自然農文化の伝承

昨日は、千葉と福岡のむかしの田んぼで同時に稲刈りを行いました。無肥料無農薬でお米づくりをしていますが今年も無事に収穫ができました。稲と共に一年をめぐるのですが、この実りの時が何よりも有難く感謝が湧いてきます。

特に今年の福岡のむかしの田んぼは、ほとんどは稲に任せていました。といっても、福岡の田んぼはまるで原生林のように周囲の野草たちの楽園であり人工的な作物からすると都会の人がいきなりアマゾンに放り出されたような状態です。まわりの野生的な植物や虫たちからすれば格好の獲物のように激しく攻撃されます。

よく観察していたら、似たような植物から居場所を奪われる。蔓系の植物に巻き付かれる。あとはお米を食べる虫たちが群がってくる。太陽の光を木々や植物に占有される。雀などの鳥や動物たちから食べられ荒らされる。他には水害や台風、日照りの乾燥、きりがないほどです。

これだけの困難がありながらよく実を結んでくれたと感謝の気持ちに包まれます。

千葉とは異なり福岡の方は全体の田んぼの半分くらいしか収穫できませんでしたがそれでもよくここまでの野生に適応して元氣に育ってくれたとそのお米の持つ生命力の強さ、そして数々の困難を乗り越えた逞しさには深く感銘を受けるものがあります。

そういうお米は、凛とした力が漲っており、少しでも食べるとその元氣が体に沁みこんでくるかのようです。

私たちは食べているもので身体ができています。細胞一つ一つは、食べたもののいのちが移動しながら宿り代謝をしては活動を続けます。食べ物といっても、物ではなく、それぞれのいのちの物語があります。どのように育ってきたか、どのような思い出があったか、どのような生き方をしてきたか、それは生き物によってそれぞれに異なります。

野生のなかで、自分のいのちを真摯に燃やしよく生き残ったものは自然に魂が磨かれて強くなります。在来種の種などは、特に何年もその場所で育っていくにつれ強さを増していくものです。

いのちというものは、置かれた環境によって強くも弱くもなります。逞しさというのは、自分のいのちを真摯に全うしたものの持つ表現です。いのちを最も発揮した存在から偉大な魂の豊かさや喜びを感じます。

つい一般的な農業のイメージから、収量や姿かたちや糖度に意識をもっていかれます。しかし、本来は育ち方や逞しさ、元氣さや種の幸福さなどに意識を向けていくものではないかと私は思います。これは農業ではなく、農文化という伝統と伝承です。

そしてこのことは、人も会社も家庭も国家も同様だろうと思います。

子どもたちのためにも、子どもが子どもらしくいられる世の中に向けて自分の目が曇らないように稲のいのちから学び続けていきたいと思います。

未来の可能性

未来の可能性というものは、今の自分の能力で推し量ることはできません。それは未来が予測できないことと似ています。今の自分が、今こうなっていることを40年前やもっと前に予測できたかといえばほとんど予測できていません。そこには数多くの奇跡やお導きがあり、今に結んでいます。

ビジョンというものは、方向性を決めるものですがこうなると未来が予測できるものではないように思います。しかし、そうなると未来を信じるのだからその信じるものを実現するために自分の能力を磨いていくのです。

そうやって人は成長し、進化していくものであろうと思います。

しかし、あまりにも高い理想や現実の世界の価値観とかけ離れたようなことに取り組もうとなると未来の可能性がどんどん小さく感じるものです。本当に実現するのか、実際には不可能ではないかと不安にもなるものです。

実際には、小さく感じても小さなことからコツコツと挑戦をし積み重ねて可能性を広げていきます。特に自然を相手にしてみるとわかりますが、思いどおりなどにはいかず、自分を謙虚に素直に改善していくしかありません。

そうやってコツコツと取り組んでいると暮らしが次第に変わってきます。日々の日常の中で、変化が出てきます。その変化こそ、未来の可能性ともいえるものです。

実践するというのは、日常の暮らしから変わっていくものです。

時間がかかっても、未来の可能性を信じて知恵を活かす新たな能力を磨いていきたいと思います。

魂を磨く暮らし

人が何かを体得するというのは、日常の暮らしになった時に獲得するものです。頭でっかちに知っても、それを知恵として持続することはできません。知恵にするには、その人の生活そのものと一体になっているときに実現します。

