株式会社カグヤ野見山広明−子どもたちの未来を願い徒然なるままに書き綴るカグヤ社長の惟神の道blog。


見通した甘さ

仕事をしていると色々なことを見通すことが必要になる。

それは教育でもそうだし、保育でもそうだと思う、本当に先のことを受け止めれば何が良くなく何が良いのかのモノサシは変わってくる。

目先のことで良いことは自分を優先してしまうことが多く、遠く先のことで良いことは周囲や他者を優先できることが多い。

例えば自立でもそう、その人のことを思っているといっても色々とある。

ある人は自分では遣り切ろうとはせずに助けを求める。
また、ある人は自分の力で遣り切ろうとして助けを求める。

前者は、自分で遣ろうとしないのだから当然ずっと助けが必要になる。
後者は、自分で遣ろうとしているのだからやり方を教えれば自助努力し遣り切ることができるようになる。

しかし、つい前者の人を助けてしまうのは今の社会の在り方が問題な気もする。今の社会は、自分で遣ろうとしない人まで助ける過保護な社会になっている。みんなで寄ってたかった権力者や力のある人にしがみ付こうとする風潮がある。

そして不思議なことにそういう人を助けないと可哀そうだと同情する、一般に前者の人は傍から見ると困っているし、助けてあげてくださいといわんばかりに周囲に異様な気を遣わせる。

しかしその自分でやる気がない人を助けると、助けた側がその人のやらないことに引き込まれその人ができないことを代わりにずっと全部手伝うことになってしまい、結局は過保護になりその人が自らの力で生きていくための自立する力がなくなり依存の悲しい負のサイクルに手を貸したことになる。

本当にその人のことを思いやり考えるなら、本人が自分から遣ろうとするまで何も手を出さないことが優しさになる。自分で遣る力を持っているのに出さないのは、いつも誰かに面倒と世話をしてもらった甘え癖があるからできないだけでその人の本当の力を出したわけではない。

その人は、本来できる力を持っているけれどそれを出さない生き方をしてきた方が得をしたからできなくなってくる、またよくニートとかあるように両親が気に入ってくれることばかりを気にして生きてきていつも助けられていたらそれが自分がやることだと勘違いもしたりする。

本当の筋道で親が思っているのは、子どもたち自身の徳性を活かした自立である。
それが誰かのための自立では筋道が変わるし、大事なのは社会で役立つ自分のために自分の力だけで自立することであると私は思う

また後者はどうだろうか?

後者は、自分が自分で遣り切ることになっているから見守る側の少しの援助とアドバイスがあれば自分で物事に勇敢に対峙し解決させていく。また遣り方を覚えて実践してくると次第に応用や創意工夫などのビジネススキルなども伸びてきてその人らしい仕事で会社や仲間を助けて自らの力をもって自立ができるようになる。

こうやって自分でやろうとする人を援助するとき、どんなアドバイスや言葉も数倍、数百倍の効果を発揮するし、その人に無償の奉仕や愛を与えればぐんぐんその能力も才能も開花し発揮していく。

その人は、誰かの力に依頼したのではなく、文字通り自分の力のみで物事を解決できたということ。そういう人だけが本当の感謝ができ、周囲への暖かい思いやりや見守りを受け取ることができる。

依存は悲しい負のサイクルを生み、自立は豊かで正のサイクルを生む。

自立は自利利他の心に満ちていて、共生し自然に幸せになっていく。

ただ自立を怖がっている人たちを観るとどうも今まで生きてきた刷り込みなどもある。

例えば、まずはそこに公私の自立というものがある。
つまりは正しく自分のことを「わきまえる」という意味が分かることからが大事なのだと思う。

当然、集団生活や社会がある会社にいるときや皆と同じく公の時間を共有して使っているとき、如何に自分の立場をわきまえているかということでもある。

この「弁える」を辞書で調べると、

(1)物事の区別や善悪の区別をする。

「ことの善悪を―・えなければならない」

(2)人としての道理を承知している。

「礼儀を―・える」
「場所柄を―・える」

とある。

つまり自ら「TPO」【Time(時間)、Place(場所)、Occasion(場合)】を正しく理解し、それを実行する力があることになる、それが自分の社会での影響力を知る所に繋がっている。

当然、これは自分が所属する組織から何か大きな責任と役割を自分が担っていて自分がその一部を自らの意志でやっているのなら周りのことをよく考えていないと自分勝手となる。

それぞれに責任の範囲がある、社長は社会的責任を果たし、社員の生活を保障する、社員は、自分の仕事の権限と範囲の中で責任を果たす。

そうやって、肩書きにより責任も重たさも変わってくる。
そうすると当然、公私ともに「けじめ」が要る。

このけじめとは、甘えずきちんと筋道を通すということ。その筋道とは、自分がどのように公私ともに在るべきかを正しく理解し道徳と規範を示し、実行すると言うことだと私は思う

それをなあなあやいいかげんで自分勝手に判断するというのは、そこに正しい筋道が一本通らないとき公私混同となる。

公私混同しないで甘えないとは、いいかげんやなあなあな私を持ち込み自分勝手な判断をしないということでもある。

このブログで最初に定義した、見通しは、自分の責任、役割、権限、使命の範囲を理解していてそこを正しく果たす自覚からその自立ができるようになる。

つまり、こういう状態になっているということは、単なる「見通しの甘さ」があるのではなく、自らが作りだした「見通した甘え」があるということだ。

自立しないと本当に色々な人たちに迷惑を懸けてしまう。
会社はお客様を助け、会社を助けてはじめて自分が助かる。

まずは他者を助けられる力を持つようになることが自律と自立の第一歩。

私たちは子どもたちの未来に影響を与える仕事をしているコンサルタント企業として社会的責任を担っている。

だからこそこの見通した甘さが未来の子どもたちに悪影響を与えないようにプロとして日々の言動と行動を厳しく自覚自律し、真の自立した大人として自助の精神を第一に脚下の仕事に丹誠こめて取り組んでいきたいと思う。
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協働と公私の別

組織をコンサルティングしていると様々なことを洞察することがある。

人が何かを行うとき、必ず力を合わせるとともに心を合わせることが要る。

何かの目的に対して、力を合わせる。
そのためにも、一丸となって心を合わせることがいる。

心と力があわさってはじめて人はチームになれる。

しかし、チームになるにはどこに向かうのかという大義が要る。
その大義を確認し合うからこそ、力も心もあわせていけるのだと私は思う。

しかし今は、人間関係が希薄で人づきあいの絆も浅く、より深く相手を丸ごと信じることを怖がっている人たちがたくさんいる。

人と人との縁が薄くなってきているからそういうことができなくなっている。
チーム研修も、なぜか今は仲良くなることを最終目標にしている人が多い。

信じると言うのは、無理に何かを決めて信じようとするよりも、お互いに方針を確認しあいそれぞれの歩みをコツコツと根気強く諦めずにいる中で自然に互いに培われることが私は普通だと思う。

