本物の道具

人類は進化とともに数々の新しい道具を産み出してきました。その道具によって今の産業は発展し現在の世の中が存在します。しかしその道具は、使い道一つで人類を滅亡させるようなものにもなれば、平和を維持するためのものにもなります。

例えば、核などはその最たるもので使い道一つで人類を滅ぼす道具になります。そう考えてみると、問題は道具の方ではなく人間の方にあることはすぐにわかります。道具を産み出すこと自体の中に人間は大きなリスクを増やしているともいえるのです。

道具と人間の生き方は常に正対するものであり、道具を使う側にも持つ形にも産み出す側にも責任が発生します。特に人間都合で産み出される便利な道具ほど危険なものです。便利さというものは、人間の欲と繋がっていますからさらに便利なものへと発展していきます。不便さがよくないということになれば、道具はすべて人間の欲の方へと傾きそのために発生する不自然で不都合なことまで隠してしまおうとするものです。

本来、先人たちは道具を自然をよく観察し産み出してきました。そしてそのすべては自然に還るものだけを用いていました。不便ではありますが、そのどれもが自然と共生するものであり人間にとっては多少都合がわるくてもその道具を用いることで人格や人間性が磨かれるものでした。

つまりは「砥石」のような、そのものを磨く対象として道具を用いたのです。私たちは道具に使われるのではなく、あくまで人間の徳性の一つとして道具をあくまで人格を磨く対象として用いたのです。

人間性を高め続けるための道具であれば、その道具は自然から離れることはありません。そのどれもは自然をお手本にして自然の智慧を抽出するものです。それは真善美といった自然の本体を参考にするものであり、人間もまたその生き方をするひとつとして道具を持ったのです。

この時代、あらゆる道具は人類全体、世界全体に対してリスクになるようなものを産み出していきます。IT技術をはじめ、遺伝子操作、バイオテクノロジーなど、挙げればきりがないほどに先進技術が用いられて道具が発明されていきます。

しかしここでよく考えなければならないことは、本当にその道具は人格を砥石にできるものか。子孫たちに責任を果たせるものかという問いです。私も温故知新して、古いものと新しいものを融和させて道具を産み出す側ですがここに徳や人格などを関係なくやるのなら子孫に大きなツケをまわしてしまいます。そうならないように先人の智慧を尊び、歴史を学び、どうあるべきかを問い続けて磨いていく必要があるのです。

子どもたちのためにも、本物の道具とは何かを深めていきたいと思います。

 

これからの時代

最近、ブロックチェーンの特性を活かして「NFT」(Non-Fungible Token:非代替性トークン)という名前がよく聞かれるようになりました。これは「偽造不可な鑑定書・所有証明書付きのデジタルデータ」のことをいいます。

NFTの歴史を調べると、2012年に登場したBitcoinの「Colored Coins」(カラードコイン)といわれます。その時はBitcoinの最小単位の「satoshi」に「色」をつけることで所有者情報を紐付けしようしたことがはじまりだといいます。

その後、ERC-721リリースされデジタル版の猫を育成・取引するアプリゲーム「CryptoKitties」(クリプトキティーズ)開発され最初のNFTブームが誕生したそうです。その後は、ブロックチェーンの色々な社会問題が発生し落ち着いていましたが現在は再びその信頼性や重要性に気づきNFTの次のブームに入っています。

NFTは、現在ではアーティストなどコンテンツ制作者に大きなメリットをもたらしています。仲介業者がなく手数料もなく直接、アーティスト自身で作品を販売することができます。また、NFTを使い、売買価格の一定割合が制作者に入る仕組みを作る動き出ています。そうなることで、アーティストは自分の作品が販売されるたびに継続的な収入を得ることができさらに作品創作に専念することができるのです。これからさらにブロックチェーンの市場が大きくなるにつれて技術革新も進みこのNFTも発展していくと思います。

