運菌の世界

昨日、社内の発酵研修と自然に学ぶ体験の一環で千葉の藤崎農園にて田植えを行いました。ここの玄米は、本当に美味しくて今までどこを探してもここほどの美味しい玄米は食べたことはありません。

もともと藤崎さんの理念が、「安心、安全で食べることで元気になるお米をつくる」ということを大切になさっています。その理念を実現するため、不耕起で農薬を使わずに生き物たちがたくさんいる田んぼを実現しています。

訪問して3度目ですが、明らかに水田の中に目に見えるもの以外の観えないものの存在を実感させられます。それは菌類の働きですが、土の中で様々な菌たちが交代で一年の四季の中で役割を果たし活動し、そのいのちのめぐりが豊かであることを実感するのです。

昨日は発酵を学んでいたこともあり、圧倒的に菌の存在を実感できうれしくもありまだまだ奥深い世界の一端しか観えていないことに有難い気持ちになりました。

また同時に、私たちが玄米を取りいれ社業に実践しているように藤崎農園の玄米を用いてタコライスを作って提供されている方とご縁もいただき、意気投合し、また秋の収穫の際にもご一緒することになりました。

善い場には善い人が集まる、そして善い発酵にはさらによい発酵を引き寄せてくる。

これは「運気」のことをいうようにも思うのです。人はどのような生き方をするか、自然が喜ぶ生き方か、それとも自然に反して自我欲を優先し自然が悲しむ生き方をするか、それは人生の選択のようにも思います。

一般的には自然がどうとか直接的生活に関係のない生き方をする人たちがほとんどですが、私はなぜか福の神がいつも着いてきて助けていただいている人には、そこに自然と一体に生きているその人が福と一緒にいるからのように思えるのです。

たとえば、他人の幸福を願い、他人様の御蔭に感謝し報恩で生きる人の周りにはそれを必要とする人たちが集まってきます。そうするとお互いに幸福を分け合い豊かになりますから自ずから幸運もまた訪れるようにです。

謙虚さや正直さというものは、自然の恵みに感謝できているという御姿の顕れだと思います。

人はたくさんの恩恵をいただいているのですが、それを身近に実感できない社會や生き方というのはどこか貧しく思えるものです。何もないようなものの中にこそ、無尽蔵の宝が存在する。

そこには菌の世界が息づくような偉大な世界があるように思います。そこはまさに運菌の世界です。

昨日も大切なことをたくさん学ばせていただきました、やはり学びとは一人で行うものでもなく机上で行うものでもなく、理念を共に現場で学ぶ中にこそ真の学問が存在します。仲間と一緒に学び合える機会があるからこそ人はそこで真の成長と変化を体験することになるのでしょう。

苗から穂になり種となるまでしっかりと見守っていきたいと思います。これからのご縁がさらに深まり発展していくのを楽しみにしています。

ありがとうございました。

王道経済

先日、偶然にアルビントフラーの「第三の波」の一説に出会うことがありました。

この第三の波とは何かといえば、トフラーは、経済的パラダイムシフトを「波」と仮定して社会の趨勢を予知し第一の波、【農業革命】では狩猟採集社会であった社会が農耕技術の伝播によって農耕社会へ変わる。そして第二の波、【産業革命】では18~19世紀に興った産業革命による社会システムの大幅な転換をする。そして次に第三の波、【脱産業社会化】では産業社会化からの脱却、情報革命の社会へと突入すると定義しています。

そして情報革命の中で大量生産・大量消費を前提に組立てられた諸システムはもはや限界であると看破しています。言い換えれば、もう今のような社会は限界で大きく変えなければならないと言及しています。

今の時代は短期的に見て良い方ばかりを優先する価値観が蔓延しています。長期的に見てとか伝統的にとかいう時代ではありません。農耕一つに観える育成の智慧をとってみても、食という文化そのものの保存法にしてみても先祖、祖神たちは先々のずっと先の社會を見据えて私たちに生き方や働き方を指導してくださいました。

言い換えれば、人間を正しく導くことで永続し共生する世界を遺そうと尽力してくださっていました。その徳や恵みのお蔭で私たちはこの地球上で仲良く幸福に暮らしていくことができるのです。

しかし今の社會は、自利や欲望が際限なく追及され世界はまるで暗がりの中に入っていくような感覚があります。国家間の問題も、利害関係からでしか語られず、善悪や本質で話し合われることが少なくなってきています。

