2010年09月03日 金曜日
04:48 | 投稿者:
野見山 広明
子どものためや子どもたちのためと色々とやっている人がいる。
しかし本当はそれが子どものためかと思うと、単に自分のためにやっている人たちの方が大半である。
子どものためというのは、どれだけ子どもを丸ごと信じているかによる。
子ども第一主義の理念に、子どもが第一という意味の第一は、「一」であるということ、つまりは絶対的な存在として丸ごと信じている意味での一がある。この一とは、何にも比較対象するものはないゼロとイチの一であり永遠に平行であるようなものでありそれは何にも変えられない絶対値のこと。
そしてこの一に止まると書いて「正」しいと読む。
つまりは、正しいことはこの第一の一に止まっている止揚であるということを意味し、それが何よりも中道や中庸という真理にあるということになる。
子どもが正しいと思い、その子どものやりたいことややっていることを尊重しそれ自体に対してどのように自分が子どもの正しいままの大人になった姿とし、模範を示しているかというのが子どもを丸ごと信じているとうことに私はなっている。
子どものことを丸ごと信じる模範となるには、弛みない求道精神と志を持ち、真摯に人生を幸福に導き、多くの生きとしいける命の中で輝き続けることが要る。
そのためには、子どもの歩みをその子どもの望む道を叶えていくために様々なことを譲っていくことがこの子どもの傍にいる業界の人たちや、仕事の人たちの使命であるのだ。
しかし今は、わざわざこの子どものいる傍で自分のエゴを満たそうとしそれをさも子どものためだと自分がやりたいだけなのに子どもに未来を勝手に押し付けようとする風潮さえもある。
なぜ子どものことをもっと丸ごと信じないのかと義憤を感じる。
我が師は、子どものことを見守り、子どもの育とうとすることを信じている。
それこそが人類の未来であり、希望であると確信し、子どもたちのために広くその正しい道を自らが戒律を守り真摯に実践をしてリーダーシップを発揮し、後人の人たちのためにも道を切り開いてくださっている。
子どもを丸ごと信じるとは、そういう子どもの存在、いわば人間を丸ごと信じていることに他ならない。
カグヤは、その道を歩む人たちをともに導く模範となる仕事をすることを第一に優先する会社。
これからも今の時代の常識に囚われず、常に迷わずに自分たちの道を往くものでありたい。
これからも子どもを丸ごと信じるモデルとして、子どもに寄り添い、子どもの心でお仕事をさせていただける感謝のままに実践躬行に努めます。
2010年09月01日 水曜日
06:01 | 投稿者:
野見山 広明
チームワークで大切なものにみんなで行うがある。これは何かの出来事を繋がりの中で皆で喜び合うということを通して、人は一人では生きてはいけないということを皆が大切に理解しているかが問われる。すべての生物は自分だけで存在できるということはない、全体の中に自の分という分がありそれを正しく理解するからこそ正しく自分が在ることができる。
しかしそうではなく、その分を弁えず全体との繋がりを断絶し、単に自分のことだけをいつも優先し、自分のことばかりの成功失敗を追う人たちがいる。
やることが多くて忙しいという言い訳と理由を使って、目の前の事に心を籠めず投げやりに行うその心の姿勢が、それまでのみんなの思いや今までの繋がりを無視し好き勝手にやっていることになっている。
人は何かの仕事をするにも、何かをさせていただくにも、そのことに携わる多くの人たちの大切な思いを引き継ぎ繋がっていてそれが自分に頂いているということを感じることがなければ単なる流れ作業のようになってしまう。
目の前の作業を頭で安易に判断しロボットのように単に仕分けているだけでは、繋がりやその本来の意味を感じることもない。
意味をわざわざ感じるためにマニュアルを作るのも機械的な発想であり変な話だと思うけれど、そうではなく意義について分かち合うことや大切な思いを共有することを優先し、その心の余裕から周りがよく見え、そのみんなの思いやりを繋げ、大切に一つ一つのことに心を籠めているかどうかが本来意味を紡ぎだすのだと私は思っている。
しかし今は、ある人は、やりっぱなしでその後のことを追いもしない、またある人は、自分勝手に正しいを頑固に主張しそれまでの繋がりに責任を持とうともしない、またある人は、これまで関わった人たちが大切に守ってきたものを粗雑粗暴にするということもある。
これは全てに、「繋がりからの断絶」を意味し、自分自ら周りとの関係を断ち切っているその人自身の甘えと傲慢な生き方にこそある。その連鎖がより人と人との繋がっていたバトンや糸を断ち切ることになっているのだ。
よくIT系でプログラムなどの人が孤独になっていて精神的に病む人も多いのもこの理由によるものがほとんどだと思う、人は繋がりの中でしか生きてはいけない、いや、すべての命はバトンを受け渡しながらその命を繋いでいるだけともいえるのだ。それが消えることは、自らが孤立して孤独になっていくことを意味し、そこに生き甲斐や遣り甲斐などは発生することもない。
そうやって次第に流され自分は自分だけで生きているとどこかで思っていると人は自分だけの世界に閉じこもる。そして自分さえよければいいと考え始めるのだと思う。
どうせだれも自分を守ってくれないのだからと不貞腐れるか、もしくは誰かが守るだろうと誰か任せに無責任に次第になっていくのだと思う。
