの際の自戒を定めてやっています。

何度も費用のことや、楽にやろうとしたり、時間がないなかで時間を敢えてかける方を選択したり、ブレないで自戒を大事に守り取り組んできました。夜中に夢に魘されたり、山の中の寒さで冷え切り体調が著しく崩れたり、心ここにあらずで怪我をしてしまったり、ストレスで頭痛や胃腸を悪くしたりと、思っていた以上に堪えました。

しかし、そんな時こそ足るを知り、いただいている方を観て感謝して同時に信じてくれた自分や周囲の御蔭様に勇気をいただき前進してここまで来ました。周囲からは、順風満帆で明るくやっていますし私自身も弱さを公開せずに徳を積む仕合せをこぼれさせようと顔晴っていますからなかなかこんなことを伝えることがありません。

むかしの諺に「武士は食わねど高楊枝」があります。 これは誇り高い武士はどんなに貧しくても、腹いっぱい食べたかのように楊枝を使って見栄を張っていたというものです。これは見栄をはっていたのでしょうか?

実際には、江戸時代の武士の多くは今でいう政府や役所のお役人でした。彼らの多くは私利私欲に走ることなく世の中のため、民衆のためにと働いた公人でした。現代のように裕福でモノに溢れた時代もある中でも為政者としての武士の倫理規範をもち、無私の奉仕、誠実な生き様を痩せ我慢をしてでも実践した言葉です。

この時代、価値がないと捨てていく大切な伝統や本物の文化が荒廃していくのを見すごせないと私のようななんでもない凡人でも環境がなくても真摯に取り組めば甦生はできるとその姿に何かを感じてほしいと宿坊の甦生に取り組んでいます。

かつての山伏もまた、山で暮らし山を守り、日々に修行に精進して気品高く人々のために盡してこられました。私にとっての山伏は、先ほどの武士は食わねど高楊枝で尊敬する先人であり先達なのです。

その暮らしを甦生するためにも、私自身が同じ境地を少しでも感じたいとこの今も甦生に取り組んでいます。今回の宿坊の甦生、英彦山の甦生は、できる限り多くの方々のお布施や托鉢、そして英彦山を愛し、日本の誇りを甦生するための寄付をなるべく多くの一人ひとりから集めたいと願っています。

それが日本人の心のふるさとを思い出し、日本の初心を甦生させることになると信じているからです。途中経過になりましたが、今の私の心境です。皆様の心に何かが伝わり、一緒に徳を積むことの仕合せや喜びがこの社会をさらに磨き上げて素晴らしくしていくことをいのっております。

宿坊が甦生し、皆さんにお披露目できるのは新緑の頃になると思います。

ぜひ、この「いのりの場」に来ていただくご縁がありましたら心に懐かしい未来の美しい風景が宿りますことを念じております。残りの期間、しっかりと取り組みます。

一期一会

希望を育てる

人は、どうしようもないと思うと諦めるものですがそれが本当に大切なことであれば諦めることで思考が停止してしまうものです。諦めるのにもいくつかあり、人事を盡して天命を待つのような諦めと、あとは周りがそう言っているのだからと諦めるものでは意味が異なります。

例えば、コロナによって私たちはマスクをつけて今の人と集まらないということを制限されていますがこれがこの先もずっと続くわけではありません。マスクをつけ続けることで発生している様々な問題や、人が場に集まらないことで発生する社会の問題や人間関係や心身の問題なども出てきます。

それをなんでも仕方がないと最初から決めつけて諦めてしまっていたらそのうちすべての思考が次第に停止していくものです。歴史を振り返ると人類は、どんな時も困難に向き合う中で主体的に自分の内側にある創意工夫や知恵を働かせて禍を転じて福とすることで今まで以上によりよいものを誕生させてきました。

私が取り組んでいる、様々な甦生もまた同じことです。

古い伝統的なものを捨てていく問題、伝統文化が消失していく問題、子どもに智慧が伝承されなくなっていく問題、それをすべて資本主義だからや時代の流れだから仕方がないと諦めてしまっているのは思考停止になっているに過ぎません。子どもたちの未来のことを思えば、それを最初から諦めるのではなくかえってすべて福にしていこうとする自らの知恵で今まで以上のものに仕立て上げて甦生していくのです。

人はそのものをどう見るかは、その人の美意識や心境、そして思考が決めるものです。ある人が不可能と思えることでも、他のある人ではそれは可能かもしれません。大事なのは、諦めないことなのです。

ある種、その諦めない中には明るさがあります。つまり楽しみや遊び、そしてもっと面白くしようと思う前向きさがあります。マジメジメジメとした悲壮感やマイナス思考ではなく、気楽さや喜び、そして感謝があったりするのです。

私が思う思考停止しない状態というのは、常に明るく前向きで物事を楽観的にとらえ、今まで以上に面白くして楽しもうという境地を持っている状態ということになります。心が常に動いているのです。

マスコミの影響などを受けて情報を他人任せにしているうちにコロナでなんとなくみんな周囲も思考停止しています。ずっと同じようなことが2年も続けば、みんな諦める人が増えてそれは暗くもなるでしょう。しかし、夜明け前のように様々な光の兆しが出ていますからそれを楽しみ膨らませていく中に希望があります。

未来の子どもたちのためにも、希望を育て導いていきたいと思います。

薬草の面白さ

薬草のことを深めていると、むかしの人たちの観察力の偉大さを感じます。そのものの何が毒で何が薬になるのか、これは特性を見極めないとできないものです。そしてこれを思う時、全ての存在には、その両面を併せ持つという素質のことを洞察していたことに気づきます。

例えば、毒だけの存在はないし薬になるだけの存在はほぼありません。個性も同じく、偏りがあるからそれを活かせば薬になるし、場合によっては毒にもなります。上手に個性を活かせば、社会の中で非常に有意義な使用もできれば、間違えれば残念なことにもなります。

そのものをどう活かすか、そのためにその素材がどうなっているのかを見極めて使うのです。ある時は、毒をもって毒を制すようなこともやってのけるのです。

薬草の知恵は、そのものの素材素質の活用の中にあるように私は思います。

もちろん、分量、加工法、また使い方、投与の仕方、きめ細かく丁寧に使用します。これは、人間活用もまた同様でそのものをどのように活用するのかは、全体を観ながら使う薬草と同様です。

食材で面白いのが、発酵の技術です。発酵させることで、毒を無害化させたり、菌と共生させることで非常に長い間、人間に有益なものにもなっていきます。つまり、同じ菌であっても人間との相性もありその菌の特性を上手に組み合わせるのです。

お酒が薬になるのもまた、その組み合わせの知恵を活用したのでしょう。

この薬草の知恵を深めていると、観察眼が深められ、同時に活用方法によってアイデアも広がります。温故知新の面白さというのは、この懐かしい人たちの心や感覚に触れるときです。

子どもたちにも、先人の叡智が伝承できるように色々と場を遺していきたいと思います。