これは人間自体を如何にお互いが高め合おうかというような議論ではないことは一目瞭然です。人間は仲良くなるのに、堕落していく仲間と、高め合っていく仲間というものがあるように思います。真の信頼関係とはお互いを尊重し、明日の敵は今日の友のように切磋琢磨しお互いを許しあって助け合ってご縁を大切に生きていくことのように思います。

そういう精神性を磨き高めてきたのが、私たち日本人の崇高な理念の中にはあるのです。武士道にせよ大義にせよ、歴史の中で残っている上杉謙信や源義経、楠正成という武徳高い人物から学び、二宮尊徳や聖徳太子、中江藤樹など聖人と呼ばれるような方々からも教えを施されてきた民族なのです・

それが第二の波の中で失われつつあるのは、時代がいつまでも急なスピードや緊急性の中で我を見失っているからであろうと思います。もう一度、思いだし、どうあるべきかということについて語り合えるような場や仲間、つながりがこれから必要であろうと思います。

最後にトフラーはこう語ります。

『勝ち負けの経営の限界が見えてきた。企業経営は、覇道ではなく、王道でなければならない。経営の王道とは、人を育て、導くことである。自社に関わる一人ひとりの幸せを目指すことである。このことを忘れ、勝ち負けにこだわる覇道の経営に走り、合理的な経済至上主義の考え方で事業をしている会社は、遅かれ早かれ衰退の道をたどっていくだろう。あなたの会社も変わらなければ、発展の道は閉ざされてしまう。』

子どもにどのような社會を遺してあげたいか、そこで判断するのが当たり前の道理です。そして何を譲っていくかは、その人たちの生き方にかかっているように思います。発展というものは永続的なものであってはじめて発達といえるように思います。

日々学びを深めながら、温故知新した経済を求道していきたいと思います。

まるまる訓練

人間が技術を身に着けるためには、訓練というものが必要になります。

いくら頭で考えてそうなりたいと思っていても、訓練がまったく足りてなければ思うような結果が出ることはありません。訓練とは繰り返し何度も練習をすることであり、それは言い換えれば自然にその技術が身につくまでは猛練習することをいいます。

一度も猛練習をしないで、ちょっとやっただけでできたと勘違いしていたら本番では必ず何らかのミスにつながり自信がなくなってしまうものです。また訓練には、自分のことが好きになるという要素もあります。

毎日毎日、飽きもせずに自分で決めたことだからと猛練習を続けていけばその猛練習する自分のことが信頼できるようになります。自分への信頼というものは、ちょっとやっただけではなく本当にやっている状態のときにできるものです。

そしてこの自分への信頼が持てる人こそが、他人から信頼される人になるように思います。

たとえば、自分が何か困った時に自分がどう助けてくれているか。自分が大事な時にどれだけ自分が力を貸してくれているか。この自分との関係が如何に信頼できるかによって、その人の現実の世界もまた顕現していくように思うのです。

いつも自分が妥協し、訓練を怠り、決めたことを先延ばししていたら自分との信頼関係が築けなくなってしまいます。そうなれば人からも信頼されないのだからどうしても人間関係をはじめうまくいかなくなるものです。

つまり訓練とは何かといえば、「自分の心を自覚する」ということであろうと私は思います。

日ごろから丹誠を籠めて何百回も訓練することで、心の作用で自らの中に自覚が芽生えてきます。その自覚とは、自分がそれを遣るということその決心の強さに現実が目覚めるのです。つまり自分がどうしたいのかをもう一人の自分に気づかせてあげるのです。

そうやって自分がひとつ、一人の自分が錬成できるならば必ず事物は一体に実現していくように思います。ろくな練習もせずに訓練もせずに愚痴や文句ばかりいったとしても何も変わっていくことはありません。

自分で決めたのだから、言い訳をするのではなく「そこまでしてでも遣りたいか」という自問自答に真っ向から挑むくらいの気概で挑戦していくことで訓練の弾みになるように思います。コーチの仕事も仲間の役割も本来はこの訓練に寄り添ってあげることかもしれません。

他人ごとではなく、本気でその人の成功を信じるならば行動に移していくことだと思います。
自立支援というのは、信じることですが訓練を見守る愛が具体的な手立てかもしれません。

学ぶを深めていきたいと思います。

養育の道

現在、中尾佐助氏の「栽培植物と農耕の起源」(岩波新書)を読み進めています。

そもそも人間は食べることによって今まで生き延びてきた生き物の一つです。その食べるという当たり前のことを文化と呼ばずに何を文化とするのか、そして食べるために農耕を如何に発達させてきたかを辿るというのは、人類が如何に発達してきたかを知る道筋でもあります。