今、自分があるのは何の御蔭なのかの見えない繋がりをよく考えることだと思う。
自分自身、沢山の人たちの関わりの中で大切にされて色々な思いの中で生かされていることを心で感じそして一つ一つに心を籠めるのだと思う。
生まれてきてから今まで、もし本当に一人で生きたと思うならばそれは大きな勘違いで自分が当たり前に生きていると間違っていて、両親はじめ友人、周囲の人たちなどの様々な御縁ある人たちや自然の恩恵、そういう無償の愛の輪の中で自分が存在させていただいているのだ。
その繋がりを自らが断絶していることこそ、愛への冒涜になってしまうのではないか、そういう人が幸せを感じることが社会で果たしてできるのだろうか。仕事は機械が生み出すのではない、人の心が生み出しているのだということに気付くことからはじまる。
そして本当の充実や感謝は、色々な人たちから自分へバトンを渡されているという実感から自分がみんなとともに結果を出すことであり、人を愛したいと思う思いやりから発心するのではないかと私は思う。
いつまでも、自分だけで生きているなどと、誰かに心でもたれかかるような甘えた根性は捨てて社会の中で心を自ら立て自律することが、本当の意味でチームの中で共生することになり、幸福な社会を創り上げる一員としての社会人としての大切な自覚であると思う。
今は、何歳になっていても立場があってもそういう自覚がない人が多い。
子どもたちのことを思えば、なぜ今、生きているのか、生かされているのか、そして自分があるのは何の御蔭で成り立っているのか、有難いや勿体無い、見守りや御蔭さまなど心が繋がっているからこそ自分の心で立つということを実践で示していきたい。
まだまだ周りにはそれに気付けない人ばかりです、大人として生きる生かされているバトンを正しく受け渡せる人たちをチームの大切さを通して表現していきたいと思います。
2010年08月27日 金曜日
07:50 | 投稿者:
野見山 広明
昨日、親しい取引先の皆様と一緒に見守るファシリテーターの実践研修を行った。
久し振りにお会いする方も居て、とても豊かで楽しい時間を過ごすことができた。
もちろん研修なのだから勉強するのだけれど、本当の学問とは笑いあい気付きあり、そして皆で肯定的に思いやり出逢えたことの歓びや感動の和、その豊かで充実した機会を楽しむことではないかとも私は思う。
何か一生懸命に椅子に座ってじっと聴くのもいいのだけれど、そこに自然なものをあまり感じることができない。人はみんなで物事を考え、みんなで取り組む、みんなが一緒に達成することこそが癒しであり、そうやってみんなの中で自分が包まれていることこそ自分という存在を丸ごとを受け容れることが自身でできるのだと私は思う。
昨日も、一円対話を通じてみんなで幸せと感謝などを語り合うことになった。
やりたいことをさせてもらえるのは、天の御蔭であり、周囲の人たちとの出会いの中で見守られできるということ、相手がいなければできないことでもあるし、その人たちがいるから自分がそれをやろうと思うこともできる。
そう考えると、いつも他人ばかりをどうにかしようと自分都合で相手を動かそうとするのではなく、今その状態丸ごとを信じることで如何に隠された深い意味を感じ取るかや、そこに価値があると思えるかが自分の人生を自分自身が決めて納得して生きているということになる。
人生は、天に一切全托するとそこに自分がすべてのものから活かされているということを知るに至り、それを感じるままに丸ごと包み込まれてみると有難いなとそのあるがままにいることの素晴らしさを感じることができるのだと思う。
たとえば、今の自分は好きなことをやらせてもらっていないと思うようだけれど、好きなことを遣るために苦労しているのであり、好きなことに向かって執着し努力していることになる。つまりはこれは、やれるやれないということよりもそういうことが出来ていること自体が好きなことでありそこに無限の安堵観と至上の喜びがある。
善い悪いを超えた、そのままがもっとも素晴らしい、あるがままであることが有難い、今このときがあることが感謝、自分自身が生きていることが幸せだと感じることがより良い人生と共に人間を幸せにしていける見守るファシリテターであると私は思います。
自分自身がそういう生き方をすること、そのモデルを示すことこそ真の子ども第一主義であると思います。
子どもたちは大人たちの生き方から自分たちの生き方を学びます。
大人がもしもそういう人生の喜びや感謝を感じつつ、自然体でいるのならば子どもは安心して見守られた社会の中で育つのだと私は信じます。
今は、競争社会や一斉画一社会の中で、排他的で弱肉強食、間違った個人主義により個々に責任を無理やりに持たせ孤立している人たちがたくさんいます。
だからといって自分がそうなるのではなく、もっと思いやりをもって環境に左右されずにすべての物事を生まれたての子どものように受容する心をもって世の中を易えていければと念じます。
子どもたちには、一人ひとりが色々な個性あふれるその生涯をみんなが発揮し、みんなが歓びあうという癒しを味わい尽くし、かけがえのない一度きりの人生を輝かせられるように私たちはパートナーと一緒に使命を尽くし見守る社会を譲っていければと思います。
これからも志を高くし、ともにこの道を歩んでいけると良いですね。
昨日は本当に豊かな時間が過ごせました。
皆様、遠路有難うございました。
