2009年07月03日 金曜日
08:37 | 投稿者:
野見山 広明
先日、ある組織の話し合いなどに参加する機会があった。
そこでは、いろいろな方々があまり話が紛糾しないように主義主張を出し話し合いをしていた。問題はたくさん起きる、それは当然今まで正しいと思われていたことが、時代が変わっていく中で合わなくなってくることがたくさん出るからだ。
ただ、いつもその機会を見て感じるのは、結局は言うだけで最後には大事なところはいつも変えないということ。理由はいくつかあるけれど、大事だと勘違いしているだけで本当にそれは大事なことかなと思ってしまう。
その方々の言う大事なところとは、私が観ていると先人の残した成功のカタチのことを言っている気がする。その人たちは、新しく壊したというように思われることを、先人の苦労を否定してしまい裏切ったことだと定義し勘違いし、頑なに保守に固執するばかりである場合が多い。
もしくは、過去に認めてもらったその人に報いたいとその人の考えをそのまま残そうと周りも見ずに躍起になって反対する人もたくさんいる。
万物流転、時代も変わっているのだから、本当に尊敬する先人の叡智や智慧を残そうとしたらキチンと本質を観て常に時代にあわせて変えていかなければ守れるはずもないのに、カタチダケのものを残せば遺したと勘違いした負の連鎖は広がるばかり。
こうなると、夏に冬服を着てクーラーを入れているようなものだし、冬に夏服を着て暖房の中で引き籠っているようなものだ。自然にあわせていくことをしなければ、如何に無駄が生まれ、そのツケを別の形で解消していかなければいけないという本質からソレタ問題にばかりにエネルギーを割かれることになる。
リーダーが気付かずそうなってしまうひとつは責任があるのだろう、自分がその役を持っているのだから今までの流れは変えてはいけないという目に見えた責任があるのだろう。しかしよく観ると、目に見えるものばかりを変えてはいけないという大多数の考え抜かない無責任な組織の人たちの言いなりになり、なるべく平穏に無難に済ませようとするのはそれで本当に今までの流れを守っているのだろうかといつも疑問に思う。
人は常に変わることで守っていく。
その変わるというのは、本質を守るために、周りの変化にあわせて順応させていくようなもの。その順応には、激しく革新するものもあれば、静かに維新していくものもある。
人はなぜ役割分担があり、代を重ねていく意味があるのか。
それを鑑みるとき、私が静かに思うのは人は成功体験があればあるほどその思い出の美しさに於いて執着が生まれ、それを美化しそこに囚われていくもの。
短い人生において、そういう思い出が人生を素晴らしく味わいあるものにする。
引き際というのはとても難しい。
今を生き切り、全身全霊で生きているときっと臨界点を知るのだと思う。
そしてその臨界が、自分にしかできないことの本質に巡り合えるような気もする。
無心というのは、無の心だけでは生きてはいけないのだろう。
そこに、確かに自分の中にある一つの道での無で有ることの方が優先されるのだろう。
業界を観ていると、生き残りをかけて何があってもカタチが変わらないようにと無理をして守ることばかりに囚われて排他的に新しいものを受容しない負の連鎖は続いているように感じる。壊れるのを待つばかりというのもなんだか受け身なことだと憤慨してしまう。
しかし、私たちの業界は子どものためのもの。
子どものことを本当に思うと果たしてどうだろうか。
子どもたちは、そうやって頑なになった大人から何を学び何に挑戦し新しく創造していけるのだろうか。
子どもを信じるのならば、時代にあわせて変わるのは自分自身だと自分を見つめ、子ども自身が変わっていくことを信じて新しいものを受け容れる思いやりや優しさをもっと大切にしていけばいいと思う。
決して若いものや新しいものは、卑下して遠ざける対象ではなく、そのものにより時代の流れにあわせて自分の本質が練磨できる最高の機会だと思うことがより先人の思いや遺志を継ぎリーダーとしての責任を果たすことに繋がっていると私は思う。
若い人や新しいことをする人は失敗をする。
それは当然失敗をする、子どもと同じで必死で「練習」しているからだ。
もっと新しいものになるために挑戦し練習する若いものたちに優しくいれるようにいつも私は居たい。
私自身は、この若い頃の保守的なものの組織からの軋轢などをよい体験と訓戒に昇華し、子どもの未来により確かな本質を譲れるように自分を本質にあわせていく方に迷わずに不動の心で邁進していきたいと念じる。
負の連鎖を断ち切れるような、新しいモノサシを創っていきたい。
2009年06月30日 火曜日
17:12 | 投稿者:
野見山 広明
日常、人と交わる中で人は様々なものを体験し学んでいく。
しかし、その学びの量はその人の感性によって大きく左右する。
その人の感性が豊かであれば体験の質も潤い、そして鋭敏であればあるほどその体験は偉大なものになる。
感性があるというのは、感じる力があるということ。
感じる力とは、自分を超えたものを常に自分の内面に内包していていつもそこで物事を感じ得ているという状態をいうのだと私は思う。