人類のルーツが何か、そして人類はこれからどこに向かうのか、その発達を確かめる中に「農耕」という文化そのものの意味を自覚しているかどうかは大変重要なことであろうと思います。

今のように遺伝子組み換えや原子力、また最先端科学と呼ばれる技術によって様々な文明が生み出されたとしても、かつて何千年もかけて創意工夫してきた文化には及ぶものはありません。いくらそれらの最先端科学をもってしても、そもそもの農耕という名の食べるものすべてを賄うことはできないからです。

この著書は栽培されている作物の側から物事を洞察しているところに、発達で観るということの真価があります。育ち育てるということがどういうことか、そしてそれを如何に発展させてきたかというのに人類史のかつての智慧を学びなおすことができるように思います。

以前、種麹屋のことがテレビで放映されていた中に興味深いシーンがありました。種麹屋というのは、その年の種麹の中から特に栽培が可能な種麹を取り出し保存する、そしてかつてもっとも栽培に向いている種麹の種菌を残しておいてそれを培養して種麹として販売するという話です。

これは作物でも同じく、毒抜きをしたり育成の過程で栽培に不向きなところを取り除いたり、種を大切に守りいつまでも育てることで農耕の文化を築いてきたのです。自然農の実践をしていても、毎年作物がその土地にあわせて、そして栽培する私に合わせて変化してくださるように常にかかわりと絆によってお互いの文化を築き上げていくのに似ています。

奥の深い農耕の歴史を鑑みながら、今の人類がどこに向かっているのかを考えると心苦しく思えてなりません。種を守ろうとすることを人類がやめたとき、人類は滅びの道を選択しているのかもしれません。

種を大切にするというのは、如何に育てていくかを守るということでしょう。
見守ることの大切さから、より深い養育の道を学びなおしていきたいと思います。

真心と実践

昨日、南アルプス市にある櫛形公園特設馬場にて流鏑馬神事に参加してきました。ここは小笠原流流鏑馬の発祥の地であり、その流鏑馬の基礎を確立した小笠原長清の生誕の地です。

流鏑馬(鏑流馬)とは、疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式のことを言い。馬を馳せながら矢を射ることから、「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、時代が下るにつれて「やぶさめ」と呼ばれるようになったといわれます。

武士の稽古や武術の鍛錬として活用されてきた流鏑馬と神事として行われているものとではその定義もまた異なるように思います。最近ではスポーツ流鏑馬というものもあるらしく、そもそも流鏑馬とは何かということを私なりに深めてみます。

古武道としての流鏑馬の歴史はとても古く、一説によれば神武天皇の世にはすでにはじまっていたという説もあります。古武道というものは、日本古来の心を顕すものでありその心が形となって動作になったものを示すものです。

これは神道の様々な動作に観てとれるように、一つ一つの行動がすべて畏敬の念や真心を顕すように自らがその心であることを自然に行うものです。神社で神主が行う所作や言霊は神前であることを気づけるものです。

心とは、その行動により顕れるものであるというのは神体一如の観姿ではないかと私は思います。思いやりは思っているだけでは思いやっているのではなく、具体的な行動に移してこそはじめて思いやるになるのです。

これはすべてに通じていて、私はこれを「実践」と呼び、実践なくして思いやりはないと言い切っています。思いやるということは、それを何らかの形にして実践してこそはじめて人に伝わり世の中に波紋を起こすことができるように思います。

私は昨年、西行法師を深めている際に流鏑馬に出会いましたが本来の流鏑馬はずっと長い歴史があり、その真心が何かということを知れば知るほどに確認することができています。特に小笠原流流鏑馬には「相手を思いやる心」を動作にするものが真髄であると書かれています。

真心や思いやりというものを実践で表す神事の一つに流鏑馬があったと思えば、西行法師が何を源頼朝に伝えたのかは自明してきます。神前であること、見守りの中である自分たちが如何に正直で素直であるか、清浄無垢で純真であるかを太古の昔から私たち大和魂は大切にしてきたのかを実感します。

一つのご縁が、様々な学問を深めて発展していきます。

まだまだ分からないことばかりですが、長い時間をかけて深めていきたいと思います。

 

 

 

