セルフイメージ

人は他人からの期待にばかり応えようとしていると自信を失っていくものです。本来は、自分に対して自分が期待することが自信の本質であり他人から評価を気にしていては本当の自分になることはできません。

この自分が自分に期待するというのは、自分の可能性を自分自身が信じるということです。

例えば、自分の理想があったとします。その理想を、他人からどう評価されたいかということばかりを意識すれば他人から評価が気になります。他人からの評価などは、上がればいいけれど下がることもありますからそれを恐れてビクビクしていたら本当の自分が求めていることにたどり着くことはないのです。

自分の理想があるとするのなら、その理想を自分自身が信じてみる。言い換えれば自分が自分に期待することで、自分の期待に自分が応えることができるのです。これが自分自身を信じているということです。

そのためには、自分自身のセルフイメージを高める必要があります。このセルフイメージは、他人からどう思われたいたいかというものよりも自分がどうありたいか、自分がどのようになれるかというように自分自身を自分自身が信じてあげなければなりません。

先に自分の方が無理だと諦めていたり、どうせ自分はできないからと最初から挑戦もしなければ信じることができなくなるばかりです。自分が自分に期待するということは、自分自身が自分に求めていくということです。それが自分自身を変えることになり、自分が信じている自分に近づいていくということなのです。

自分ならできると信じてあげること、自分なら大丈夫と背中を押してあげること、その繰り返しが周りの人たちの自信を与えることにもなります。誰かの挑戦が誰かの勇気になるのも、自分自身への応援が誰かの応援になっていくのもまた、信じる実践が自他一体になっていくからです。

信じるということは、人の可能性を信じるということです。

未来は信じることで明るくなり、信じることで生き方は気楽になっていきます。極楽気楽の手放し運転のような人生は、信じる境地を会得した人たちが観ている世界なのかもしれません。

子どもたちのためにも、未来を信じ今を信じ、自分を信じて歩んでいきたいと思います。

みのる

人間は信じて実践していくことで、様々なことが実っていきます。この実るというのは、心がけを続けていくことで竟には形になっていくということです。

この「みのる」は、言い換えれば「いのる」ともいい、いのちを懸けて信じ続けていくことで「いのりになりそれがみのり」になるということです。

この季節は、お米をはじめ様々な野菜たちが収穫の時を得て実ります。その実りは、そのいのちを伸ばしてきたことで結ばれた実りです。これを結実ともいい、さまざまなご縁の中でお互いに活かしあい和合しあい実を結ぶことができたということです。

一つの実を結ぶためには、本当に多くのご縁が必要でその一つ一つに対して丹誠を籠めて取り組むことで心が結ばれて実が成るのです。

この丹誠は真心のことで、丹精とも書きます。これは丹精の「丹」は赤い色を指し赤心のことをいいます。赤心とは赤ちゃんの心、つまり丹も精も嘘偽りのない純粋な真心のことです。

丹誠を籠めて労を惜しまずに実践し続けることを精進ともいいます。

人間は何を信じて生きていくか、何を信じて行じていくか、それが生きる修行であり結実する人生の姿のようにも思います。どんな状況下であっても、どんな環境下であったとしても、それでも丹誠を籠めて生きていくという心がけこそが実りになるということでしょう。

どんなに少なくどんなに貧弱な実であったとしても、その実からつながった種によって前進し続けることができます。思い通りの結果にならなかったにせよ、その種は次の未来への希望となります。

希望こそが結実の姿であり、希望を結ぶことで私たちは今につながっているのです。希望の光は、いのちの輝きであり、いのちの輝きはみのりによって燦然と道を照らします。

希望を子どもたちに譲っていくためにも自分の信じた道を自分の信じたやり方で貫徹し、道を切り拓いていきたいと思います。

正面突破とは

いろいろな問題が増えてくると、その問題を避けたいと無意識に心が感じるものです。すると、どこかいい方法がないかと方法論ばかりを探して少し試したらこれではないと避けているうちに八方ふさがりになってくるものです。

これは自分が現実逃避をしている証拠であり、目の前の困難を乗り越えるために自分にとって不都合なことが多いために何かもっともよい方法がないかと探しているということでもあります。

