コンサルタント業

この仕事を通して日々感じるのは、私たちの為すコンサルタント業とは大いなる敬愛を以て厳格に自らを律し、思いやりを優先し実践することで感化をなすことが何よりの徳目であると私は感じている。

そこには、まず何より「恥」という羞恥の心得が備わっていなければできない仕事ということなる。

孟子に、「羞悪は心の義の端なり」とある。

これは「義」を持つためのもっとも最初の若い心に、他人をがっかりさせない、信頼を壊さない、自分の名誉を自分で傷つけないという、羞恥心を持つことがまずはじまるということになる。

人を感化するような道徳的規範や人道的模範というものは、常に自らが聖職者であるという本人の自覚とともにある。

それを誰からも見られていないからと人目に付くところで本心を隠し、自分を誤魔化し、正直さよりも卑屈さに走り、自他を偽るような、誠のない言葉、誠のない実践では、とても人を本気で感化していけるような立派なコンサルタントにはなれはしない。

「武士は食わねど高楊枝」ではないけれど、サムライは自分の名誉を持つことは自らの使命を成就するために揺るがない大義のためにいつも自分を正しておこうとする誠の実践であり、そのために日々精神的な鍛錬を怠らないという強い信念と決意の顕れともいうのだと私は思う。

つい、今の時代は名誉というと他人から称賛されることや、他から与えられることなどと勘違いしている人がたくさんいるけれど、本当の名誉は、自分自身が「自分自身で誇らしく思えるか」どうかによる。

自分が勇気を持って行動したことが、如何に人々のためになったか、それがより他の幸せのための大いなる貢献に繋がったかを省みるとき、そこに非常に偉大な清々しさが存在していることに気づく。

そして、その清々しさは自分が名誉を維持できていること、本当に誠を尽くしたと言い切れるくらい本気で努力精進ができたということを自覚したときにはじめて持てるものが本当の「名誉」であるのだと私は思う。

その名誉は、魂の中にあり、何人たりともそこを傷つけることはできはしない、唯一傷つけることができるのは、自分自身が誤魔化し嘘をつき、不誠実に逃げたという後悔のみをもって名誉を失うことができる。なぜなら何よりもその不誠実を一番身近でじっと観ているのは何よりも自分であり、何よりも自分を愛してくれている天であるからであると私は思う。

コンサルティング業に於いてもっとも尊重しないといけない自覚は何よりその名誉心であり、そこに英国のジェントルマン精神やこの国の武士道に模範がある。

他人はつい大義のためにミッションを行うという人がいるけれど、本当はそうではなくミッションに誠実であれば次第に大義が芽生え、その恩寵として自分が名誉を手に入れることができるのだ。自分の問題であり、他人が名誉を与えないかどうかが問題ではないということ、つまりは自分に対して正直に素直であるかどうかを問われるのだ。

私自身は、生死の体験からどうしても自分の死生観に自らを照らすと一度きりの一期一会の人生なのだから、何か子どもたちに遺せるものや譲れるもののために生きたいと思えば強く思うほど、見守ってくださっている天と対話をしてあるがままでいたいと思う日が多い。

そこには、最近邂逅があった方で正義や正直であることを何よりも重んじ、その誠を尽くしこの世を去った西郷隆盛の座右の銘、「敬天愛人」に同じ思いを感じることができる。

「道は天地自然のものにして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心をもって人を愛すなり。」

自分が今在るのはすべては天の慈愛によるのだから、分け隔てなく天がそうしてくれることへ深い感謝をして畏敬の念を持ちい、天を見習い自分も同じく他人に対しても自分を大事にしたいと思う慈愛の真心でいることを誓った。

そして、さらに義理人道の実践として天の鏡にいつも自分の心を照らしてその誠を顧み内省することを怠らなかった。

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ねるべし。」(西郷南洲遺訓より)

その実践の境地に達するにはまだまだ足りず、日々、真心を籠めて己の誠と正対することが必要であり、何よりまずは日々天を相手とし自分に正直に素直に生きていくことを維持できなければそれはできるはずもない。

これは自分を偽らず誤魔化さず、自分に対しては忠、もしくは義、そして他人に嘯かず欺かず、他人に対して信、もしくは仁、つまりは忠信や仁義を何よりも優先することがこの仕事をしていくための本筋であるのだと私は思う。

こういう時代だからこそ、刷り込みにもっていかれないような誠の人であることを優先して本業を尽くしていきたいと思う。

子どもたちの歩む道が愛に包まれているように至誠を貫ける自分でありたい。