子どもたちへ

100年後のことを考えてみます、そして1000年の先のことを想ってみます。すると不思議な感覚を覚えるものです。今の10歳の子どもは、100年後には110歳です。もう生きていないかもしれません。私は当然生きていませんが、生きていたら144歳です。

そして1000年後ということになると、1044歳になります。ここまでになると、一世代の計算が、30歳で子どもが受け継がれていくと仮定すると33代目あとになります。33回も誕生を繰り返して1000年後です。3代後くらいは予想がついても、33代後はなかなか予想はつかないものです。

その時、日本はまだあるのかどうか、国家という存在はどうなっているのか。これは神のみぞ知る世界です。人類はどうなっているのか、先ほどの33代を計算すると10代で1024人、20代で104万8576人、27代で1億人を超え、30代には10億7374万1824人の子孫ができることになります。今の私から、1000年続けば10億人以上になるということです。

その大切な、一代を生きているのが今の私なのです。

今日、私は写真家のエバレットブラウンさんと共に100年後の子孫のためにメッセージを遺すために湿式での写真を撮影します。この撮影する場所は、私が幼いころよりずっと参拝をし続けていたお地蔵さまの御堂です。

この御堂のご縁で、私は徳を積むことを知り、見守り見守られることの真理を教えていただきました。私の人生のメンターであり、いついかなる時も片時も離れずに同行する魂のパートナーでもあります。

ここで撮影することは、いつまでも私も一緒に子どもたちを永遠に見守っていますよというメッセージです。

私の今世での徳目は、このご縁のつなぎ役、結び役を磨き担うことです。

残りの人生、どれくらい私に許されているのかわかりませんが先祖一体、先人合一して真心と至誠で道を歩んでいきたいと思います。

広く明るい志

昨日、英彦山で友人のエバレットブラウンさんと一緒に法螺貝を立てました。不思議なご縁で、私に法螺貝をはじめる切っ掛けを与えてくださりさらに人生が深く豊かになりました。

まるで冒険するかのように生きるその姿に、感銘を受け新たにその生き方や学び方に私自身も多くのインスピレーションをいただいています。それにところどころ感性や豊かさ、個性に通じているところが多く、自分というものを客観視する機会にもなっています。

先日、私の役割について社内でみんなに聴いてみる機会がありました。

自分では思ってもいないようなことを言われ、驚きましたがそのどれもが道を切り拓くや、既成概念を毀すや、壁を打ち破るや、維新をするや夢に突き進むというイメージばかりでした。

確かに片時も休まずに作り続け毀し続けて歩んできました。もっといい方法はないかと、自分の直観を信じて歩み続けてきました。後悔する暇もなく、仕方がないと言い聞かせては前に前にと足を進める日々を送ります。

自分の志に嘘はつけませんから、今できる最善だけを盡します。

だんだんまた一人になり、そして孤高や孤独と生きていきます。それでも私の歩んだ後に道はできると信じて、子どもたちにつなごう、結ぼうと、誰も征かないところに向かっていくのです。

その旅路で出会う人たちは、どれくらい一緒にどこまでいけるのか。多くの人たちと出会いと別れを繰り返しましたが、長く一緒に歩める人がいたことは本当に仕合せなことです。

ここから先は、後を任せる人が出てくるのか。今はよくわかりません。しかし、法螺貝を天空に立て、大自然の山々と呼応し、その廻る木霊を聴いているとただ無意味のようなその一立てに志を立てることの永遠を感じます。

志で歩み続ける道を、自分がこの世に斃れ後人に譲るその日まで自分に与えられた天与の使命を明るく朗らかに生き切っていきたいと思います。

存在価値

人間の存在価値に対して、承認欲求というものがあります。これは認められたい、理解されたいという欲求です。他人の評価が気になるのは、人間は自分はどれくらい価値があるのかを計算しているということもあります。

誰にどれくらい理解されているかというのはその人にとっては重要なことであり、承認欲求によってその人の価値が決まります。しかしその人の価値は本来は、他人の評価で決まるわけではありません。