人は、その自分の体験に対する一期一会の覚悟により感じる質量が異なるのだから如何に自らが日々反省を繰り返し、その感性を磨くのかというのは学びの本質であるようにも私は思う。
感動して生きるというのは、そういう感性を育て続けているという人がはじめて持ち得るものだ。変化というものを気づく感力はこれからの波乱の世にあっては身を助けることになる大事な能力のひとつになる。
そして出来事という体験は、予想していること以外に起こる偶然という名の必然のこと。それは思えば起きるし、それを思わなくても起きるものだ。人が一般的に感じる出来事は事故のように、ふとした不注意で新たな出来事に出会うものが多い。
そういう時は、何かあるのだろうと意味を感じ尽くしている人が良質な体験に変換できる人だということになる。
またマイナス思考に、嫌だなと受け身になるとすべての出来事は体験よりも避けたい対象になり、学びも出会いも引き寄せない無機質なものになる。
人は、常に刹那刹那の瞬間に自らの生き方を決めていくもの。
如何に自らを醸成し、己を修めているかというのは日常に現われるのだから誰にも平等で機会があると思うと本当に人生は面白いことだと思う。
私が事故に出会うとき、特に大事にしていることがある。
私は自らの何かの不注意とは、私は思いやりの欠如のことだと定義している。
人は思いやりが欠如してくると、自分の殻に閉じこもり、周りを見なくなる。
周りが観えなくなると、すぐに注意力が散漫になり不注意が起きる。
「注意」というのものは、読んで字の如く「意を注ぐ」と書くのだから常に自らの行動している刹那一瞬でも、いつも周りのことを思いやって自分をきちんと使っているかどうかでその注意の本質が観えるもの。
よく巷では、周りばかり気にしている人だと言われそうなものだけれどそれと私の言う周囲への思いやりは意味が異なる。
私の言う周囲への気配りとは、自分がいつも周囲によって生かされていると感謝していながら自分がどれだけみんなの役に立てるかを慮りながら慎み丁寧に生きていくという共生と貢献の心がけのこと。
そもそも周りのことばかり気にしている人というのは、自分のことがもっとも大事であり、その存在が崩されないことばかりを気にしている状態を言うのだと思う。自分中心になりすぎ、殻に閉じこもると被害妄想が生まれ、物事を正しく受け取れなくなり、損をし、素直になれなくなってきたりする。
如何に、自分が在るのが皆の御蔭なのかと感じる日々の内省がそういう周囲を思いやる心を磨くかと思えば、仁の実践の重要さが本当に骨身に染みる。
論語、礼記・表記にある。
「仁は右なり、道は左なり。仁は人なり、道は義なり。」と。
仁と道とは、常に一円の中にあり、それは分けられないということ。
仁を実践すればおのずと道になり、道を実践すればおのずと仁になる。
相助け、相補い、それれにより大いなる調和を求めていくもの。
まだ実践が足りずにその端々しかまだ体験できないけれど、人事やコンサルティングその他を通してそれは感じることができるようになってきている。
また人情と義理というものも同じ定義。
人情を大事にしていけば、おのずと義理というものに出会い、信用や信頼とはということを見つめることになる。さらに、義理を大事にしていけば、おのずと感謝や思いやるということを見つめることになる。
万物一円に融和させ物事を調和するには、まだまだ実践を弛まず行うことが居る。
私自身、子どもの未来を思うとき、何をもっと調和とするのかをしっかりと鑑み、何よりも自分の背中を通して感化していけるように実践学を深めていきたいと思う。
人々が共生することを尊び、自分を活かす道により、世界を平和に相助け合い、相補い合い生きていけるような社会創りを見守っていきたい。
一期一会。
2009年06月24日 水曜日
07:13 | 投稿者:
野見山 広明
先日、ある園で理念設計について研修を行った。
現場では、長く勤めた人やそうでない新しい人がいる。しかしそこで働くことになる以上、理念を学ばなければ本質的な組織の一員にならないのだからそれぞれ新旧あっても平等に学ぶことになる。
通常人は、目に見えないものを理解しようとするとき、まず肉眼で見える所から察知して自分の体験に照らしこういうものなのかなと理解をしていく。
しかし、大事なものは肉眼では見えないのだからそれが一体どのようなものかを心眼で理解しようとするときは至誠と実践がなければ分かるはずがないと私は思っている。
それなのに、人はすぐにこういうものだろうと理念を安易に理解したり、相手にあわせてみて反応を確かめることばかりに気を取られ、根本や原理原則、その本質からズレてしまい、そのためにやりたい事や、やれることをできなくなりできないからもがく努力を本当の努力だと勘違いしたりしていることがある。
理念の体現というのは、自らがその場で自分にしかできないことをやるために如何に実行実践に於いて学ぶかということになる。人間は、真理や本質がすぐに分からないからこそ、どの仕事も初心を大事に丁寧に真心をこめて小さきことから深く理念に沿って打ち込んでいかないといけないのだと私は思う。
