子どもの権利とは

人間の尊重というものを考えるとき、様々なことを自分が自由に選択できる権利があるということが西洋では特に重視されるように思います。先日、あるニュースで安楽死についての記事を読んだことがありました。日本では、あまり注目されませんでしたがいのちの尊厳について議論されていました。

この安楽死はカリフォルニア州やオレゴン州など一部のアメリカ以外に、ヨーロッパではスイスが1942年と古く、続いてオランダ、ベルギー、ルクセンブルグで合法となっています。

この時、印象に残ったのは「死を選ぶ権利がある」と言っていた言葉です。

この選ぶ権利があるということは、人間の尊重や尊厳についてのことが語られているからです。権利というのは、日本では自分に与えられた当然の既得権益のように権利が語られますがこの権利の定義がはっきりと理解していないと意味が分からなくなっていくように思います。

例えば法律上、法によって保護された利益に関し個人または団体に対して認められる活動の範囲(客観説)、自己の意思の優越を主張できる状態(意思説)とも言われたりもします。この法と権利は表裏一体であり、権利は法の主観的側面でフランス語のdroit(subjectif)、ドイツ語の(subjektives) Rechtなど、ヨーロッパの言語では、法と権利が同じことばで表現されているといいます。

そしてこの「法」とは(英: law)とは、道徳などと区別される社会規範の一種のことを指します。 一般的にイメージされる法は、一定の行為を命令・禁止・授権すること、違反したときに強制的な制裁(刑罰、損害賠償など)が課せられたり、裁判で適用される規範として機能することなどを想像しますが本来は道徳のことです。

社會の中で集団で生きていく以上、人間としてやってはならないと思われることや周りに対してこれは犯してはならない道徳、社会規範があります。このようなものを法にして人類が共存共栄するために用いられているものが法であり権利であろうと私は思います。

この権利の意味を、正しく理解しなければ教育における「参画」の必要性なども理解が疎くなるように思います。子どもたちの人権を保障するというのは、先ほどの法や社会規範、道徳によってどうあるべきかを、自ずから幼い頃の集団生活によってそれぞれが学び、それを社會の成熟のために訓練を続けていくのです。

引き続き、なぜ権利条約があるのか、権利のはじまりとは何かを深めてみようと思います。

子ども観のはじまり

改めてドイツに来て学校を視察していると、ヨーロッパの子ども観というものを確認することができます。私たちは表面上に現れている今の結果を洞察するにおいて、その根がどのような観念によって支えられているのかを洞察することでその事実を察知することができるように思います。例えば、いくら表面上が似ていてもその根元にある歴史や価値観が異なるのであれば似て非なるものになるからです。

ヨーロッパには、子ども観において日本とは異なる文化を持っており幼児教育や子どもの人権などが用いられて今の姿になっているのも近代に入ってからです。十五世紀頃までの中世ヨーロッパではどこの家でも7歳前後くらいには徒弟や家庭奉公として他人の家にいき、また他人の子供たちを自分のところで受け入れて教育していたといいます。一部の教会や修道院などで教育が行われたのはほんの一部のエリート層だけであり、ほとんどがどこかの家庭に入るか、職人の徒弟になり見習いをしながら生活を成り立たせていたのです。中世までは子どもも大人も関係なく、一緒に生きていくために生活に具体的に参加しなければ生きていくことができなかったのです。

そこから近代に入り西洋の子ども観が変化します。それまでは生活生産の担い手として小さな大人として見ていた子どもの存在が、大人たちによって保護され、愛され、教育する対象の子ども観が出てきます。ここから大人と子どもとの分別がはっきりと切り分けられ子どもは生活の担い手というよりは、子どもは大人とは別で教育をする義務がある存在となっていきます。

確かにむかしの西洋の時代ものの映画を観たりすると、子どもが中心ではなくあくまで「大人たちの生活の中に付属して子どもが労働を通して生活の一部を担っている」シーンを沢山みます。日本においても、むかしは家の中で子どもが一緒に暮らしを担い、様々なお手伝いをしました。同様に子ども観は、生きていく協同体としての小さな大人であったというのは理解できます。

ではなぜ近代に入り子ども観が変化したのか。そこには近代国家における産業革命や、子どもが国家を繁栄させる存在として新たな子ども観の価値観を定義する必要があったからではないかと私は思います。この辺は長くなりますが、現代の国家形成における教育を俯瞰してみると何のために教育があるかを深めれば自明するものです。