現在、有名なプラットフォームとしては Opensea、Treasure Land、 Rarible、 Hic Et Nunc、 Foundation、 LINE BITMAX、 CoincheckNFTなどがあります。

ただし、まだまだコピー可能であることや法整備なども整ってはいません。これからその辺が解決するためにアップデートされていくと思います。

やはりこの価値を扱う上で重要なのは、ブロックチェーンの活用によって仲介業者がなくてもお互いに透明性な取引が実現できるということです。これまでとこれからの違いに、さらに今までよりも自由に世界と対等に自分自身を発揮していくことができるということもあると私は思います。

時代の変わり目に、時代に合わせて子どもたちに相応しい技術を創造していきたいと思います。

滝行の甦生2

現在、滝行の甦生に取り組んでいますが偶然にも英彦山とも縁の深い豊前国の川面凡児氏のことを知り、禊の起源について改めて考え直す機会を得ています。

昨日は滝行の起源はインドの僧、裸形上人であると書きましたがそもそも滝行の本質でもある禊の起源は日本では『古事記』にある伊弉諾がはじまりです。

伊弉諾が黄泉の国から生還し筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原の瀬で身を清めるために禊をした故事です。これは、祝詞の中で必ず最初に入ってくる文言です。

つまり神代の親祖がはじめて禊をしてから現代にいたるまでずっと私たちは禊行を実践してきた民族ということになります。まさに日本文化の根元にあるもので、この禊はこれからも子孫に代々受け継がれていく大切な伝統であるものです。

川面凡児氏は、そのかつての禊を甦生し、奈良時代から形骸化してた禊行を復興させた人物でありそれが現在の神社神道の禊行の雛型となっているとも言います。

なぜこれが復興できたかといえば、偶然に川面凡児が奈良時代の禊行のことが書かれた古書とのご縁があったからともいわれます。それから本質を解き明かし、それを見事に本物に磨き上げたのでしょう。

祖神の神髄を会得することに真摯に取り組み、またその取り組んで会得した至上の智慧を社会のために役立てて世界を平和に導いていくお手本にされました。

禊は、私たち日本人には決して欠くことはできないものでこれによって私たちははじめてかんながらの道を歩んでいくことができます。川面凡児氏が実現させたことは、今でも私たちのお手本になるものです。

私も微力ながら、その一端を甦生させられるように社会のため、子どもたちの未来のためにこの時代に相応しい禊の本質と滝行を甦生させてみたいと思います。

滝行の甦生

昨日、写真家のエバレットブラウンさんと郷里で滝行をしてきました。この滝行のはじまりは定かではありませんが、4世紀に紀伊半島へたどり着いたという天竺(インド)の僧、裸形(らぎょう)上人ともいわれています。

その後は、修験道の開祖の役小角をはじめ数々の修験者たちが滝行をしてきました。この郷里のお滝場も、平安時代の園朝という行者が開いてから今までずっと人々の禊場として祈祷が続けられてきました。

今回、改めて滝行を深めていると禊の行法を明治時代に体系化した豊前国宇佐出身の川面凡児(かわつらぼんじ)という人物のことを知りました。この方が、近代において古神道の復興や禊行の実践を普及させたといいます。この禊行の本質は禊ぎを通じて人の「直霊」を開発し、それぞれの個性や天命を現し、自分自身や家にも現し国家社会にも貢献していくことができるとしました。

これは私の意訳ですが、清め浄化する禊によって穢れを祓うことで自らに内在する自然そのものの恩恵と触れあうことで真実の自己の存在を開発し、そのことで天命を知りその自分を盡していくことで世の中が平和になっていくということでしょう。

改めてこの川面凡児氏のことを調べていくと、とても理に適っていてその当時に西洋文化と日本文化を調和させ、その本質を突き詰めていたことが思想からわかります。少し長くなりますがその思想の内容をご紹介しているものがあります。