私は理念はたったの一日の研修で理解できるとは思っていない。
私がやっている理念の研修とは、方向性であり、目指す道であり、そのものが価値があるという意味付けであったりする。
二宮尊徳にこうある、私がもっとも尊敬している文章になる。
「我が道は至誠と実行のみ。故に鳥獣虫魚草木にも皆およぼすべし。況や人に於けるをや。故に才智弁舌を尊まず。才智弁舌は、人には説くべしといへども、鳥獣草木を説く可ならず。鳥獣は心あり。或は欺くべしといへども、草木をば欺く可ならず。夫れ我が道は至誠と実行となるが故に、米麦蔬菜瓜茄子にても、蘭菊にても、皆是を繁栄せしむるなり」
人は知識を得て言葉を喋る。
そうしているうちに、実践よりも知識が増えていき、他人にああだこうだとわかったように喋りたくなったりするものだと思う。そうしているものでも、実践と行動をして体得したものだと、あまり多くを語らなくても感化され伝わっていく。
しかし自分がそれができていないときは、何万弁話をしても相手には伝わることはない。
そしてこういう実践により練磨陶冶された本質的な感化は、それがたとえ植物であっても動物であっても、虫であっても影響を与えることができるということ。
私は植物や動物などを育てるのが好きで、昔から長くやっている。それに料理や生活も好きなので、いろいろとこだわったりする。
理念の実践を通じて、そういう生活がより豊かになるだけではなく、行いの一つ一つが実生活で丸みを帯びて優しくなり磨かれていくのが分かると、如何に頭でっかちのマニュアルのような発想を捨てて、実践と真心で理念を体現することの方が自分の人生にとっても価値があるのかというのはよく分かる。
理念が実践されて行動が身体に伴ってくると、心が穏やかになり迷いがなくなってくる。そうなると、感謝でき、思いやりが育ち、信頼され、今に力を存分に発揮できるようになってくる。
しかし、理念を実践せずに、あろうことか分かった気になって傲慢になっていると心が迷い、何をするにも焦ってしまい視野狭窄になり周囲への思いやりや感謝まで忘れてしまっている人もたくさんいる。
理念とは、自分自身の身を助けるものであり、そしてそれが経営者やトップを助ける道になる。
理念から外れれば、自分も苦しみ、そしてトップやリーダーの足をひっぱることにもなる。
たいしてそれを掲げない場合は、無難に周囲にあわせていけばいいけれど、一度、明確に打ち出すと大きな変化の波があらわれその中で変化を体現体得できるように動きだしていく。
本当に変わるのなら理念を持つことだと私はよく現場で話す。
変わった気にいくらなっても、理念なきところに本質的な変化はないと話す。
これは理念があるからこそ、万物流転することに畏敬の念を抱き、あるべきように時代の変化において自らが変わらないといけないのだという意味になる。
常にリーダーだけではなく、社会というもの、みんなで組織するというものは、その道理を弁えて給与をいただき、働くことだと思う。
最後にまた二宮尊徳の遺訓を紹介する。
「道徳なき経済は罪悪であり 経済なき道徳は寝言である」
そういう理念がなければ、何もしていないのと変わらない。
ただテレビを眺めているだけのようなもの。
人生は、ドラマは、現実の世界、この場、この今にあるのだからこそ、何よりも理念の実践にはじまり理念の実践に終わるような日々を送ることが社会の中で本当に働くということになるのだと思う。
子どもたちへ、理念というものを保育現場を通して、実践により感化し、環境を通して理解できるように理念設計をし、一人ひとりが自らがどのように生きていくのかなどを学ぶ小社会の実現に向けてカグヤという会社が貢献していければと心から念じる。
この今も、私たちにしかできないことで子どもの未来に遺せ譲れるものを鑑み、自らの理念を深め省みていきたい。
感謝
2009年06月16日 火曜日
06:23 | 投稿者:
野見山 広明
人が人と生きていくには、愛と情と正対し、常に自らの判断を育み練磨し陶冶していくことが求められる。
愛と情はとても難しい決して終わらない永遠のテーマの一つ。
人生での愛情は、ある意味で人と人が出会い人を活かし活かされていく道なのではないかと私は思う。
たとえば、情深き人はその情深きゆえに自他ともに色々な悔恨の縁を引きずり長く孤独に苦しむことがある。
自分の感情が相手のそれを勝り、その情が相手への執着になりその瞬間の相手の自立心を取り除くこともある。
情け深い人というのは、人としてとても魅力があり、そういう人は周囲を引き込み、包み込んでいくものだ。
そして愛がある。
愛高い人がいる。
たとえば、愛高き人はその愛高きゆえに自他ともに厳しく孤高を感じることがある。
自分の愛が相手のそれを勝り、その愛が相手への無二の自立を促し、その瞬間、その人にある依存心を取り除くこともある。
愛が崇高な人というのは、人としては真に尊敬できる人であり、そういう人は周囲を導きその人々の人生を生き切るための大いなる方向性を与える。
愛と情は、常に陰陽と同じように一対、一円に存在している。