その人の価値は、その存在自体が価値があるのであり誰かの評価は存在とは異なり、自分を主軸にした価値基準ということになります。そう考えてみると、もっとも厄介なのはこの承認欲求であり、真心や至誠を盡すと決めていても相手にとって自分がどういう存在かを確かめ続けていたら気が付くと嫌われたくないや好かれたい、愛されたいという感情によって自分に向いてしまい初心を忘れてしまうこともあるかもしれません。

人間は、結局は自分との修行であり、自己を研鑽して自他一体の境地に入っていくために日々に向き合い魂を磨いていくしかありません。本当の喜びや仕合せは、、評価を超えた存在価値にこそあります。

自分が何の使命があってこの世に生まれてきたのか、そして天は自分に何の用を与えているのかに気づく道でもあります。まさに誰かに何かを理解されていようがいまいが、必ずその人には天から与えられた大切な役割があるのです。

李白に「天、我が材を生ずる、必ず用あり。」があります。

今は、自分が何の価値があるのかを分からなくても誰に与えられなくても必ず生きているだけでその意味は必ず存在します。だからこそ生きていればいいのです。この時代、生きていくことは弱さを力にして弱さを絆にしていく必要があります。

人はみんな弱いのだと強さに憧れるのを休め、弱さの本質を受け容れるところにこそ、自分というものを受け容れる鍵があるように思います。

真心や至誠は、天に観照していただき真摯に自己を磨くのみです。

子どもたちのためにも、憧れる世の中に易えるために精進していきたいと思います。

同志たる由縁

坂本龍馬が遺した言葉に「世の人は我を何とも言わば言え 我なす事は我のみぞ知る」があります。この言葉は、龍馬がどれだけ時代の先を読んでその時を生きていたかが垣間見れる言葉です。

最近、えにし屋の清水義晴さんと一緒に新著を編集していますが未来を見据えてどうあるべきかを語り合うたびに周囲には到底わかりもしないような境地に入ることばかりです。

そもそも、人間はどれくらい先を生きるかでその生き方や生き様が変わってくるように思います。1年先を見て生きるのか、10年先か、100年先か、それとも1000年先かではその観ている世界が異なります。

ある人は、明日の事ばかりを考えたり来週のこと来月のことでいっぱいいっぱいになっています。しかしある人は、永遠を祈り、世界を憂い、いのちを念じます。その同志たちは同じ場所にいても、同じものは観えることはありません。多くの人たちは、みんな同じような状態で同じ情報を得ていますから共通理解があるものです。

しかしその人の志というものは、その人にしかわからず同じ言葉でも同じ言葉の意味でもなく、同じものを見ていても同じものは観えていないのです。

孤高や孤独さというものは、志があるからでありそして同志というものはその志に似通ったものが絆になっているように思います。そしてこの坂本龍馬のように時代の先を見据えていのちを生ききった人物には「未来が観えていた」ということでしょう。

歴史を鑑み、今を突き詰めていく人には未来が見通せます。そして志を持って真摯に至誠に生きる人には未来を創造することができます。来るべき未来、すぐそこまで先人からの無二の真心の襷をつなぐために必死でいのちを懸け投じます。

志士とは、まさに時代の触媒であり時代がそこに明るく運ばれるように陰ながら自己のいのちを投げ出していく存在なのでしょう。

吉田松陰が高杉晋作に諭します、「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」と。つまり生死は度外視せよと。これは来るべく未来のために今だという時にそのいのちの時が満ちるということを暗示しているのでしょう。

頭で考えている師弟関係などではなく、抽象的にイメージしている塾でも勉強会でもなく、まさに他人の評価など意にも介さずいのち全てを投じて未来を生き切った同志たちの邂逅の結びつきこそが同志たる由縁なのでしょう。

私は私の役割に没頭し、子どもたちのために未来を切り拓いていきたいと思います。

自由縁人

ご縁を辿っていると、絶妙に未来とつながっているものを感じます。今度はそのご縁を遡ってみると、絶妙にそれが創造されていることにも気づきます。未来と過去というものをご縁を中心に観直すと面白いことが分かります。