例えば変な話だけれどよく幼稚園でも先生がスローガンに「みんな仲良くね!」とあるけれどあれはどういう意味で使うかにもよる。

この仲良くの仲という字は、論語の中庸でいうところの「中」と人間の「人」の組み合わさった語で成り立っている。
「仲人」というのは、その中庸、つまりは人と人との調和を司る存在であることを言う。仲人には徳の高い人にしていただくとその後も仲良くいれるというのはそういうことなのだと私は思う。

私はその仲良くというのは、そういう調和したそれぞれが良心で心が澄んでいる真心の状態でいようねということだと解釈もする。私が一円対話で行っているファシリテーションは、この仲人でもあり中庸でいるということを重視している。

つまりは、皆が心を澄ませている自然な状態にすることだと私は解釈する。
自然体で言いたいことがいえる、つまりは遠慮ない状態になるということ。

それなのに、先生が意図的に無理に誰かを仲良くさせていると、子どもたちも皆の顔色を見ることが仲良くだと勘違いしてしまい、結局は子どもたちが自分がどう見られているかばかりを気にしてお互いに無理をし、自分の本性を発揮できず我慢し辛い思いをするようになる。

そうなると、文字通り、自然には仲良くできないから意図的に仲良くこそが目標になる。
すると、子どもはいつも無理をして仲良くしていようと自分を我慢する人になる。

創造的な環境とは、みんなが自然に「あるがまま」でいられるようにすること。
チームが一丸となるには、皆が一丸になって同じ方向へ歩むということだ。

人を信じれないのは、そうやって無理に仲良くなるために人との関係に自分の打算をいれていくから余計に打算で見られると感じるから遠慮しさらにうまくいかないという悪循環になる。

私もつい不自然な人にはどうしても遠慮してしまう。

それは、打算で見られるのではないか自分を我慢するのではないかと相手のことを心配したり怖がるからだと思う。

しかし、子どもたちで考えても、もし本当に仲良くなるならば当然、その子たちが自由にやりたいようにしてあげるような環境を用意して見守ることが大人ができる「仲人」としての役割だろう。

私はこれは社会人やチームでのことでも言えると思う。

誰かが何かを発言すると、すぐに周りの顔色や空気を観て発言を考える。そして、そればかりを気にして遠慮し合い皆が仲良くしようとすることを最高の目的にしてしまう。

本来、最高のチームは、本当の目的がありそれを達成するために力をあわせようと集まった仲間で構成されている。

野球でもサッカーでも、政治でも、それが大きな社会的影響があることを自覚し、一人ひとりがリーダーが目指す崇高な大義に力と心を合わせていくから達成できる。

なぜ人がわざわざ集まるのかは、一人ではできないことだからこそみんなで力をあわせ達成する必要がある。

例えば、会議などはその有効な生産性を上げる行為の一つになっている。

先日、ある園の職員会議で園長が方針を話しているのにみんなそれに対し答えをだそうとばかりに躍起になり、本来何のために集まったのかすら分からなくなり、毎回、結局はみんなが仲が良いよねとそればかりを確かめることばかりのために会議をやっていることがある。

そういうときに限って、自分を出さず、誰かの意見に同調することばかりを考えている。そういう会議は非常に疲れる。

一緒に価値観が違う中でやっているのだから答えなどはもともと存在していないのだから本当は答えなどは必要ではない。

しかし誰かの形にあわせて受け身で取り組み、単にそのために答えをもらうためにあるのならただの業務連絡で良い。新人で何も分からないのならばいいけれど、仕事ができるようになれば自分がやるのだからいつまでもそれをしているわけにはいかない。

単に業務連絡だけで済むのは、答えをリーダー任せで自分が考えていないからそれで済ませようとしてしまうのだと思う。

つまりは、自分は誰かによってやらされている存在だから相手が言うことを聴けばいいということになる。これに自分の公としての責任はない。相手の責任で自分が人形のように動くことが評価になる、するととんでもない代償を払う、それは公私ともに自信を失い自己肯定感を上げることもできなくなっていく。

仕事は自分がやらされているのと、自分がやっているのとでは、その責任の自覚と役割を果たす結果への立場も放棄しているかどうかの違いまで発展する。

大事なのは、仕事は両輪、「私」としての自分だけでなく、「公」の立場としての自分がその方針や結果に責任を持ち、自分が社会の一員として立派に役割を果たすのが真の組織の社会人ということだ。

園で言えば、自園の方針に対してどれだけ自分が責任を果たすかということ。
自分がやりたいことに責任を取りますでは、公としての自分がそこにない。

しかしこんなことになるのは、一概には言えないけれどひょっとすると今までの一般的な受け身の義務教育に依存してきたから仲良しクラブをやることが当たり前になってしまうのではないか。

つまりは公ではなく、私としての自分を守るためだけに、みんなが変な空気や不安にならないようにばかりに躍起になり、それでみんなで責任を持たずに決めた答えのせいにして、その上で自分勝手にするか、自分を潰すかの二者択一でいようとする考え方になる。

良くある話が、好きな会社があったけれど好きに仕事していたら潰れてしまったという話。自分がその会社が好きだからそれだけで良く、会社の中での自分の公の責任は自覚せず誰か任せとなっているから倒産してしまったけれどそれも誰かのせいとなってしまっている。

会社が潰れるのは社長だけのせいだろうか、園が潰れるのは園長だけのせいだろうか。

本来は、自分が好きな会社だからこそ、自分が好きな園だからこそ、公の立場として主体的に自分が精一杯職責と役割を果たす。
それを本当の愛社精神というのではないか。

だからこそ、公私は両輪でなければならない。
公の責任を果たして、はじめて私の自己実現もあるということだ。

自分(私)のことばかりを会社に任せて依存し頼っていたら、会社がなくなってしまう。
自分(公)があって、自分が自立し会社を助けることではじめて会社が成り立って自分も幸せになっていく。

公私混同とは、私ばかりを優先し、公に依存することを言う。
サラリーマンになると、受け身になってしまう。
自分が主体として行えば、社会や市場が自分を要求するから出世する。
簡単な道理だ。

これからもカグヤは、子どもたちが力と心を合わせてコーポラティブに協働していける社会を創造するために、見守る環境を深めて広げていきたい。
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師友