そのどちらも、その時々の状況により万瞬変化していて、その一期一会のタイミングでその体現するものも万理変化している。
だからこそまず決断する上での基礎として、常に「今」というもの、そして「自分」というものへの透明な思想が問われるようにも私は思う。
まずその時々の愛も情も、「今」というものが本当はどうなのかということから考えてみる。
「今」がその人にとってどのように大切な機会なのか、ご縁なのかを思うとき、その一瞬の邂逅を見逃さずにどこまでその今に平常心で真心を尽くしているのかがその如何を決めることもある。
そして、愛高きは、まず判断に自分を容れずに相手の目指す将来を思い、天意に照らし本人の幸福のために本質を見極め真心を尽くしていくこと。それに、もともと自分を容れていないのだからその愛が帰ってくるものだと思うことはないし、またそれが本物の無償であるからこそ愛というものになるのだと私は思う。
どんなものも自分の感情が様々な観念を創り出し、本質を曇らせていくものだからこそ自分の感情があるがまま無に帰す時にはじめて物事の真理は現れるのだとも思う。
それに人が人と生きるというのは、愛も情も入り混じるということ。
そしてそのどちらも体得して、それを超えた新しい第三の道を知るということがこの道の学びの悟門になっているのだから避けることはできないし、それは此処で生きるための力に直結しているのだから日々流されるわけにはいかないと私は思う。
その第三のものとは、師匠が体現している道、「至誠と真心」だということを知るに致るにはまだまだあまりにも自分の実践が足りていない。
だからこそ、一瞬一瞬に、今があることを有難いとし、その素晴らしい出会い、かけがえのない出会い、奇跡のような出会い、まごころの出会い、その出会い出会いに命が籠る意味を感じ切り、大切な一期一会の邂逅に生きるのもその愛高きを崇志で目指し、情深きを味尽くす生き方を選んだものの宿命になる。
私は、これからも子どもたちを見守る眼差しを日々の出会いの中で透徹できるように暖かく育み優しく強く醸成しながら、愛情を超える真の親子道、そんなモノサシで世の中にその価値により刷新していきたい。
私の身にいま起きているすべて物事や出来事の意味へ心から深く感謝します。
なによりも今は器を大きく広げ、その器に注ぎ込まれた愛になりそして情になり、それを超えた「かんながら」になる真の道に繋がっていくことを切に信じて自らの歩みを強めたいと思います。
ありがとうございます。
2009年06月10日 水曜日
06:20 | 投稿者:
野見山 広明
カグヤでは定期的に、円会イベントという理念を体現する実践的な学びを行う機会を設けている。先日、カグヤで会津若松にて社内研修を行った。
これは内省と実践により自らを深めそして修めることを日常と非日常の行間に見出していくためにとても大切なことだとして継続している理念のひとつ。
生きていれば、自然と様々に進化成長していく。
同じ日は二度と来ることもないし、また同じ日が来ることは永遠にない。
だからこそ一期一会の念を持ち、日々を新たにしていくと誓い今を生き切る。
これは私の在り方そのものだし、生き方そのものと定義している。
私が人生の座右の書にしている論語「大学」に「誠に日に新たに 日々新たに 又日に新たなり」がある。
これは今日の実践は昨日のものよりも新しくなり、明日の実践は今日よりも新しくなるように日々、自己修養していくということ。中国の殷の湯王は、これを盤、つまり洗面器の器に彫りつけて毎日の自誡の句として内省を行っていたとある。
今というものに感謝できるということは、過ぎ去るということの本質を理解しているということだと私は思う。変わらない日がないということを戒めることだと私は常々考えている。
つい生きていると、何も変わっていないと信じたいのが人間だと思う。しかし、どんなに何も考えていなくても時間は変わるし時代も環境も変化していく。大きな河の流れのように、たとえ悠久に見えていても決してその流れは同じではない。
だからこそ、自らは大いなる宇宙の理の流れにいることを自覚自念して、二度とないこの「永遠の今」には受け身に流されずに掴んでいたい、ブレずに気付きたい、変化成長を繰り返していきたいと命を籠めて編み込み念じることができるのだと思う。
今回は、そういう学びに繋がるようにと祈念し、会津にある「日新館」にて宿泊し、坐禅、弓道、茶道、論語の講和など各道の講師から体験を通じて学ぶことができた。
どの話も、講師の方々の日常からお気づきになった等身大でとてもシンプルにされた和の精神や道を歩む入口に於いての心構えなどを丁寧にご教授いただくことができた。あの会津の懐場にある脈々と受け継がれる人材育成に対する理念、「故郷を思い、日本の未来に貢献しようとする使命感」、そのどれも会津武士道が基徳になっていることが伝わり体験を通して心が震えました。
本当に有難うございました。
とても充実した2日間で、たくさんの新たなご縁と学びの機会に感謝できた素晴らしい内容になりました。本気で打ち込む人には本気の休み、志に生きる人には志の休み、命に感謝している人には命に感謝する休みを。これはカグヤの理念の基盤軸でもあります。
