時を味わうチカラ

現代は便利なものが増えましたが、その分、便利さによって失われたものがとても多いように思います。

例えば、時間をかけてじっくりと取り組むことで得られる味わいというものはほとんどなくなりました。それは料理であっても、何かの創作であっても、そして心の豊かさであっても、時間をかけなくなることで失われました。

時間をかけることがよくないという価値観は、今のスピード社會を観ていてもわかります。早く結果をだすこと、短期的にリターンがあること、すべて短時間で行われていることが価値があるかのように評価されます。

便利になればなるほどに時間は短くなり、速度は速くなっていきます。まさに情報戦によって今の世界はあらゆるものが塗り替えられています、

これだけ速度があがり便利になると、今度は心がその速度に着いていけなくなります。例えば、心の豊かさもかけた時間をゆっくりと味わい、そしてそのことで得られる結果を再び振り返りながらじっくりと味わう。このように味わい追随があってこそ、深い味わいを感じられ豊かさが増えていきます。

心の豊かさは、このじっくりと時を味わい今の仕合せに感謝するときに深く感じられるものだからです。

人間は「時を味わうチカラ」というものがあって、はじめて真の豊かさを知るのかもしれません。二度とない人生、二度とない今だからこそ、この豊かな今を味わいきって子どもたちに仕合せを繋いでいきたいと思います。

メンタルトレーニングの意味

昨日、ある会合で打たれ強さについて話をする機会がありました。人間は長い目で観ると何かを上手にやれるかどうかよりも、打たれ強い人の方が物事を成就する力が秀でているように思います。

本来の持ち味や、大切な時に力を発揮するためにもメンタルの強さというのは必要になります。そのメンタルは、鍛錬できるものとしてメンタルトレーニングというものがあります。

一般的にはメンタルトレーニングをイメージすると競技スポーツの訓練の中で意志・意欲・決断力などの精神力を強化するトレーニングがあります。他にも瞑想による精神統一や、故意に困難な状況を設定してのトレーニングなどによって、大事な場面であがってしまうことを防いだり、自信ややる気を高めたりするのに役立つといわれています。

人間は体調や環境の変化で心も変化します。弱気になっている時もあれば、強気でいられるときもあります。私の経験では、はじめて何かに取り組むときや、困難に直面するとき、あらゆる場面で、心は変化していきます。

どんなときにも平常心や不動心を維持するには、心の強さが必要でそれは誰もが最初から備わっている能力ではありません。様々な経験や鍛錬を通して、忍耐力を身に着けて心の持ち方を身に着けていくのです。

人間は生まれてからなんでも思い通りになどなるわけではなく、その都度障害が出てきてはそれに立ち向かっていきます。幼い子どもたちを観ていたら、様々な困難や理不尽な大人の圧力、社会環境などを影響を受けながら自立に向けて挑戦をしています。

思ったようにいかないとき、時には涙し、時には感動し、時には笑ったりしていますが、そのどの体験もその人を育ててくれています。その都度、心は強くなり優しくなっていきます。

私は心の強さとは、心の優しさであろうとも思います。

心優しい人は、矛盾を受け容れ、全体を思いやりながらも本質を維持することができます。そこには、心の寛容力のようなものがあり、心の持ち方をいかようにも転じていける柔軟性が存在しています。

気力、体力、精神力など、生きていくと様々な力を使いますがこの生きる力を高めていくことは人間人生の最も重要なテーマです。

生きる力を見守る私たちだからこそ、自分たちがその体験を通して子どもたちに還元していきたいと思います。

豊かな暮らし

今年も聴福庵の床の間には、ご先祖様方が無事に来庵していただけるように準備をして静かに待っています。具体的には、菊の花や鬼灯(ほおずき)などをしつらえ、おもてなししています。

このお盆は以前にも紹介しましたが、「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といい故人の魂があの世からこの世に戻ってこられる期間のことをいいます。この期間に亡くなった家族やご先祖様の精霊を迎え、生きている親族と共にひとときを過ごし、またあの世へと帰っていくという日本古来の祖霊信仰と仏教とが繋がって続いている伝統行事のことです。