しかし実際に物事を直視すると、現実には正面突破しかないこともあります。つまりは活路というものは、逃げないと覚悟を決めてなければ活かす道も出てこないということです。

この正面突破というものは、時間がかかっても本気で取り組むという覚悟に似ています。自分が苦手だと思っていたり、自分に向いていないと思っていたり、自分ではできないと決めつけていたり、過去の様々な失敗や苦手意識からどうしても脇道や裏道ばかりを通ろうとしてしまうものです。しかしその道しかないと現実を直視するとき、人は活路が拓けるように思います。

言い換えるのなら、「改善」できるということです。

改善を続けていくことは本当に根気がいることですし忍耐がいるものです。しかし同時に、改善を続けていくことは成長を続けていくであり、学び続けていくことです。改善がないというのは学びがないといっても過言ではありません。

だからこそ学び続けていくことで変化し、変化し続けることで今を刷新して自分の視座をさらに高めていくことができます。人は時として、背中を押されることでしか動けないことがあります。その一つは、応援であったり、その一つは、危機感であったり、その一つは、誰かのためにという思いであったり、それぞれです。

しかしそのどれかがあるのなら、人は成長を已まず変化を創造し続けるリーダーになっていきます。リーダーの潔さにはこの覚悟が備わっているのです。

孟子に「天のまさに大任をこの人に降くださんとするや、必ずまずその心志を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚を餓えしめ、その身を空乏くうぼうにし、行いにはその為すところを仏乱す」(『孟子』)とあります。

非常に困難な時、精神的に苦しいときこそ、死中に活を見出すチャンスであり、その時こそ「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということでしょう。自分自身に執着せずに、正面突破する覚悟をもって改善に向き合っていきたいと思います。

自己発奮と自己受容

向上心というのは成長にとっては必要なものです。人はもっともっとと自分をより高みへと運ぼうとして努力をすることで新たな技術や才能を開花して実力をつけていくものです。私も向上心が高く、なんでもやってみたいという好奇心と、やるからにはある高みまで到達してみたいという向上心があります。

しかし時として、それが欲望になってしまえば足元をすくわれて転がってしまうことがあります。言い換えれば、足るを知らずにできないことにまで手を出せばそのことによってかえって無理なことばかりを選択してしまうからです。

そういう時は一つ一つを丁寧に、分を弁えていくことで謙虚さに気づき今の実力に相応しい努力に換えていくことができます。だからといって向上心がなければうまくいくということではなく、向上心と謙虚さが共存している状態でなければ物事を正しく進めていくことができないのです。

そのためにはその目的はそもそも何のためにやるのかということを忘れず、目的に対して自我の執着をしないということを実現させていく必要があります。目的や初心、理念が実現するのならそれ以外はこだわらない、柔軟に融通無碍に対応していくという姿勢がいるのです。

自然体や素直さというのは、自分自身への囚われが少ない状態のことをいいます。そのためにはあるがままの自分を受け容れ、自分の弱さもまた認める必要があります。向上心は、理想に対しての自己発奮ですが謙虚さは自分の甘さや弱さ、現実を受け容れる自己受容が必要になるのです。

本気ならなんでもできると教えられてきましたが、本気ならなんでも受け容れることができるとは教わってはこないものです。覚悟を決めるというのは、引き受ける、受け止める、受け容れるといった丸ごと受容の境地を得ているということでしょう。

今を大切にして自分自身と正対して、自己発奮と自己受容に取り組んでいきたいと思います。

 

天命と不惑

自分には一体どのような天命があるのか、天に問い続けて今を全身全霊で生きることで人は命を通して天を知ります。

命を盡すということは、今のような時代は並大抵ではなくあらゆる刷り込みや比較競争や差別の中で自己を確立していかなければなりません。そのためには周りの雑音や自分の中にある雑念と正対する必要が出てきます。

論語では四十にして惑わずとありますが、天命に惑わなくなったというほどに真心の日々を孔子は天に問いながら道を歩んでいたのかもしれません。

真心を盡すためには、自分という我欲よりも天は自分にどうしてほしいと思っているか、そしてこれが会社であれば会社はどうしてほしいと思っているか、そして家ならば家がどうしてほしいと思っているかと、無私の境地で自分自身の天与の才を存分に発揮していく必要があります。