自然共生の原理

稲から学び直す中で、中尾佐助著「栽培植物と農耕の起源 」(岩波新書)に出会いました。

私も稲と大豆、麦を中心に自然農で観察する中でイネ科のことやマメ科のことなどを調べていると野生種と栽培種の違いについて発見の連続の日々を過ごしています。特に、最近のF1種ではなく固定種で観察してもはっきりとその生育は異なりますが、本来の古代米などの野生種と現在開発された種とでも明らかに生育は異なります。

そもそも産まれた時からずっと人間が手を入れていないものと、人間が手を入れてきたものでまったくその出来が異なるのが自然栽培です。自然の栽培とは、人間がこまめに手入れをし、そのものとの関係性を築き上げ、そのものと共生する自然の力を使うことです

これを私の言葉に言い換えれば、「自然共生の原理」を使って、そのものと調和協力することでお互いを近づけて共に活かし合う関係を築くのです。自然は孤立していると本当に弱いものです、ですからそれぞれが助け合って存在しています。

あの野生の草花でさえ虫たちや鳥たち、そのほかの菌類にいたるまで様々なところでお互いを活かしあってともにこの自然を楽園にし生き抜いてきました。文化が存続するというのは、シンプルに言えばお互いの種を永続させて残すということです。

そのためには、力を合わせていかないと子孫につなげていくことができないのです。これは単に子どもを産むことだけを言うのではありません。これは共に活かしあう関係をどのように維持していくかということをもっと真剣に考えるということです。文明が文化を侵食するというのは、今まで組んでともに支え合ってきた関係と縁を切っていくこです。

たとえば、私たちはお米を食べていますがお米を食べるのをやめれば文化は滅びます。なぜなら文化は何を私たちが食べてきたか、言い換えれば何と一緒に何万年も過ごしてきたかということを否定するからです。

先ほど冒頭で紹介した中尾佐助氏の言葉がとても印象的です。

『「文化」というと、すぐ芸術、美術、文学や、学術といったものをアタマに思い浮かべる人が多い。
農作物や農業などは「文化圏」の外の存在として認識される。

しかし文化という外国語のもとは、英語で「カルチャー」、ドイツ語で「クルツール」の訳語である。
この語のもとの意味は、いうまでもなく「耕す」ことである。

地を耕して作物を育てること、これが文化の原義である。

これが日本語になると、もっぱら「心を耕す」方面ばかり考えられて、はじめの意味がきれいに忘れられて、枝先の花である芸術や学問の意味のほうが重視されてしまった。

しかし 根を忘れて花だけを見ている文化観は、根なし草にひとしい。」

この根とは種のことです。そして今年の私は「里」がテーマですが、里は共生のことです。真の文化とは共生のことであり、共生することで互いを活かしあうことではじめて子どもたちはこの先も安心してこの地球で幸福に暮らしていくことができるのでしょう。

本来、どのような環境を残していく必要があるのか、かつて苦しかったとき、ピンチだったときに助けてくれた仲間たちを蔑ろにしていないか、本当につらい時期を乗り越えたものたちを粗末にしていないか、恩を忘れてはいないか、そこにも生き方があるように思います。

稲や豆だけではなく、牛や馬、鳥などかつての仲間は今はどうなっているのでしょう。

まだまだ自然のルーツから学びなおしていきたいと思います。

父母の恩徳はいのちなり

自然界に入り、ふと感じたことがありました。すべての生き物たちには父母があります。父母なしで生きているものはありません。父母は空気のように当たり前に存在しているものですから今更考えないのかもしれませんが、そこにはとても重要なことが隠れています。

私たちの今を思うとき、そこまで連綿とつなげてくださった父母から辿っていくとずっと先の祖までたどり着きます。しかしその祖とは何かといえば、その祖はあまりにも遠大であり観えません。なぜならその祖にもまた父母があるからです。

同じように私たち自然界の生き物の父母をずっと辿っていくと、地球や宇宙の先に祖があります。しかしその祖にもまた父母があるのです。

どこまでたどれば父母の元に逢えるのか、その元が分からないから父母の存在は偉大なのです。中江藤樹が父母の恩徳は天よりも高く海よりも深しといいましたが、私なら「父母の恩徳はいのちなり」です。