時というものを無視してみれば、その交差する点の中に私たちが2つの側面で生きているのを感じるからです。それはワクワクして色々なことを感じたいと感情が味わうための目的、そしてしみじみと真理を悟りたいと心が味わうための目的。それが絶妙に相調和しているのです。

私たちが今に集中するといいというのは、その両方を実感することができることによって人生の妙味を実感することができるからです。

私たちの人生は、先に決められたことのように感じるのは心があるからです。そしてどうにでも変えられると感じるのは感情があるからです。心と感情が整ってくると、私たちは子どもの心のように自由であり自分であることに仕合せを感じます。

あるがままの自然と一体になっている喜びを知り、それを客観的に理解している喜びも知れます。歴史を振り返れば、この真理に気づき、真理を遊ぶところに人間の醍醐味があるようにも感じます。

生き方として運のいい人という人がいます。

偉大な何かに流されながらもそれを深く味わって楽しんでいる。行雲流水というのでしょうか。いのちの時を生きる人たちのことです。一度しかない人生の中で、今を深く味わい今に生ききる人は、心も感情も自由自在に自己合一しています。

限られた体で、限られた時間で、永遠の魂と、無限の時空を往来する旅人のような存在です。

子どもたちには、この世で迷うことがあってもまた道に出会えるように先人たちと同様に融通無碍を歩んでいきたいと思います。

煤払い

昨日は、東京のカグヤライトハウスで煤払いを行いました。煤払いといえば、一般的には煤が出るような竈のそばやおくどさんの周囲をイメージしますが東京では火を使っておらず排気ガスの煤くらいなものです。

今回の煤払いはそういった物的な煤払いではなく、心的な煤払いということでクルーが提案してくれたものです。それぞれに、心の煤もまた同時に溜まっていきますからその煤を払おうということでみんなで煤を出しながら清掃していきました。昨日は、煤が結構溜まっているなということはわかったようですが清掃をここから丁寧に行っていきます。

どのように清掃するのかはこれからですが、むかしの人たちは若い衆や元気な人たちがこぞって煤払いをしてそのあとは打ち上げのように楽しんでいたようです。そして子どもや病気の人はあまり煤をあびないように奥の部屋や小部屋に隔離して行ったそうです。そして江戸では、煤払いが終われば乾杯して主人を胴上げしたところもあったようです。これは楽しそうな習わしです。

この胴上げというのは、地面から体が浮かび上がった状態を「非日常で神聖」、手で支えられた時を「日常」として表現し、この二つの世界を行き来するのを「胴上げ」という形で表したものだといいます。江戸時代、神事である奉納相撲において、当時の最高位であった大関を「胴上げ」する習慣がありましたが、それがいつのまにか祝福の儀式となり、広く浸透していったそうです。

おめでたいという時に、みんなでそれを事前に予祝する。日本人の福を待つ大らかさを煤払いでも感じます。歳神さまがここからは来てもらえるように、玄関に門松を用意し、場を清め、床の間に御鎮座いただくようにお餅を用意します。

一年の穢れを祓うというのは、ある意味でその人の苦労を労うことです。無理に何かをするのではなく、大変だったということをみんなで労うことで心は清め洗われるのかもしれません。

そしてこの一年の煤をもっとも受けた人に感謝するのかもしれません。煤が出るというのは、それだけその道具も使われたということであり正月はその道具に休んでもらうように労います。ここに私は日本人の優しさや思いやりを感じるのです。

私も多くのハタラキをいただいた一年ですから、周囲に思いやりと優しさを忘れないように煤払いをしたいと思います。

 

組織の醸成

世の中にはつなぎ役という存在がいます。これは野球では、よく見かけるシーンでつなぎ役がいることではじめて守備も攻勢も成り立ちます。もちろん、ホームランばかり打つ打者と、無失点に抑えるピッチャーがいればいいのですがそれでは他のチームメイトは必要なくなります。

つまり実際には、みんなで「つなぎ役」をすることによってはじめてこのチームや組織は成り立っているのです。そのつなぎ役は、一見地味ですがとても大切なことでみんながワンチームになるための触媒でもあるのです。