自然の動物たちはに懸命に自らの本性を知りその天命に沿って生きる。しかし人間はなぜ生まれてきたのか、どこへ向うのかを考えていると自然に道が現れてくる。

志は、その自らを知りどのように生きていくのかその自分自身の本性を知りそれをどう周囲に及ぼし活かしていくかによる。

そして本性には自分に備わった才能と個性がありそれを使うためにも学問を行い道を歩む。

そのそれぞれの孤高孤独の自分だけの命道に立つ中で味わい深くその旅路が豊かで幸福になるのに道を同じくする師友の存在ある。

その都度にお互いに切磋琢磨し、感動し合い、励まし合い、それぞれ道を歩む。
一人孤独に歩む中でも、人は一期一会に人生のパートナーに出逢う。

そしてそれぞれが自らを敬い慎む関係において人は幸せを感じ充実した人生を送ることができるのだろうと思う。

しかし、だからといってそれが欲しいと孤独を嫌がりすぐにメンターや師匠などを求めていく人がいる。
また、一人では怖いから不安だからと友を欲しがり友ばかりを求めていくものもいる。

中江藤樹にこう書かれているものがある。

「師友の御願御尤もにて、学者たるものの願う所にて候。さり乍ら道を行うに至っては、自己心上勇猛心之務めにして、師友の力をかるものにては御座なく候。」

(師や友を求める願いは、ごもっともであり、聖賢の学問を学ぶものなら誰でもそれは欲しいものです。しかしながら、聖賢の道を行うことに至っては、自分自身の勇猛心をかきたてるもので、師や友のちからを借りるものではございません。)


道は自ら自分の脚で歩むべきであって誰かに歩ませてもらうものではない。
自分の道は自分の脚で切り開くからこそ意味があり、どんな状況でも自ら勇猛心を奮い立たせて自ら道を切り開く、それが「独立自尊」することに繋がっている。

カグヤでも理念ブックの中に独立自尊がある。
これは、別に単に一人で孤独になれというわけではない。

人は、誰にも頼らず志のために必死で自分の力で自分の手足で歩むとき、自分の力がはじめて発揮される。

その発揮する自分の命の力強さで生きているときこそ「自らが立った」つまりは「自立」しているということになる。

最初から誰かの力をあてにしていては、誰もそういう人に力は貸さない。
自分が自らで必死で歩いているからこそ、本当に辛く苦しい時に見守ってくれている存在に気づくことができる。

見守られるには、あるがままで真剣に努力していなければ見守りにならない。
だからこそ、自分が見守られているのなら真剣に本気で遣り切ることがあるがまでいるということになる。

あるがままでいれば、必ずその人の周りもあるがままに接してくれる。
その相互扶助の協力協働であることが良いチームワークを引き立てていく。

この世に自分が居られるのは、周囲が自分を活かしてくれるから生きられる。
大きな愛に包まれて、様々なものを食べて、呼吸し、循環し、自分が生きられる。

その感謝があるからこそ、自らの勇猛心で自立していき周囲に応えていくことが必要だと私は思う。

ただ単に感謝しているから、またお願いしますではなく、感謝しているからこそ、自分の力で社会や会社や周囲の人たちのために生きていくということが恩を循環することに繋がる。

私は以前、恩樹という言葉が好きでよく使ったけれど、それはそういう意味で、そのたくさんの人たちや周囲からのその恩を自らの恩送りや恩返しで循環する中で次第に養分を吸って大きな樹になり、それがさらに周囲の森を活かしていくという意味で使っていた。

これからも、まず自らが恩樹になり、その一本立てた思いを周囲に及ぼしながら自らは勇猛心を以て力強く歩んでいきたいと願う。

師友に感謝し、さらに随神の道に磨きを懸けて本性を尽くしていきたい。
かんながら | comments (0) | -

自立する組織

コンサルティングを行っていると色々な組織の問題を見つめることがある。

よくできるすごい人といわれる人がある。

その人は責任を一人で背負い、完全を目指し、それを自分のモチベーションへ転換し努力してそれ相応の力を組織へ発揮していて周りらすごい上司やできる人として尊敬されている。

その人は一見、何でもできるように見せるけれどよくその人と話をしてみると自分の弱点の克服ばかりをいつも見つめてそれを責めて自分を発奮し、自分の価値は完全なければ意味がないと必死に職責を果たすことばかりを目指そうとしている感じがある。

でもよく組織全体でものを観るとそうやってその人が自分が完全であろうとすればするほど、自分の価値が高まっていると勘違いし、自分の形に周囲をはめようとしてしまうことでより周囲をマニュアル的にしたり指示待ちになりみんなの力を阻害しかえって進化成長していかなくなる事が多い。

そういう人は、部下や社員の話を聴いているよと言っているようで実はまったく聴いてはいない。
なぜなら、その人のやりたいのは最後はその人のもっている形にあわせさせることを目的にしかしていないからだ。

もしその人の形が最高とするならば、みんなついていく人たちはその人の形にあわせてもらうことを最高の目的に仕事をするようになる。

たとえば、自分のやりたいことよりも、結局はその人の言う形に最後はなってさえいればうまくいったと言われるし、そんな気もするから自分から勇気をもって失敗したりするよりもその人の形であることを望むようになる。

そうなると、自分のあるがままが認められて貢献できたという真の自信も自分も持てず、ずっとその「できる人のいう形」でいることが最高でそれが評価だと勘違いしてしまうことがある。

その人のできる形にあわせた人がとても自分の個性を発揮する人とは思えない。
その人そのもののあるがままの姿が光るから、皆の力を引き出し一丸となることができると言うのは私の組織における考え方。

これは保育でもそうだけれど、子どもたちの遣りたいことをまるごと認めていかなければその子らしさが光らない。光るには子どもたち自身が、方針やその目的を何かにより理解する、できない場合は環境を用意するなどで安心して自立できるようにしてくようにすることだと思う。

私も師匠と仕事をする中で、いつも色々なことを確かめている。

そこで確かめているのは、方針、方向性とどこまでが自由なのかという範囲の確認、つまりは自分の役割と責任などの権限範囲の確認などであることが多い。

「こういうことをやりたいのですが、よろしいでしょうか?」

と質問したとしてもそれが上司の持っている形を探ろうとするのと、自分の役割と責任を確かめているのでは同じ言葉でも全くその意味は異なる。

当然、探っているばかりをやっているとそれからズレテいないことばかりが気になるようになり動きが委縮ししてしまう、そうなると新しく創意工夫して自由に自分らしく失敗したり成功したりして生産性を上げていくことはできない。

しかし、もし自分の役割と責任が正しく確かめ理解できていれば上司と同じ問題意識と危機感で一緒に進めることができるようになる。なぜなら、求めていることは形ではなく方向性や将来のあるべきようであることを知れば発想が無限に豊かになり、そのために自分が成功したり失敗することは当然全体が成長し生産性が上がるためにも必要な糧だと思えるからだ。

日本の社会は、つい先生の持っている形にあわせて勉強をする機会が多い。
先生が求めたことに答えたらそれが評価される仕組みがある。

しかしそんなことで本当にいいのだろうか?
評価とは先生が最高で生徒がその枠内で行うことだろうか?