2010年08月26日 木曜日
06:05 | 投稿者:
野見山 広明
昨日は、中京大学で世界会議が開催されそこに出席し開催者の講演を拝聴してきた。私は、メビウス理論の吉川先生のご招待でその哲学の実践事例の一環として参加をさせていただくことになった。
講演では、今のようなまるで乱気流の時代にどのようにブレークスルーするのかなどについて語られていた。私は、自分が決めていればどの時代もそこには安んじるところがあり、外的環境で左右されることはないという師を持ってから不動心のようなものを学んでいるけれど、やはりリーダーはどの時代もそういう外的環境の中で本来あるべきを維持し譲り守れる人が選ばれるのだと思う。
よくバランスを保つや、柔軟性を持つ、両輪が廻るなど、色々とリーダーとしての資質に必要なものに優先順位を決められるがある。部下はそれを信じて着いてくるし、人はそれを信じて追ってくる。だからこそ、人を導く側なのだから常に天下の王道に照らしてどうなのかを考え抜けているかどうかはとても大切なことだと思う。
私も何かの仕事や相談を受けていると色々と矛盾することを言わないといけないことがたくさんある。その中で、皆がそれぞれに自ら何かこの言葉に深い意味があると受け取ってくれれば、そこからその意味を紡ぎあっちこっちという反応型の二択ではなく、こういうことかと思えるような内省型の一体の答えを導きだしていくことができる。
しかしつい何かのことを行う時に人が陥りがちなのはそれを正しいか正しくないか、もしくは自分都合で判断し間違っていないと勝手に決め付け、どちらかに偏ってしまい柔軟的な発想や行動などがまったく判断できなくなってしまうことだ。それに対して、そうではないと言い続ければそのうちに反応することばかりで必死になり本来考え抜くというような本質を捉える重要性に気づけなくなり追われていくような日々を送ってしまうことになる。
この柔軟性とは、自分が本当に全体のために遣りたいし遣らせていただけることに深い感謝とともにその根本的なものを自ら考え抜いて決意できており、常に「今はこれ」ということを道をともに進む仲間たちとともに判断できるようなことを言う。それを同志ともいう。
それを決めずに、他人にあわせて自分で決めなければ今もこれ、常にこれ、いつまでもこれと言う風になってしまい、本来は理念など中心軸にあるものにあわせて自分で決めないといけないのにそれが観えなくなっているからこそ何を決めることもできなくなり、目の前に相手に頑固に自分の持っている先入観や価値観のみに囚われ、本来の大きな目的のために本来の自分を活かして感謝の輪を喜んでいただくことができなくなっていく。
頑固であるとは、自分の価値観のみを優先し、この「今はこれ」を考え抜いていないことであり、柔軟であるとは「今はこれ」と常に優先順位を自分で決めていられることになる。
最終的には自分で優先順位を決めなければ事物のタイミングや周囲との一体感も持てるはずもなく、それを客観的に一人で判断できるようになるには人間学や時務学をバランスよく学び天人合一するような王道の実践を丸ごと信じているからできるというものでもある。
それはリーダーが行うのだから、フォロアーは理念を主軸にどれだけ全体にとって良いか、つまりは「三方よし」であるかを考え抜いてからリーダーに相談し自ら決めるという行為を主体的に決め続けていくことが大事になる。
それが優先順位が理解できることであり、もし「今はこれ」を自分にさせていただけるとすれば当然それは自分の力ではなく多くの人たち、またはすべての御縁への深い感謝の心がそういうものを引き出していくし、またそこに思いやりを尽くせているからこそ自分と言うエゴを超越し自分の足るを知り世界や全ての周囲に自らを活かしていけるのだとも思う。
最終的には、自分が正しいこと行うこと、つまりは仁義礼智心忠孝悌など人としての正しいと言われる人の道を誰にも見られていようがいなかろうが天が自分を見ているとし実践を怠らないで自然にそれができることになることが安心して自分の天命を立てることになるのだと思う。
だからこそ、見ていないと自分が思っている時間の過ごし方やその心の在り方などを修養し、天が信じていると思い、天と同じように自分もいたいと至誠至純の心をもって思いやりをもって人を愛していくことだと思う。
まだまだ私自身、分かってはいても師のような実践ができるはずもなく、しかしそれ自体が深い意味が在りここに学べるという有難い機会に感謝し、今日もまた一期一会の邂逅があることに何よりも感動と喜びを感じたいと思います。
子どもたちには、そういう大人の実践が感化され生まれてきた意味やその生きるという素晴らしさを私自身の道で表現していければと思います。あるものを観れば感謝のことばかり、出会いや別れその美しき豊かな生に有難い天の恩恵を感じます。
感謝再拝
2010年08月24日 火曜日
08:08 | 投稿者:
野見山 広明
昨日、岩手県からとある法人で抱えている職場の環境や人生のことについてなどを相談をしに来社された。
通常は、こういう相談は自分の本来やるべき使命を優先して調整したりしないのだけれど今回の課題が理念についてなどやマネジメント、その他、変化、改革についてなどであったこととその熱意に感動しお会いすることにした。