今回は鬼灯をたくさん用意し、玄関から庵内で寛げるように配置しています。この鬼灯は迎え火の際の提灯に見立てたものです。小さいころ、私も迎え火をもってお墓に行きそのまま帰宅してご先祖様をご案内したことを覚えています。子ども心に蝋燭の火が揺れて少し怖くて、ただ先祖を身近に感じて少し温かい気持ちになったことを覚えています。

このように道しるべになってご先祖様を迎えにいくところに、自分もいつかこのように子孫たちが迎えてくれるのだろうという安心感があります。地上の暮らしが土に還ることで墓になります。墓で暮らしている人たちが、この時だけ地上で子孫たちと共に和合して幸福を味わう時間はとても豊かです。

むかしの人たちは、感謝の機会を設けることで自分たちがこの世で無事に生きていける有難さや御蔭様をいつも感じていたように思います。物が少なかった時代だとしても、心はとても豊かだったように思います。

この鬼灯ひとつの捉え方でも自然界で旬である鬼灯を提灯に見立てたり、仏さまが空洞になっている場所に身を宿すと信じられたり、農作物が不作の時など、お供えものに彩りを与えていたと聞くだけでも心の豊かさを感じます。

豊かさは常に心の中にあります。

豊かな暮らしを味わいながら、感謝の日々を歩んでいきたいと思います。

情報の本質

情報の伝達方法というものは様々な動物や昆虫によって異なるものです。私たち人間もあらゆる方法を用いて感情や情報を伝達しますが生きものたちはそれぞれの特性を活かして情報伝達を行っています。

例えば、昆虫のミツバチはミツバチダンスというものがあり八の字のダンスによって蜜を取りにいく花畑や花の種類などを伝達します。それを見ても普通は何をしているのか私たちにはわかりませんがミツバチ同士だと理解し合います。他にも犬などの動物も、吠え方や臭いでお互いの情報交換をします。カラスにいたっては、かなりの量の鳴き声を使い分け会話をしているともいわれます。

情報伝達というものの手段はそれぞれで異なりますが、生き物たちは大切な情報は遺伝や本能によって伝承されているのです。

私たちは言葉を使いますが、これはあくまでのちに開発された便利な道具です。しかしその情報は全体の情報の一部を切り取り、それを可視化したものであるだけで解釈の仕方がいくらでも出ますから情報操作されていきます。

現在、世界が真実の情報が分からずあらゆる情報が操作されてグローバリゼーションの価値観が広がったように便利な情報伝達の道具が発明されてはそれをどのように使うかで歴史は変わってきました。

これは道具の活用と同じで、道徳的な活用とそうではない活用で大きな差を生んでいくのに似ています。情報もまた同じく使い方次第で、どうにでも操作していくことができるものになっています。騙したり悪用したりという使われ方が当たり前になればなるほどに情報リテラシーを身に着ける必要があるからです。

何が本質なのか、何が真実なのか、常に物事の中心を見抜く力を高めていくには思想を磨き、実践を積み、全体を俯瞰し、歴史に精通し、人間の性質を究め、社会という生きものを洞察していくような見識眼が必要になります。

日々の小さな情報を鵜呑みにするのではなく、自らの頭、手、五感、つながり、行動、などそのあらゆるすべてを用いて自ら精査していくことです。こういう時こそ自分たちに本来備わっている直観や、第六感を磨くことで時代の情報を読み解けるかもしれません。

子どもたちには真実を知り、本質を磨くことの大切さをIT技術の思想を通して伝承していきたいと思います。

忍耐の徳

以前、私に「忍耐」ということの価値を教えてくださった方がいます。言葉では知っていたものですが、私はその方にお会いするまで「我慢」ということとあまり違いがないように認識していたように思います。

人生は様々なことが発生しますが、それを真っすぐに受け止めて敢えて忍耐を味わうことで心の持ち方を転じる生き方を観て感銘を受けました。その生き方は、まさに生きる力根源であり、人生というものを丸ごと味わい成長しようとするいのちの醍醐味を感じました。

人は、心の持ち方次第で立っている場所がたとえ同じでも世界の見え方が全く変わってしまうことがあります。同じ太陽でも、同じ風でも、同じ出来事であっても、心の持ち方次第では別世界になっていきます。

自分を生きるというのは、自分の世界を創造していくということですから自分がどのような人生を生きようとするか、自分の人生をどのような世界であろうとするかはその人の生き方が決めるのです。

