循環を優先

発酵を深めていく中で、沢山のことに気づきますがもっとも大切なポイントは「循環を優先」することのように思います。自然と共に歩んでいく生き方というのは、まったく一つの無駄がなく、「ゴミ」という観念がありません。この世にあるすべてのものは再利用でき、そのものが消失しても次の世代や次のいのちの糧になります。

このように一つの無駄もゴミも発生しないこと、そしてそれが永続的に繰り返され継続されていくことを循環と定義します。

例えば、木というものを理解するとそれが循環の柱になっていることに気づけます。木は種から根をはり芽が出て伸びて成長する中で森をつくり、多くの生き物たちを活かします。その後、朽ちたり、炭になり灰になりまた土にいる微生物たちを甦らせていきます。微生物は極小の生物ですが、私たちを常に活かします。木はその成長に一つの無駄もなく、常に様々な他を活かし続けて寿命を維持します。

木から学ぶことは本当に多く、自分の都合を一切排除したところに循環型社會が存在することを直感します。

一昨日の桶については、その木の特性を上手に活かし、微生物の仕組みを深く理解しているからこそ桶を使ってきたように思います。古来から私たちの先祖は、壺や甕を用いて水や酒を保存していました。これは遺跡を見学すれば縄文以前の時代からあったことは遺跡の出土で分かります。そして木の桶は弥生時代の遺跡からも発見されており、室町時代に中国からの影響もあり広がり江戸時代には各家庭に必ず存在したものとなりました。その後、昭和に入りホーロータンクやプラスチック製のものが広がり桶はほとんど見なくなりました。そこには人間の都合の良い便利さ安価さはあり経済という名のお金の拡大はありましたが同時に大量のゴミが発生し、大量の無駄が存在する非循環になったとも言えます。

かつて桶はどのように循環していたかを調べてみると、まず酒屋が森の中から選んだ木を用い新桶を作り、その後30年後に酒桶としての寿命が近づくと、今度は味噌屋・醤油屋それを譲られ、更にそこから長くて150年ほど使われます。その後は、職人たちが修理を繰り返し微生物たちの故郷として何百年もの間ずっと循環型社会の御役に立つのです。

世代を超えて利用されてきた桶はずっと人間と一緒に生きて暮らしてきました。桶を身近に生活していると、その桶が私たちと同じように「呼吸」をしていることに気づけます。漬物においては、自分たちの都合の悪い微生物を排除して簡単に管理できるプラスチックと違って木桶や木樽はこちら側が愛情をかけて塩加減、塩梅をみて見守らないと腐ってしまいます。しかし経年変化の味わいが出てくるのはそこは生き物として、いのちとして大切に扱っている真心が入るからです。

そこに循環があるというのは、それは私たちがいのちとして寄り添うから存在するのです。いのちがあるものは寿命があり、その寿命を延ばしてあげたい、一緒に暮らしていきたいといういのちを思いやる温もりがあります。

時代が変わっても、桶の持つ魅力は変わりません。

それは私たちの心の中に、この循環の思いやりや真心が消えないからです。手間暇かける贅沢さや、手作業の温もりは、いのちに触れる仕合せです。

身のまわりに循環の道具を置くことは、自分も循環の中に暮らすことです。いくら循環をしたいといっても、今の循環しないものに囲まれていたら気が付くと大量のゴミと大量のムダを発生してしまうもので、同時に人間の都合の良いことばかりを優先し循環できなくなっていきます。そうやって人間が自我欲に負け、己に克てず、我儘に傲慢になれば循環型社会は一瞬で崩壊していきます。

子ども達の未来はこれからまだまだ続きます、それをどう永続させていくために自分たちが一体何を実践して生きていくかはこの世代を任された私たちの使命のはずです。

常に自らを正しつつ、循環を優先しているかを観直していきたいと思います。

  1. コメント

    循環は深い、そう感じます。何十年と使い続けられるその前には、何十年も経て育った木があり、見守ってきた人がいるということです。自分にそれが見えているのだろうかと思うと、それが先生方との寄り添い方にも現れるのだと感じます。もっと真心を尽くせたのではと思うと、心に触れた時だけ循環を感じられている時なのかもしれません。信じて飛び込んでいきたいと思います。

  2. コメント

    人は、大量にあるものや安価で手に入るものを、どうしても雑に使い、粗末に扱う傾向があります。その結果、ものと心が離れ、捨てても心が痛まないようになってしまいました。また、都合のいい短期の視点が、ワガママや無責任さを助長しています。ゴミを出さないための方法ではなく、あらゆるいのちを生かしあうという意味で本当に豊かな暮らしの智慧を生み出していきたいものです。

  3. コメント

    「いのちとして寄り添うから存在する」という言葉にハッとさせられます。先日、家で飼っていたメダカが死んでしまいましたが、いのちとしての寄り添いが足りていなかったように思います。いのちある生きものでも、かかわり方次第でいのち無いものにしてしまうことにもなる。これを相手や子どもに置き換えると怖ろしいことです。発達が有難い、存在が有難いという感覚から循環を大事にしていきたいと思います。

  4. コメント

    味噌桶を頂いて3年、まだまだ桶の扱いに悩み、学ぶ日々です。
    空気の通りが悪い最近の集合住宅では
    桶の心地よい環境も簡単には作れないことに気づきます。
    毎年一つ二つの間違いをし、そこから学び、改善する流れの連続ですが、それでも毎年美味しい味噌を樽と微生物が作ってくれるのは、本当に有り難いことです。今年もまた、樽から学びたいと思います。まさに、樽を知る!です。笑

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