「川面の思想は、古神道の宇宙観、霊魂観と神人合一法を西洋論理を用いて解き明かそうと試みた点に特色がある。例えば、荒身魂は肉体、和身魂は意識、直霊は最高意識ととらえ、人間は最高意識が受肉した存在であるから、すべての人間はその意味で「現人神(あらひとがみ)」であると主張した。(天皇だけが現人神ではない、という主張は注目すべきである)また、天御中主(あまのみなかぬし)を中心力、高御産霊(たかみむすひ)を遠心力、神御産霊(かむみむすひ)を求心力ととらえ、この三者のはたらきによって原宇宙が生成されたと説いた。川面は、古神道の神は、創造神ではなく、生成神であると考えている。創造神は、創造がある以上終末が訪れることを前提とした限定的な神であるが、生成神には、終末と見える現象はあったとしても、実際に終末はなく、永遠の生成発展があると考え、古事記の「天壌無窮」説を近代論理を用いて説明しようとした。川面の主張する日本民族の神は、一神にして多神、多神にして汎神であり、一神の躍動するはたらきの現れが、多神であり、汎神であるとし、この構造をもった神を「全神」となづけ、自らの教えを一神教でも多神教でもなく、「全神教」と名付けた。この神のダイナミックな構造は、およそ二百年後には、西洋にも理解されるようになり、西洋は、多神と祖霊も祀るようになるだろうと予測している。ただし、神は、知性で論理的に把握しただけでは足りず、体感、体認、体験しなければならないと説き、そのために禊、鳥船、雄叫び、おころび、祝詞などの一連の身体作法を体系的に行う必要があるとしている。(彼が提唱した禊は、その一連の身体作法の一部にすぎない。)なお、天皇が宮中でおこなう祭祀と行法が、本来の魂しずめと魂ふりであり、川面の祭祀と行法は、それから派生した傍流であると位置づけている。(『宇宙の大道を歩む』より抜粋)」

本流には、古から続いている滝行というものがあります。時代時代で滝行のかたちも変わっていきますが、その本質は変わってはいません。この川面凡児氏が発見した禊行は、多くの人たちを救い導いたことがわかります。

昭和から数十年経ち、今では滝行を実践する人たちもだいぶ減ってきました。そういう意味では、私がこれから行おうとするものは傍流であるのは間違いありません。しかし、この川面氏の言うように創造神ではなく生成神であるのなら水の循環や種の循環と同じく、失われたようでそれは生成を已まないという意味でもあります。

形を変え、支流となり、それがまた混然一体になり本流ともなるのです。いろいろな作法もその時代時代で変化していきます。作法だけになって道から外れている人もたくさんいるようにも思います。

本来の道を絶やさないようにするには、作法は変え続けていく必要があります。

子どもたちがいつまでも自然の恩恵を享受され、自分自身の中に天と一体になった自己に目覚め清々しい心を取り戻して精神や脳の疲れをとりはらえるように新たな場の挑戦をしていきたいと思います。

薫習

先日、藁ぶき古民家で祈祷をした際、大祓祝詞を宮司さんと一緒にそらんじていた方がいました。もともと宮司さんだったのかとお聴きすると、そうではなく幼いころに身近で祖父母や両親が祈祷していた中で育ったので身体が覚えていたということでした。

幼少期、また子ども時代に暮らしの中で身についたことが何十年もなくならずに染みこんでいるのを実感しました。

薫習(くんじゅう)という言葉があります。ウィキペディアにはこう書かれています。

「熏習(くんじゅう、梵: vāsanā、abhyāsa、bhāvanā、 वासना)とは、身口に現れる善悪の行法もしくは意に現れる善悪の思想が、起こるに随ってその気分を真如あるいは阿頼耶識に留めること。俗にいう「移り香」、香りが衣に染み付いて残存するようなことを言う。薫習が身口意に現れたのを「現行法」(げんぎょうほう)といい、真如あるいは阿頼耶識に気分が留まったものを「種子(しゅうじ)」あるいは「習気」(じっけ)という。このように現行法が真如あるいは阿頼耶識にその種子もしくは習気を留める作用を薫習という」