本来は決してそうではなく、先生とは全体の方針や方向性を子どもたちへ示し、その子のやりたいことをやれるように丸ごと認め支援していくことが将来本人が自立して社会のお役に立てそのことで満たされ幸せになれる生きていく力を手に入れることにならないだろうか。

だからこそ先生は学び続け向き合い続け、今、世界で起きている問題を良く洞察しその中から根本にあったような自然のように静かに調和されるように歪んだところを本人たちに伝えて考えてもらうようなキッカケなども与えていくのだと思う。

人間を信じて認めることなしに、安心できる社会ができるはずがない。

話を組織論へ戻すと自立や自分がない状態で完璧主義の人や上司についていると形を探るようになるから、上司も部下もそこを正すことだ。

上司は、探らせるのをやめさせ方針やビジョン、権限の範囲を伝えること。また部下は探るのではなく、自分の役割と責任の範囲、方針を理解しどこまで良いのか悪いのかを知ることだと思う。

気をつけることは役割と責任と権限の範囲を知らず、ただその人らしくといってもそれは単に無責任に自分勝手にやればいいということではない。

そこに上司の方針を正しく把握し、どこまで権限があるかを自覚できてはじめて自由に自分らしくいることができるということを知ること。

子どものことを思うと、そういう完璧主義な人がクラス担任になるといつも子どもたちを自分の形にはめようと躍起になってしまう。そうすると気になる子や配慮児はいつも自分らしくいることができなくなり抑圧され苦しむことになる。

もともと人間は色々な人いるし、短所があるから長所があるのだからそのものの存在を認めていくことがなければ長所が引き出されなくなる。

短所ばかりの組織にするには完璧主義に管理すること、しかし長所ばかりの組織にするには見守りあるがままでいることを選択することだと私は思う。

私はカグヤの組織を使って保育を表現し、より多くの先生方に勇気を与える存在になっていきたい。
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無責任の無自覚

生きた仕事と死んだ仕事がある。

生きた仕事は、過ちが少なく死んだ仕事は過ちがたくさんある。
これは、別に失敗しないということを言っているわけではない。
それに過ちが悪くて、過ちがないことが良いと言っているわけでもない。

真に生きた仕事は失敗がとても大きな成長の糧になり、その次に繋がっていく。
しかし死んだ仕事は本当に失敗する、なぜならそれは次に繋がっていかないからだ。

まず生きた仕事をするために大切なことはその任された仕事に対してどれくらい、事前に周到に深め正確に準備し何度も自らで本当にその期待に応えられるかを上司に確認して進めたかということが大きく関わってくる。

かの松下幸之助さんはこういう。

「上司が一度承認したからそれで事足りると思ってはいけない、それであなたが承認したでしょうとなるのは言っているその人が間違っている。一度判を押してそれで事足りるとするのはそれではとても真に過ちのない生きた仕事はできるはずがないと思うべきである」と。

生きた仕事をするというのはそういう任されたことを正しく理解しているところに生きた仕事というものがあるのだと私も思う。

これは人生で考えてみても良いだろう。
流されて生きる人と、日々、充実して生きている人の差でも同じであるからだ。流されていく人は、ただ流され死んでいき、充実している人は常に確かめながら内省し生きていくようなものだ。

なぜ、仕事もよくよく確かめ内省して細心の配慮で事前に深めて共に進めていく必要があるのか。
それは自分の会社の中や社会での自らの存在の影響力を正しく知っている、つまりは「責任を自覚」するとということになる。

ただ失敗をしないというのはお使いを依頼された作業を正確に行うことを言うのではなく、仕事を任されるのだから自分という存在が何より仕事を通じて相手(会社やお客様)に与える影響力を正しく理解しその評価に対するきちんとした責任が取れるということになる。

もし作業が仕事となるのなら何も自分の影響を自覚しない死んだ仕事となるし、さらに悪いことには自分が責任を果たしたことにならないから当然当事者意識も問題意識も危機感も育たず、自分が練り上がらず、良い意味でのプレッシャーも感じず遣り甲斐や成長のストレスも正しい方向を向くことがない。

責任がないところに真の遣り甲斐など存在しない。
その遣り甲斐は、その影響力と自覚を自分が持っているから得ることができる

人は、仕事や役割を任されるから命を使おうとし成長し自立する。

会社や社会、上司から役割を任されるのは、その影響力や評価に自分が応えると言うことである。
それを自覚して、その自分の責任を果たすというところに会社や社会を発展させ真の共生と自己実現の両立ができる。

別に自分勝手に作業を進めて、自立しているというのは単なる勘違いでそれは自分勝手に好き勝手動いて周囲の評価を下げて周りへ悪影響を及ぼしているだけで、常に無自覚無責任にやりっぱなしの死んだ仕事ばかりに取り付かれた亡者や所謂世間でいうところの悪い意味でのサラリーマンのようになっているということになる。

私たちがコンサルティングで入っている園でもそうだけれど、子どもたちに対して、また周囲の保護者へ自分がどれだけ影響力があるかを正しく理解しているかで取り組みが変わってくる。もちろんそこを掘り下げれば自然に問題意識も危機感も育っていく。自らの保育の在り方や自分の日頃の生き方としての基本としてもそうだけれど、自らが子どもへ与えてしまう影響力を知り、自分の存在が相手にどれだけの価値があるかを正しく自覚すれば自然に内省的になるし本当に生きた良い仕事ができるようになるものだ。

よくだらしないやみっともないことをする保育者もいる。
よくカッコウや言葉遣い、身だしなみがあまりにも酷い人が居るけれどその人たちが本当に子どもへ対する自分の影響力の自覚があるようにはみえない。

子どもたちには尊敬と慈愛が必要で、もちろん外見をあまり言うのはどうかと思うけれど無自覚・無責任は思いやりをもって反省していくと良いと思う。

また、崇高な理念を掲げるところは自分たち一人一人がその理念に対してどれだけ期待され評価されているかをいつも意識することで自然に自律することができるようになる。

自分の評価を下げないのは周囲への深い思いやりであるし、大きな社会の中で自分の個性や自己実現を存分に発揮できるようにすることに繋がっている。

最近、師匠のブログでオリンピックのことなども書かれていたけれどその自分の影響力や期待度や評価の自覚がないこと自身が無自覚無責任ということになる。師匠はそれに対して、あまり周囲の大人が本人が気づいていないのに言いすぎるから本人が気づけず、自分勝手が自己主張と勘違いしてしまうのではないかと本人に自覚させない周囲の大人たちの教育の在り方そのものにも疑問を提言していた。

