分を弁える~謙虚さの醸成~

人は自分自身のことを間違うのは我慾や私心に呑まれるからだとも言えます。昔から執着をはじめ、暴食、色欲、強欲、憂鬱、憤怒、怠惰、虚飾、傲慢などがあります。どれも自分自身の中にある己心と私心との間で発生してくる感情であり、その感情をどう転換し、どう執着を手放すかが人生の修行とも言えます。

実際に文章で書くのはいとも簡単ですが、実際に実践してそれを転じて善いものにしようとするのは大変なことです。実際には、どの執着が一番強いかは人それぞれに異なりますが、ある人は強欲でなくても傲慢であったり、ある人は暴食がなくても怠惰であったり、それぞれに強弱あるものです。

仏教では六波羅蜜と言いその執着を手放すための修行として、布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)があるそうです。私欲を手放すには、私欲を超える実践を行いいつも自分を律してより大きなものに自分を近づけていこうとすることで己の分を弁えようとするように思います。

人は自分の分を弁えることができてはじめて謙虚になったとも言えます。

実際の自分を本来の身の丈よりも大きいものだと思うところに人間、いや人類の失敗があり、実際は分を弁えないことをすればそこに破滅が待っています。これは歴史を観れば明白で、分を弁えればその文明は長く続き、分を弁えないことで文明は終焉します。

人間がいくら凄いと思っても「いのち」一つ作れませんし、また地球規模の大天災には立ち向かう術もありません。例えば、火山の大噴火や熔岩を消火できるのか、竜巻や台風を消し飛ばすのか、大津波を鎮めるのか、巨大隕石を吹き飛ばすのか、そんなことできるはずもありません。宇宙や自然を敵にしても決して勝てるわけではなく、もしくは何かや誰かと比較競争して勝った気になってもそれは長い目で観て果たして本当に勝ったと言えるものかとも思えます。

自分の分を弁えている人は自然に沿っています。自然に沿っているから、自然を変えようとはせずに自分を変えようとします。世の中を変えようとはせず、自分を変えようとします。他人を変えようとはせずに、自分を変えようとするのです。これらは分を弁えているのです。自分を変化させる人はみんな、その道理を実践により体得しているのです。

如何に分を弁えるか分度を保つかは、日々の生き方、その謙虚さの醸成があるということです。一期一会の御縁といただいた大切なお守り刀を懐に抱き、初志を貫くためにも安文守己・知足安文の実践を意識していきたいと思います。

  1. コメント

    一円対話の聴福人をさせて頂き、先生からよかったですという声を掛けてもらい有難い気持ちと、「日々社内でやっていることしかできないのです」と返答した言葉に改めて感じ入るものがあります。それは謙虚に見せようと思って発した言葉でなく、ふいに出た言葉に自分の縮図のようなものが表れるのだと感じました。日々発する言葉も感じたり、考えたり、思ったりその積み重ねによること思うと、その時々の内省が感謝にまで至っているだろうかと感じます。一つ一つ頂いている機会を大事にしていきたいと思います。

  2. コメント

    「分」とは、分け与えられたものであると言われます。自分に与えられたものを知り、その自分が果たすべき役割を知ることが、生きることの意味を悟ることになるのでしょう。「分を弁える」とは、この「分」を与えられた「おおもと」に対する態度のことではないかと思います。「謙虚さ」も自分だけでは成り立ちません。「何に対して謙虚であるのか?!」「何の前に謙虚であるのか?!」そこを押さえる必要があるのではないでしょうか。

  3. コメント

    最近の頂いている機会から謙虚はあらゆるものに繋がっていることを感じますが、とても謙虚には程遠いことを感じます。執着も自分で意識しているものは少なく、むしろ無意識のものだったり咄嗟の判断の際にそれが出ているように思えます。自分の判断基準がどうなっているのか、行う前には気づくことが難しいことも多いため、なおさら判断した後に自身を省みることを怠らないようにしたいと思います。

  4. コメント

    謙虚に振る舞うことは出来ても、自分の発する言葉や行動に、冷たさや、他人任せ、評価や比較がないかを観てみると自分の我が見えてきました。自分の我と向き合い、心が求める行動を粛々と実践したいと思います。

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