この阿頼耶識とは「阿頼耶識 (あらやしき、 梵: ālaya-vijñāna、आलयविज्ञान )は、 大乗仏教 の 瑜伽行派 独自の概念であり、個人存在の根本にある、通常は意識されることのない 識 のこと 。. アーラヤ識 。. 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識 ・ 末那識 ・阿頼耶識の8つの識の最深層に位置するとされる 。」ともあります。

つまりシンプルに言えば、潜在意識ともいわれるような通常は意識に出てこない深いところ、深層の意識のところにいつまでも留まっている記憶のようなものです。

現在の教育は、この薫習ではなく暗記を中心に表層の意識に詰め込むものばかりを行います。いつもすぐに表層意識に出てこないといけないので、物覚えが悪い人には大変です。

本来は、私たちの文化や伝統はこの薫習によって染みこんでいくものです。それは、暮らしを通して場で行われてきました。伝統的な暮らしには、あらゆる先人たちの智慧の宝庫です。

そこに触れることで自然に薫習されて、次世代へとその智慧が受け継がれていく。そうやって私たちは人格を形成し、生きるための指針や根からの養分を吸い上げていくことができるようになります。

子どもに与える環境というのは、本来はこういうものに触れる機会を醸成していくことです。私の取り組みは、この薫習をハイブリッドに実践して体得していくことによります。

子どもに懐かしい未来を譲り遺していきたいと思います。

場をつくる

人はそれぞれに場をつくる力をもっています。この場は、みんなそれぞれに異なりますがそこに確かな場が存在したことを確認することはできるものです。

昨日、ある話を聴いた中に二酸化炭素の吸収のことがあります。若い木の方が二酸化炭素を吸収して酸素を排出するので古い巨木や古木を伐採して若い木を植えているということがあるそうです。木を見て森を観ずというか、二酸化炭素だけをみたら若い木の方が吸収していきますが実際には古木や巨木は周囲に苔をはじめ多くの植栽が芽生え循環し、見事な生態系を創り出します。その全体で吸収する二酸化炭素の量は若い木と比べてもまったく問題ないほどです。

それにその若い木もそのうちに古木になりますから、古木になれば切って若い木だけを植えるというのは人間であれば労働力として価値のない老人は切り捨てていくというのと同じことです。

老人は、見事な人格を磨かれていけばその周囲には見事な場を創り出していきます。まさに若いものを育て、周囲の自然生態系を活発にし、あらゆる徳を循環させていく場を醸成していくのです。

これは先ほどの古木や巨木も同じく、神社の境内や聖域と呼ばれる山にあるように見事な鎮守の森、つまり「癒しの場」をつくるのです。

この場をつくる力とはいったい何なのか。それはこの木の生き方から学べるものです。

私たちの先祖はそれを悟り、日本全国に信仰と共に素晴らしい場を整えてくれました。それが神社であり、あるいは古民家であり、またあるいは棚田であったりします。

場をつくるのはそこに場があることに気づいた人々です。場があることに気づくからこそそこを守ろうとします。そして人は、その場をつくる仕組みを学び、一人一人が、木のように場を見守り育てていくのです。

それは一つの発達を見守ることでもあり、私が一緒に取り組んでいるギビングツリーの提案する保育の在り方と同じです。木は、まさに一つの場をつくる力を示します。

どんな環境を創造していくのか。

それはその木の生き方、そして杜の在り方から感じ取れます。地球は本来、大きな杜です。この偉大な杜に守られて私たちの生命はこの世で幸福な場を享受されています。

場道家として子どもたちに場づくりの智慧を伝承していきたいと思います。

和楽

昨日は、無事に藁ぶき古民家甦生の御披露目会が行われました。遠方から、またご近所から本当に多くの方々がお祝いをしていただきまさに「和楽」に相応しい一日を過ごすことができました。