父母の元とは何か、それは此処に活かされている自分。この自分の中に存在するいのちです。そのいのちの中で、私たちは父母に出会うのです。

もっとも遠大なものは、もっとも卑近にこそあるものです。私たちが気づきもしないところにこそ、真の存在は永遠に生き続けているからです。

いのちの大切さなど教えられるものではありません、いのちは父母そのものですから常に自分の中に存在するということに気づくだけということでしょう。

人間は何かあるとき、父母を辿っていくといいように思います。そこにあるいのちの息吹に触れて目覚めていくように思います。人類史はいよいよ過渡期に入りますから、しっかりと父母の恩徳を意識しながら歩みを強めていきたいと思います。

 

自然の時機

昨日、念願の水田づくりを無事に行うことができました。

光と水と風、そして土の調和の中で私を含めた生き物たちが共生する地球の喜ぶ田んぼから自然を学べることに感謝しています。

振り返ってみると、時間が経てば過去に起きた出来事はすべて意味がありつながっていることを実感します。なぜあの時はできなかったことが今はできるのか、なぜあの時はならなかったのかを内省すると、タイミングが合わなかったということがわかります。

その時は焦りのあまり、思い通りにいかないことに挫折をしたり一喜一憂したりと大変でしたが時間をかけて継続していけばあの時の苦労が今に活かされていることを実感するのです。

人生には必要な時期に必要な体験というものがあるように思います。いくら早く早くと焦ってみても、無理やり力技でその時は乗り切ったにせよ、タイミングが合わないのであればことは為りません。

そう思うとき、如何にことが為るには長い月日が必要なのかということを実感するのです。

言い換えれば必要な月日があって事は為るということです。

自然体というものも同じく、長い月日をかけてタイミングを合わせていく中でもっとも相応しい時処位に応じた行動ができるかどうかということなのでしょう。心で浮かんだことが形に為って行くまでには自然と一体になってその時機が訪れるのを信じて待ち続けなければなりません。

それは頭で思うとおりにすることではなく、心が感じるものを感じたままに味わい、感謝のままに周囲に支えてくださっていること、周囲が助けてくださっている実感を覚えるときに時機は実感できるように思います。その時機を実感するためにも、信を入れて過ごした長い月日が必要なのです。

自然というものは信じれば信じるほどに裏切りません。それは必ず善いことにしてくださるからです、それを天や神様、もしくは地球や宇宙と呼んでもいいのかもしれません。そういうものに包まれる中で私たちは呼吸をし脈動を打ち、めぐり会いを通じて活かされているのでしょう。

如何に自分が自然と一体の中に活かされているかを思うとき産まれてきた幸福に出会えるのです。心は常に自然とつながっていることを忘れてはいけません、だからこそ自然に待つ力を伸ばしていくのが修養の本質なのでしょう。

心の実践を積み上げて、味わい深い学びを楽しんでいきたいと思います。

循環の見性

自然に身をおき、自然と共生して農を行う実践をしていると如何に自分から自然に近づき、そして自然と一体になることの有難さを実感します。それと同時に都市に身を置き、人間社会に身をおき人間と協調しながら行う実践もまた有難さを実感します。

しかし都市の方では実感できないものがこの野生の自然の中に存在するものです。

人間は思い通りになることや思い通りにすることが最善のように感じるものです。特に都市の中では人間がルールを定め、そのルールに従って社會を存在させています。目に見えるところがうまく機能していれば、また大多数の人たちが快適であるならばうまくいっていると思わせています。その反面、目には見えないところで様々な不自然を発生させています。

たとえば、先日都内の下水道を見学する機会がありました。その際に、如何に私たちが日々に下水に流すゴミがどのように処理されて海に流されるのかを確認すると、いくら科学が発展したからといっても許容量を超えるものを力技で乗り切ろうとしてもそこにはどうしても不自然があるのだということを実感したのです。ほかにも産業廃棄物の問題も、ゴミ問題もそうですが見たくないものは見せないという都市の中で問題は起きていないようにしてしまうのが都市化ということでしょう。

人間は都合が悪くなると、見なかったことにしたり、見えなくすることで意識にもあがってこないようにするものです。もし下水がなかったなら、川がむき出しですから流している汚物が悪臭を放ったり、川の生き物が死滅して浮いていたならば、怖くて簡単には洗剤や油などを流せるはずはありません。

そもそも生き物はいないということが大前提ですからそうなるのでしょうが、結局は海に出たときにはその処理されたものが流れ出て、ゴミは加工したものを最終的にはどこかに廃棄集積されているのです。

それに比べ、自然界の中には一切の無駄もゴミも発生することはありません。自然の許容量の中で循環し、目に見えるところでその作業がすべて行われます。生き物たちも自分たちの精いっぱいの生活が他の生活を支援することを知っています。