本来、人類の原始に戻れば大人も子どももなく男も女もない、すべては一つのいのちとしてお互いを尊重していたという歴史のはじまりが存在します。そこから文明の発展ともに社會が分化していく中で、より自分たちに都合がよい解釈をもって集団の価値観を操作し、整合性を保つためにあらゆるものを分けて整理していくようになりました。

この世界の「子ども観」においても、同様に国家における「子ども像」と、本来の子ども像の間には様々な乖離があります。子どもの仕合せとは何か、子どもの人権とは何か、ヤヌス・コルチャックが子どもの権利条約の中で記した文章には、本来の生命の尊厳と人類の平和のことが記されている気がします。そこには「子どもはだんだんと人間になるのではなく、すでに人間である」と説きます。

子ども観というものを入れ替えられたことなど、今の私たちには気づくことはありません。しかしこの西洋の子ども観が日本に入ってきて、日本の子ども観はどのように挿げ替えられてきたか、そのことを私たちはもう一度、学び直す必要を感じます。

歴史を学ぶということは、どのように価値観が変わってきたかも学ぶことであり、社會を知るというのは、どのように社會を変化させてきたかを学び直すことです。

引き続き、自分の中にある価値観を疑いつつ、改めて原点回帰や初心を振り返って確かな判断基準をもってこれから先の道を修正していきたいと思います。

参画協働意識

昨日は2か所のミュンヘン市内の保育園と幼稚園を視察しました。その1カ所は文化財になっている130年くらい前の古民家を改修して利用している保育園。もう1か所は、オープン保育や小さな科学者といった教材やノウハウの認定を受けた幼稚園です。

久しぶりに訪問して興味深かったのは少し前まではクラスという概念の中で各クラスの部屋の中にコーナーやゾーンが存在していましたが今回はすでにクラスがそのままコーナーやゾーンになっていました。つまり園の中にクラスが分かれているのではなく、園そのものがクラスという概念になっている感じです。

これは個々の子どもの発達や個性を大人たち職員みんなで見守るという仕組みであり、これはミマモリングソフトでよく言う、全体から個ではなく、個から全体を観ていくという仕組みと同じ方法です。このようにミュンヘンの陶冶プログラム(日本でいう保育指針や教育要領)の理念に沿って発展を続けていました。

ミュンヘンでは昨日書いた「参画」をどのように見守り育てていくか、それが保育に反映されています。以前、私もこのブログで紹介しましたが参画協働は一人ひとりがよりよい人生を成熟させ、社會の中で主体性を発揮していくためにも絶対的に必要な力の一つです。

そもそも参画とは協働することです。

人間が社會の中でそれぞれの持ち味を活かし協働するためには、単なる参加ではなく最初から参画している必要があります。言われたからやるではなく、指示だからやるでもなく、自分に関係があるからやるでもない。

自分が所属しているすべての世界において、自ら考えて自ら行動することが協働することです。協働というのは、日本では誰かと同じことをすることだったり、全体のために自分を使うことだったりという認識を持っている人が多くいます。

しかし全体のためにといっても、参画は全体快適のことであり、協働というのは一緒に物事を自他を分けずに一体になって取り組んでいくことを言うのです。

資本主義や歪んだ個人主義の刷り込みは、人々のつながりをバラバラにしていくことが無意識行われていくものもあります。いろいろな縁が結ばれながら社會は大きな生命体として発展していくのですが、その社會に責任を持とうとせずに自分さえよければいいという考えを持ってしまえば、世界はもっとバラバラになります。

現在の世界情勢をみてみても、保護主義を中心にそれぞれが自分のことばかりを自国のことばかりの利益を叫ぶようになりました。本来、人類は今まで何を大切にしてきて生き残ることができてきたか。

教育は社會そのものに通じていますから、すべての教育に関わる人たちはこのことを真剣に考える必要があると私は思います。

参画や協働は、日々の働き方の中に出てきます。単に仕事をするのか、それとも働くのか。人生でいえば、ただ学校に行くのか、それとも自分の人生を生きるのか。

自分の足で歩んでいく力をつけるためにも、参画協働の仕組みはこれまでの刷り込みを取り払う重要な鍵です。引き続き、ドイツ視察を通して参画協働の試行錯誤を洞察し社業でも活かしたいと思います。

 

 

