実践躬行~至誠~

吉田松陰の座右に至誠があります。この至誠は、孟子の「至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり」という言葉から来ています。この至誠とは、読んで字の如く、「言うを成す」から出来ている字です。

つまりは言行一致のことです。誠というのは、自分の言ったことを実行することを意味します。先週の大河ドラマ花燃ゆの中で、吉田松陰が久坂玄瑞に対して「あなたの情熱は素晴らしい、あと実行さえできればあなたは必ず志を実現できる」と励ましていました。

知行合一、常に分かるということは行うことで行うことが分かることであるという王陽明の一文を思い起こします。これはかつての人物たちが必ず実践した理です。

論語では、「子曰わく、弟子、入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹みて信あり、汎く衆を愛して仁に親しみ、行いて余力あれば則ち以て文を学ぶ。」とあります。これを伊與田覚さんはこう訳しています。「先師が言われた。若者の修行の道は、家に在っては孝を尽くし、世に出ては、長上に従順であることが第一である。次いで言動を謹んで信義を守り、人々を愛し、高徳の人に親しんで、余力あれば詩書などを読むことだ」と。まず実行が先で余力があれば本を読むなどをすればいい、まずは至誠を盡しなさいといいます。

永平寺の道元禅師は、「修せざれば現れず」という教えを遺しています。ここには「曰く、「知る」ということと「わかる」ということとはちがうのです。知っていても実行されなければ、わかったことにはなりません。薬の効能書を読んだだけでは病気は治りません。禅も実行してはじめてわかることなのです」とあります。

常に実行を伴うことで語りそれを言葉にしていくような生き方をするように諭します。言い訳のない生き方というものの中に、覚悟を感じ、その覚悟こそが志を為す元であることを感じずにはおれません。

できないことを並べてもできるようにはならず、諦めそうなときは実践者の先人先輩たちが背中で励ましてくれます。

その覚悟の激励のやり取りも論語の中に遺っています。『冉求曰く、子の道を説ばざるに非ず、力足らざればなり。子曰く、力足らざる者は、中道にして廃す。今、女は画れり』。

これを意訳すると(冉求が言いました。「私は先生の言っていることを有難く思わないのではありません。しかし今の私の実力や力量が不足しているのです」と。それに対して孔子は言います。「もしも本当に実力や力量が足らないのならば、途中で投げ出しているはずだ。今、お前は自分で見切りをつけているのだ」)と。

冉求は、心を入替えて自分から先に見切りをつけるのをやめ、真摯に実践躬行に取り組みその後にある国の宰相のように大きく用いられました。この冉求は孔子十哲の一人と称されていますが、消極的な性格だったので常に孔子から「聞くままに斯れこれを行え」(すぐに実行しなさい)と叱咤激励され続けたと言います。

どんな時代も、頭でっかちにならないように真心の汗をかきなさいという教えに救われる気がします。他人にはそれぞれの特性はありますが、躊躇うことは誰にでもあります。見守りの中で信念を育て、信念の根をはっていけるように実践させていただけることに感謝して歩んでいこうと思います。