観自在の実践

先日、「あなたはここにある白い紙の中に、ポッカリ浮かぶ白い雲が見えますか?」というお話をお聴きする御縁がありました。これはベトナムの僧侶、ティクナット・ハンさんの「般若心経」の書き出しに書かれているそうです。

つまり白い紙と白い雲の関係が観通すことができますかという問いです。

手元にある一枚の白い紙は、紙になる前は木、樹木として存在していました。その樹木には水が欠かせません。そしてその水はどこから来たかといえば白い雲からというのです。白い紙が出来上がる間には、様々な人々や自然の恩恵が一つに関わり合いがあって存在しているという真実。その単独で存在するものなどこの世に存在しないという真実のことを『一如(すべては一つ)』といいそれが観えるもののことを観自在菩薩と呼ぶそうです。

私が思う観自在というのは水の姿です。

例えば「水」はあらゆるものに形を変えて存在しています。ある時は雲になり、ある時は、霧、雨、氷、空気、川、海、人、全ての中に入り込み寄り添いつつ形を変えて存在しています。これらは分かれているように感じていますが、実際は偉大な循環一如の中で分かれていることはありません。全てこの地球の中でめぐり続けて存在しています。もしも水がなければ私たちは存在することもできません。私たちが気づいていないだけでその恩恵というものは広大無辺であり実感するとまるで有難い存在に深く感謝できるのです。

人は自分勝手に目に見えるものをすべて自分のもののように偉そうに勘違いしてしまうものです。自分のカラダであっても自分のものだとして大事にせず、自分に纏わるものを自分勝手に解釈しては自分の都合に合わせようとします。その上、自分事のように割り切って他を思いやることもありません。

本来の自分事というのは、全体のことを自分事にしているかという意味であり自分勝手という意味ではないのですが歪んだ個人主義の影響で自分のことしか考えない人が増えたようにも思います。これでは全体を観通すこともできず、御縁の世界に気づくこともまた少なくなるように思います。

今まであったことが有機的につながっており、様々に結ばれ紡がれてきたものの一部として私たちは存在しているのですからその一つとして無駄なものは本来は存在していないはずです。自分に御縁があったものを、自分が天から授かった恩恵をどれだけ大切に生きるかはその信仰の強さにあるように私は思います。

天から授かったご恩を忘れない生き方の実践の中にのみ、観自在菩薩はいらっしゃるのかもしれません。そしてあなたや私たちがその自然の恩恵である観自在菩薩になるかどうかは、その人の感謝報恩に生きる生き方の実践が必要なのでしょう。

感謝報恩という言葉の中には偉大な循環が息づいており、ちっぽけな自我妄執などをはるかに超越した本物の自然存在としての自分自身の恩恵を丸ごと授かってままで活かしているということです。これを親祖たちは「もったいない」といったのでしょう。以前、どこかで見かけた自戒の言がありました。

「かけた情けは水に流し、受けた恩は石に刻め」

御蔭様の感謝の存在をいつも忘れないように、そして天から授かっている御恩に報い自分を活かし切るためにも、自我妄執を手放し、子ども達の未来のために観自在の実践を積み重ねていきたいと思います。