そこでの、問題は本質的には自分の在り方が重要で環境に左右されずに本当に自分がやりたいことを決めることであり、その決めたことを実践することにより提案し感化していくしか周囲も含め変える方法はないのだけれど、それまでに出来上がった集団的無責任の職場環境が保守的であり大変なことになっているのもあった。
もともとなぜ集団的無責任になるかというと、そこに暗黙の了解というものがある。誰も何もしないことが守ることであり、皆が何もしなければ誰かがやってくれると盲目に信じることにこそ守れると勘違いしているということ。
無責任であるとは、自分が持ってしまうことで失敗するのではないか、自分がやってしまうことが周りの迷惑になるのではないか、自分が自分のせいにしてしまったら最終的には守れないのではないかという思考回路であるのだと思う。
何かのことを誰か任せにするというのは、自分の人生を自分で決めないことでもあるだけではなく、協力しあって自分から主体的にやろうとはしないという決定を自分がしているということになる。
最終的には強烈なリーダーに頼もうという他人本位の考え方であり、自分たち一人一人が守なければと思わず、カリスマ的なリーダーの登場ばかりを望む依頼信や依存心のことである。
平均的にはこういう職場は公の仕事をしている人やサラリーマンに多いのだけれど、部署も変わるし、町長も変わる、みんな移動するのだから最期まで責任を持てないのだから先述したリーダーに周囲に仕向けられないように自分という私をどれだけ入れずに要求をするかに躍起になるのが仕事になっている人がいる。
そういう組織は向上心で責任を持つことをとても怖がる傾向がある。もしもリーダーになったら自分の無責任と同じくしていた周囲の集団的無責任のすべての負担を背負わされると思うからかもしれない。
しかし本来、何かやりたいことに皆で力をあわせて協力するとは、自分がどうしたいか自分が自分の意志でその目的や理念に「責任を持って参画する」ことであり、自分がその一部を担い背負うことではじまっていくのだと思う。
それぞれがそういう責任を自覚し正しく担うことが、皆の負担を取り除くことであり、自分が決めて自分が行うことでやり遂げるという意志自体が集団に対して提案していることであると思う。
これが単なるクレームや、何もしないということや、日和見や受身になるとそれ自体は提案でもなく単なる言い訳か周囲への自分勝手な要求となる。
自分で決めないということは何もしないよりも悪いということ。
流されるというのは、誰かにひっついていくということであり、自分の足で着いていくとはいかないからだ。人は自分の足で立たないといけない、自分の心で取り組まないといけないのだ。
最終的には、その方も自分で決めてやり切ると決めて郷里に戻られた。
自分が誰にも左右されずに、自分で決めるから人は柔軟性を持つことができる。素直になって正直になるにも、周囲のせいにすることもできず、自らの天命を信じて自分のやりたいことに必死に誠を貫けばそこに道が開けると思います。善いチームもそこから生まれてくると私も信じています。
そしてそういう集団的無責任の人たちは自信のなさや自己肯定感の低さからくるものであったり、数々のトラウマや不一致、刷り込みやしがらみの中で立場立場で自分を押し殺して無理をして辛い思いをしているものです。
しかし、大事なのは自分はどうあるべきかということであり、素直に純粋に大切にしたいことを自分が決めて実践していけば必ず周囲は変わっていくと思うし、その刹那、自分も変わっていると思います。
離れていますが、志を高く持ち、大義に行動することに勇気を頂きました。
お互いに立志天命を信じて、日々を大切に過ごしていくことだと思います。
今後の発展と初志貫徹を祈念しています。
2010年08月20日 金曜日
08:22 | 投稿者:
野見山 広明
何かの価値や守りたい大事なものがあるから人は信じることをする。
そしてそれを自分が守るからこそ信じることができる。
今の時代は、仕事でもそうだけれど一般に雇用者と雇用主という関係で成り立っているところも多いけれど本来人と人の関係はそういうサラリーマンと言われるようなコストなどでは量れるものではない。
人と人とが働くと言うことはお互いに幸福になるためにあるもの。そしてお客様とは、私たちの存在価値そのものでありそのお客様からの信頼や信用の根幹であるその価値や評価を自分が下げないことがその組織の信じているものを自分がその一員として責任を持ち守っているということでもある。
しかし今、周囲を見回すとそういうことを誰か任せにし無責任になり、さらには自分自身の人生をも自分で決めないことによって誰かに守ってもらおうとする依存した人がとても増えているようにも思う。もしくは、自分が守るのではなく、自分を守ることが優先されているという自己都合で働いているような場合もある。
例えば、一般的にこれは誰も通る道だけれどその親元を離れ自分が立派に社会の一員となり両親に心配をかけないようになるためにも守ってもらおうとするのではなく自分で立とうと思うことが自立ということでもある。
しかし、いつまでも誰かに依存して甘えていようとする気持ちがあり自分で決めずに流されようとすることは自分で信じることをしないという行為ではないかとも思う。
社会に出ると、自分で就職活動をし自分が本当にやりたいこと、自分の求めていることをやれるところを自分が探しだしそこに自分が就職する。
