愛着

人間は子どものころに必要とされていると感じることで愛を感じ、その愛を心に抱けば安心して生きていく力を感じることができる。

例えば、何をやっても許されたり、どうしていたとしても無条件で認められればそれを心に刻み、親というものの中に絶対的に与えてくれている存在、いわばそれが自然や神と私たちが呼ぶ偉大な存在をこの世界でも知ることができる。

そういう愛着が在る人たちが、情緒が安定し、さらに友人や兄弟、隣人からの援助や繋がりの中で自分を役立てていこうとする。そのために、自分のことを誰のために活かしていくか、どれだけ心で決めて他と共生していくかなどを思い自立して社会を形成していくものだと私は思う。

しかし、今の時代、いや、いつの時代も、差別という人間を平等に扱うことをせず、様々な制度や肩書きなどで人に上下をつけることをし、または全ての存在の価値をあるがままに認めることをせず、その価値を見た目や便利だからと安易に結果で評価すればそれは相手を尊重しないことになり、人はそこで自分が不必要であるのではないかと孤独を感じる。

人間は誰しも、いや全ての生命は必要だから生み出されているものであり、不必要と思えばその価値を誰かによって決められたことになる、昨今の絶滅する種も、すべての動植物も、誰かが要らないと言えばもうそこで共生は止まる。

命は繋がり、すべての価値は平等とすれば如何にお互いを尊重しあい生きていくかというのは人道の極みであると思う。

今、何よりも病気なのは身体のことだけではない。

今まで本物の医者が手をつけてきたけれど、まだ完治できない本当の病。

それは人間の間違った身分制度を正すこと。

必要不必要で命を分別するなどは、何よりも孤独と不安、そして迷いと復讐を生み出してしまう。

あなたなんて要らないと言われていると感じている人は、それは誰からも自分を認めてもらっていないと思っている人である。そういう人は、認めてもらいたいから必死になるけれど認めているという声を一向に聴きいれることはせず頑なに自分の価値観に閉じこもってひきこもる。

心の扉を閉ざしている人が、どうやって心の扉を開くのかは、それを誰かの愛を持って認めて耕していくしか仕様がない。そして、本人が自分に価値があると自ら認め必要とされているのだという安心する気持ちを持つためにもその人は同じく価値がある仲間にまたは周囲に心を開きもっと自分から繋がっていくための努力を実践していくしか仕様がないと思う。

大切なことは、その人にどんな過去がありどんなトラウマがあったにせよ、人は必ず出会いや御縁により変わることができる生き物であるのだからいつまでもふて腐り頑なになるのではなく自分で決めて勇気を持って挑戦することだと思う。

世の中が何回も自分の立っているその心の場所が変われば、観えている世界もまったく異なるものに変わるとしたら、悲観した未来は本当は素晴らしい世界に変わると思うとワクワクするのではないか、易経に、陰極まれば陽になるとあるように、すでに新しい扉が開いていることに目を向けて欲しいと思う。

自分がどうしたいのかを決める権利は、それは誰にも束縛されない場所に自分が持っている。

子どもたちには、無条件で価値を認め、愛する実践、見守るを持ち、それを日々の生活の中で磨き繋がり合い差別のない平和な社会の実現を目指していくために環境を私が遺していきたい。