そのうえでこの「忍耐」というのは本当に素晴らしい徳目であろうと実感したのです。

忍耐というのは、どのような時にも生き方に不動の心を持ち、そして全ての出来事を丸ごと心で受け止めるといった「心の持ち方」の指針なのです。私自身も、その方の生き方を通して、不動心を持てるようになりたいと思うようになりました。

言葉の表現はそれぞれに異なっていても、憧れる生き方や尊敬する生き様はみんな共通するものがあります。もともと目指す在り方を今の時代でも伝承していけることは、それぞれの人生の指標になりそれが子どもたちに伝道されていきます。

学んだことを学んだままにお返しできるように、自己との意味づけや人生の醍醐味を大切にしながらご縁を紡いでいきたいと思います。

徳循環経済のモデル

「サーキュラー・エコノミー」という言葉があります。これは直訳すると「循環経済」となります。世界の人口増にともない、資源乱用・廃棄により地球の環境が破壊されていくなかで人類はこの問題に正しく向き合う必要があるとして近年この言葉も出てきました。国連も「このままのペースで地球温暖化が進んだ場合、早ければ2030年にも深刻な気候変動が生じる」と警告し、「あと12年しかない!」と危機感を世界に発信しました。

人類の意識の改革として現在の大量生産大量消費の経済から循環経済への転換は、「取って、 作って、捨てる」という意識を「取って、作って、作り続ける」の意識に換えようというのが一般的な概念です。実際には、現在の資本主義経済の仕組みそのものの大転換、人類の個人による富と貧困の欲望との挑戦ですから一筋縄ではいかないのも明白です。

海にはプラスチックゴミが膨大にあり、空は排ガスやフロンなどで汚染され、土は農薬や廃棄するゴミが埋まり、食べ物は添加物や薬品漬けになり、生き物たちは絶滅を続けていく。この現状のままでいつまでも環境破壊が続けば、巡りめぐっていくらお金や富があっても社會が崩れれば個人もまた崩れるのは自明の理ですから人類が協力して何とかするしかありません。

人類は、欲望と道徳といったもののバランスを保つ必要があります。自然の一部として利子で暮らしてきた持続可能な社會の時と比べ、現在のように自然を凌駕し自然を征服して根こそぎ奪い取ろうとすれば持続不可能なのは誰でもわかります。

それが分かっていても心の余裕やゆとりを失い自分だけは決して損をしまいと、みんなで競争し自利自得ばかりを追いかければ余計に競争は激化し、さらに余裕を失い安価で便利で安いもの、スピードや効率優先、つまりはお金ばかりを求める経済が加速して環境問題が引き起こされていくのです。

豊かさの価値観を転換するというのは、人類の意識の一大事ですが誰かが率先して取り組もうとしなければこの競争は終わることもありません。どんな未来にしていきたいか、どんな社會にしていきたいか、人類はそれぞれにそれぞれの場所や人種で文化を醸成してきました。文化があるところに余裕もまたあるのです。

日本の歴史を鑑みれば、発展させた循環経済は江戸時代の江戸は無駄がなくみんなが協力し合って都市を形成してきました。自然のものを活かし、永く無駄なく使い切り、みんなで協力し分け合って助け合い暮らしてきました。そういう文化を持っている私たち日本人は、本来世界に先駆けてサーキュラー・エコノミーのモデルを発信していける国民なのです。

子どもたちのことを思うと、今しかできないことに気づきます。一円対話で産み出す傾聴による心の余裕も社會教育の一端ですし、暮らしの甦生で取り組む様々な実践もまた本来の徳の豊かさに気づく社会変革への一端です。たとえ小さな挑戦であろうとも、強い意志で臨めば仲間が顕れ時間をかけて人類の意識の改革に貢献できるように思います。

カグヤの実践を通して、日本的な徳循環経済のモデルを実現していきたいと思います。

 

余裕の好循環

人は自分の使っている言葉の中に、心の豊かさが出てきます。使っている言葉を知ることで、自分の中の心の状態を確認することは大切なことです。自分の言葉を気を付け、自分の言葉を澱み濁らないように心の手入れをしていくことで心の状態を整えていくのです。

例えば、心の豊かさに対して心の貧困というものがあります。

日本は経済大国になり世界3位のGDPの高さを持ちますが、自殺率でも1位、2位の高さです。実際に、経済合理性を優先して物質的には裕福になっていますが心の貧困や格差というものは広がっているといわれます。