この日常にするというのは、習慣化するということです。習慣化というのは、知恵化するともいえます。私たちの今いる現代は、知識は消費の一つになり知識を膨大に得てはそれを日々に消費しています。有名人やインフルエンサーなど、毎日のようにSNSで発信し、専門家や芸能人などは知識の発信に余念がありません。そしてその知識を早く得ようと、膨大な費用を使っては消費活動を拡大させていきます。

情報化社会というのは、情報がお金になり、その人が持つ時間をいかに情報に費やしたかどうかで費用を使わせるという具合です。

もともと現在の経済は、経世済民ではなく如何に経済を発展させるかに余念がありません。経済が衰退するとき、国家が滅ぶとさえ信じ込まされていて経済的な破綻=国家の破綻となっています。これは人間の破綻もまた経済の破綻と同じと定義されています。

しかし本来の破綻とは、生活文化が失われていくことではないかと私は思います。それは古来からの知恵が失わていくことです。例えば、食文化や伝統文化、生活文化、伝承文化、先人たちの体験から得た気づきを知恵にしそれを連綿と繋いできたものが失われた時にこそ、真に滅ぶのです。経済が破綻したとしても、文化があればいくらでもそこから甦生できます。しかしいくら経済が発展しても、文化が失われたらそこでお終いです。

これは人の生き方も同じです。生き方が残っているからこそ、魂は守られます。魂を売ってしまうと、あとは奴隷のような時間が残るだけです。人は魂を優先するとき、知恵を伝承することができるものです。

暮らしというのは、本来は魂を磨いていくことです。

魂を磨いていくことは、人生をよりよいものにし子孫へその知恵を伝承していくことです。教育の本義もまたそこにあるはずで、知恵のない教育など物質文明の中の消費材の一つになっているだけの産物です。

現代人は時間がなく、知恵を獲得するのにかかる習慣化や持続の時間を確保するのに抵抗があるものです。それもお金にならない場合はなお選択しなくなります。しかし一つの知恵を獲得するのにかける時間も費用も本当は対価がつけられないほど偉大なものばかりです。

純度高く、取り組んでいく人こそ知恵の伝承者です。

子どもたちに生きる力、知恵が伝承していけるように日々の暮らしを調えていきたいと思います。

智慧と感謝

今までの人生を振り返っていると、有難い智慧というのは自他一体の時に巡り会ってきたように思います。自分が大変だから智慧が湧いたのではなく、誰かのために、あるいは小さな自我を超越して、みんなのためにやお山、あるいは地域、先祖、歴史など、偉大な自我と向き合ったときに出会いました。

本来、人は奪うために存在するのではなく与えるために存在しているものです。これは人に限らず、すべてのいのちというものは与えあい助け合うなかで共に生きていくものです。

つまりは共生というのは、自然の掟であり野生のものは本能でそれを獲得しています。だからこそすべてのいのちには智慧が具わり、この宇宙のなかで共に生命を謳歌していくことができるのです。

その逆に共生をやめてしまうとどうなるか、対義語は自存といいますがニュアンスは自分だけのことしか考えないということでしょう。先日、地域の長老にお話しや智慧をお伺いすることがありお時間をいただきました。その方は95歳ですが、この世紀、どこに今につながる分水嶺になったかをお伺いしたら戦後、平和になりみんなが自分のことしか考えなくなったと仰っていました。

よく、今だけ、金だけ、自分だけという言葉があるともいわれる時代です。今さえよければいいと問題を先送りし、なんでもお金で解決すればいいとばらまいて、あとは自分のことさえ守られればいいと他人事のように考えていく。これは先ほどの、自然の共生や人間の本能としての社会というものを破壊していくもののように思います。

不自然もここまで極まれば手のうちどころがないほどです。しかし、禍転じて福になるようによく反省して自分を見つめていれば、それが問題の根本的な解決になることに気づきますし、何より智慧が存在することにも目覚めます。

私は、先ほどのでいえば今だけではなく長い目でずっと遠いことを優先し、お金だけではない真の豊かさや足るを知る暮らしを実践し、自他一体となって同じように伝統や伝承をしようと純粋に苦労している人たちと相互扶助の仕組みをつくりたいと徳の循環する経済に取り組んでいます。

そもそも自分の生活や暮らしがどうこうではなく、子どもたちが憧れる未来、子どもたちの参考にできるような智慧を少しでも遺していけないかと取り組んでいます。そのため自然の法則や自然の掟を学び直し、環境や場を改善していくことが第一だと地道に実践を積んでいます。

