下座の行

仏教には下座行というものがある。
下座にありながら感謝に気づき感謝を覚えていくというものだったと思う。

どこまでが下座でどこまでが上座かなんて区別はよく分からないが、生きていて日々の仕事をしていたらそれに自分で適当に色をつけ自分なりのいい加減な解釈で小さくまとまっていて満足していたり、無意識に真理などから意識を遠ざけてさも分かった気になって自己充実していたりする。

人は、雑念というかそういうものにすぐに支配される。だからこそ想念が明瞭で信念の柱ができないとすぐに自分流の都合の良いやり方を自分勝手に正当性があるように見せ掛け納得してしまうのだと思う。

身近な仕事を振り返ってみると、多くの人のほとんどがそれで他人と行う仕事の本質を歪められているのだなあと私は思う。

本質で仕事をしようとすれば、それぞれの内観から引き出した人生観というか揺ぎ無い解釈が交じわるから一緒に最期までやり遂げる事ができるのだろう。そこに方向性があっているかどうかさえ分かれば部分はたいして問題にはならないのだと思う。

そんな人間関係を創ることができればほぼ事は成るのだと思う。

そしてその方向性を強く念じ、固い信念さえあれば、必要な人材は次第に身近に集まってくるのだと思う。

私は今思うととても運がよく、幼い頃からお寺や神社が好きだったので手を合わせる機会に恵まれた。これは、今、仕事をしていく上でも本当に助かっているなと思う幸運のひとつだ。

私が出会う素晴らしいご縁や場、また運などを鑑みるとそこに「呼ばれる」ように行動することが多い。そして「呼ばれた」先には必ず素敵なご縁と邂逅と意味が待っている。

これも日々の祈りに満ちた子ども達への思いが引き寄せているとしたら、本当に色々な方々との邂逅と天恵、そして今、先祖代々が引き継いでくれた大切な魂がココに在る奇蹟に深いよろこびを覚える。

すべての生き物は、決して単体では生きてはいないし生きられない。

大勢の方々の慈悲や愛により、自分が地球に往かされているという心の安息観がある。

そしてこの日本という八百万の神々がいる美しい国に生まれたことが本当にうれしい。

最近はよくこんなことを思えるようになった。

そんな中、今の日本に住まう大衆はあまりにも身近すぎてなのか、目に映る派手さに心を奪われてなのか、教育が安直になったせいなのか、日本のことをあまり真摯に省みなくなってきているのではとよく思う。

先日参拝した明治神宮だってほとんどが外国人の観光客、また世界遺産に代表される霊場や聖地もほとんどが外国の若い人達が関心があっても日本の若い人は関心が少ない。

教育というものがもし、操作しても良いというのならば私なら今の自分が活かされてきたこの日本を知ってほしいと切に願う。教育再生というよりは、そもそも人間の過ちを観つめ新生する方がよほ大きな改善になるのではと思う。

どんな出来事もそもそも無常の中にあり、そしてそれはそもそも人間が創り上げた感情の混乱や欲の混沌だったりして固定化され姿形を表して大勢の執着を広げていく。

それもどうせ長くは続かない。
万物は移り変わるという真理はなくならないからだ。

しかし、もしその姿形になる以前の信念が歪められて遺せていないのならば、子孫は隠れた意味までは正しく受け取れないのではないかと危機感を覚える。

だからこそ、何をもって「見る」とするのか、何をもって「やる」とするのかはよく結果から考え直さないといけない。私達カグヤは常に、驕らず下座の行を忘れず、粛々と自分へ矢印を向けて脚下の実践を積み上げ次世代へ譲っていけるようにしていきたい。

この今も、受け継いでいるものの大切な意味を忘れずに天命のままに歩んでいこうと誓う。