まずは古式の祈祷によって氏神様、地域の信仰の神様たちに感謝をし供養をしていただきました。次は厄除けをし結界をはり、参加の方々全員のお祓いもしていただきました。はじまりと終わりにみんなで法螺貝を立てましたが、遠方からその法螺貝で呼応する方がいたりと不思議な体験をしました。

その後は、この藁ぶき古民家の甦生のプロセスを動画で編集したものをみんなで一緒に観てその空間で場を楽しみました。多くの事件に多くの御蔭様が働き、家が甦生し、私たち自身も深く磨かれたことを実感しました。

そしてみんなを歌で元氣にするという志と夢を持つ丸目雅さんに来てもらい、歌を披露していただきました。ギターとの伴奏でカントリーロードも一緒に歌ってみんなで手拍子をして暖かい雰囲気を味わいました。

最後に、家主や私から御餅撒きをしみんなでお福分けをさせていただきました。その御餅はそのまま炭火で焼いたりして和気あいあいと楽しいお時間を過ごしました。そのあとも、人の波は途切れず、地域の方々やいつもこの道を通っている方々、もともとの土地の持ち主の方や子どもたちが来てくださって内覧をし、一緒に映像をみて喜捨をしてくださる方もおられました。

懐かしい「結」というつながりを感じる、よいお披露目会になったと改めて味わい深く感じています。

かつての日本人の先祖たち、また代表的な日本人として紹介されている歴史的な偉人たちはみんなこの「結」によって見守られ育ち、徳を積むことで人々に幸福をもたらしていきました。

つまり、利他に生き、見返りを求めずに徳を磨き続けることに一生を使いました。これによって自分の喜びがみんなの喜びになり、みんなの喜びを自分の喜びにし、それが一体なっていたのがわかります。自利の喜びではなく、利他の喜びこそ結の精神を醸成したのです。

来てくださった方々はみんな「あの家がこんなになるのか」と一様に感激されていましたが、私自身もこの家から本当に多くのことを学ばせていただきました。この半年間、徳を磨き徳を光らせる機会とご縁をいただけたことに何よりも深く感謝しています。

日本人は、暮らしの中に先祖から譲り受けてきた宝珠があります。それを磨きなおすことで日本人の徳は光り輝きます。子どもたちが将来、安心して生きていける世の中にするには今の私の世代がその宝珠をつなぎ、磨き輝かせてつないでいかなければなりません。

本気でやらなければ、誰かがやらなければなりません。まだまだはじまったばかりですが、同志たちを集め、この場、この脚下の実践から子どもたちに徳を伝承していきたいと思います。

 

藁ぶき古民家の甦生~徳の伝承~

今日、無事に藁ぶき古民家甦生のお披露目の日を迎えることができました。多くの方々に見守られ、支援していただき、ここまでくることができました。人の御縁はとても不思議なもので、何かを実現しようと思う時に四方八方から現れては力を分けてくれます。

動機が善であるか、私心はないか、そしてこれは子どものためになるかと自問自答しながらも徳を磨こうと取り組んでいくことでそれを一緒に実践してくださる仲間や同志に回り逢うのです。

このご縁をよく観察すると、ある人は、これからの未来のために必要な情報を取ろうとし、またある人は過去の何かの因果を解決しようと関わろうとし、またある人は、今を生きることを学ぼうと実践しようとされます。つまり、ご縁を活かすというものは生き方や生き様、そして志の輪が広がっていくことをいうのです。人のつながりは、志があってはじめて強く結ばれるということでしょう。

そしてこのご縁は、人とだけではありません。物や家とのご縁というものがあります。今回、藁ぶき古民家で暮らしを甦生する方が振り返りの映像の中でシンデレラストーリーのような話と言っていたのが印象的でした。