この触媒の人の価値というのは、大変偉大なものでいつも全体の事やチームのことを考えて動いています。例えば、経営と社員などと分かれないように、もしくは仕事やプロジェクトが分かれないようにと、常に意識をしてつなぎ合わせています。

組織がもしも自律分散で多様な価値観が尊重されて全員経営のようなものであるのなら、余計にこの「つなぎ役」という意識は重要になると私は思います。なぜなら、主体性というものは自分から結ぼう、繋がろうという意識を持っている人にのみ存在する言葉だからです。

一斉画一の教育を受けてきた自分たちは、主体性というと自分勝手なことになりやすく全体快適であるよりも自分快適に走るものです。アメリカファーストのように、つながらずに競い続けていたらそのうち孤立して主体性が失われていきます。

本来、みんながつながっているところで仕事は存在し、また結びつくからこそ新しい事業は産まれ、そしてみんなが細胞のように新陳代謝をして協力し合うからこそ生命はこの世で活動ができます。

組織というものの原型は、細胞そのものとこの身体のことでありバラバラに観えて実は一つにまとまって活動をする。健康な状態というのは、まさにこの全体がバランスよく整い、磨き続ける状態になっていることをいうのです。

だからこそ、大切なのはそれぞれの結びつきを強くしていくことだと私は思います。

地味で目立たないからとその仕事は価値がないとするのは、あまりにも目先のことや自分勝手な意識が高いからです。本来の仕事は、縁の下の力持ちによって支えられ、それは一人一人のみんなの意識の中にこそあるのです。

謙虚に磨き合う組織が善いチームが多いのは、そのつなぎ役の素晴らしさの価値に気づいているからだと思います。子どもたちが憧れるような組織を醸成していきたいと思います。

自由に磨く

時代の変わり目には、様々な今までの価値観や固定概念が通用しなくなり新しい常識が誕生します。一年前まではマスクは、花粉症やインフルエンザの流行の時期の風物詩のようでしたが今ではマナーとして当然に身に着けています。

他にも、テレワークや在宅勤務などと言われていてそれが特別だったことが今では当たり前になってきています。他にも、色々とありますが以前とは変わってしまっている世界に生きているということです。

これは別にコロナだけではありません、この世にはじめてインターネットが誕生し広がればそれ以前ではないし、核爆弾が発明されたらそれ以前ではなくなります。人類はこうやって時代の影響を受けては、それまでの常識と思い込んでいた社会を刷新し続けてきたのです。

人間は現実的には、自然とは別に人間のみの常識の中で安心しようとします。不安を解消するために、あれやこれやと不安にならない便利なものばかりを追い求めていきます。大きな意味では、危機感からのものですがそれが本末転倒していることもたくさんあります。

例えば、核兵器をつくれば今度は核兵器が使われるのではないかという不安が来ます。ワクチンを開発したらそのワクチンが効かないウイルスが出てくるのではないかという不安が来ます。いたちごっこのようにいつまでも、その不安を解消するために永遠に同じことを繰り返しています。

むかしの人たちは、不安を解消するのではなく自由に生きることを目指していました。自然と調和する生き方というのは、これも自然であると丸ごと受け容れる生き方です。制限のある中での自由、自然の中で許されている範囲の人間社會を謙虚に生きていたように思うのです。

その理由に、里山の循環の仕組みや、日本的な和の暮らしを体験すればその意味が理解できていきます。心が穏やかで和やかに生きていくために、固定概念に縛られず自由に生きた先祖たちの生きざまに感動するのです。

この時代は、知識や思考が何よりも優先されることが多いように思います。そこから正義やルールや評価からあまりにも緻密に膨大に囲われており生きづらさを感じることも増えているように思います。自分らしく生きるためには、何かに没頭するものが必要なのかもしれません。自分自身に没頭するようなことを通して、如何に自己の中にある恒常性を疑い、本来の自然調和の中に実践をするのか。

子どもが子どもらしくいられるというのまた、常に新しい常識ばかりを生きようと心のままでいることを肯定されているからです。成熟していく社會のなかで、子どものように生きる人たちが否定されれば常識がますます固着していきます。子どもたちが憧れる社會を目指して、心地よい常識を自由に磨いていきたいと思います。