自分の人生の本気スイッチをONにしている生き方は、常にこういったあり方に戻るのだと私は思う。
子どもの未来に、どれだけの自ら理念を修め、信念を磨き、自らを陶冶し修めるかはカグヤ道の永遠のテーマだし、世界標準になるための当然の通り道。
これからもそういった一つ一つのご縁を噛み締めながら歩んでいこうと思う。
最後に、研修中にとても嬉しいことがあった。
会津にて、志をともにする同志が私が日新館へ来ていることを聞いてわざわざ尋ねてきてくれました。もう5年ぶりになりますが、お互いに理念信念を貫く生き方を確認できました。お心遣いと大切な思いの贈り物、会津「氏郷米」も本当にありがとうございました。お気持ち、よく伝わりました。
論語にある、
「朋有り遠方より来たる亦、楽しからずや」
ふと、遠方から同志がそれぞれの道を一期一会に確かめ合う。
本当に感動する出会い、そして感動する魂。
私はこういう生き方はこれからも真摯に大人のモデルとして子どもたちへ優しい眼差しと強い背中で力いっぱい語っていきたいと改めて深く念じる。二度とない人生、二度とない自分、何よりも輝いて生きていくこと。子どもたちの本気を引き出せるような環境をもっと楽しく明るく元気に用意していこうとまた勇気と活力が漲ってきました。
会津との一期一会、何より本当に有難うございました。
感謝深拝
2009年05月29日 金曜日
06:38 | 投稿者:
野見山 広明
子どもたちを見ているととても心が安心することがある。
そして自分に素直に生きている人をみるとやっぱり安心することができる。
生きるというのは、そもそも難しいことだし、いろいろなことが起こることもでもある。その中でも真っ直ぐにその出来事に正対し、気付き学び成長する人とそうではない人がいるというのは教育に携わる人のテーマでもあると思う。
真心を籠めて生きていくということ、愛を持って生きるということは、誰が子どもへ教えるのだろうか。
周囲の温かい大人の示す感化により、伝わっていくのだと私は信じてる。
しかし、今は子どもの時より時代や環境によりさまざまな刷り込みにあい偶然そういう感化に恵まれずに擦れてしまうこともある。そうこうしているうちに自らの本心を亡くし、素直になれなくなるようになる人もある。
何を聴いても正しく受け取らず、周囲に対して憎しみを持つようなトラウマや深い影を持つ人も世の中にはたくさんいる。誤解した過去をずっと抱え込んだまま、生きてしまうことがある。その一瞬が永遠になってしまうことがある。
子ども時代の出来事との出会いは、いつも無防備だし、不意をつかれたその衝撃は記憶に刻まれいつもそれを恐れるように許しや癒しとは反対方向へと衝動で向かってしまうのだと思う。
そういう場面やシーンを持っている人を見るととても悲しく、そして切なく感じるのは私だけだろうか。
潜在意識に刻まれ、蓋をしてしまい二度と開けることがないまま、なぜか不自然が身についてしまい、またそのせいで余計にもがき歩む。温かい人との出会い、恩師との出会い、奇跡のメンターとの出会いにより、もう一度自他を心底許せるように感化される一期一会を得てほしいと心から願います。
私が大人が子どもへ与えてしまう「刷り込み」に対して、本質を得ていると思っている内容に下記がある。
『人は童子たる時、全然たる本心なり。やや長ずるに及びて、私心やや生ず。既に成立すれば、すなわち更に世習を夾帯して、而して本心殆ど亡ぶ。故に此の学を為す者は、当に能く斬然として此の世習をさりて、以て本心に復すべし。是を要と為す。(言志四録 佐藤一斉)』
「人は幼いときに、無垢で完全な真心を持っている。やや大きくなると、私心というものが少し芽生えてくる。そののち一人前になると、さらに世俗の習慣が身についてきて、汚れのない真心はほとんど失われてしまう。したがって、聖人の学問をするものは、世俗の習慣をきっぱりと断ち切って、真心に帰るようにしなくてはいけない。これが重要な点である。」
子どもの時の素直な真心は、どんどん大人になっていくと失われていく。
保育園幼稚園であの子どもたちとゆったりとくつろぎ静かに真心で通じあうとき、彼ら彼女たちは私に真心で返してくる。「楽しい、嬉しい、大好き、、、」素直で屈託のない澄んだ瞳。なんて温かでそして優しいのだろうといつも人間の素晴らしさを感じて感動してしまう。子どもの素直さはそれだけで無限の光と輝きがある。
大人が子どもに価値観を押し付けるというのは、子どもの本心を奪うことにもなるのではないかと私は信念を持って思っている。
子どもたちは完全だとなぜ思えない大人がいるのか。
それは、自分の本心を刷り込みにより忘れてしまっているのではないかと私は思う。
もう一度、そういうものを「真心の鏡」として子どもたちを観てみるとどうだろう。
すべてを持って生まれて、そして失っていくとしたら、私たちはとても悲しい機会損失に日々出会っているのではないかと思うと心が痛む。
安心して素直で生きてほしいと念じる、まるで太陽も月も地球もそういう素直さを生きるものへ平等へ恩恵を与えてはいないだろうか。共生や調和というものの本質を鑑みていきたいと思う。
