決断断行

人は、色々なことに気づいてもそれを自分のものにできる人とそうでない人がいる。

ある人は、同じ言葉や発言を聴いてすぐに動く、つまりは実践する。
ある人は、何べん聴いても一向にそれをやろうとはしない、つまり何もしない。

実行しない人は失敗もしない、ただ追いつめられるだけになる。
実行する人は失敗もする、しかしそこから様々なものを学び本物になっていく。

人は本気になるとき、必ず何か「決めた」ことが増える。

増えていないのに本気になったというのは、間違いでそれはできる限り頑張りましたのでという言いわけとセットになっているから決めることがない。

決めてしまうには覚悟がいる、覚悟とは、最後は自分を頼みにするという他人を頼らずに自分で立つという、自分への約束が要る。

しかし、みんなそれをしない人が多い、自分に自信がないのもあるのだろうけれど、独りで生きていくということを恐れ、誰かに依っておきたいとする依存心がそうさせるのだろうとも思う。

これは言い方を換えれば、「素直」ではないということ。

何事へも信じる姿勢が足りず、屈折して捻くれていると、物事を素直に感じ切ることができない。
そうすると、まずすぐには動けないし、どう動いても素直に伸び伸びと取り組めず、すぐに諦めどこかであっという間に折れてしまうこともある。それをよく人は弱さだというけれど、心が素直でないだけであって弱さではない。

素直さというのは、強さであり優しさでもあり、とても重要な成長や自立の要素で、それがあるから天地自然の恩恵や、人間共生の慈愛を受け取ることができるのだとも思う。

いわゆる、業界にはトップと呼ばれる人たちがいる。
何をしても、一流になり、何でもそれをやり遂げて形にしていく人がいる。

そのトップは、孤高の強さがある。
もちろん、素直である。

そして何かを行うとき、必ず決断し断行して「自律」することができる。

つまりは、何が何でもそれを為すためにも本気で何か行動することを「決める」そして「行う」のだとも思う。

この強さが、もともとゼロからイチを創りだす原動力になる。

私が好きな言葉の中で、二宮尊徳の遺したものがある。

「夫れ開闢の昔、葦原に一人天降りしと覚悟する時、流水に禊身せし如く、潔き事限りなし。何事をなすにも此の覚悟を極れば、依頼心なく、卑法卑劣の心なく、何を見ても、羨ましき事なく、心中清浄なるが故に、願ひとして成就せずと云ふ事なきの場に至るなり。この覚悟、事を成す大本なり。我が悟道の極意なり。此の覚悟定まれば、衰村起こすも、廃家を興すもいと易し。只此の覚悟一つのみ。」(二宮翁夜話一三四)

何をするにも覚悟がいる。
そして、本気でなければ何も成すことはできない。

覚悟も決めず、本気にもならなければ卑怯や卑屈、卑劣なことばかりに心を奪われ、他人を頼り、羨むばかりでただただ酔生夢死に流され生きてしまうのが人間だとも思う。

自律するとは、自分で決めることにより律すること。
勘違いがあるけれど、決めないことを律しているのは逃げているだけでもある。

できることができるのは当たり前で、できないからこそできるように律するのが本当の「自律」ということに気づかない人は過去にそういう本気を出したことがない人なのだとも思う。

また、そこまでしても決めるのは、覚悟するのは、最後の最期には自分を助けてくれる自分が合って、それを信じているから決断断行ということに迷いがなくなるのだとも思う。

本気の人生とは、決めるということ。

そして、決めることは、自律できるということ。
自律できるということは、自立、つまりは独り立ちすることができるということ。

理屈ではなく、本気、本物で生きられるようにそういう機会や環境を大切にしていきたい。

子どもたちにも、何かを成すということの覚悟を決めさせることが自然にできるような人生の喜びや感動をたくさん味わえるような社会を創り上げていきたい。今の大人たちが感じる閉塞感が、未来だと思わせるよりも、自分で生きていくことの本当の素晴らしさに出会えるような大人のモデルを示せるように自らの覚悟を常に問いただしていきていきたい。