自分が決めて納得した就職活動をした人は、自分が決めたのだから会社のせいにはせず、誰かのせいにはせず、自分が決めたことを自分が守り、そこから会社で大切にしていることや共感したことを誰よりも自分から徹底して守ることができる。
自分が決めずに納得していないのに会社に居る人は、自分が決めないのだからいつも何かあるのを会社のせいや誰かのせい、待遇のせいやましてはお客様のせいにまでして、自分が決めないことをいいことに、会社で大切にしていることも破り、自分勝手に独善的な判断をし誰かにやらされたことだけはやるという指示待ち人間になってしまう。
そしてこれが組織のチームワークそのものの問題にまで発展する。
例えば、何かしらの方針を打ち出し大切なものをやるために経営者が決断してもそこをともに見ようともせず、自分がどう見られているかや分かってもらえるか、認めてもらえるかだけに躍起になり、最後にはお客様までも一緒にみていこうとしなくなり、そのお客様からも自分がどう見えているかばかりを気にして仕事をしてしまっている人もいる。
よくよく考えると、お客様にご迷惑をかけないことが価値を守っていることでありさらに価値を伝えるならば自分が会社にもご迷惑をかけない存在になっていなければならない。
そしてそれは、すべてに「約束を絶対に守る」ところからはじまる。
人は、何を信じるかというのは守るかどうかを信じるのであると私は思う。
相手にあわせて守ったかどうかなどは神様ではないからすべてを観ることはできない、しかしその人自身が自分で決めたことを守ったかどうか、皆で決めたことを守ったかどうかは見ることも知ることもできる。
つまりは、そういう皆で決めたことを守ることが信じること、信頼しあう関係を創ることなのだと思う。
これを勘違いし、自分から破る人は最初から守る気がない人であり、自分から弱いとか甘いとか言うけれどそれは自分のことだけしか考えないから自分が守られることばかりを周囲に求め、自分が守ろうとする意志がないことを自分で証明していることになる。
こういう依存体質があれば、そのツケは周囲に周り迷惑をかけてしまう。
いつもいつも迷惑を他人にかけて生きてきた人は、そういう信頼を自分が壊して孤立していくことに気付いてはいない、だからこそなぜ自分がいつもこんな目にと被害妄想をかきたて愚痴や責任転嫁の人生になってしまうのではないか。
本当は、自分が自分を守るのではなく自分から決めて自分が守るという信じられるような実践を徹底することが周囲に迷惑をかけないでいられることだと気づくべきではないかと思う。
人は決して一人では生きてはいけない、だからこそ何か大変なときにはできないことは誰かに頼まなければ助け合わなければ生きられない。
だからこそ自分が迷惑をかけていると思う姿勢や、謙虚に何でもさせていただきますという実践がその信頼関係を築いていく基盤であるべきだと思う。
そしてそういう組織のリーダーは守るものがもしもリーダーが自分を守りたいとあれば、それは大いなる過ちであり、人を調和する役割として価値を理念を守るために一人ひとりのみんなの力を引き出していき借りていかないと大切なものを守ることはできない。
今は、園の経営改善などに関わるけれどそこに関わる人たち一人ひとりの自分が決めて自分が守るという信じる力が何よりも理念を立てるのに必要になる。
見守る保育を広げる以上、信じるということの本質を理解し、実践し、それを感化していくためにも自分たちがモデルを示していきたい。
信じる者がなぜ救われるのかの真実を悟り、自立するということの本当の意義を感じ尽くして社業に努めていきたい。
感謝
2010年08月19日 木曜日
07:58 | 投稿者:
野見山 広明
環境というものがある。
いくら良い素晴らしい環境というものを用意しても、自分で主体性を発揮せず依存しそこに甘んじる人がいる。どういう人がそういう人かというと、何かの出来事を常に周りの環境にせいにしている人のことだ。
「インビクタス〜負けざる者たち〜」という映画がある、この意味は「征服されない」というラテン語からきている。これはイギリスのウィリアム・アーネスト・ヘンリーの詩であり、マンデラ大統領自身の愛している言霊でもある。
マンデラ大統領は、27年間も監獄につながれその後、南アフリカ共和国の大統領になりノーベル平和賞など数々の功績が認められ、人種差別という人間の深い業に真摯に向き合い民衆を正しく指導した王道政治を行ったリーダーだ。
自分がどんな環境にあったにせよ最後まで自分の人生を自分が決めているという環境に負けることのない「自立」という点で私も日々実践し構築している見守る環境というものの定義が生き方そのものを通して説明できる。
その愛読の詩、インビクタスの最期の2行にもっとも環境に対して主でいることの重要性が説かれる。
「・・・ 私が我が運命の支配者 私が我が魂の指揮官なのだ 」
人は、誰しも安易に周囲の環境をみて自分がどうするかを決めていこうとする。人、モノ、空間などでもまずそれが厳しい環境であればその環境にあわせて自分を厳しくし、もしも環境が甘ければそれに甘んじて甘えようとする。
本人の自立しているかの資質とは、環境の中に置いてみるとすぐに分かる。
人間学を積み、人間ができてくれば自ずから心を立てることができて何にも左右されることもなく、自分で決めることができる、そして守ることができるのだと思う。
ある人は、自分で決めた日記を書くということを誰にもいわれずとも必ず書き続けることができ、またある人は自分で決めた掃除などの生活を誰にも言われずとも正しく厳守しやり続けることができる。