参画意識

昨日はミュンヘン市内の幼稚園を視察しましたが子どもたちが、それぞれに自分のやりたいことを尊重されている環境が格段に成熟しているのを実感しました。ドイツではオープン保育というものが実施され、子どもたちがそれぞれに自由に自分たちのやりたいことを尊重されながら子ども同士で社会を形成していきます。

この子どもの姿には、ドイツの伝統的な自由な空気が流れているのを発見します。ドイツは複数の独立した16の州によって構成される連邦国家です。この連邦制のシステムの特徴は州は単なる中央集権に見られるような地方政府の位置づけではなくきわめて強い権限を持っているのが特徴です。州は独自の州憲法を制定していますし、教育理念などもそれぞれに異なります。

このバイエルン州政府の教育を経済成長の中心に据えており、革新的かつ住みやすい社会の基盤であるとし教育への投資が進んでいます。特にこのミュンヘンは、子どもたちが安心して自分の得意分野や社会への参画がスムーズになるように多様な選択やケアが充実しています。

昨日は特に「参画」について、発見することがありましたが民主主義の成熟と共にそれぞれが政治に興味を持ち、自分たちから対話を通して未来を切り拓くための訓練を教育の中で取り入れているように感じました。

具体的には、幼稚園の頃から子どもたちが集団の中で自分の意見を尊重されそれによってお互いの考えから学び合い高め合うという習慣です。

これは人間がもっともお互いに協働して協力し長く思いやりながら社会を育てる人類の伝統的な社會の育成方法であり、日本にも「和」といって衆知を集めて社會を守る仕組みが存在しています。

本来、民主主義とか資本主義とか共産主義とかいろいろといわれていますがそれが分かれていく前が一体どのようなものだったのかを考える必要があります。

人類はどのようにこの厳しいて慈しみのあり自然界で生き延びてきたか、歴史が教育の支柱でありその支柱に何を据えていたかは時代が変わっても人類の道しるべであることは変わらないからです。

どの時代にもどの国でも人類は、「対話」のやり方は工夫しています。私たちは日本の伝統の智慧を二宮尊徳の思想から取り入れて一円対話という仕組みを復古知新していますが、この多様性を尊重してきたドイツでの対話の仕方や尊重の伝統の教育方法が具体的にどのようになっているのか興味深々です。

引き続き本日の視察先でも子どもたちが「参画意識」をどのような環境で芽生えさせ見守り育てているのか。未来の社會をどのように子どもたちが創造していこうとしているの見守っているのか、歴史が色濃く息づくこのミュンヘンの事例を検証して学び直してみたいと思います。

歴史からの洞察~ミュンヘン~

昨夜、無事にドイツのミュンヘンに到着し安着祝いとしてドイツ料理やビールなどをみんなで楽しみました。ミュンヘンは、伝統と革新が常に行われておりまちづくりにおいても参考になるところが多々あります。中央駅にも行きましたが数年後に向けて全面改修されるビジョンが映像で紹介されていましたが、周囲の伝統的な古い建築物に囲まれたこの駅が、近未来に目を向けた最先端の技術で建造されているのを知り本質的な議論が交わされて物事が動いているのではないかと洞察できます。引き続きドイツのはじまりに続けて少しミュンヘンのことを深めてみます。

このミュンヘンはバイエルン州の州都でありベルリン、ハンブルクに次いでドイツでは3番目に大きな都市で、市域人口は140万人近くに達しています。そしてバイエルン州はヨーロッパでも最も古い州の一つで、その歴史は6世紀までさかのぼります。

中世の時代から19世紀初頭まで、バイエルンは強力かつ巨大な公国でありそのはじまりはヴェルフェン家、続いてヴィッテルスバッハ家が統治しました。今回、週の後半に訪問するレーゲンスブルクは精神的かつ経済的にも重要なヨーロッパの中心地に発展した都市であるとも言われます。

そのバイエルンは1806年1月1日から1918年11月8日までの間、百年以上にわたって6人のバイエルン王が立憲君主制によって統治されていました。最初のバイエルン国王はマキシミリアン・ヨーゼフ1世で、彼は皇帝ナポレオン1世との同盟によって国王になった人物です。

しかし第一世界大戦の影響を受け、共産主義のバイエルン・レーテ共和国によって変えられ1919年には議会制民主主義となり、ナチスの政権下ではバイエルンの自由が奪われましたがその後の1946年12月1日にバイエルン自由州の設立が国民投票によって承認され今に至ります。

