自然の智慧

昨日、自然農の田んぼの稲刈りを行いました。東日本大震災からはじめていますからもう8年目になります。

私はほとんど出張や東京にいますからあまり田んぼに出ることができません。一般的な農業をされる方々は、家の近くの田畑の手入れをしているものです。私のように遠隔で田んぼに関わるというのは、本来は無理なことへの挑戦です。

誰もができるはずがないと思われることに挑戦することは私の生き甲斐であり遣り甲斐です。

他にも暮らしの甦生に取り組み、古民家甦生と年中行事を行っていますがこれもまた東京と福岡を行き来していますから旬を逃さずに取り組んでいます。

最初は無理で不可能だと思っていたことでも、挑戦する範囲が増えれば増えるほどに取り組みそのものが有機的につながってきます。それは仕事の進め方や取り組み方、時間の使い方、もっとも効果があるものへの集中、周囲の力を活かすこと、タイミングを外さないことなどあらゆることが重なりあってきます。

一つの事だけでも大変なのによくそんなにといわれますが、多くのことをやるからこそ一つのことを維持しなければならないということもあるのです。

人生は一度きりですし、一期一会です。自分の心が決めたことや自分の初心が忘れたくないことを現実の世界で応援できるのは最も身近にいる自分自身であることは自明の理です。

だからこそできないとすぐに諦めるのではなく、どうやったらできるだろうかと可能性を探り挑戦を続けていくことが自分を信じるということになります。そして多くの失敗を通して何度も何度も挫折しますが、その都度にそこから学ぶものは何だったかと学問を深める豊かさや喜びも得られます。

特にこの8年、多くの人たちが関わりそして去っていきました。まるで旅のように、その時々で出会いと別れを繰り返し今も私は道を歩み続けています。

昨日は稲の収穫をしましたが、当然無肥料無農薬で機械も一切使っていませんから虫に食べられ、雑草に追いやられ、イノシシにも少し荒らされ収量は世間の農家さんの田んぼを比較するととても少なく微々たるものです。

しかし収量は度外視するのなら、これだけ豊かな田んぼはあるのだろうかと感嘆を覚えます。自分のことだけを考えて収量を増やすのではなく、虫たちや野草たちと一緒に生きていく中でみんなが分け合い、残ったものを私たちが食べるということ。自然でいえばすべての循環を邪魔するのではなく、循環の豊かさを維持しながら生きていけるという仕合せ。

この時代の人間観では収量が少ないことは貧しいことかもしれませんが、絶対的な自然界では分け合い生きる共生と協働の世界は収量がたとえ少なくても豊かなことです。

いのちというものは、必ず死を迎える日が来ます。生きている間だけ富を独占したり、収量をこれでもかと根こそぎ奪い取ったりしても自分のものになるのはほんの少しの間だけです。そんなことをしても、自分の代は贅沢できたと思っても、子孫という永く継承されていくいのち全般を観たら収量はいつも一定であるのは誰でもわかります。

たとえば老舗企業が500年かけて稼ぐ金額と、新興企業が10年で稼ぐ莫大な金額は時間の問題だけで500年の軸で換算すれば総額はほとんど同じなのです。

だからこそどれだけ長い目線で物事に取り組むかが自然の智慧を上手く取り入れることであり、人類が永く生き残るための仕組みになっていくことと歴史を鑑みればそれがよくわかります。

私の取り組む自然農も、暮らしも、これはすべて生き方のことを言っています。

子どもたちに譲り遺していきたい智慧を伝承していきたいと思います。