このシンデレラストーリーといえば私が思い出すのはプリティ・ウーマンという映画があってその主人公の女性が最初はみすぼらしい様から、紳士の指導によって次第に磨かれて美しく洗練された人物に変化していくというようなあらすじだったと思います。この話は、同時にその紳士もその女性によってさらに徳が磨かれて真の紳士に成長していくという話です。

これは今回の藁ぶき古民家と確かに共通点があります。誰もが価値がないと捨てられていた古民家を拾い、それを磨き上げていきます。この家が今は、美しく洗練された家に変化して甦っています。そして同時に、私自身も家から学び徳を磨く機会をいただき成長することができたのです。

私が古民家甦生をするとき、自分を主語にはしません。家を主語にします、つまり家が喜ぶかどうかを観て取り組んでいくのです。そうすると、家が喜べば私も喜びます。これが逆になると学ぶことができません。

人が学ぶことにおいて大切なのは、自然を主語にしたり、先祖を主語にしたり、徳を主語にしたりと、コミュニティを主語にしたりと、「私」を主語にしないということが大切です。私ばかりをみて、私が私がとなったら磨かれないのです。何を砥石にして自分を磨いていただくか、そこに人は自分の徳や魅力を引き出すポイントがあると私は感じます。

今日は、その藁ぶき古民家のお披露目会。

どのような姿になったかをみんなに見てもらるのがとても楽しみです。子どもたちにも、徳のある家から学び、見た目ではなくそのものが磨かれるとどのように徳が顕現するかを伝承していきたいと思います。

 

藁ぶき古民家の準備

いよいよ明日、藁ぶきの古民家甦生のお披露目の日になります。今回の古民家は、2011年頃からずっと気になったいたものでこうやって新しく甦りここでこの家で再び暮らしがはじまっていくことに有難い思いがします。

現在は、古民家はすぐに空き家になり捨てられて廃れていきます。子どもたちは都市に引っ越し、すぐに別の場所に新しい箱のような家を買い住んでしまいます。介護が必要になればその家に住めませんから介護施設や遠くの子どもたちの家かその近くに住みます。するとその家は、空き家です。

そんな状態になれば、誰も手入れもせず離れているから鬱蒼としても家が傷んでボロボロになっても気にしなくなります。近所の方々は何とかしてほしいとみんな思っていますが家主をはじめその家族は近くには住んでおらず滅多に来ることもありませんからそのまま放置されます。

今回の藁ぶきは、子どもがいない家で家主さんが亡くなり奥様が介護施設に入り、そのまま亡くなられました。そこから十数年間、ずっと空き家で野生動物の巣窟のようになり、庭の木々が剪定されることもなく多い茂り密林のようになっていました。家もガラスが割れていて傾いていて家にはかつての生活道具や野生動物が荒らした台所、そのままのベッドや布団、家具類などが散乱していたのを覚えています。

ちょうど私が自然農に取り組む田んぼや畑に行くときに必ず通る道でしたから、その家を見るたびになんともいえない複雑な気持ちになっていました。もしかしたらこれは将来のまちの姿ではないか、子どもたちはこのような家をみてどう思うのだろうかと、これは果たして個人の責任だろうか、本当はこれは市民たちの問題ではないのかと、通るたびに考えていました。

今回、ご縁がありこの古民家に携わらせてもらう機会があり改めてかつての藁ぶきのあったころの原風景を感じ、懐かしい未来を創造していくことに挑戦しました。それが結のことを学び、本来の日本人の生き方や生き様を知る機会にもなりました。

私はいつも有難いことに民家が先生になり私を指導してくれます。そしてこれからの民家としてどうあるべきかを温故知新するためのアドバイスをいただきます。家を主語にし、家が喜ぶかと取り組むことはもっとも自分が学ぶことです。

感慨深い気持ちもありますが、節目に向けて見守ってくださったすべての存在に対しての準備を進めていきたいと思います。

安心する社会

人間は自分というものを大切にしていくことで、他人を大切にすることができます。それはセルフブランディングともいい、自分の中のマイノリティを如何に大切に育てていくかということでもあります。