このミュンヘンは、芸術も戦争も、文化も伝統もすべて突出した観光の場所とも言えます。この観光はこの場所から学ぶことが多いという意味でこのミュンヘンで起きた様々な歴史を紐解けば、激動の歴史と人間の生き様が詰まった知恵の結晶の場所であることを再確認できます。

ヨーロッパの歴史の教訓を得て、今、このミュンヘンは何処に向かっていくのか。

今回の訪問では、伝統と革新と現代と未来をこの場所で感じてみたいと思います。

ドイツのはじまり2

ドイツの歴史が近代に入ってきますが、ユンカー出身のオットー・フォン・ビスマルクがプロイセン首相に就任し、鉄血政策を推進しドイツ帝国が成立します。しかしその後の首相、ヴィルヘルム2世は親政開始と同時に帝国主義的な拡張政策に転換します。

このヴィルヘルム2世は、ヨーロッパを巻き込み第一次世界大戦を勃発させます。アメリカも参戦し、1918年キール軍港の水兵の反乱を契機としてドイツ革命が発生すると、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命します。ここでドイツ帝国は崩壊し、ヴァイマール共和国となります。

敗戦後、ドイツは(ヴァイマール共和国)は敗戦国として結ばされた講和条約のベルサイユ条約は非常に過酷な条件を課せられました。賠償金の支払いは困難を極めドイツ国内ではインフレが進み、賠償金の支払いが滞る事態となります。ミュンヘン一揆なども発生し、民衆の不満はどんどん加速していきました。

しかしシュトレーゼマン内閣の時期には賠償金の支払いに関しても条件が緩和され、インフレ対策も功を奏し、経済と政情も少し安定してきます。さらにロカルノ条約を締結し、国際連盟に加盟しようやくドイツは国際社会に復帰することとなります。

安定もつかの間、アメリカに端を発した世界恐慌に巻き込まれ経済が急速に悪化し混乱します。この時、あの有名なアドルフ・ヒトラーが台頭してくるのです。

政権を獲得したヒトラーは国内的には公共事業により経済の立て直しを図る一方で、「ニュルンベルク法」に代表される人種政策を実行します。さらに軍備を急速に拡張し、国外に向けて侵略を次々に開始していきます。ポーランドに侵攻した際に、イギリス・フランスはドイツに対して宣戦布告をし第2次世界大戦が勃発します。ドイツの勢いが強く、はじめにフランスが降伏、さらにイギリスを除く西ヨーロッパを制圧する勢いで勝利を重ねます。

しかし、ソヴィエト連邦のスターリンと結んだ「独ソ不可侵条約」を破棄し独ソ戦争に発展し、急速に勢いが衰え各地のドイツ軍は敗戦が続きます。最後にはベルリンがソ連軍により包囲され、総攻撃が行われヒトラーは自殺し1945年5月、ドイツは連合国に対して無条件降伏するのです。

敗戦後、連合国の占領、管理下に置かれたドイツは、1949年5月、米・英・仏の占領下にあった地域では自由主義・資本主義国家としてドイツ連邦共和国(西ドイツ)ができ、ソ連は同年10月に占領地域を共産主義国家としてドイツ民主共和国(東ドイツ)ができます。東西ベルリンの間に「冷戦の象徴」とも言われた「ベルリンの壁」が設けられ対立がはじまります。

そしてソ連の書記長ゴルバチョフが始めた「ペレストロイカ」の波が東ヨーロッパに押し寄せた結果、東欧各地で民主化が起こります。1989年11月、東西ベルリンを隔てていた壁の検問所がなかば自発的に開かれ、ベルリンの壁が破壊されます。これにより東西の往来が可能になりドイツが再び統一され大国としてEUの中核国になります。

敗戦後の復活は日本と似ていて、西ドイツを中心に経済を発展させ著しい成長を遂げました。統一後もドイツは、ものづくりや貿易によって世界の経済大国の一つに返り咲きます。

現在のメルケル首相は、2005年11月22日に首相に就任してから「ドイツのお母さん」と称され、高い支持率を誇りEUの盟主としてイニシアティブをとってヨーロッパ経済をけん引しています。しかし、ここにきて中国との経済協力の見直し、増え続ける難民と移民の問題、ロシアとの関係、ギリシャ危機、イギリスのEU離脱、他にも好調だったドイツに影が見え隠れしています。