一つ一つのいのちは、自然の循環の中に生きていて等身大でかつ清浄です。たとえ思い通りにいかなくても、それぞれが自然に合わせて野生しているのです。そこにはありのままにあるがままにいても全部丸ごと完全に善いことにしてくれる環境があるのです。

自然界には天敵がいますが、その天敵とは自分さえよければいいという欲のことです。この欲が出てくれば循環から外れますから自らで自らを滅ぼしてしまいます。なので、自然淘汰といって自然の循環に帰るように自らで数を減らしていくものです。そのために、天敵に頼り、身を任せたりもするのです。

人間の天敵も同じく人間ですがその欲を助長するのは、見えなくすることなのでしょう。自然の循環を見えなくすることで、どこかを隠してしまうことで人間は騙されてしまうのです。全部を見通せば自然に帰ることができるのでしょうが、どこかを隠すから不自然になるのです。

言い換えれば「なかったことにする」ということで不自然は広がっていくのです。歴史も然り、環境も然り、生き方も然り、決して誤魔化したり隠したりできないものですから、真実を直視して如何に自らを大いなる自然の循環に合わせていくかでこれからの人類の存続がかかっているように思います。

真理とは誰かに操作されるものではなく、自然体になることを学ぶ中で出てくる単なる形です。

せっかくこれだけのことを遣らせていただいているのだから、人類も成長して方向が大転換する学び直しができないものかと考えています。本当に豊かな社會を人間が調和するならば自然はより明るく緩やかに楽しめるように思います。

教えられることばかりでまだまだ形にできませんが、有難く実践から学び直していきたいと思います。

社會活動

日本の社會では、あまり自分の意見を出さない方が善いという考え方を持っている人がいます。しかしよく聞いてみると、流されてしまっているだけや周囲に合わせているだけといった自分を持っていないことで我慢したり悩んだりしている人も多いのです。

先日、ある園の相談で自分の意見を言える子どもになってほしいという願いについて話し合いました。なぜなら、自分の意見が言えないというのは社會の中で自立していけないからだとありました。

この自分の意見を言わないということを少し深めてみたいと思います。

そもそも自分の意見が言えるというのは、自発的で主体的であるということです。何かの物事に参加するとき、それが妥協ではなく協力であるならば自分はこうしたいという意見がありそれを周囲に発信して自分から進んで取り組んでいきます。

しかし、これを周りに合わせてから自分をだそうや、周りの評価や自分を我慢して従っていこうとなると一見トラブルも発生せずに無難で安全ですがそうすると他発性で受け身になってしまうのです。

自分から意見を持つというのは、自分をもっていないとできません。そして自分を持つというのは自分で考えていないと自分は持てません。つまりは何かの問題に対して手綱を自らが持ち全体を御しているか、それともただ馬に乗せられているだけかの違いになるのです。

ただ乗っているだけならだれでもある程度はできるものです。しかしそこに確かな自分の意思や主張を出すのだから積極的に物事にかかわり、自分の意見をその社會に対して発信して最終目的まで主体的にかかわり続ける必要があります。

つまりは社會参加のように、見守られているのだから自分の社會人として社會の一端を担おうと自ら見守る側として考え意見を発信するということになります。社會活動も同じく、自分も社會の中で存在する大切な一員なのだから自分が社會をつくる責任を持つのです。

自分の意見がないというのは、その自覚がないということです。だからこそ会社でいえば、自分が会社を創っているのだから自分の意見はとても大切なのだと自覚することや、一人一人が自分が大切な存在なのだから他の意見を認め、自分の意見も認められる社會にしようとすることが共生する場を創出していくことになるのでしょう。

自分の人生を自分で生き切るというのは、自分の意見を持つということです。それは単に反対するとか、わざわざ反抗するというような幼稚なものではありません。自分なりに考え抜いた問いを自分の発言に責任を持ち周囲に発信するということです。

これができてはじめて自分もチームの一員だという自覚が芽生えるのでしょう。自分の意見が誰かのお役に立つことがあるのですから、どんな意見も大切にしていこうとすることがよりよい多様性の社會を産み出していけるように思います。社會活動というものの本質は、自分自身の自立をもって行動するということでしょう。

人の話を聴くということ、そして自分の話をするということ。

たった一人の自分の人生を歩む覚悟として、常に自らの姿勢を正していきたいと思います。
堂々と言いたいことがはっきり言えるような大人のモデルを実践していきたいと思います。