言い換えれば、「自分らしく」生きていくということです。最近のコロナで、自粛警察のように同調圧力をかけてはコロナ感染者をまるでいじめのように全体で追い込んでいく多数の人たちが出るのをみるととてもむなしい気持ちになります。

この同調圧力というものは、日本では村の掟や村八分などといって敢えて問題を避けるためにそこは暗黙の了解で空気を読みましょうという村の管理手法として用いられてきた仕組みです。個性を潰し、意見を潰し、勝手は許さないという強い圧力です。

それによって理不尽でも対話がなくても、みんなでその空気に従おうとする仕組みをつくり村は運営されてきました。この同調圧力によって、かつて真剣に生きた人たち、個性を持って素晴らしい感性を持った人たちのいのちが失われる悲惨な出来事がたくさん発生した故事や物語にはいとまがありません。

今の時代は、個々が自分らしく生きていく生き方が保障されてきています。そういう意味では、今はもっとも生き方や生き様を自分らしく表現し合える時代です。せっかくこのような時代に生まれてきたのに、自分の初心を守らず、理念や信念を貫かずに周りに合わせて問題が発生しないように空気に同調しては自分と他人の心の芽を摘んでいくというのはむなしいことであり子どもたちにはもっと自由にのびのびと個性を伸ばし尊重して見守り、居心地の善い場所を創っていきたいなと感じる日々です。

同調圧力で有名な言葉は「常識」というものがあります。これは言い換えれば偏見とも言い、思い込み、決めつけとも言います。アインシュタインは、「常識とは18歳までに身に着けた偏見のコレクション」といいます。18歳というのはこれは教育を受けてそうなってきたということを意味します。

例えば日本では、すぐに前例主義をとります。前例があれば認めますが、前例がないものはすべて非常識となるのです。私などは、何のためにそれをやるのか、また目的や理念に忠実に取り組みますから非常識なことばかりをやっています。ある人は、自分のことを天才と呼び、ある人は自分のことを奇人変人、発達障害とも言います。

吉田松陰は、信念をもって生きる生き方を通して教え子たちに「狂いたまえ」と指導します。今の教育とはまったく逆でまじめになれですが、松陰はこの道理を理解し自分らしく生きるためにも常識に捉われず信念を貫けといったのでしょう。

スティーブジョブズは、「常識?あ~凡人が仲良く生きるためのルールか!」ともい言っていたといいます。彼はそんな調子だから敵をたくさんつくったかもしれませんが、私たちはその恩恵で今のiphoneをはじめとしたアップルの製品を使うことができているのです。文句を言った人は、そういうものを利用しなければいいのに何事もなかったかのように享受されて使っているから不思議です。

もしも彼らがその時に同調圧力に負けて、村の掟や村八分を恐れて常識に縛られて無難に生きたらどうなったでしょうか。今の新しい世界はなかったように思います。温故知新できたのは彼らが挑戦したからであり、彼らを真に支えた仲間がいたからです。

つまり、本質的に何をしようとしているのか。そして一体、この人の本当の素晴らしさはどこなのかをみんなが尊重し合えるのなら空気を読むかどうかよりも、大切なのは理念を優先して生きていることをみんなで尊重し合う社会を築くことではないかと思います。

それが自分らしく居心地が善い社会を築くことであり、子どもたちが自分のままでいられる安心して信頼し合える社会になっていくと私は思います。古い体質のままそれを破れずに常識を押し付け合う人たちはこの国には大勢います。この空気を読むことが、相手を慮るものであればいいのですが他人に押し付けるようになったらそれは攻撃であり殺人に等しいと私は思います。

他人のことをとやかく言う前に、自分自身がどうであるか内省することがお互いを尊重し合うための真の掟やルールのように感じます。自分の至らなさを学び直しつつ、自分の中にある本当の個性やマイノリティを大切に思いやれる人になるように日々を必死に磨いていきたいと思います。