しかしある人は、自分で決めたのにいつまでも忙しいからとやろうとはせず、またある人は自分で決めても環境にせいにし言い訳をして実行はせずに常にできない理由ばかりをのべてまったく続けることができない。
これが環境というものに自分がどうあるのかが出てくる、出てくるのは本来の自分自身の主体性というものだと思う。
たとえば、見守るという環境が在る。
これは相手が自立し共生して社会を通して自分の人生を豊かにするためにその平和で幸福な一人ひとりを大切にした環境を国やもしくはリーダーが用意するとする。
その中でもっとも大切なことは、「自分との約束を自分で守れるか、自分のことを自分で律せるか、つまりは環境がどうであれ常に自分で正しい判断と行動ができる善き人間であれるか」ということではないかと私は思う。
例えば、教育でも個人教育や個性教育とは道徳教育と密接に繋がっている。
なぜなら自分で自分を律することができるかなどはすべて自分で決める力を持つ一人ひとりが社会に自分の意志で参画し、正しい倫理観によって調和できるから平和な世界ができてくるのだと思う。個性とはつまり道徳のこと、人間ができるということだと私は思っている。
それをするために、世界の教育では幼少期から「自分で正しい判断を持ち決める、それを自分で守る」ということを絶対評価にし、その絶学ともいう学びから正しい判断基準が持てるような人に育てていくことを重んじている。
しかし今の大人はどうだろうか、誰かに管理されて厳しくされなければ自分を持てないや、環境が甘いので次第に自分都合に流されて自分で自分を甘んじていることをいいことにいつも言い訳ばかりをするようになってしまっている。
小さな組織であれそういう人たちばかりであれば、これでは国家も同じくで、国民一人一人が自分で正しい判断で律していかなければある人は我儘ばかりになり、ある人は自分のことばかりしか大事にせず、またある人は言い訳ばかりで責任を転嫁していたら、確実に国家は滅びるのではないかとも思う、それに正直者が馬鹿をみるような社会がとてもお互いを信頼し合う幸福なものとも思えない。
大学にある、まず国家を修めるにはまずその身を修め、一家を修めとあるけれど、まさにその最初の自分が修まらないのに決して世の中を善くしていくことなどはできはしない。自分との約束が守れなければ信頼と調和の平和はきやしない。
弊社には理念ブックがある
。
理念ブックは、自分たちが守ると決めた道徳的倫理であり、それこそが私たちが自分でクルーでいるという約束でありその自覚こそがともに信頼しあうという証でもある。
それを厳守する、またはお互いの小さな約束は自分が徹底して守り抜くからこそ誰かのせいや環境に甘んじない自分が主体とした自立する信頼関係ができあがるのだと思う。
常に、環境というものを通して、「自分が甘んじない人=自分との約束を自分で守れる人」そしてその判断が正しくできている人こそが自分で自分の人生を主導して支配していける自立した人ではないかと思う。
仕事も同じく、報告や連絡、相談などもそうだし、責任や役割、貢献や共生などもそれをトップダウンなどではなく自分が誰にも言われずとも自分でできることが環境を与えられて甘んじない人なのだと思う。
もちろん、自分で自分を正しく評価できるようになるには自分で考えて選択し全てに納得し決めていく力が育っている必要がある。
その力は、先程の詩にあるように人生の主導権を自分が責任を持ち魂の支配者は自分だと揺るぎない自覚で日々を正しくすることだと思う。
子どもでいえば、嘘はつかない、他人のものは盗まない、約束は破らない、言い訳はしない、他人を騙さない、他人を蔑にしないなど、人として当たり前であることを自分が守れる人であることからそういう正しい判断はできるもの。
子どもたちに見守る保育を展開していくとしても、大いなる寛容の心と揺るぎない信念という柔和で芯のある模範を示し、その環境との関係性や相互作用によってその人格形成のお手伝いをしていくのも私たちの仕事の一つ。
私自身、どんな厳しく甘える環境が周囲にあるとてそこには惑わず迷わず常に自分が納得し決めることを尊重し厳守し、それから学び、そこに潔癖なまでの魂の実践をもって歩んでいきたい。
草奔崛起を志し、大和の精神を伝承していきたい。
2010年08月15日 日曜日
12:15 | 投稿者:
野見山 広明
リーダーは、どの時代もいつも変わり続けていくことが求められる。
停滞して変化をやめたらもうそれはリーダーではないとも言える。
どんな状況下でも、良くないと思えば時としてすぐに決断し迷わず動き、時には不動の信念を持って決断して迷わず動かないということもある。
つまりは、いつも澄んだままで物事を見つめ、素直なままであるがままにしていること、そういう全体を俯瞰しつつも原理原則に沿って迷わない決断ができることが必要になる。
しかし、そう思ってはいても皆がいう意見やとかく常識というものに囚われ考えを凝り固まったものになってしまうことも現実だと思う、なぜならその時、その刹那、人は深く孤立するのではないかとも思う。
リーダーは、孤立や孤独を恐れずに自らの魂を鼓舞し、自らの運命を丸ごと受け容れ自分がまるで器や道具にもなったように神に身を任せ真っ直ぐに立ち向かう勇気がいるのではないか、そう思った。