これからどのようにドイツは歴史の舵を切るのか、日本も似た境遇にあったドイツの取る道筋が参考になることも多いと思います。

さて、簡単に歴史を辿りましたがドイツはこうやって何度も分裂と統一を繰り返し多様性を維持しながら発展させてきた国家です。世界の中でのドイツがどのようになっていくのか、現在の教育や保育の中にもその未来への種が隠れています。

今回の視察では、伝統文化や歴史、現在のドイツの事情を洞察しながら日本の未来を直観する研修にしたいと思います。

 

 

ドイツのはじまり1

明日から一週間、久しぶりにドイツへ視察研修に訪問します。このドイツ視察研修は4回目になりますが、今までとは違って日本の伝統文化を深めているからか改めてその国の多様性や暮らしについて興味が湧き、新たな発見の予感がありワクワクしています。

せっかくなので訪問前にドイツの歴史について少し深めてみようと思います。

このドイツという国は、ヨーロッパのほぼ中央にありおよそ人口8,108万人、総面積357,121㎢で16の州からなる連邦国家です。もともとローマ帝国時代には、ゲルマニアと呼ばれていました。その後ゲルマニアは次第にローマに溶け込み、800年にローマ皇帝としてのちの神聖ローマ帝国の祖とされるカールが帝冠します。そしてカール大帝はイギリスの神学者アルクィンを宮廷に招き相談役として共に「カロリング・ルネッサンス」と呼ばれる古典古代(ローマ)文化、カトリック、ゲルマン文化の要素を融合した独自のヨーロッパ世界を創り上げました。

その後は、息子たちに遺産相続として領土を分割します。この時に、現在のドイツ、フランス、イタリアの原型ができました。ドイツ王国の初代国王は選挙で選ばれたコンラート1世といいます。三代目に選出されたオットー1世が神聖ローマ帝国という国家理念を樹立しキリスト教理念に基く普遍的な帝国を目指していきます。ここで宗教的な理念の対立が生まれローマからドイツが離れていきます。そして有名なマルティン・ルターが現れ宗教改革が行われます。ルターを擁したドイツが、新約聖書のドイツ語版を完成させます。こうしてカトリックとプロテスタントに分裂しました。その後、30年間に渡りこの両者の勢力によってドイツ国内を中心に戦争が続きました。戦争が終わって衰弱しきった国家にペストなどが流行し人口は激減、神聖ローマ皇帝の地位は名目上のものとなりドイツは300もの領邦に分かれた領邦国家として存在していくことになります。

そして名目だけ存在していた神聖ローマ帝国は、フランスのナポレオン皇帝の台頭により完全に解体されました。そしてナポレオンの衰退と共にドイツはオーストリアを盟主として連邦国家として名乗りを上げます。その後はプロイセンが中心になりドイツ統一国家の道へと繋がっていきます。

このようにもともとゲルマニアのローマの融合からそれぞれの国家間の融合に続き、それぞれの領邦の融合がありました。ドイツという国は、いわば多様性を維持したまま存在する連邦国家であるというのが歴史から見て取れます。

それぞれの地域性や生活文化を大事にして伝統がいつまでも遺り大切にされているのは、それが領邦の暮らしを守るものであったからです。

引き続き、はじまりを深めつつ近代ドイツを深めていきたいと思います。

 

 

 

日本伝統教育の甦生

日本には古来から優秀な教育方法があります。明治時代に教育方法も西洋式のものに移行し、それまでの日本の教育を捨てていきました。150年前にあったものがなくなってしまい、現代の状況を省みると今一度、自国の歴史に学び、日本の伝統的な教育の本質を学び直し温故知新していく必要性を感じます。

以前、深めた教育方法の一つに鹿児島の「郷中教育」というものがあります。もともと島津藩で編み出されたこの教育方法はその後、大勢の偉大な人物を輩出する基礎になりました。最近では西郷隆盛が注目されていますから、同時にその西郷を育てた教育も改めて参考になるように思います。

その郷中教育とは何かと説明すると、現代でいうところの郷中=町内で実施していた教育方法です。薩摩藩は城下町の一定範囲を「郷」で区分していましたこの「郷」を現代で言う所の町内のようなものです。つまり町内会の教育制度のようなものでそれぞれの「郷」で暮らす中で子どもたちは町内で見守られながら教育を施されました。具体的には6、7歳〜10歳までを「小稚児」(こちご)、11歳~14、15歳までを「長稚児」(おせちご)14、5歳〜24、5歳までを「二才」(にせ)、24、5歳以上を「長老」(おせ)と呼び、それぞれがグループになり、読書、剣術などの修行を行いました。

