月と心

昨日、ある園の研修で素晴らしい体験をすることができました。

そこでは、仏教の教えから理念をシンプルに設定し皆で共有することができました。その中で合掌の大切さについてお話を伺いましたが、その中の価値について再認識する機会になったからです。

本来、人間というものは知識があるから悟れるわけではなく、そしてまた苦行をしたから悟れるわけではないように思います。そもそも執らわれるのは自分の知識そのものであり、その知識があるからこそ一向に無心などという境地に入れないようにも思います。

無心を意識しすぎて無心から遠ざかる、瞑想しようとし過ぎて瞑想できないというように、自らがこうではないかと思い込んだものでは心が安心して育たないようにも思います。

人は誰でも固定概念というものがあります。それがある前には無心だったものが、知識と経験によって刷り込まれることで本来のその無心の状態を見失っていくように思います。例えば、産まれたての赤ちゃんが神々しいのは、あるがままでありそのままだからこそ悟っているのです。それと同じく、自然から離れた人間は野生動物のように自然界の中で感覚を一体に合わせることなどできなくなった分、文明の利器を使いこなすようになったともいえます。

だからこそ教えというものも同じく、本来は自らもっていたその赤ちゃんのような心を如何に守り育て続けるかということなのでしょう。

そしてそういうものを引き出すのに、かの法然上人は念仏というものを用いました。人は階級関係なく、学術知識があろうがなかろうが念仏を唱えれば極楽浄土に往けるという考え方です。

本来、人間は極楽があるとかないとか、良いとか悪いとかは全部自分を中心にしたモノサシで判断していくものです。だからこそ、そういうものを取り除くために御互いに合掌していこう、御互いに念仏を唱えて生活していこうということが尊いことのように思います。

人間がお互い様、御蔭様で生きられるということは互いに謙虚に感謝を忘れずにいることで赤ちゃんと時から持ってきた心を育て続けることができるように思います。赤ちゃんのままの童心をいつまでも失わないということが、野生であり自然でありあるがまま、つまりは無心であるということなのでしょう。

法然上人の詩にこのようなものがあります。

「月影の至らぬところはなけれどながむる人の心にぞすむ」

私なりの解釈ですが、人の心に棲むのが月影そのものであるということなのでしょう。人の月が満ち欠けしても本来、心は変わらず元のままの満月であることは間違いないことです。あるがままこそが円満であることにいたるもいたらぬもないということでしょう。

最後に

「月影に満ちるまごころひとしずくわすれるなかれ心ふるさと」(藍杜静海)

月を眺める心の中に自然が棲んでいますから、月を眺める無心のままに合掌をしていきたいと思います。善い教えをいただき感謝しています、われわれも合掌の実践を積み重ねて、心を育てていきたいと思います。