良かれと思う大筋の筋書きではなんともならないことが多く、この辺だと見込みを立てても平均ないで収まるようなこともできない、常に出来事は明確に繊細に決断を迫ってくるものだし、その時の結果の責任はすべて受け容れる状態でなければいけないときに相談できる人は自分自身の魂や命の向かうところとなる。
不撓不屈の精神や、寛容の精神、調和の精神、模範の精神、徳の精神、人々を鼓舞し導く精神、思いやりの精神など、キリがないけれど、人間が神様に求めるような威徳を備えた神のような人を人々はリーダーに推したがるもの。
そしてそれを観るからこそ、そこにリーダーの凄みを感じて尊敬し崇拝していくのだとも思う。
もともと人間は誰しも同じく人から生まれてくる人の子でもある。
それが、自らの運命と対峙し命の一期一会と向き合うとき強靭な信念と意志が生まれそこから光輝く徳風が磨かれていくのだと思う。
その中で、天に選ばれた人が必然的に世の中で活躍し新しい流れを世界へ創造していくのだとも思う。
チェンジングリーダーとは、リーダーがチェンジするとも言えるが正確にはチェンジングするときにこそ顕れるからリーダーなのだとも思う。
日頃は、ゆったりとしていたとしても時として有事があるとすぐに閃光のように顕れあっと言うまでに流れを変えることができる。
だとしたら、リーダーとはいつもその時が来てもいいように常に準備を怠らない人であるとも言える。
その天が何かを指示する際に、すぐにあるがままに天の運行と命をあわせて動けることがもっともチェンジングリーダーとしての資質ではないだろうか。
人に影響を与えたりする仕事や、人を伝道するような仕事はすべからく変化が求められる。
他に影響されない孤独さや孤立さに打ち勝ち、自らが自らの人生の主導権を持ち、自らが決めた人生を自ら生き抜くという主体性こそがその人の人生を決める。
だからこそ、どんな周囲の環境が壁になったとしてもその人生そのものを最期まで諦めず受容し尽くし、その上で信じる力こそが変化というものには欠かせないのではないか。
常に時代は変わる。
変わるからこそ、人は時代に求められる。
求められたときにこそ、人はその命を輝かせることができる。
謙虚に、自分を使ってくださいや、自分に何かさせていただけることはないかと思いつつ孤独を恐れず大望を抱き歩みゆく日々の実践に載せて夢は実現可能のものになっていくのだとも思う。
小さな日々、小さな生活にも変わらないといけないと思う危機感が溢れている。まずは、人を変えようとする前に、自分がまず率先垂範して変われるような実践を大事にしていこうと思う。
まずは自分が変わること。
すべてを許し、過ちを受け容れ正し、子ども達のモデルとなっていきたい。
2010年08月11日 水曜日
05:18 | 投稿者:
野見山 広明
色々な古典を読み取り、思想を感受感応するうちにある一つの共通点を観ることができる。
そこには、太古から脈々と悠久に引き継がれているている時間が在り生命の営みが新旧今と存在しているように思う。
そしてそこに偉人というものや、もしくは自分の天命を全うしたものの生き方や思想を鑑がみることもできる。
そう思うと、人がこの世で納得し幸福であるとは調和というものをどれだけ内包できる器を持てるに至ったかというのはとても重要なことだと思う。
儒教でも、仁義礼智心をはじめ人としての在り方、道徳が問われる。そして神道では真心、仏教でも同じく様々な戒律により道徳が示される、他のどんな宗教であれ四苦八苦を受け容れるために本筋にあわせて生きる方法を顕わしている。
そして、神道などにあるように天や自然というものを神とし畏れ奉り感じてそれにあわせていく生活としての調和、儒教では仁や恕とし、仏教では曼荼羅などでも伝えられている。
そう考えていくと、天人合一された人間がこの世で天命を果たすことが宇宙創成の意志だとするとその空や無、結い目であるがままというのは自然と道徳が渾然一体となったものではないかとも私は思う。
つまり、人が人であり一流というこは、まさに自然と道徳を併せ持つ人こそだということにならないだろうか。
今の時代は、何か有名であればや人気があれば、もしくは偏っていたり派手だったり、世間では成功者と呼ばれる富豪だったりと、何が一流なのかがわからなくなってきているように思う。
年齢を重ね、仁義に欠けたり、礼儀がなかったり、自己中心的に他を排斥しようとばかりになっていたり、嫉妬や乱暴などの大人に一流などとは思うことは誰しもがない。
やはり、自然であるということは自然界の戒律をよく厳守しあるがままで自分の生命を存分に生かしつつも、人間的な思いやりと理知理性に添った道徳の風紀溢れる人がたくさんの人たちから親しまれるのだと思う。
自然と同じだけでいいのであれば、自分の好き勝手にやって自分の内面の声だけに従えばそれでいいのかもしれない、しかしこの世は人間界で自分を立てていくのだから社会が在る。
社会があるということは、そこに学問を通して習い真似び、それを繰り返す中で自ら社会で周囲に恩徳共生を享受できるような実践をし修身する必要が在る。
学問とは、自らの身を人間社会で修めるために存在し、またその学問を使い大いなる畏れと敬いを持って生きていくことが大切だからこそ生まれたのではないかとも私は思う。
こういう時代、人間社会は乱れ、自然との調和は蔑にされ、二流や三流でいることが楽して生きたり、便利で利得を貪ったりする中で、大変な思いをしている人たちや子どもたちがたくさんでてきるのを感じる。