この郷中教育の特徴は、子ども同士で学び合う仕組みです。保育の世界では、異年齢保育などという言い方をしますが、子どもの発達段階に応じて年長者が年中少者を教え導く伝承の仕組みです。つまり長老(おせ)が二才(にせ)を教育し、二才(にせ)が長稚児(おせちご)を教育し、長稚児(おせちご)が小稚児を教育する。このように、年長者が年少者を教育するのです。西郷隆盛が生きた幕末の薩摩藩には、全部で23の郷中があったといいます。この23の町内でそれぞれに見守られながら子ども同士で学んでいました。本来、むかしの日本はほとんど両親は農作業などの日常の暮らしに没頭するため家庭での子どものお世話はお祖母さんが行っていたとも言えます。教育ママなど出てきたのはエリート教育を施し始めた明治頃からであり、それまではほとんどは教育はお寺のお坊さん、武士、儒学者などの一部の人たち、それ以外はすべて子ども同士で行っていたのです。それを地域の大人たちが遠目に見守っていたという具合です。

基本的には子どもはほとんど両親の手伝いで勉強をする時間はありませんでした。実際に暮らしていくことはやることがいっぱいですから、子どもが子どもの世話をするのは当たり前だったのです。戦国時代を経て江戸時代になると藩の教育方法をさらに発展させ、全国各地にできた私塾や寺小屋によって子どもたちは劇的に学ぶ環境が出来上がりましたがそれまでは学校などもなく教育制度は発達していなかったのです。

郷中教育に話を戻します。

それではどのように郷中で子どもたちで学び合っていたのかということです。この仕組みがとてもユニークで、その教育のほとんどが徹底した口述「対話」が重視されたといいます。

具体的にはまず子どもは早朝からひとりで先生の家に行って儒学や書道などの教えを受け、その後は子どもだけ集まって「車座(一円)」になり、今日学んだ内容を持ち寄り口頭で発表しあいます。それを「詮議」といいます。

この「詮議」こそ郷中教育の根本的な教育方法であり、「君ならどうするか?」とお互いに質問し合ってそれぞれの解決方法をみんなで問いあい自分の意見を言いあう訓練をするのです。主体性や自主性、問題意識などを自分の力を使って物事を判断し行動する力を養ったとも言えます。

現代は、自分がどうしたいのわからないといった指示命令型の組織の中で教育された人は主体性が失われ受け身であることすらわからずに自分を見失うことが増えています。そういう幼い頃から、「自分で考える」ということを諦めた人は考えていいのは指示を出された後だけであり本来の「自分はどうするか?」、「君ならどうするか?」という根本問題を考えようとしなくなっていきます。これこそが主体性の欠落になり、自分の人生を自分の足で歩んでいくことができなくなるのです。

そのようなことがないようにここでは、必ず「詮議」をして「自分はどうするか、あなたはどうするか」と訓練をしてお互いの多様性を認め合う人間力や聴く力を高めます。

その後は、内省をして振り返り、どのように改善すればいいかを語り合い学び合いまた日々の修養に努めます。この「対話」という仕組みはまさに人間尊重の教育のあり方であり、私たちが取り組んでいる一円対話や団欒などにも通じています。

教育の根本的な方法は、古来からの日本の伝統教育の仕組みの中に入っています。この智慧を復古創新していくことが人財育成の鍵にもなります。

世界に誇れる日本の文化や教育が単なる輸入品だけというのは寂しいものです、私たちも社業を邁進しながら試行錯誤し日本の教育を甦生させていこうと思います。

 

日本人の教育の原点

日本の民話や昔話には、深い智慧がありそれを読み聞かせることで子どもたちはそこから様々なものを直観するものです。特に終わりがはっきりしていない物語ほど、考えさせられることが多くなぜという意味を感じさせるものばかりです。

特に、日本の昔話や民話は動物たちや妖怪、幽霊や鬼、また植物などをはじめすべてのものが擬人化されて語られます。八百万の神々といって日本では、どんなものにもいのちが宿っているとして当たり前にそれが民話や昔話で語られます。