この心の貧困というものは、自分の心の状態が貧しい状態とは心の余裕がない状態だと言えます。心の余裕やゆとりがあれば、他人や社会に寛容になるものです。自分の事ばかりに忙しくなってしまうと、人は心の余裕がなくなっていきます。自利と利他という生き方がありますが利他に生きる人たちは心の余裕があるように思います。

心の余裕というものは、つながりや循環、そしてみんなで助け合っていきている信頼している世界が観える状態であるとも言えます。いつか切り捨てられるのではないか、いつか要らなくなるのではないかと、自分の事ばかりを心配して心は余計に貧しくなっていきます。

最近では歪んだ個人主義の影響で無縁社会などといわれることもありますが、こういった社會のゆとりのなさや余裕のなさが心の貧困を広げているように私は思います。立場や権利よりも、つながりや絆を感じることや、利他に生き、多くの人たちに活かされている自分を知り、感謝で恩返しをしようと生きている人は心に余裕が出てきて心が豊かになっているように思います。

自分の仕合せとは、自分が活かされている感謝を心で味わうことからはじまるように思います。自分自身の仕合せや豊かさを感謝でみんなと分かち合うとき、心に余裕が生まれ豊かさが滲みだして周囲を豊かにしていくように思います。この心の余裕とは何か、それは心の安心のことです。心が安心するためにも、みんなと信頼し合うようなつながりや絆、関係を自らが主体的に結び、自分自身の心の中にその信頼関係や安心基地を築く必要があるのです。そういう意味で、言葉はその信頼関係や安心基地を築く大切な道具なのです。

日々の自分の言葉がどのような心を顕しているか、その言葉を省みては現代社会に刷り込まれないためにも敢えて心が豊かになるような言葉をたくさん発して、子どもたちの社會が豊かなるように余裕の好循環に貢献したいと思います。

甦生の思想

今回、組子ガラスや格子戸をなるべく多く取り入れて古民家を甦生しています。最近では洋風建築が増えていく中で組子を使ってものも少なくなってきましたが模様の入った木組みの建具や窓を観ているとその美しさにうっとりするものです。

そもそも組子というのは、組子細工とも呼ばれ、小さく切り出した木片を、釘を使わずに組み合わせて美しい幾何学模様を描く工芸品のことをいいます。木片の切り出しから行い、各パーツには組み合わせる際にパーツ同士を噛み合わせるための溝を彫ります。切り出したパーツをカンナやノコギリ、ノミなどを使って調整し、一切釘などの金属を使わずに丁寧にひとつひとつ手作業で組み合わせます。木を組み込んでいく工程は紙1枚の厚さでもずれてしまうと組み付けが出来なくなるほどの細かい作業で、熟練した職人の技術と木を知り尽くす知識が無いと作ることができないほどです。一般的にも最低でも10年の修業は必要だといわれています。

組子の歴史は現存する最も古いものは飛鳥時代に建てられた法隆寺の金堂や五重塔などの高欄に施されています。そこで今でも仏教建築の一部で伝来してものではないかといわれます。

平安時代末期には建具が貴族の暮らす寝殿で使われ室町時代には書院造りの建築で使われます。そして障子の桟や襖などにも細工を施すようになり装飾もより細かく美しいものになったといいます。江戸時代には数々の紋様と組み合わせ種類も200種類以上を超えるといわれています。

これらの紋様は、唐紙のときのブログにも書きましたが先人たちはその紋様に偉大な意味を見出して、紋様の力を身近に受け取ることで健康や幸福、願いや祈りの縁起にしてきました。ちなみに組子と合わせて格子というものもありますが、この格子は格子のマス目は魔物を見張ると言われ、魔除けの意味があります。細かく数が多いマス目は、子孫繁栄の思いも込められています。格子は権威や伝統の象徴として世界の建築で使われています。

これらの組子の紋様や格子を通して光が入ってくる陰影の美しさは、まさに光の芸術でもあります。私たちは、あらゆる紋様から自然の叡智を学び、自然を身近に生き方を磨いてきたのでしょう。