例えば、自分の影響力が大きい教師や経営者、コンサルタントと言われ人々へビジョンや方向性を示し導くのが役割となる職業がある。当然方向が間違っていたとなると与える損害も大きく社会や親や子どもたちの人生そのものに対してもその影響力も相当なものだ。

もしもそういう人が飲んだくれてどこかの道端で寝ていたり、社会的に悪影響となる不祥事やみっともない体たらくぶりを露呈したりとあるのは、その責任に対する自覚が足りないから起きることだと思う。

私もそうだけれどやっぱり周りは自分が慕って尊敬している人(教師やコンサルタント)が飲んだくれどうしようもなくなるのはみたくないし、方向性を示してくれた人がだらしなく不祥事を起こすのはとても恥ずかしいことだし嫌な気持ちになるものだ。それに責任が重くなると、遅刻一つや約束一つ、その他些細なことまで不祥事となりその影響力は大きくなっていく。

よくそういう人たちは「人間だから仕方がないよね」と言うけれど、これも師から教わったのだがそういうことを自分で言う人に限って人間だからと言いわけしているだけで決して周りはそういうふうには思ってはいない。

ただ恥なことだと思われるだけだ。

人間だからという受容や肯定は、程度もあるし、また日々一生懸命役割を果たしていてもやっぱりどこかまだ思われるほど強くなれないところがある、その「あるがままの自分の弱さ」をさらけ出すからそれを周囲が認めて人間だからねといわれるだけで決して本人が「別に人間だからさいいだろうこれで」というのは、やっぱりどこか自覚のない無責任があるのだと思う。

これは教師と言われる聖職者、リーダーと呼ばれる経営者、またはコンサルタントと言われる伝道者は、何より世間、会社や、相手へ対する自分の存在価値や影響力を正しく受け取り、それにそって自分の使命を自覚することが自らのミッションを真に達成するには必要なのだと思う。

正しく生きた仕事は周囲を幸せにしていくし、誤った死んだ仕事は周囲を不幸にしていく。それだけの仕事だからこそ遣り甲斐も生き甲斐も生まれて幸せになることができるということだと私は思う。

私たちは生きているだけでも活かされ活かしあっているのだからこそ、何よりそのことに感謝し自分を律していくことをただ自分勝手にやるのではなくもっと周囲への思いやりを優先し自らの責任と自らの自覚により正しく認識して実践していくことを大事にしたい。

カグヤは、子ども第一主義のコンサルタント集団。

だからこそ、その責任と自覚が期待を裏切らないことを肝に命じて常に内省し実践していきたい。
師匠からの学び | comments (1) | -

子どもの未来の権利

先日、来日したリヒテルズ直子様と私が現在色々な哲学や思想を教授いただいている吉川宗男先生をセッティングし、話をお伺いすることができた。

もともと私は師匠の真心と王道の実践が世界を易えると信じて何よりも優先して深め徳を明るみにしていくことに命を懸けているのだけれど、それをより幅広く世界や社会へ感化浸透するには最先端でありもっともシンプルな思想をより具現化し、それを自らのオルタナティブと新しい世界の創出の企画の精度を高めるためにも真摯に取り入れている。

もちろん、理屈はさておき国際人である両雄の対談の場を設けることは私の幸せであり、私自身が生きる価値そのものでもあり、本当に好奇心と喜びの中で楽しむことができた。

吉川先生の哲学や思想は、メビウス理論としてお互いが統合的総合創造のエネルギーをダブルスウィングすることで宇宙の絶対バランスを生じ、その瞬間に煌めく一期一会があり、その今の瞬間から奇跡の熱が発生しと・・私にはまだまだその深遠な哲理が理解できていないのですが、何より先生自らの体験と実践によりそのことが持つ力を世のため社会のためにいかしたいと発心しているように改めて感じました。

今年は、中京大学で8月に開催する「世界会議」がありそこでも私も一緒になって同じ道を歩んでいる先生と講演やシンポジウムを楽しむ場や間、そして和が共有できるのを有難く感じています。

そして、リヒテルズ直子様は昨日のブログでも書きましたが差別や人権というもの、また人としての社会の在り方や個々の自立ということを通して、真に幸せになり助け合いの未来を創造したいと、故郷のため、そして独立自尊のためにと勇猛心で活動している維新の志士であるようにも感じました。

その話には、私のあまり知らない哲学者の話や、宗教者の話、そして理論や思考法など様々なことを学ばせていただきました。

Martin Buberの我と汝の話などはもっとゆっくりしたかったと感じました。
本当にわくわくすることばかりで、時間がもっとあればと名残り惜しくなりました。

その中でもまた一つ刷り込みのとれた面白い話がありました。

これは私の解釈ですが物事を考えるとき、そして人との調和や対話を思うとき、如何に物事を排除しないかというところに真実の鏡のようなものがあるということ。

よく大人は口癖のように「必要悪だからという」しかし、これはよく考えてみると変な使い方をしている。よく大手企業などや私たちの教育業界などではこういう類のことを言う人がとても多い。

どんな場面かと言えば、必要悪とは別に大きなことをやらないといけないのだから小さな犠牲は構わない、大きな善をするために「これも必要な悪だ」という使い方だったり、もしくは、自分が悪いと分かっていても、他の方法は全部妥協してその結論をだしたのだからそれでもやるしかないじゃないかと自分を言い聞かせるときに「これも必要悪だから」と使っている。さらに巧妙になってくると、直接必要悪だとはせずこの一見犠牲の山積みの問題をそのままにしておくことが悪なのだ、この悪を排除することが善だからこそ、「悪は悪を以て制することが必要なのだ」と、そういう自論を展開して国民を守るためにと世界を巻き込んで戦争までした国すらもある。

必要悪とは本当に都合の良い言葉だと今まではずっと思っていたし毛嫌いしてきた。

しかし、本質や一流の本物が使うこの「必要悪」とは本当は何だろうか?