自分にしか与えられていない本物の才は、無私の時、忘己利他のときにこそ発心され発揮されていきます。自分はこうではないと不満ばかり並べたり、自分のことばかりを苦しみ思い煩ったり、思い通りにいかないことに不平を並べていては天命とは遠ざかる生き方をするのです。

全体快適とは、自分を含めてみんなが楽しく豊かになるために自分を活かしていくという道です。自分も楽しみ、みんなも楽しむ、そのためには、みんなで平和のために、世の中のために、そして子孫のためにと協力して和合していく必要があります。

天と命とは常に一体であり、その一体感を感じるとき、つまり至誠真心が天に通じているときにこそ人は天命に惑わなくなるのかもしれません。

自分の人生を生き切ることは、その評価を天にお任せするということです。いつまでも自分は自分はと自分に悩んでいては不惑とは程遠い心境です。

子ども第一義の理念を掲げている以上、余計なことを惑わずに真摯に今に至誠を盡して精進していきたいと思います。

過去帳の今

昨日、先祖代々の菩提寺にお伺いし過去帳を拝見する機会がありました。現在では、個人情報保護の観点から過去帳を他人に見せることが禁じられています。一部には戒名から差別的なことを調査することもあったりしてほとんど見る機会がありません。

そもそもこの過去帳とは、寺院で檀家・信徒の死者の俗名・法名・死亡年月日などを記しておく帳簿のことです。今回拝見した過去帳は、鎌倉時代から残っていて古い和紙に墨で書かれた字は今でもはっきりと残っていました。

現在のマジックペンや筆ペンなどで書くと、あっという間に字が消えてダメになってしまうそうです。和紙も普通の紙では数十年もつこともありません。いくらパソコンで記録しても、OSや機器が変わってしまえば開くこともできません。

そう考えてみると、古今から和紙と硯で墨をつくり書いた字が何百年ももつということが歴史からも証明されているのです。ご先祖様の知恵は偉大だと感じさせてもらう機会になりました。

また、名前も名字が出てくるのは明治以降でそれまでは名前しか出てきません。しかしよく拝見していると、何歳で亡くなったかというところをみればまだ子どものころであったり、働き盛りであったり、大往生であったりと、それにたくさん子孫が分かれたり、何度も結婚していたりと、いろいろとその人の人生が観えてきます。

出てくるのは享年の数字だけですが、 その人はどのような人生だったのだろうか、そして子孫がそれを見ているのをどう感じるだろうかとも思いを馳せるのです。私もまたいつかは寿命が尽きて過去帳の中に書かれます。そして新たな人が現在を生きて、私が過去になっていくのです。

そう考えると、何をするかではなく何のために生きるのか。死を思うのです。生きていると死ぬことが遠くにあるものですが、過去帳を拝見したり過去に遡ったりすることは今を強く感じさせるものかもしれません。

今を大切に、今を愛して歩んでいきたいと思います。

傳灯の巡礼

私の故郷は小さな町ですが、四国のお遍路さんの道のように八十八か所巡礼を行っていた形跡が残っています。これは明治のころに、村の方々が協力して各地域にお地蔵様を設置し、御大師様を祀り巡礼を続けていたものです。

今では、そのお地蔵様もどこにいったのかわからないほどで全部ではありませんがところどころで子孫の方か、自治会によって守られています。一部はかなり荒廃していて、誰も見ておらずどこに行ったのかわからないものもあるそうです。

巡礼するための導師が、だいぶ前に他の町へ引っ越したのを最後に春と秋に行われていた恒例の巡礼もなくなったそうです。当時は、巡礼のお世話をする方々もそのお地蔵さんの近くにおられお遍路さんを見守ってくださっていたようです。

この原点になっているのは、四国八十八か所巡礼です。これは今から1200年前に弘法大師空海が42歳の時に人々の災難を除くために四国八十八ヶ所霊場を開創されたことが発祥です。このお遍路は約1400kmの行程をお大師様の足跡を辿りながら身心を清め煩悩を滅して生きる喜びと感謝を体感する祈りの旅だと伝わっています。いろいろな説がありますが、空海が自身の厄払いのためにはじめたというものもあれば、弟子の僧侶たちが空海を慕い遺跡を巡拝したためというものあれば、山伏などの聖がもともと修行として巡礼していたなど言い伝えとして残っています。