つまりは日本人の価値観として、無生物といわれる「物」に至るまでいのちがあると信じているということです。

もともと「物体」とは、「物」の「本性」という意味です。この「体」とは、そのものの本体のことを示します。物体とはいわば、そのものの本性のことを示しそのものの本性は何かということを現わしている言葉です。そして「勿体ない」という言葉は、そのものの本性が消失すること、つまりは本体のハタラキが消えてしまったことを指します。

物の本性は「いのち」ですから、そのいのちが失われてしまうことを勿体ないとむかしの日本人は言いました。すべての物にはいのちが宿っていくからこそ、そのいのちを失わないように大切に使い切っていこうとするのです。

供養があるのは、そのいのちのハタラキが消えたものたちに対しての思いやりと感謝でありむかしは当たり前にそのいのちを観ながらその物を活かしていたとも言えます。

現代は、物にいのちがあるとか言うとすぐに気味が悪いと煙たがられたりまだ使える懐かしいものでもゴミのように簡単にポイ捨てしまう世の中です。むかしの日本人の価値観が失われていくことで、八百万の神々といった価値観や日本人の文化もまた塗り替えられていくように思います。

昔話や民話を大人が子どもに読み聞かせることは、大人も子どもも日本人の価値観を学び直して文化を習熟していく伝承の仕組みです。改めて子どもの頃に読んだ話や聴いた話を思い出しながら子どもに言い聞かせていると自然に子どもの頃に感じていたことや直観したいのちを思い出すことができます。

大人になって知識が増えて、子ども心に当たり前に観えていたものを忘れてしまった頃にもう一度思い出すことは大切なことです。そして子どもから学び直し、子どもと共に先人たちが出会った出来事から学んだ大切な道理をまるで絵本を読むかのように自然に習得していくという教育方法は道理に適います。

これは学校で試験やテストや受験で学ぶ教育とは異なり、好奇心のままに愛情深い真心が水が真綿に沁み込むように自然に智慧が入っていきます。

この智慧の伝承の仕組みこと教育の本質であり、日本人の学び方だったのかもしれません。

色々と現代はテクニックでエリート教育が過熱していきますが、本来の教育とは何のためにあったのか、そしてどのようにしていたのか原点回帰する必要性を感じています。

引き続き、子ども第一義の理念に取り組んでいきたいと思います。

伝承の知恵

むかしのことを調べていると、時代環境によって伝承の仕方が変わってきているのが分かります。現代はむしろ伝承だけが消失している気がして大きな危機感を感じます。

例えば、むかしはお坊さんが説法などで因果応報が原理原則などを怖い物語で語っていたことなどもあります。幼い頃は、鬼が出るや妖怪や幽霊、地獄の話やバチがあたるなどの話を聞くと怖くて身震いしていた記憶があります。

怖いという感覚は、そのまま畏怖になり神様の存在や目には観えないけれどそこには外れてはならない道が存在していたように感じました。日本昔話に出てくるお地蔵さんの話や、各地での伝承の話にはすべてその土地や風土で起きた悍ましい出来事に子孫たちが再び出会わないようにと口伝によって伝承されてきたものもあります。

まさにこの伝承は人類の知恵であり、人類は教えずとももっとも大切なことは何百年、何千年と教わってきたとも言えます。神話なども同様に、恐ろしいものもたくさんありますがこれは怖ろしい物語によってかつて先祖たちが何かしら体験した教訓や回訓を直観して気づくような仕組みになっているのです。

今では文字や映像など記憶媒体が進化していますが、すぐに忘れ去られることが多く短期記憶になってしまいます。先ほどの畏怖は、一生忘れないような長期記憶であり大事な場面で私たちの判断基準に大きな影響を与えます。

特に勧善懲悪の話や、因果律の話、さらに道理や原理原則など昔の伝承の中にはその智慧がふんだんに詰まっています。それを幼い頃から知識ではなく智慧で持つことは、その後の人生の歩む道中の叡智となってその人を助け見守るのです。

学校で教えるような教科書的な知識でテストのために暗記するようなものではなく、その恐れを直観する人や道理に精通した人物たち、経験者や年配の覚者たち、むかしでいえばそれがお坊さんや長老、神官、儒学を学んだ武家、修身修養した人物たちによってそれは子どもたちに語り継がれてきたのかもしれません。

子どもたちを育てていたのは一体誰だったか、どのような環境だったか、時代が変わっても変わってはならない本質というものがありそれが文化や伝統の中に存在しています。

引き続き、子どもたちにとって温故知新する必要がある時代の保育環境を見つめ直していきたいと思います。