まずは私自身、素直に生きることができるように、思いやりと真心の鏡を自ら日々確かめながら子どもたちを信じていきていく実践を積み上げていきたい。
万物の具徳により、新しいモノサシが世界を変えることを信じて。
2009年05月27日 水曜日
05:47 | 投稿者:
野見山 広明
先日、ある園で情報リテラシーのコンサルティングを行った。
すべての人は多くの情報の中から自分にあったものを探し物事を選択・選別していく。
たとえば、それが知識や体験からのものであったり、動物的直観であったりと、その人たちの判断基準はその人が持つ感性や価値観に左右される。
そして、その内容の重厚でまたその判断基準は大きく左右する。一生涯影響を与えると思えることであれば、細部細心の注意を払い、本当にそれでいいのかなどを深く悩んだり迷ったり、さらに情報を探そうともする。
しかし、たとえばたいして深く考えていない場合の今日、明日の悩みや、今何を食べるかなど、影響があまり先々に見えてこないものはあまり深く悩むこともなく、見た目だけのものや、何となくだけで決めている場合がほとんどだと思う。
つまり情報というのは、その人がどのようにそれを思うかによって千差万別する。もちろん思想や哲学が成熟していたり、芸や道の追求や実践が長けていて自らを修めているような一流の人たちなどはどんな情報でもすべて見落とすこともないのだろうけれどふつうはそういうところまで考はしないので情報に受け身に関わることが多いのだろうと思う。
そういったようにふつう情報は、受け手側の感性によるのだから発信側が情報リテラシーを正しく理解して真の情報を取り扱っているのかどうかはお互いの幸せと目的達成のためにとても重要になる。
ある園では、親ウケ、子どもウケがいいからと園庭や玄関に派手な遊具や派手なキャラクターを用意して目立とうとするところがある。もちろん、会社も今どきは地味なものよりも派手でないとという看板のような感覚で販売しているところもたくさん増えているしそんなころは当たり前だと意に反さないところもたくさんある。
言葉巧みに子どものためと、いろいろなところでお互いに納得し合い、理屈をつけては、それぞれに物品を購入しているのだと思う。子どもが良いかどうかよりも人間としてみたときに、やっていることの本質として本当にそれが必要かどうかを考えてみるだけで刷り込みに気づけることもあるけれど、大人側が子どもを語る時、どうしても誤った情報理解になるのは不思議なほどだなといつも思う。
もちろん、今の時代は、何をやっているのか、何をやったかという成果主義が企業でも蔓延していて何かをやることばかりに目がいくような傾向もある。でも、たとえば自分のパートナーや命を預けるような仲間を選ぶとき、見た目の派手さやパッと見の印象だけで決断するかというと、ほとんどは関わりを通して長い時間をかけてお互いに誠意ある実践と日々の約束や行動をお互いに認め合い、信じ合い、互いの気もちを育てながらじっくりと決断していくようなものがほとんどだろう。
そう考えると、何かしらの園のポリシーの弛みない永続する理念の実践というこだわりを通して、何かしらのメッセージを外部へ発信し続けることが親に本当にこの園を選んでいいのかを投げかける真心の情報開示ということにならないだろうか。
本当に親のためならば、親の真の目的であるわが子を何よりも大事にするために、情報の見た目を良くすることでもないだろうし、浅いところの情報でひきつけることでもないと私は思う。
その園が考え抜いた子どものために何よりも守りたい大事なこだわりを一本立てて、それを全職員と園長が一丸となって実践し続けてその経過や内容により本物の情報を滲みだしていくものだと私は思う。
そういう実践を続けていると、情報は育ってくるし、醸成されてくる。
そういうものは、見た目には分からないけれど雰囲気やその場に入ることであっているかどうかを肌や心でより自然に実感できるようになるものだ。
人間は、必ず生きていく上で必要な情報の取捨選択する本能がある。
その本能は、本物に感動し、本物を手繰り寄せる。
場には、その理念の実践により余韻が残ると私は思っているからだ。
お互いが本当にマッチングするような一期一会の出会いを呼び寄せるのも情報を扱う側の心構えと心得ひとつ。
日々を怠けず、常に自ら正しい情報を扱い、ブレナイ実践を続けていくこと。
カグヤの代表としても、このブログもそうだけれど、日々、自らを省みて、モデルとなる実践を示し感謝とともに子どもたちと保護者、園に関わっていければと念じる。
2009年05月19日 火曜日
06:04 | 投稿者:
野見山 広明
大義を得れば大義を誠に実践していくのは志下一念で生きる者の定めではないかと思う。
古典、大学にこうある。
「所謂其の意を誠にすとは、自らを欺くなきなり。悪臭を悪むが如く、好色を好むが如し。此れを之れ自謙と謂う。故に君子は必ず其の独りを慎むなり」