この八十八という数字は、人間には全部で八十八の煩悩があるといわれ四国霊場を八十八ヶ所巡ることによって煩悩が消え心願成就するということです。この巡礼者のことをお遍路さんといい、むかしは接待宿があったりして托鉢だけで四国を一巡できるほどだったといいます。

巡礼する人と巡礼者を見守る人々の間で、信仰は澄まされていたのを感じます。その後の霊場は四国だけではなく、全国各地に広がっています。私の小さな町にも、八十八体のお地蔵様が祀られ南大師遍照金剛と称された白い袈裟と金剛杖を持った方がが年に2回ほど子どもたちと一緒に町のなかを手を合わせて拝みながら巡礼していたのかと思いを馳せると懐かしい気持ちになります。

日本人は、古来より自然とともに祈り、人々の幸せを願い拝み感謝で道を歩んできました。現代では、あまり信仰は生き方ではなく一つの宗教観もしくは職業観のようになってしまっていますが本来は人間としてどう生きるかという生きる道です。

今回、改めてお地蔵様の建屋を建て替えるという任務をいただきこの時の空海と同じ年になった私も使命を新たに確認しています。子どもたちのためにも、大切な傳燈が途切れないように真摯に今にできることを感謝でやり切っていきたいと思います。

太陽の徳

先日、盆栽の手入れのことで盆栽師と話をしていたら夕陽は強いので日陰の方がいいという話が出ました。この夕陽の強さとは、朝陽に比べて夕陽の方が日焼けするという意味です。よく考えてみると、外での作業も夕陽の方が肌の日焼けもきつく、体力の消耗もありますが朝陽の方はあまりそうは感じません。

調べてみると太陽の光自体は同じでも地球の大気は朝より夕方の方が気温が高く、水蒸気量や浮遊物質も多い。だから、朝日は眩しく、夕日は赤みが強くて輝きが弱いことが多いという説が一般的だそうです。

よく西日がきついという言い方もしますが、実際は西日はそんなに強いわけではありません。しかし太陽熱の集積により、夕陽の時間帯が特に熱を特に感じてしまうということです。

熱は私たちは単に熱い冷たいという比較の熱のことを指しますが、本来は熱には「蓄熱」といった熱量があると私は思います。熱が集積し蓄熱して熱が溜まっていくのです。植物をはじめ、人間もこの蓄熱によっていのちを活性化させていきます。体温もそうですが、生きていくためには温度は欠かせません。その温度が一日の中で溜まると、その蓄熱量で体に影響が出てきます。熱が足りないと熱を上げ、熱が高すぎると下げようとします。一定の熱量を維持するのは、バランスを整えるためでしょう。

実際には西日は紫外線の量が少なく、夕日の赤い光を浴びると肌の代謝が高まり、真皮のコラーゲン合成が促進される効果があるそうです。西日で緩やかな光を浴びて賛散歩などをすると心身の癒しになるそうです。朝陽も爽やかな光を浴びれば脳にセロトニンが分泌され心身が癒されます。このように朝陽も夕陽も、太陽の光は心身を癒し生きていくために欠かせないものです。

太陽といっても、光もあれば熱もあり、また目には見えない波動があったりといのちを活かすための存在です。その太陽の徳とともに私たちはいのちを維持していますから心身の調和も健康にも大きな影響を持つのです。

日々に心身に太陽を持ち、太陽への感謝を忘れないで生きていきたいと思います。

 

 

唐木の魅力

聴福庵には、床の間に飾る花台は唐木のものが多く使われます。この唐木とは、東南アジアやインドなどで伐採された紫檀や黒檀、タガサヤン、ビャクダン、かりんなどの熱帯産の木材の総称のことをいいます。

中国(唐の国の木)という意味で唐木ではなく、かつては唐を経由して、日本に入ってきたということからその名称になっています。今でも正倉院には遣唐使の時代より日本に伝わり唐木を使った唐木細工なども保管されています。