有難いことに、たくさんの仲間やご縁に恵まれ場も増えてきました。時代のスピードに流されることなく、今の自分を保てているのは今は亡くなられた恩師たちやメンターたちのご指導の御蔭さまです。

引き続き、初心を忘れず感謝を磨いていきたいと思います。

お山の知恵

英彦山の宿坊では先日の大雨被害から水回りのお手入れを続けています。都会の治水とは異なり、山の治水は思った通りにはいきません。毎回、水量が更新され水の流れも新しくなります。そのままにしておけば、水路ができたり道が遮断されたり土砂崩れになることもあり、土木作業が必要になります。

山で一人で土木作業というと想像するだけで大変なことがわかります。特に重機などを使わず、人力で行っていますから作業量の多さに立ち眩みするほどです。

しかしこの治水というのは、お山で暮らすためには必須の力であるように感じます。石を用い、水を治める。あちこちの宿坊跡地をみていても、如何に水を御するのか、そして土を管理するか、木々と石と風と水、それらを上手に総合的に組み合わせて場をととのえていたのがむかしの人たちの山での暮らし方だったのでしょう。

治水といえば、有名な人物に加藤清正がいます。むかし明治神宮の傍に住んでいたとき、よく加藤清正が掘った井戸にいくことがありました。水を上手に活かすことができる人物というのは、自然の道理や知恵に長けておりまさに自然の総合力を活かせる人物だったように思います。国を治めるのも、水を治めるのも道理は一つだったように思います。

その加藤清正に治水五則というものがあります。

一、水の流れを調べる時に、水面だけではなく底を流れる水がどうなっているか、とくに水の激しく当たる場所を入念に調べよ。

一、堤を築くとき、川に近いところに築いてはいけない。どんなに大きな堤を築いていても堤が切れて川下の人が迷惑をする。

一、川の塘や、新地の岸などに、外だけ大石を積み、中は小石ばかりという工事をすれば風波の際には必ず破れる。角石に深く心を注ぎ、どんな底部でも手を抜くな。

一、遊水の用意なく、川の水を速く流すことばかり考えると、水はあふれて大災害を被る。また川幅も定めるときには、潮の干満、風向きなどもよく調べよ。

一、普請の際には、川守りや年寄りの意見をよく聞け。若い者の意見は優れた着想のようにみえてもよく検討してからでなければ採用してはならぬ。

これは知恵の結晶です。何度も治水に取り掛かるうちに失敗したことを改善し、その改善したことを五則として再現可能なものに展開しています。誰でも失敗はしますが、それを善い失敗として何度も反芻するなかでそれを一つの法則にまで高めていく。

法則を持っていることで、後世の子孫たちが真に参考にでき知恵が活かされるという仕組みです。

英彦山ではもう山伏もいなくなり、治水を知っている人もほとんどなくなりました。今は故人の遺した石垣や治水の跡をよく観察し、どのような道理なのか、そして谷がどうなっているのかを洞察して治水を続けています。

お山の暮らしは学ぶことがいっぱいあります。子孫のためにも、お山での知恵が子孫へ伝承できるように改善し仕組みにしていきたいと思います。

本来の歴史

歴史のある場所を訪ねていると、つい何年前のものかということを意識して考えてしまいます。10年くらいならまだしも、100年、あるいは500年、1000年、もっと前の2000年前のことになると頭では考えられなくなります。特に古代のことになると、1万年や10万年などというとほとんど想像ができません。

自分の人生の時間軸で物事を量ろうとしても、それは量れません。例えば、重量計で載せられる範囲のものはわかっても載せれないほどの壮大なものであったなら私たちはそれを計算で量りますが実際の量は頭で計算した分であり感覚的にはピンとこないものです。

それだけこの世の中は、頭では量ることができない感覚的なもので存在しているのです。歴史も同じく、私たちは時間を量れません。そこに流れてきた経過、そして生き続けている今を量ることはできないからこそ感覚的に感じて近づいていくしかありません。

これは自然に近づいていくことにも似ています。宇宙を量るときもあの膨大で無限に存在する星々をどのように認識するでしょうか。教科書にあるような星座や銀河を想像してもあまりピンとはきません。吸い込まれるような大きな闇に感覚的に近づいていくとき、その無数の星々と一つになります。自分が星になり、星が自分になるかのような一体感があってこそその場に溶け込んでいくことができます。

