道心と暮らし

「道心」という言葉があります。これは徳を高めて道を志す道徳心とも言えます。天台宗の開祖の最澄の有名な言葉に「国宝とは何者ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす。故に古人曰く、経寸十枚、これ国宝にあらず。一隅を照らす。即ち此れ国宝なり」があります。

これはクニの宝とは人々の中にある道徳心であり、道徳心がある人こそが本来国宝なのだと言い切ります。そしてその国宝こそがクニのかたすみのあちこちを照らす人々になっていくということです。

そもそも道徳とはいつからあるものなのか、それは今もはっきりしていません。しかし古来の人類が埋葬してあるものをみて、そこに御互いを思いやる心があったことを察し、宗教に発展しているとも言えます。

日本では神話の中で、大国主が数々の思いやりを遺しています。そして天照大御神も、真心を顕している「八尺瓊勾玉」を三種の神器の一つにしました。先祖たちが大切にしてきたものの中に道徳が入っていることに気づきます。

人間がもっとも人間として大切にしているものを忘れないこと、それを初心にして高め合おう磨き合おうと精進していく中にこそ道徳は息づいているように思います。

最澄はさらに「道心の中に衣食(えじき)あり、衣食の中に道心なし」と言いました。

つまりは初心を忘れずに実践する人には、自ずから衣食住は伴ってくる。ここでの「衣食(えじき」とは「暮らし」のことです。初心を忘れない人は安心して暮らしていけるが、己に負けて初心を忘れ自分のことばかりを考えて自分勝手に生活している人には人を思いやる真心を見失い衣食住が次第に存在できなくなるということです。

「暮らし(衣食)」というものは、利他に生き、周りのために、全体のためにと自分を盡す人には自ずから備わっているもののように思います。自分優先で自分のことばかりを気にして自分に終始する人は暮らしが成り立たないのは、暮らしは「みんなの仕合わせのために生きる」中にしか存在しないからのように思います。人間は周りの御蔭様を何よりも尊重して生きる生き物であり、決して一人では暮らせないということです。

周りへの感謝を忘れ御蔭様をも思い出さないで、自分の身の心配ばかりしているようでは道心から離れているように思います。道心とは、周りの人たちの御役立ちできる生き方を貫いていくことであり、その生き方が世の中のかたすみを常に明るく支えているという意味でしょう。

「暮らし」を見直していくとき、どうしてもはじまりを意識します。そのはじまりは、道徳心に由ります。道徳心を忘れないためにも初心を実践し、日々に研鑽を積み、真心を盡していきたいと思います。