私の解釈として、自らの内面の心を真心一つにすることとは、自分自身の本当の心に嘘偽りないものにしていくこと。まるで嫌なものは嫌だし、良いものは良いと思うようなもの。そのままの在るがままの自然であるという。だからこそ、君子は絶対に誰が見ていなくても誰がいようがいまいが、君子は自らを独りで身を修め慎むようにすること。
自らの内面に嘯かない生き方をする。
これは、自分に尽くすという天を感じて生きること。天が自分を見ている。だから、天を絶対に裏切らない。天が見ているからこそ、天に対して本気本心だったかを問うということ。
どんなに独りのような気がしても、そこには必ず天が見ていると信じる。
これが忠。
そして自分以外の人を裏切らないためにも、自分が信じ切ることを優先する。言葉に嘘を乗せず、在るがままで正しく接する、これを誠心とし、まごころと思いやりとする。
これを信。
最期に、誰からどう思われようとも、誰にどう批難されても、それが真剣に自らの命を懸けるほどの信条から練り上げられ、至誠の志からの自らの人生観の発動、そういうものに自分がどうしようもなく突き動かされる運命的な魂の衝動、そこにはその忠と信から天と同化し自らの命を任せるほどの透徹心による勇気が現れ行動する。
これが義。
思いやりが広がり、優しさが天と一体になりあるがまま本物になると忠義になる。
その時、維新の志士たちが遺したような下記の言葉が出る。
かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂(吉田松陰)
世の中の人は何とも言わば言え 我が成すことは我のみぞ知る(坂本竜馬)
世の人はよしあしことも言わば言え しずか誠は神ぞ知るらん(金子重輔)
ああ、いつも天を感じて生きていくことを思うと、如何に君子は独りを慎み天と対話を正しく続けて貫いていくことが求められるのかと真摯に思う。
子どものためといえども、気がつくと周囲の喧騒に揉まれるばかり。もっと心を正しくし学びを深くしていきたい。正しく学ばなければ志と正対ができなくなる。私が尊敬する諸葛亮孔明の言葉がある。学び、実践し、心を正しくして静かに慎む。
そこにはこうある。
「優れた人は静かに身を修め徳を養う 無欲でなければ志は立たず おだやかでなければ道は遠い。学問は静から、才能は学から生まれる 学ぶことで才能は開花する 志がなければ学問の完成はない」(誡子書)諸葛孔明
内省して慮ると、私は少しのことで動揺し、大きなことでも動揺し、ゆらゆらゆらゆらと志の前後で揺れてばかり。学を志してもう十数年、まだまだやることはたくさんある。
もっと独り慎み、静凛として真心と真実と真理の道を歩んでいきたい。
慎独至誠、
初志貫徹。
2009年05月18日 月曜日
06:47 | 投稿者:
野見山 広明
先日、宇宙のことについて学ぶ機会があった。様々な星星のことを、それぞれの科学的プロフィールで書かれている本を読んだ。その星がいつ生まれ、これからどうなるかはまったくわからない。
しかし、その星星は確かに何かから生まれ、そして意味がある。
宇宙から物事を観るということではないけれど、そういう観点で自分の存在を考えると奇跡を身近に感じて、可能性や幸せを感じてしまうことがある。
たとえば、地球46億年の歴史からすれば、人間の物語などはまだほんの生まれたばかりの赤ちゃんのような出来事だなと思うことがある。
保育園、幼稚園で乳児たちが大人たちや周辺のお兄ちゃんお姉ちゃんに見守られているとなんだか宇宙を感じてしまうことがある。
銀河系というか、ここに一つの宇宙があってその宇宙の安定と変化を鑑みるとその進化と未来の可能性からいろいろな意思を感じてしまうのは私だけだろうか。
子どもの現場を観ることが私を外の世界へ向けていく。
如何に保育園幼稚園など、子どもに関わる人たちは内にだけ向くのではなく、常に心や智慧を外へ外へと大きく広げて高めていくことが重要だとよく思う。
大切にするとは、内向きだけではできない、世界へ眼を向けていくから大切にできるのだ。一つの保育室から地球全体の保育室へなるような実践が保育者にはこれからも求められると私は思う。
私も実践を通して、世界を保育していけるような叡智を求道していきたいと念じる。
さて、話は進む。
天というものがある。
いつからか、天を信じて、天に任せるという言葉が自分の志を支えてくれるようになってきた。そして、いつも天を感じて空を見上げると大切な夢が其処に在るようになった。
しかしそのあと、歩いている足元を見ると、いろいろな矛盾や分からないことばかりある日々に戻る。
また天を見上げると、少し先の未来を不安がらず、過ぎ去ったばかりの過去を後悔せず、「今」ということにどれだけ丹誠真心を込めて生き切っているかと自分に省みる機会が与えられる。
人は、誰でも生きていれば様々な不思議なことに出会い、また起きる。
けれど、その意味を感じ尽くすとき、そしてそれを正直に「認めて耐える」時、はじめてゆったりとその物事や出来事との邂逅が生まれる。
人間はどうしても、自分に刷り込みやしがらみがあると、自らのエゴや周囲の喧騒に判断を迷い苦しむことがある。
そうやって迷えば信じることはできないし、惑えば遣り切ることができない。