私には、そういう方々が使う必要悪は何一つも一切排除しないで新しい選択をするということで使っているのだと思う。

これは例えば、そもそも悪と言われるものもすべてはこの世に必要だとする考え方、病気でもそうだけれどそれが悪いから治療するのではなく取り除くのでもない、それとどのように共生するのか、一緒に生きていく方法を人間らしく導きだすか、もしくは小さな犠牲というものすらもない新しい答えをお互いに話し合いによって決めるということでもいい。

つまりは、本当の必要悪とは、善も悪もともに必要だと言うこと、言いかえれば、善も悪もこの世には存在していないと言う考えかたということになる。

人は話す言葉が生まれたとき、光と闇、熱と冷、個と液などと必ず分かれて物事を表現し理解してきた。しかし私が思うと、自然は最初からわかれたことは一度もない。

すべては総合的創造的必然として成り立っていて、そもそも悪いものをつくるはずがなく、そして同じように善いものをつくるはずもない。

ただ、そこに在った。

そこに在るものは、無と空という名の自然というものだったという解釈ができる。

だからこそ、そこで生きる私たちは常にそういうもの天理から離れることはできるわけがない。

子どもたちにいえてもそうだし、周囲にある動植物もすべては繋がっている世界の住人であるし、それが当たり前というものだと私は思う。だからこそお互いに折り合いをつけているし、お互いで納得できるように生き生き合ってきた。

今は、この人間社会は権力と保身の名のもとに、よく必要悪だ必要善だと、理想と建前を使い分けて偽り生きていく社会風土が蔓延しているようにも思う。

しかし、そんなものあるはずがない。

子どもが安心して暮らせる未来を創るためには排除するのではなく、その子の個性を認めてその子のやりたいことを見守る世界を創らなければ、より大人になって心根が屈折する不自然で偏った大人たちがたくさん生まれてしまう。

それこそが子どもに起きている本当の危機だと思う。

子どもの未来を奪う権利は誰にもない、それを子どもの人権としても良いではないかと私は思う。

私は社業を通して、本当にすべてを調和しそこから真の一手を差し出し支援できるようなホスピタリティとコンサルティングを極めていきたい。

この出会いに感謝し、この出会いをまた実践で活かしていきたいと思います。

一期一会と幸福な時間に感謝します。
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個性と愛

オランダからリヒテルズ直子様が来日し、2週間で14回の講演の合い間をぬって私たちカグヤの社内研修を行っていただいた。

色々な問題意識を持つ中で、子どもの人権や社会教育など、幅広い国際感性でこの日本に様々な提案と提言、その方法を示唆してくれる一流の思想の持ち主はなかなかいないと私は思う。

一人で遠いオランダからいつも世界のこと日本こと、人々の自立を通しての平和な社会の実現を願う姿にはいつも感銘を受ける。

今回は、社内のクルー一人ひとりから私たちの取り組みを説明しそれによって気づくことを伝え、私たちが現場で感じる危機感から得た疑問や質問を投げかけて答えていただくという形式を取った。

お互いが実践で感じる疑問はとても叡智があり、それに応える側も自分の問題意識で得た結論から丁寧にすり合わせていく刹那に本質とお互いの使命や役割なども明確にできるとても素晴らしい機会になった。

私自身、クルー一人ひとりが自らで自分の会社での行っている本質的な仕事を説明するその姿に成長を感動し、そして質問の洞察の深さや問題意識の高さにも共感することができた。

人は一日で成長することはない、長い年月をかけて時間をかけて誠意を籠めて関わった真心が次第に相手に感化し、時がきてそれぞれに開花していく。

目の前が如何に変化が少ないと感じても、心の根が育ち、良い栄養分を与えて素直に豊かに幸せであれば必ず人は見事な花を咲かせるのだと予感させる良い機会になったことを感謝しています。

その話の中でも、様々な気づきがあった。

特に興味深かったのが個性の話になる。

「人は自分が自分がと言っている人ほど自分がないことが多いということ、個性があるというのは、自分の中で曲げられない強い心や思いがあること。個性が立っていけば人は幸せになる。幸せであれが学力も身に付く、学力が身についても幸せでなければ意味がない。大切なのは共生していくことで生産性があがるということを知ること、経済優先の社会では無駄が生まれる。

だからこそ、何よりもまず個性を大事にしていくことだと言う。

誰かに批判されても、言い返すくらいのことができるくらい、自分にしっかりしたものを持つこと、そして遠慮しないで、自分を表現すること。」要点解釈

外にはいつまでも自分を守ってくれるような社会はない、だからこそ自らの意志で力強く自分が独立自尊していかないといけないというようなことを仰っていたように思う。

私も日々の実践の中で、様々な批判にさらされる。

子ども第一主義といっても、教育界にいながら私は会社経営をするという経済社会の一員でもある。その中で経済と道徳を一致するには、真に誠実な生き方や在り方をしていることが求められ、そのためにどこまで自分を貫くかというのは自らの心にある揺るがない信念がともに必要になる。

一方では闘い、一方では守り、そしてその両方を混ぜ合わせて認め受容し助け合っていくという実践が日々続いていく。

個性とは自分勝手なことを自由にやることではない、今の時代は自分勝手に何かを好きに進めていけば個性があると勘違いしているけれど、それこそ流されているだけで自分があるわけではない。本当の自分があるとは、周囲をよく思いやり利己心ではなく、自利利他の心で共生し貢献し自らが幸せになり同時に他人も幸せにして自然に感謝して生きていくことであるようなものだと私は思う。

個性が尊重されない世の中に、平和な未来は存在しない。

生きるには道がある。
道で彷徨うのはまだ良い、必ず助けてくれる人が現れる。
私もどんな逆境の中でも最後は助けてくれる人に出逢うことができた。
それを運という、運とはもともと良いものだと私は定義がある。

しかし、道がなく彷徨うのは亡霊の類と一緒になり常に苦しみから抜け出せなくなる。

そして、人が偉大な目標を掲げ道を目指すとき、孤独を感じ諦めそうになる。

しかしそんなときでも道がもし本当に一人孤独であるならば耐えられないようなことも、本気で自分から信じ合える人たちの中で自分の命を預けそして歩むならばその道は一人のようで決して一人ではない。

下記は、私の尊敬するメンターであり顧問の市川康雄さんが教えていただいたことがあります。

「独りは決して寂しくありません。
 心で繋がっていれば、一人でいても百人でいるのと同じです。
 見かけの孤独に惑わされないように。」

心で繋がるということの本質は、どんなことがあったとしても自らの愛に対して誠実であるということに他ならないと私は思う。

幸せであるとは無限の愛をいつでも感じることができるということだと私は思う。

人は一人では生きていけないからこそ、愛に飢えるのではなく真実の愛を感じてそれを無限に持てるように私はなりたい。

遠慮なく自分の個性を心を開いて伝えられるように自分を表現していきたい。

感謝。
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愛の循環

自分を知ると言うことはとても難しい、それは自分が器であるがゆえに入っているものが様々に変化していく中で自分がどのようになっているのかを確かめることが難しいからだ。

