士魂商才

オランダのアナマイケさんが協働遊びを鞍馬にて実践するために昨日より京都入りしている。この時期の冷たい雨は、色々な気持ちを澄ませてくれるようでひんやりとしつつも心地よい朝霧の中に季節の移り変わりを感じることができる。

協働でいるということをもう少しだけ書いてみる。

もともと何かを協力するや、協働するには、丸ごと信じると言うこととあわせて、如何に全体に対して益するかというのを無私無我の立場で考えているかということも求められる。

商売という字の語源、中国の商の国の物々交換からはじまりお互いにとって善いと思えるように思いやりをもって交わりあい絆を紡ぐというところから人々のはじめた営みを観ることもできる。

日本では、商売と道徳の一致を説いた「士魂商才」の渋沢栄一がいる。これは、武士の精神性を持つ恥じない生き方を根本に、その商いするところに才気を存分に発揮して全体を益していこうとすることを言うのだと私は思う。

経営者というものは、会社を経営するためにたくさんの資源を活かし、それを全体が如何に益するようにと正しく道徳を持ち使えるかでその商才が分かる。それを単に私利私欲のために使えば、すでに自分に益することばかりになりその時がよくても永い時間を総合的に鑑がみれば損を生み出していくことにもなる。

よく「貧すれば鈍する」というのではないけれど、常に心のありように余裕を持ち正しくあるために勤労に励み、分度を定め蓄えを持ち、次世代や全体に活かし続けていくことがその身を商売の道で潔くしていくことだとも思う。

そして協働ということにここで還るけれど、皆が全体が善くなるようなビジョンを掲げ、そこに向かって力をあわせていけば自然にその働きは協力となる。

つい人は二択でものを考え、では競争か協働かではなく、真に全体が善くなることを中庸に捉えていけばそういうものを超えた人々の営みと命の共生、つまりは個々がそのままでも活き活きと幸せに生きられる世界と社会ができてくるのだろうと私は思う。

しかし、今は繋がりが途絶えてきて忙しさから余裕がなくなり、その絆が薄れて疑いや不安が生まれ続け、孤立孤独になって自分ばっかりと自分のことばかりに目を向けている人がとても多くなっている。

全体のことを思うよりも、このようになり如何に自分だけがと皆が思えば次第に協働することが難しくなってしまうのはどこでも同じなのだと思う。

物理的にモノが溢れている時代に、なくしたものはそうではない心の絆。その心に余裕を持ち、心が豊かになるにはその人と人の絆を如何に大切にしていくかという心の在り方と持ち方によるのだと思う。

私が好きな言葉の一つに、「受けたる恩は石に刻み、施した恩は水に流すべし。 」がある。

これも大切なことで、人はつい我執があるとやってあげたややってもらったということの良し悪しの感情で自分勝手に偏った見方で相手をみてしまうことがある。

しかし、よく考えてみればそうしたかったからやっているだけでそれは自分が歓びであり、させていただくのであり、また、いただいた御恩は自分が困っていたところを助けていただいたという思いやりを受けた有難い豊かで幸福な大切な記憶でもある。

こういう気持ちを忘れず常に謙虚に生きれば、自然に人は思いやりを持ち全体に対して益する人になっていくのだろうし、そこに必ず心が活き活きと繋がりと絆を正直に感じることができる人になるのだとも思う。

つまり協働とは、自分を勘定に入れずに相手や全体のために使っていくことをいうのだと思う。

そして商才も育才も、こういうものを考え抜く先にこそあるものではないか。

士魂があるから商才があるのだとすれば、いつの時代も教育や商売や政治など関係なく、仁義道徳の実践を尊重し人としての生き方を大切にして子どもたちの未来に背中を通して伝えていきたい。