利休からの物語

徳積堂は、千利休の茶道を少し参考にして建築されました。私は設計士でもなく、数寄屋大工でもなく、建築士でもないので、まったくの我流です。しかし、千利休の目指した生き方には共感することが多く、私も座右が一期一会ですから私なりのおもてなしの道で自由に磨ききった建物を創りこむことができました。

利休は、これ以上削れないというところまで削り込んで侘びや寂びを表現しました。私はこれ以上、磨けないというところを目指して同様に侘びや侘びを表現しています。削ることと磨くことは、同一ですから私は茶法はよくわかっていませんがいつか観える景色は似たものになるのではないだろうかとワクワクしています。

今回の徳積堂は、主人の心得として利休七則にも共感することあったので参考にしています。その他には、私は徳積堂では「場」に主人の生き方の思想を組み込み、そのおもてなしに光を遊び、風を喜び、水の優しさに触れ、古材のぬくもりを大切にし、捨てないことの大切さを感じ、いのちある存在の中での心の落ち着きを味わうことにしています。

他にも、時間を忘れ、自然の音を愉しみ、清められ浄化された場を慈しみ、伝統文化に癒されるということも加えています。もっとも大切なことは、いかなるときも主人の生き方の心得として、真心であったか、正直であったか、今にいのちを注いでいるか、いのちを喜ばせたか、自他一体の境地でおもてなしたかということがあります。

最近は、何かの道を学ぶのにテクニックなど技法や評価ばかりが耳に入ってきますが本来は生き方のみを参考にすれば自由に自分なりに好きにやったらいいと私は思います。人間は自分自身の徳性に合わせて好きに没頭するとき、人は無我になるように思います。利休もきっと、好きでやっていたことなのでしょう。しかしその心には、どの時代であっても心の荒廃を和らげ、人々に真の豊かさ、足るを知ることの真髄をその生き様で語っていたのかもしれません。

何のためにやるのかがあってこそ、志があってこその好きなのです。

徳積堂での私の好きな一杯のお茶や珈琲が、人々の心の荒廃を和らげ、そして子どもたちの未来への自信につながるように利休からの物語を紡いでいきたいと思います。

無念無想の暮らし

先日、北海道からきてくれた友人と一緒に祐徳大湯殿の原点サウナを楽しみました。サ道の話で盛り上がり、この時代に必要な豊かさやゆとりの時間などについても語り合いました。

この方は、御実家が茶の湯のたしなみがあったようでお母さんの背中に茶の心のようなものを見てきたことがあったようです。私がこの原点サウナに5時間以上をかけてじっくりと炭火をいれて整えた話でまるで茶道のようだと感心してくれました。

また昨日、来られた方からは「一人ひとり、一件一件に真心を籠めて取り組まれている姿に自分の価値観も換えられました」と話をいただきました。1年半ほどのお付き合いになりますが、数字や時間のことなどは気にせず、ひたすら目の前の人にいつものように今を大切に取り組んでいるという印象だったようです。

今に心を籠めると書いて「念」といいます。

本当の念とは何か、それは無念無想のことだと私は思います。この時代でシンプルに言うと、何も考えないで今を味わうといっていいかもしれません。もしくは、ただ心のままに実践を続けるといってもいいかもしれません。

私にとっては無我の境地というものは、別に自我を捨てようとすることでもなく、中庸のようにバランスを保った状態であることなどではありません。自分の使命に熱中することや、ご縁を大切に一期一会を味わい盡すような中にこそ存在しているように思っています。

時代的によく呟かれる今を生ききるという言葉はきっと、心を籠めていきていくということでしょう。心を見失い、心が荒廃してきているからこそ、そういう生き方が憧れられるのかもしれません。

心は悠久であり、永遠のままです。

心を友として、心のままに歩んでいくとき、心は今にしか棲んでいないことに気づくものです。これからまもなく完成する徳積堂で茶の道にも入りますが、磨き澄み切った茶の湯に心を投影し月の雫のような深い味わいに挑戦していきたいと思います。