鏡がある。

鏡は、外側の自らの姿を映し出すけれども内面までは普段は気づかない。しかしもう少しよく観察してみると、器がどうなっているのかを感情という入れ物を外すと客観的に理解することができる。

夜に水面に映る月も空も、そこにあるようでもそこには存在しない。
そこにあるのはただ月と空と水がそれぞれに存在するだけということ。

そう考えると自分というものを見つめると本当の自分を知るということが、自分を探していくことに於いては何よりも大事なことだと思う。

しかし自分の心の動きを観ようとしていくことが自分を見出していくことだとしても、その心そのものが動いているのにその心の流れを感じるというのはとても難しいことだと思う。

平常心というか、そういう心が穏やかで定まらなければなかなかできるはずもなく、どうしてもまだ修行が足りず気づくことができない日々がある。

器としての自分、器の中にある自分、そういうものを含めたものが本当の自分だと思えるにはまだまだ自分から心を開く実践と修練が必要になるように思う。

人は、何か理想を持てば必ず完璧を追う。
そこに落とし穴がある。

私も、子どものためにもどうしても何とかしなければと危機感と問題意識が膨らみすぎると自分を叱咤鼓舞しているうちに次第に臆病になり完璧主義のような職人的人格が形成されどうしても他人に寛容になれなくなってしまう。

現在、コンサルティングを通して様々な経営者や同志にお会いする中でやはり子どものためにと理想を追っている方は同じようになっている人が多い。

しかし崇高な理念や理想とは、自らが掲げた真理や真心への道でもあり、志を持てば必ずその理想は自らを道にいざなっていくものになる。

それゆえに偉大なストレスを一人孤独に抱え込み、マゾのように自分に厳しくなり、今にも折れて押しつぶされそうな人たちもまたたくさんいる。擦り切れてしまってはせっかくのもっている能力が活かされず、疲弊してしまう、それが何よりももったいないと私は思う。

素晴らしい人たちを埋もれさせることは国家最大の損失と言わずに何というのかと私は思う。本来、吉田松陰先生が仰った「草莽崛起」はそういう人たちを自由に表現できる世づくりでもある。

しかし悲しいことに今はその草莽崛起も力を弱められ、この日本の社会はそういう自立した人たちに対してみんなでよってたかって縋り助けてもらおうと依存する性質をもった人たちが教育により出来上がり、その集団が安易に力関係で形成されやすい世の中になっている。

私にとってはそういう草莽の志士であり真面目で効果的な人物たちが次第に諦めてつぶれていくことがもっともこの国の未来を貧しくさせていくのではないかと思い何よりもまた義憤し憤慨している。

そういう真剣な人たちに対して、如何に周囲がもっと心を開き協力するか、そういう人たちのストレスにならないように優しい暖かい環境を用意していくかも、子どもたちの将来のあるがままに繋がっていくと信じている。

そしてリーダーとして自らを鑑がみるときに、自分に厳しく、人にやさしくいたいと思っていてもどうしても心のゆとりや余裕が足りず、また信念に不動の柔軟性がまだ足りずどうしても私自身はそれがまだ実践できないでいる。

本当に追い込んでしまい申し訳ないと思うことがたくさんある。

自分を愛するということは、人を愛するということ、人を愛するためにも自分をどう愛するかは、心の動きや流れを自覚し、本当の自分を知ることであるのだとも私は思う。

そう思うと、愛を循環させることが素直にできない自分にどうしてもジレンマを感じ、それがなかなか思うようにいかないと反省する毎日ですが前向きでありたいとも思っています。

無理をしないで本気であるというのもまた中庸。
ゆっくりしているけれど効果絶大というのもまたまた中庸。

師匠の背中から実践からまた深く学び、私自身の今年のテーマである「適度」がきちんと理解し受容できるような強く優しい人になっていきたいと思う。

かんながらの道の一つにこの愛の循環を取り入れ、本当の自分に向き合っていきたい。

感謝
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道を弘める

一昨年、念願の高野山を訪れたとき私は空海の軌跡からいくつかの真言に出逢うことができた。

今では当然と言われるかもしれないけれど、空海の遺す足跡にはすべてに真実があり、その言葉その意には常に誠があり、目指した心には常に普遍的な実践と徳と思いやりがあるように思えた。

どうしてもずっとお会いしたい大切な人の一人だったからこそ、少しの形跡からも多くの感動を得ることができ本当に感謝しています。

高野山では、毎朝、即身成仏である空海にお食事を運ぶ。私はあの朝の光景、行き来するあの修行僧たちが厳かに静寂とともに行う祈りと作法の姿が心に刻まれ今でも鮮明に覚えてあの時の時間が忘れられない。この世にまたいつものように生まれ死に巡りいる私たちが決して忘れてはいけない意味がその行動により示され続けるということ。

心を伝えることは何より行動によるものだと改めて感動することができた。

空海は人が生きたまま仏となれる即身成仏をすることを語り、無常にそして永遠に繰り返される輪廻の中で悟りの道を実践し歩んだ。そしてその独立一人、真実の信仰を座右に厳正に道に正対する姿に、人々の心を救い人間を弘く導くという偉大な誓願を立て、自らがその真理の体現をなさった。

あの日も早朝の暗闇から次第に光がさしこみ、周囲を照らし大いなる自然をみせるあの山での光景の感動に空海の遺戒、「生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し、、、」の本当の意味を考えさせられる機会になった。

何度も生まれ死んでいるのになぜ人はこの悟りに気づくことができないのか、迷う人たちは迷っていることを知らず、その苦しみから逃れられないでもいれるのか、せっかく生まれてきたのだから光の世界を歩もうではないかという強烈な発心がある。

なぜ生まれてきてなぜ死んでいくのか、そういうことを正しく理解できているからこそ、蓮のように闇のまま光になることを望み、そのまま生きて仏になるという壮大な矛盾を受容した新しく示した死生観のモノサシを立てることができたのだと思う。

私もこれを会社ではオルタナティブという言い方をするけれど、私の言うオルタナティブとは以上のような壮大な矛盾の中で一円融合した新しいモノサシであるしそれは平和や安心などの境地を招くことを問う。

これは今を生きる私たちに於いては、「未来未来未来未来のはじめに暗く、過去過去過去過去過去のおわりに冥い」だからこそそういう日々を繰り返していて同じようになるではなく、深く学問し、実践し、創意工夫により新しい悟りの道を志すことでそれぞれに真に心を得なさいというようなものだろうと私は思う。