迷いをなくし、最期までやり続けるためには、天を敬い、人を愛する生き方が志を持つ人、もしくは正しく命をやり遂げたいと願い念じて生きる人には、在るがままの境地になるのではないかと私は思う。
志を持って生きるということ。
そこには、言葉で理屈を言うというよりも、命に正対し、どんなことへも一生懸命、どんなことも命がけで生き切るということを実践する「真の生きざま」があるように思う。
たとえ、どんなに多くの人たちから誤解されようとも、たとえ、どんなにたくさんの人たちから低俗にみられようとも、自らの信じる道と実践を尽くしていくことが天に嘯かない、天に真っ直ぐに正面から伸びていく「真の生きる力」なのだろうと今はそう思う。
私は、これからも自分を信じて、この「今」一瞬に全ての命の光を込め、次世代の子どもたちの未来に少しでも多くの命の光を推譲していけるように、天に正直に今を生き切っていきたいと念じる。
子どものモデルになるような生き方が本当にできるのだろうか。
どんな壮大な矛盾ですらも自らに問い続けて、決して歩みを止めない。
この念が、真心で愛する人たちの人生を必ず幸福にできると揺るぎない理念で信じられるまで自分よりも「愛」を優先していきたいと願う。
感謝。
2009年05月12日 火曜日
06:45 | 投稿者:
野見山 広明
カグヤでは、いろいろな実践がある。
毎朝、様々な企画でお互いを深めたり高めたり、そして意味を味わったりするような遊びから論語による内省まで多くの種類のものを行っている。
人は、浅いところで理解し一緒になにかを行うのと、日々、弛まずお互いを理解し合い深まっていき人間性や徳性までを全て受容し共有するのでは出来事における成果もプロセスも雲泥の差がでる。
私の師匠が話の中でいつも仰っている中に、「見守る」がある。
これはカグヤの社業の原点。
私は運が良く毎週末に、GT会員向けのメールマガジンを通して私は師の思想に正対し触れ、原点回帰することができる。そして、その一つの道を正しい一本でと自らが定めた道を味わい尽くす時間をいただいている。
言葉については、いつも一期一会を思う。
そして言葉とは、発するときには出ていくもの。
その発するまでに自分がどれだけ大事に丁寧に、丹誠を籠めてそれを使ったかを鑑みるとき、また一期一会について考えさせられる。
私ももう師匠の意である「見守る」という言葉を何度も何度も現場で使ったけれど、そうやって発する以上、わかった気になるのではなく、いつも初心、いつでも純粋に感動したままでいたいと誓い、常に言行を戒めている。
そして先週のメールマガジンでもまた師の本質が理解でき何よりも暖かく嬉しい気持ちになった。
そこにはこうある。
『人からの愛情の中で育ち、自分の存在が認められ、生きることを保障され
ている子は、人に対しても信頼感を持ち、精神的に安定します。またそれは親からでなくとも、保育者や教師や地域のだれかが、その子を信じてあげればその子の人生が変わることがあるのです。』
最近になって、私にはこれがよく伝わり感謝・感動することがある。
人は信じて認めてあげる存在によって生きる力を得て、そして自らの内面に安心した世界を見出しその感謝に対して自らの使命を果たそうとする。
そう考えると、人が人に影響を与えるというのはそのものの存在への自らの眼差しと感化如何によるものであるのだと私も今では信じている。
改めて、何もできないからこそ、本当にできることの有難さと人間の素晴らしさを感じてしまいます。
慈愛や尊厳、本当に素晴らしいと思うことばかり。
そういう意味で私がとても好きな言葉の中に、相田みつおさんの詩がある。
===
あなたがそこに ただいるだけで
その場の空気が あかるくなる
あなたがそこに ただいるだけで
みんなのこころが やすらぐ
そんなあなたに わたしもなりたい
===
出典:『いちずに一本道 いちずに一ッ事』
角川書店、相田みつお より
この詩には、私が「見守る」をある側面からみたときの在り方が示されている。
ただそこにいるだけで、みんなが良くなっていく。
そういう人たちばかりが集まれば、どれだけ社会が良くなっていくのか、感動や感謝に包まれていくのか、まだ、自分ができることは本当はたくさんある。
子どもが安心して成長していけるように、私たち大人はまずモデルを示していくことが肝心なのだと社業を通していつも実感する。
最後に、言葉には心気が現れる、そしてその言葉に魂が籠るものがある。
それはその人の信魂に触れた時、なぜか何万語の説明もいないほど伝わってきてそれが自分の心底を揺さぶり感動を呼ぶようなもの。
そういうことが人を変え、そういうものが人をより美しく光らせる。
そこに余裕がなくなり不安や焦りがあっては、到底そういう言葉も聴こえてはこない。静かでなければ聴こえないし、身を修めていなければ受け容れられない。やはり近道は、修養ということになる。
いつも思いやりのある真心で、真摯に誠実に生きるというのは何よりも幸せに生きるということにつながっていると信じて、子どもの未来のために一人でも多くそういう人たちの実践を支援していけるように念じていきたい。
子どもたちにも、ただそこにあるだけで良いんだよと伝えていきたい。