めぐりの一生

生きものを観るときにめぐりを観るというものがある。

その生き物がどのような一生を送ろうとするのか、どのように送りたいのかを観るとその生き物のことが理解できるように思います。

つい何かを見るとき、その時々の一瞬を切り取って見てしまいがちですがそれまでの過程やこれからの過程を想像すると、本当はどうしたいのかということが理解できるように思うのです。

ベランダでビオトープをしていて、気づき善かったことはいのちのめぐりを日々に共に確認することができるからです。水草やメダカに至るまで、何をしたいのかというのははっきりしています。

そこには、生長したい、子孫を遺したい、協奏したいと素直にそのものの心が現れています。

めぐりの中にあって、いのちというものを活かし、自分のお役目というものを全うする。

ただこれだけのことかもしれませんが、すべてのいのちは全身全霊でそれを遣り遂げます。その中に自分もいると思えるだけで元気になるのかもしれません。そもそもこの元気というものは、めぐりの中の気脈であろうとも私は思うのです。

この気脈は、私たち人間で言えば血液であり同じようにいきもの中に流れる液体が躍動するのではないかとも感じるのです。流れの中に身を置くということは、澱まないで生きていくということであろうとも思います。

何をもって澱むのか、それは流れないめぐらないということではないかと思うのです。

めぐりの中に身を置いていくというのは、生きるというそのものではないかと思うのです。
子どもたちがめぐりの中に生きられるよう、見守りを深め実践を広げていこうと思います。

  1. コメント

    一生のうちの今という過程を見たとき、自分自身を理解できるかと言えばそこには難しさを感じます。夢や目標から逆算しての今ならば、過程として見ることは考えられます。しかし、今の創造を越えるものを思い浮かべれば、計算通りにはいかないと思うのです。日々新たに、学びのめぐり止めず過程を信じていきたいと思います。

  2. コメント

    娘の最近を見ていると、一つ一つの物事に対して上手く行かなければ泣き、そしてひとたび泣き始めると長く尾を引くようになりました。癇癪を起して大変だと感じることが多々ありますが、これも観方を変えると、成長したいと強く思う娘の在るがままの姿なのだと今日、ブログを読んで感じました。成長したいという強い思いがあるからこそ、あそこまで固執して泣くのだと感じました。その思いをしっかりと汲み取って見守って行きたいと思います。

  3. コメント

    先日お盆で帰省しお墓の掃除をしました。お墓には今までどのような流れで家が引き継がれたのか、沢山のご先祖の方の名前がありました。それを見て改めて命の大切さと繋がりをそこから感じました。自分だけを見るとどうしても考え方や見方が小さくなってしまいがちですが、この様な繋がりの中で改めて自分を振り返ると物のみ方も変わってくる様に感じます。

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