未来や過去のその空間気間にこそ、天人合一があり、其処にだけ命や魂の意味がある。
私がいつも一期一会でいたいと思うのは其処に真の心が定まっていると思っているからだと思う。

話は変わる。

空海は、日本ではじめて庶民教育学校「綜芸種智院」を開設した。

その学校の特色は、「だれもが自由に学びたいものを学べる」「幅広く専門外のことを学び、視野の広い人物を育てる」「完全給費制とする」という3つ。

この時代は、高級官史や貴族しか入ることができず学べなかったものを貧しい庶民のために門戸を開き儒教・仏教・道教などを創造的に学べるようにしている。人に差別なく、真実や真理を広く学ぶことで道を志す人たちをたくさん増やしていくこと、その柱になる学校をつくるということ。

これは空海、長年の夢だったそうだ。

その総合的教育学校「綜芸種智院」の開校の際に、空海が寄せた念ず言葉に下記がある。

『物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定めて道にあり。』(性霊集)

(世の中がよくなるのもわるくなるのも、すべては人にある。人の生き方を決めるのは道を求める心である。)

これは、私自身もそうだけれど最初は手探りでも人は体験や経験を通じて、様々な真理と出会い、それを学問によって広く深く学んでいくことで道が現れ自分の命の為すべきことを知ると言うようなことに繋がっていくのではないかとも思う。

いつの時代も、どんな環境下であっても本来世界を易える方法はそんなにたくさんあるわけではない。それぞれに時代や環境にあわせて創意工夫していくことは必要だけれど、変えるには道を志す人をたくさん弘げることにある。

一人でも多くの人たちが、未来に対して、またこの先を生きる人たちのために自らの生と向き合った真実を志と道により示していくことこそが重要で、その道により人々は様々な天や自然からの声に気づけ、幸福と譲り合い、助け合い、素晴らしい世界をまたひとつずつ創造することができるのだと私は思う。

先人が遺した何よりも大切なメッセージをどれだけ私たち子孫は受け取れるか。
それは時空を超えた実践との邂逅であると思う。

これからも子どもたちのために本来あるべきようを見つめ日々の行動を一期一会に学んでいきたい。保育の道も今の仕事の道も私の人生の道もかんながらの道もすべてはこの弘法大師と同行二人の行脚の菩薩の道だと思えばとても豊かで幸せな気持ちで愉快に歩くことができる。

時間差がありましたが、真剣の最中に、出逢えた何よりの有難い贈り物に心から感謝しています。
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方針とビジョン

沖縄研修の最終日に入り、方針とビジョンについて話をした。

方針とは、磁石が必ず北を指すようにどこに向かって進めばいいのかを明確に示すものとしてそれぞれが自分が歩んでいる方位を確認するために使っている。そして、ビジョンとはその具体的な行動計画やカグヤで行っている実践やこだわりを明確に示すことで、自分の居場所や会社の理念を可視化して分かりやすく理解することができるために使っている。

カグヤでは年に一度のこのビジョンや方針の研修では、常に意識的に原則や法則などを織り交ぜて普遍的な部分をいくつかの領域に分けて進めている。

今年の方針はDVDを使って映像を用い私と同じような経営方針を貫いている方の講演を一緒に鑑賞し学び合うことにした。それは客観的に異なる分野で同じレベルに居る人を理解し、その人の言葉から異なる角度で理解することでより深く自らの取り組みの質に近づける。

そしてビジョンでは、4つの普遍的な原則に照らしながら自分たちのこだわりや日々の実践の重要性を再確認するために使うことにした。その具体的な実践や自社のこだわりなどの意味を掘り下げることでその価値の高さや重要性を理解してもらうように努めた。

また全体を通して、近々(この一年ほど)の目標についてはこの沖縄研修での具体的な感動体験を通して会社が目指している顧客満足などを心で感じれるような機会と空間を用意し、繋がりの中で自ら気づけるような環境を設定して進めることができた。

全体としては、私の持ち前の透過シンクロニシティを発動し、様々な御縁と邂逅の中で一期一会の学びと皆がそれぞれに自立のプロセスを味わっていくことになる。

集団で何か社会のためになることをするというのは、そのリーダーがどこまで真剣に社員やお客様のために考え抜くかにある。そのかじ取りは、眼前の一喜一憂に心が惑わされ左右されず、ブレず自らの信念を貫くために理念に止まり、不動の心を練り上げ平常心で最期まで使命を完竟し終えると言う覚悟が必要になる。

どの時代も商売に限らず様々な企業や法人は、一方的なサービスを求められる。その中でもいつも方針や理念、その他が盤石になっていなければ様々な問題でその都度経営が左右されることになる。

例えば、保育園幼稚園であれば保護者が要求してくる様々なクレームなどにどのように対応していくかなど常に問題が現れどのようにするのかを求められる。

クレームが来ないから良い園なのではなく、どのような方針とビジョンがあるかでどれだけ周囲が理解してくださっているかということの方がより経営をすることにおいては優先されるのだと私は思う。

社会は自然界と同じように部分でできあがっているのではなく、全体(総合)でできあがっているのだから当然部分を変えることよりも全体として自分がどうあるべきかをよく見定め、本来のあるべきように自分を定めてこそ本当の意味で社会にとって価値のある実践表現と社会貢献を行うことができると私は思う。

そのためにも、部分が全体になるための方針がありビジョンが必要になる。

今回の沖縄では、様々な人たちとの関わり合いの中で私が将来あるべきようを示すことができたように思う。

今回示したことは、数年先ではなく数十年先、数百年先でもそのまま使える真理を伝えたつもりだ。

何千年も前から、ずっと変わらずにあるその心の中の仏性を学ぶために人間は生きる意味を求めてきた。

どんなに時代とともにやることが変わったとしても、その人間の本質はいつまでも変わらない。それは、生きる意味を学ぶために生まれてきたということ。万物の霊長とは、なぜ生きるのかなぜ死ぬのかを考えることによる。闇から光の世界に来たとすれば、単なる繰り返しでなくその中で気づき悟り、その悟りを持って世の中を照らし、すべての生命に思いやりを与えて幸せな世を調和するに至る。

そしてやはり私は子どもたちへの仕事を生業にする以上、常に自利利他の精神を基盤に独立自尊のかんながらの道をこれからも貫いていきたい。

今年も方針とビジョンを示す機会が得られたこと、そして様々な人たちの御蔭や御恩の上に成り立っているこの今に何より深い感謝をしています。

本当に有難うございました。

ぜひ、この一期一会も子どもの未来につなげていきたいと誓います。
仕事と使命 | comments (2) | -

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