自分は此処でこの時代に個の命を使って本当に何を為すべきか。
どんな小さな波紋であれ、それが未来と繋がり子ども達の切り開く希望となるならば身を捨て心を磨き、知行合一天人合一こそを本命とし、何よりも一流を目指して学問を深めていきたい。
まだまだできることがたくさんあることに感謝し、次の時代に備えていきたい。
2010年08月10日 火曜日
05:41 | 投稿者:
野見山 広明
人倫の道に中江藤樹の孝徳がある。
もともとこの孝徳とは、親孝行の心を持って天地のからの恩に報いていくという報恩感謝の心の発願でありその人として親を敬愛する実践が人としての完全なる自然のものだと説いたのだと思う。
親によく仕え、親の言うことは必ず聞くということが子としての孝心でありその無償の愛を正しく受け取るということでもある。親の正邪善悪を子どもが理解することもなく、そういうものは死後もしくは同じ境地ではじめて溶解するものであり自分の尺度で思いこんでしまえばそれは過ちとなる。
どんな理由があったにせよ、両親への孝行こそがもっとも大切でありその心が愛敬を産み育て、一円満な家庭を築くことになり、子子孫孫の繁栄と平和と継承を創造し思いやりある人としての道になる。
中江藤樹の「翁問答」にこうある。(岩波書房)
【元来孝は太虚をもつて全体として、万劫をへてもおはりなく始なし。孝のなき時なく、孝のなきものなし。全孝図には、太虚を孝の体段となして、てんちばんぶつをそのうちの萌芽となせり。かくのごとく広大無辺なる至徳なれば、万事万物のうちに孝の道理そなはらざるはなし。
就中人は天地の徳、万物の霊なるゆえに、人の心と身に孝の実体みなそなはりたるにより、身をたて道をおこなうをもつて功夫の要領とす。
身をはなれて孝なく、孝をはなれて身なきゆへに、身をたてみちをおこなふが孝行の綱領なり。おやによくつかふるも、則、身をたて道をおこなう一事なり。
身をたつると云は、我身はぐわんらい父母にうけたるものなれば、わが身を父母の身と思ひさだめて、かりそめにも不義無道をおこなはず、ふぼの身を我身と思ひさだめて、いかにも大切に愛敬して、物我のへだてなき、大通一貫の身をたつる也。
さて元来をよくおしきはめてみれば、わが身は父母にうけ、父母の身は天地にうけ、てんちは太虚にうけるものなれば、本来わが身は太虚神明の分身変化なるゆへに、太虚神明の本体をあきらかにしてうしなはざるを、身をたつると云也。
太虚神明のほんたいをあきらめ、たてたる身をもつて人倫にまじはり万事に応ずるを、道をおこなふといふ。かくのごとく身をたて道をおこなふを、孝行の綱領とす。
親には愛敬の誠をつくし、君には忠をつくし、兄には悌をおこなひ、弟には恵をほどこし、朋友には信にとどまり、妻には義をほどこし、夫には順をまもり、かりそめにもいつわりをいはず、すこしの事も不義を働かず、視聴言動みな道にあたるを、孝行の条目とする也。
しかるゆえに、一たび手をあげて、一たびあしをはこぶにも、孝行の道理あり。
人間千々よろづのまよひ、みな私よりおこれり。
わたくしは、我身をわが物と思ふよりおこれり。
孝はその私をやぶりすつる主人公なるゆへに、孝徳の本然をさとり得ざるときは、博学多才なりとも真実の儒者にあらず。まして愚不肖は禽獣にちかき人なるべし。】
とある。
もともと天地は太虚であるとは、もともと何も見返りを求めない無償の愛がありそのものの実態は存在そのもの、いや存在しないほどに広大無辺、無限の恩が備わっているとしている。
そういうものの恩恵により自分というものがこの世に存在することができるということそれこそがもっとも有難いことではないか、その存在と同じくするものこそ親孝行の道であるとしたのだと思う。
親というものは、天と同じく、太虚つまりは無にして空であるほどに偉大なものだというその感受する心こそ「孝」であるとし、それだけ無私に仕えてはじめてその徳が磨かれるという大いなる道であるとしたのだと思う。
その孝行をする心を忘れ、自我に囚われ迷い、自分の体は自分のものだと自分勝手に親との繋がりを断絶することこそ親不孝であり、本来ならばいつも子は親を心配し、親のことを懇ろに大事にし、親を敬い奉ることをしてはじめてそのエゴは取り払われ、本来の正しい道徳に適った生き方ができるというもの。
そこから、君には忠を尽くして仕え、年長者は立て、年下には恵み、朋には信頼を、そして夫婦には筋道を重んじ、一切の虚言や偽りなどを軽々しく言わず、正しくいつも律儀に仕事をし、その見ること聞くこと、話すこと、行うことすべてが道になっている。これこそが本来の孝徳の道であるという。
自分のモノサシで天が分かるはずもなく、自分の尺度で孝が分かるはずもない。
一部の不信すらもないほどに、天を敬い愛する心と同じくして親を敬い愛することができてはじめてその孝徳の意味を知ることができるのだと思う。
親に対して孝ということの無限の徳は、無私であることを実現し、そういう状態であるときこそ中庸であることができるというもの。
自分と言うものをはき違い、自分のことばかりを大事にし、そういう父母の恩を感じなくなった所から御縁への感謝や、無償の愛へ対する徳の実践への怠慢がはじまり驕りが生まれる。
常に日々の生活に父母の感謝の心を持って、正しい道を歩みたいと思う。
本来あるべき姿は孝徳であり、孝徳こそが今の時代のあるべきように繋がることを信じて、子ども第一主義の大義を貫いていきたいと思う。