分けている世界ではなく、分けていない世界に溶け込んでいくのは感覚を用いるものです。この感覚を研ぎ澄ませていくことは、目には見えないもの、また頭では量れないものを感受する仕組みです。

古代の人は、また数千年前、数百年を生きる歴史の人たちはこの感覚の世界に存在していて今も生きています。これを理解するのは、感覚で近づいていくことですがこれをすることが修行の本懐であるようにも私は思います。

子孫のためにも、甦生を続けて本来の歴史を感覚を研ぎ澄ませる仕組みをもって伝承していきたいと思います。

特別な存在と特別な感情

昆虫や植物をよく観察しているとその造りや個性、そのいのちの絶妙さに感動します。小さな蟻や、一凛の花にもまるで神が宿っているような美しさがあります。意図的に特別な存在だと思わなくても、それぞれが特別な存在です。

人間社会は、承認欲求ばかりを競うようになってきて自分は特別だという発信ばかりがあらゆるところで広がっているように思います。そして何か特別なものになったかのような錯覚や、特別なものであることの優越感なども流行っています。SNSや動画をみてもそういうものばかりです。

自然界の中に入ると、特別が当たり前に感じるようになってきます。どのいのちも美しく唯一無二です。人工的なものがないところにいけばいくほどに、見事に調和している世界を感じます。

人間は画一的になるように意識し、権力や権威、欲望などを増大させてきました。差別なども増え、さらに競争は過熱していきました。国という概念を中心に、組織を運営するためにあらゆる特別を設けては人を管理してきました。その構造は、今でも変わりません。

特にお金や情報、権威や権力は形を変えて人々の心を管理するようになってきました。人はみんな自分が特別だと思いたいものです。そしてそれを周囲に承認されたいと思っています。

私はよく変人とか言われます。自分らしく自分の追及をしているからそういわれるのですが、それがいいのかわるいのかもわからず自分では普通だと思っています。あるがままでみんながあることは普通ですし、そして特別だとも感じます。

運よく生き残るもの、そうではないもの、でも人間万事塞翁が馬です。目に見えないご縁があることはすべて特別であり普遍という意味で普通です。

私達、すべてのいのちは特別な存在です。そして自分があるがままでいることが何よりも特別な感情です。みんながあるがままであることほど特別なことはありません。子孫のためにもあるがままの今を味わいながら、一期一会の有難い時間を大切に過ごしていきたいと思います。

 

憧れ

暮らしを追及していると、生き方に出会います。生き方は暮らし方になっているからです。そして生き方を見つめていると死に方と向き合います。死に方は暮らし方の延長にあるからです。そして生き様というものが顕れ、死に様というものでその縁起を覚えます。

私が尊敬する人たちは、みんな生き様が見事な方でした。ここ10年で私が憧れた人たちが次々とお亡くなりになりました。ごく自然に、距離を持ち、そして静かに穏やかに逝かれました。

生きているときに常にこれが最期のような感覚をいただき、お別れするときは今世はもうお会いできないのではないかという寂しさがありました。そうしてまたお会いしたいと思ったときにまたタイミングがきてお会いすると、出会えた喜びに生まれ変わったような気がいつもしました。しかしもうお会いできないという状況になると、まるで深山の巨樹のようにまだそこに存在して見守ってくれているのではないかという気配があるものです。

ある方は、光のように、ある方は風のように、ある方は土のように逝かれました。生き方はそのまま死に方になり、生き様はそのままに死に様になりました。

これらはすべてその人の初心が顕現しているとも言えます。どのような初心を以って道を歩んでいくのか、その初心の余韻が場に薫ります。

私たちはその人になることはありません。しかしその人の歩んできた道を共にした経験によって歩き方も変わっていきます。振り返ってみたら、自分もまた歩き方がだいぶ変わってきました。歳をとり、若い時のように歩いていくことはできません。歳相応に歩いていきますが、気が付くと無理ばかりをしているようにも思います。

初心を忘れてはいけないと、歩き方を歩き様を振り返っては反省の日々です。

憧れた大人になるように、そして子どもたちの憧れるような大人になれるようにどう生きるか、どう死ぬか、そしてどう逝くかを見つめています。

盂蘭盆会の準備に入り、夏の風が吹いてくると日が強くなり死が身近に感じられます。日々の小さなことに感謝して前を向いて歩んでいきたいと思います。

伝承革新

昨日は、福岡県にある秋月鎧揃え保存会のメンバーが英彦山の守静坊で合宿を行いました。合宿というのは今は多くの人が同じ宿舎で一定期間ともに生活して共同の練習や研修を行うことをいいますが本来は暮らしを通してお互いを見つめ合う一つの作法だったのかもしれません。

