験徳の実践

英彦山で法螺貝の合宿を行いました。法螺貝から人生を学び直すというのは大きな話のようですが、実際には法螺貝から学ぶことばかりでとても深くて追いつきません。先人の知恵というのは偉大で、その奥深さにいつも頭が下がります。

思えば、修験道というものもまたその深さがあります。この修験道という言葉の意味は、行をして迷いを取り除き、徳を顕す道」ということからできた言葉といわれます。また「修行得験」「実修実験」の略語とされ、身体を使って修め、験(しるし)をつかむという意味があるといいます。

この験徳というのは、聞きなれませんが加持や祈禱によって霊験を得ることをいいます。修行とは、山に入り山で修行をすることです。日本は古来より山岳に神霊が宿り深山幽谷に分け入って修行することで魂を鍛え上げ超常的な能力を発揮できるようになると信じられていました。

山伏たちはお山=神様として山に入り行をすることで、擬死再生(ぎしさいせい・生まれ変わり)を果たすと考えられてきました。もともとお山には、魂の故郷、あの世とこの世の結び目でもありましたから、山に入るというのは甦生するということに深く関係していたように思います。

そして山伏は、「半僧(聖) 半俗」 と言われ修験道者としての「山の修行」と、生活者として生業をもって暮らす「里の行」の両方を行き来する存在だったそうです。

宗教としての山伏と、古来からの山と里を行き来する暮らしを生業とする山伏の間では少し意味合いも変わってくるように思います。修験者の多くは、今でも半僧半俗の方が多いように思います。

かえって里の修行の方が、現代のような物質的に豊かで心は貧しくなってきている世の中では修行し甲斐があるかもしれません。お山の生活は確かに、厳しくはありますが心はとても豊かになります。ないものねだりではないですが、両方を知ることではじめて中心に覚るというものかもしれません。

ここ数年の英彦山の関りで、自分のなかの感覚も少しずつ変化してきています。何が徳を顕現させるのか、そして「験」の知恵とは何か、子孫のためにも今しかできないことで復古創新していきたいと思います。

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