古来からある銘木である唐木は、乾燥が難しく風の当たらない湿気の少ないところでじっくりと乾燥させる必要があるそうです。また加工も非常に硬質素材で難しく、高級木材として重宝されてきました。茶箪笥や仏壇など、貴重品に用いられていたともいいます。この唐木細工の技術を持つ人たちのことを唐木職人といい、唐木指物ともいいました。

釘やネジを1本も使わずに各種組手で組み立て表面に漆をふきこんで仕上げた唐木指物は、和室にも調和しますが花台として花瓶と花と伴に床の間に配置すると凛とした品のある雰囲気になります。

現代では洋風建築が主流になり、唐木製品を使うこともなくなってきましたが伝統の技をもって加工する唐木細工は今でも日本の伝統工芸の一つとして伝承され続けています。

使い込むほどに鮮やかな味がある色になるという唐木は、古民家の中でとても良い働きをします。引き続き、一つ一つの伝統工芸の魅力を甦生しながら復古起新していきたいと思います。

食と病~薬膳の本質~

医食同源という言葉があります。これは中国にあった薬食同源思想から着想を得て、近年、日本で造語されたものです。具体的には、日ごろからバランスの取れた美味しい食事をとることで病気を予防し治療しようとするものです。

この予防に注目した医療は、未病ともいい未然に病気の兆しを察知し食生活など暮らしを見直し健康を維持していくものです。病気が悪なのではなく、病気によって何を教えられているか。自分の生き方を見つめ、人生を好転して福になるように日々を見直していく中に予防医学の面白さがあります。

忙しすぎる現代においては、日々の暮らしの方を重視することもなく些事に追われて生きていることがほとんどです。先日の盆栽でも書きましたが手間暇を楽しむ余裕も失い頭ばかりを酷使しては時間がないと口癖のような日々を過ごせばなかなか本質や本当に大切なことに気づかなくなります。病気はそういうときにも自分に感謝や素直などに気づかせます。その都度、病気にならない生活を省みて日ごろから日常の心の在り方や精神の持ち方、そして健康を維持していくための肉体への労りなどあらゆるバランスを整えることを学びます。人が囚われない執着しないで生きるためには、心の健康が第一なのかもしれません。

その医食同源の中で有名なものに「薬膳」というものがあります。ブリタニカ国際大百科事典によれば「健康維持や健康増進,病気の予防・治療,不老長寿などを目的とした中国発祥の料理,献立。日々の食事(食養生)は薬の投与と源は同じである,とする中国古来の思想(薬食同源)から生まれた。中国最古の医書『黄帝内経』の『素問』には穀畜菜果(一般の食物)をとることが健康保持の基本であるという記述がみられる。薬膳では,すべての食物は五味(酸味,苦味,甘味,辛味,塩味)と五性(熱性,温性,平性,涼性,寒性)の特性をもつと考えられる。目的の効果を得るためには,五味五性をいかして食材を選ぶこと,さらに摂取する人の体の状態や体質,気候との適合を考慮することが重視される。漢方薬や生薬を用いる場合も多い。 」と記されています。

この薬膳は、中国の陰陽五行に従って体内のバランスを整えるために体を温めたり冷やしたりする生薬や食材などを使い分けて調理するものです。これは日々に食べる食事を見直し、自分自身の根本的な体質から改善していくというものです。

体質改善は長い時間がかかることと、実践には根気が必要になります。人間が今までに沁みついた習慣や体質はそう簡単には修正できません。やり続けて3年くらいはかかるといわれるほどに、自分の体質を改善することは難しく油断するとすぐに元の木阿弥になってしまいます。現代では環境の影響も受けやすくなかなか基本の暮らしを維持することができません。

時間をかけて体質を改善するには、食生活を見直すのがもっとも効果的であり薬膳は弱った体や病気のときに体内のバランスを調和する働きを活性化するものです。

「食」という字は、人が良くなると書かれます。言い換えれば、食が乱れれば人も乱れます。欲望の赴くままに食事をするのではなく、日ごろから食べることを大切に暮らしに取り入れていれば生活も改善され体質も正常に維持されると思います。

薬膳の本質は、食生活を見直し生き方を正常にするということなのでしょう。

引き続き、食を見つめ直しながら子どもたちが安心して一生を暮らしていけるように生き方を見直していきたいと思います。