玄徳の毘

心気を養うということについて深めてみます。

心というものは気というものを持って外に顕れてきます。心がどのようなものを抱いているかによってその気もまた異なります。暗黙知としての心の中の持つ信念の偉大さと、その形式知として具現化する精神や気というもののの大きさがお互いに合い調和するとき「気合」もまた自然のように正しく清々しく発揮されるように思います。

以前、孟子のいう「浩然の気」についてこのブログでも書きましたがもっとも私が目指すところはこの浩然の気を養うことで天地と和し、大義を貫くことで子どものために自らを昇華し生き切りたいと願っています。

しかし、実際は気だけが激しく動き心を濁してしまうのはまだまだこの浩然の気が養われていないからです。天地のように偉大な気は、太陽がただ私たちを照らし続けるように、また水が流れて循環し清らかにいのちを浄化し続けていくようにどれも広大で悠久の時空をかけて行われるものです。

人間にはその広大無辺の気を感じるよりも、自らの気ばかりが焦ってしまい起きた事象を自我が助長するのはまだまだその天地の心に近づいていないからのように思います。不動心を持ちたいといくら願っても、その気が正しく養われず気が狭い範囲に囚われているのなら少しでも気が高まれば心もすぐに動いてしまいます。

心気を養うのは、至誠を貫くことなのでしょうが私は道に迷うことばかりです。

老子に下記のような話があります。

『迷える魂を落ち着かせ、一つのことに集中させ、そこから離れさせないことができるだろうか?「気」を専らにして柔らかにし、赤子のようになることができるだろうか?神秘で不可解なイメージを全て取り除き、透明にすることができだろうか?天の門が開き閉じて万物生成するものを、ただただ受け止めることができるだろうか?天下にあまねく政治を行い、しかも何もしないことができるだろうか?生成して、これを養い、生成しながらもこれを保有せず、これを使ってもこれに頼らず、人の上に立っても指導などしない。これぞ「玄徳」と言われる。』(第十章)

『「虚」の極みに行き、「静」を篤く守ろう。万物が並び生成する。私はそれらが帰っていく所を見据える。それらはどんどんと生長繁茂するが、全てはその根本に復帰していく。根本に帰ること、これが「静」と言われ、天命に復すると言われる。天命に復すること、これが「常」と言われる。「常」を知ることが「明」、つまり明察なのである。「常」を知らなければ無闇に動くだけとなって災いが降りかかる。だが「常」を知れば全てを包容することができるようになる。全てを包容することこそが「公」、つまり私ではない「おおやけ」なのである。「おおやけ」なのは王である。王なのは天である。天なのは道である。道は永遠である。永遠だから、人はそれに寄り添えば生涯危うくない。』(第十六章)

この玄徳は、もっとも自然が泰源する道に他ならないと思います。そして常とは万物一円にあらゆるものが融和融合した完全な姿です。

まだまだ自分の気が何かをしようとばかりに囚われてあるがままの流れに逆らってしまいそうになります。これは私に浩然の気を養う努力が足りないからです。もう一度、自分自身の心気を見据えて、最善を尽くすことで学び、天命を待つことで学び、智仁勇を兼ね備える毘を求めていきたいと思います。

浩然の気とは、私にとっては玄徳の毘です。

奥深い世界に自分を高めることを忘れずに、日々を生きていきたいと思います。