郷に入っては郷に従えということわざもあります。もともと何かを取り組むのには目的や初心というものがあります。それを確認するためには、その中に一本流れている筋道やルール、そして理念のようなものをどう理解するかが大切になります。

浅いところしかわかっていないのでは自由に動けば周囲への迷惑にもなります。深いところでお互いがよく理解しあい、規律と方向性を知ることはお互いを活かしあうためには大切です。

宿坊では、朝のお掃除の作務から歴史の勉強会、瞑想や座禅に加え、お昼には精進料理を食べ、振り返りを車座で行いお山の参道をのぼり休憩をして理念を唱和してお礼とお掃除と記念撮影をして終えるという具合でした。

当たり前のことをやっているようですが、私が司る場の中に入り、暮らしを体感するなかでそこに流れている生き方というものが加わり心身が調います。このような体験や気づきは、唯一無二でありその人の一生の思い出にもなります。

人は思い出があることで意識が変わることもあります。どのような思い出をお互いが持っているかは、一生において何よりもかけがえのないものです。

時代が変わりますが、歴史は終わることはなく今に生き続けているものです。その歴史を生きる人たちにとって思い出をさらに甦生させて歴史を刷新していくことは伝承する喜びに満ちています。

本来、歴史を生きるというのは単なる金銭を優先する観光イベントや文化交流ではありません。それは生き方をどう実践するかという、どう生きるかというという話です。

それぞれに人はどう生きるかというものに向き合っています。そこに尊敬する先人たちや今も心に共に生きる先達がいるというのはとてもありがたいことです。

守静坊は、歴史の今を生きる存在であり静的な修行をし続けている場です。これからも、本質を守り、静けさを保ち、本来の宿坊のままに生き続けて伝承革新していきたいと思います。

暮らしの実践

観えないものを観る力というものは、実践によって磨かれていくものです。日々の掃除をはじめ、日々の内省、初心に向かってコツコツと新鮮な気持ちで取り組み続けることで観えないものが観えるようになる境地の会得というものがあるように思うのです。

これは武道をはじめ、伝統継承の方などもその境地の会得によって一般的に観えないものを観えるようになっています。その証拠に、それを言葉にして実際に見せることができるところまで結果を出しているからです。

続けることというのは、変化を観続ける力です。継続は力なりとありますが、本来は力の本質は継続にこそあるということでもあります。最初は自分が観えるようになるまで実践をし、観えるようになったら気になりますからそれをお手入れし保ちまた時代の変化にあわせて革新し続けるように精進するようになります。

バランスという中庸もですが、中庸がわかるというのは中庸でいるということですがこの中庸は中庸を実践し続けている状態、観えないものが観え続けている状態、たとえば自然の循環やいのちが観え続けている状態のように意識がバランスを保つこと調えてある場に定着して離れないほどに取り組む状態であるということでもあります。そしてこれが暮らしの実践でもあります。私の暮らしというのは、本来その意識を保つためにあるともいえます。

現代は、資本主義などにょり仕事や経済活動が中心になって暮らしはその隙間に少しだけある程度で語られます。経済の中にある暮らしは、道具を販売したり、衣食住がよくなるため、またそれを実践するワークショップや講演会をやったりと経済と紐づいているものとして語られます。しかし本来の暮らしは、そもそも生き方のことであり生き方が暮らしにまで昇華されているということでもあります。

日本人の先人たちは、自分たちの生き方を暮らし方にまで到達させてきました。それを徹底して実践することで、自己の修養や精神、魂を磨き上げてきました。日々が精進と修行のような暮らしをしていますが、その中で感謝に満ちた足るを知る生き方を実践してきたのです。いのちを活かし、ものを活かす、徳に報いて喜ぶ仕合せの境地を会得しておられました。

私の提唱している「暮らしフルネス」はそれを今も先人たちと同じように体験することによって、日常のなかで幸福や仕合せを味わえる生き方を体得できるようになるという仕組みになっています。しかし、これも境地の会得までは実際には実践しないとあくまで一過性の体験で暮らしが変わることにはなりません。

暮らしを変えていくということは、実践をしていくということです。

子どもたちに先人たちの遺してくださった生き方や暮らしの真の豊かさを伝承していけるように引き続き暮らしフルネスの実践を味わっていきたいと思います。