時代が変わっても、大切な生き方が伝承されていくように子どもたちへの祈りを形にして甦生の思想に活かしていきたいと思います。

復古起新

日本では少子化や過疎化の影響を受け、廃校になるところが増えてきています。さらに、全国の自治体で学校の統廃合を進めた結果、ますます廃校が増えています。

私の郷里にも、数年の放置でまるでお化け屋敷のように廃墟になってしまっている廃校がカラスをはじめ野生動物の巣になっていたりします。解体費用がかさむことと、使い道がないことからそのまま放置されているのでしょうが空き家問題と共にこれから解決していかなければならない重要な課題の一つです。

文部科学省の「文部科学統計要覧」によると、1989年(平成元年)の小学生の数は約960万人、中学生の数は約561万人だったが、2017年(平成29年)には小学生は約3分の2の約644万人、中学生は約4割減の約333万人まで減っているといいます。そして、2002年度から2015年度までの14年間に全国で6811校、年平均486.5校が廃校になっています。つまり、これからも年間500校近い学校の廃校が進んでいくことになるのです。しかし建物も壊れないように頑丈に建てられているため、解体する費用も多大な資金が必要になります。そのため何とか廃校を活用しようと、文部科学省が「みんなの廃校」プロジェクトというものを推進して活用が広がっているとも言います。

具体的には、オフィス・工場、児童・高齢者などのための福祉施設、アート創造拠点などの文化施設、体験学習施設・宿泊施設など、大学・専門学校などの教育施設、特産品販売・加工施設などで利用されています。

空き家問題も同様ですが、その場所が時代に合わなくなり使われなくなったものをどう温故知新するかという問題は時代の変化と共についてくる問題です。人が集まらなくなった場所に、また人を集めるのですから目的が明確でなければなりません。

何のためにその場所を使うのか、つまり目的を定めその価値を磨いていかなければその場所の甦生は難しいのです。

むかしは「見立て」といって、あるものを別のものに見立てて蘇らせる智慧が先人にはありました。今の時代のように単一消費のみの一方通行の世の中ではそのアイデアも出にくくなってきているかもしれません。現在の経済合理性の資本主義の世の中では、再利用ということもその経済価値観の中で判断しますからまた消費されて同じように空き家や廃校になっていくのです。

私が取り組む、復古起新は「磨く」ことに力を入れますから根本的な価値観を根底から変えてしまう仕組みです。引き続き、子どもたちに大切な文化が伝承されていくように実践を積み重ねていきたいと思います。

 

正直の徳

「正直」という言葉があります。これは、「正しくて、うそや偽りのないこと。また、そのさま。」とあります。具体的には、事実に基づいて嘘偽りなくありのまま伝えることを言います。しかしこれは生き方であるのはすぐにわかります。

生き方が正直な人は、事実や本質を見極めていますからいつも相手は自分の心や天に対して恥ずかしくないかという道や徳を常に確認し内省しながら歩んでいきます。

正直という言葉で有名な諺に、「正直の頭に神宿る」があります。これは正直な人には必ず神のご加護がある」という意味です。他にも似た諺には、「正直は一生の宝」があります。これはその正直さが周囲の信用や信頼を得て幸福を運んでくるからです。まさにこの正直こそが、宝のような価値のあるものということです。「正直は最善の策」などは、嘘ばかりついては嘘で塗り固められた嘘八百ばかりなってしまいます。嘘をつかないことこそが真実や本質、道理から外れないということでしょう。

これは嘘偽りない誠実な姿になるというのは、自然界にあるいのちそのものの姿です。自然が正直ですから、正直に生きていれば必ず自然は味方になってくれます。しかし正直でなければ、自然と反しますから自然淘汰されていきます。

正直さというものはそれだけで神のごとくであるという意味は、自然と一体になっているいのち本来の生き方が生き方に出ているからきっと「神=自然」として畏敬が顕れ偉大な存在に感じるからでしょう。

人間は純粋無垢に魂を磨いていけばいくほどに、この正直の徳の偉大さを感じるものです。見た目が少し損をしているように見えたとしても、実際はその損は徳を積んだことであり自分自身を磨いたという精進になります。

生き方は長い年月で醸成されていきます。どのように生きていくか、どのように生きてきたかはその人の生き様が決めていきます。自分が大切にしたい生き方を守ることが正直であるということでしょう。

子どもたちが正直の徳が伝承できるように、私自身、自己と正対し自分の中の誠や真心を磨いていきたいと思います。