しなやかな成長

人は何かの問題が発生するとき、それを解決するのを外側に求めてしまうものです。この時の外側とは自分以外を変える方法のことで、自分は変えずに方法によって変えようとします。確かに方法によって自分が変わることはありますが、それは方法によって自分が変わっただけであり本質的には変わるといことは自分自身の意識が変わるということを言います。結局は相手がや周りがではなく、自分自身の意識が変わることでしか問題は解決することはないのです。

今まで嫌だなと思っていた人がいて相手に変わってもらおうとしてもその人はそう簡単には変わりません。変わらないからといちいち腹を立てていても、ストレスやつらい思いをするのは自分の方です。しかし自分の意識さえ変わってしまえば、そんなに気にならなくなり腹を立てることもなくなります。それくらい世界は「自分の意識」によって左右されています。本物の自信を持つまでそれは繰り返し波のように人間関係によって現れるように思います。

相手や誰かに求めるのは、自分を変えたくないと心がガチガチに凝り固まっているからとも言えます。自分のやり方は間違っていないと思ったり、常識は自分の方だと正論をかざしていたり、罪を相手に押し付けたりしているうちにより心は凝り固まっていきます。

そうやって腹を立てれば、腹を立てていることに過敏にお互いに干渉するようになり一向に物事の観方は転じることなく互いに凝り固まって相手を批判することに終始してしまうものです。

自分が正しいとか間違っているとか正否優劣を振りかざす前に、自分の心を解きほぐしひょっとしたら相手にも一理あるかもしれないという心のゆとりを持つことで意識が変わる切っ掛けを創ることができるように思います。

自分も一理あり、相手にも一理あると、お互いの言い分にそれぞれ理があると思う心の余裕がガチガチに凝り固まった心を解きほぐしていきます。また、きっと何か相手には変えられない理由があるのだろうとゆるし思いやる心の余裕を持つことで意識は転じていくことができるように思います。

無理に自分以外を変えたいと思うときは、自分の心が凝り固まっているシグナルです。相手を認めることであったり、相手の個性を尊重することであったり、相手の持ち味を引き出すことだったり、相手の長所を探したりと、お互いを尊重し合う関係ができればかかわりも楽しく充実していきます。

この人間尊重というものは、心を柔軟にし周りを認めながら自分自身を認めるというゆるやかでしなやかな感性を磨く大切な素養であり徳目です。

歳を経れば経るほどに凝り固まって頑固になっていくのが人間ですが、同時にすべての物事や人物を尊重して人格を高め続けるしなやかな成長はいつまでも大切に続けていきたいものです。

素直な心とは本当は何か、子どもたちにその姿が見せられるように自分を変えていく発達の楽しさを味わっていきたいと思います。

 

安心運転、安心社會

何かの問題がトラブルが発生するとき、人はその問題やトラブルを何かのせいにしようとするものです。それが例えば環境のせいであったり、誰かのせいであったり、会社のせいや家庭のせいなど、何かのせいにしてしまいます。

実際にそのことを深く見つめて、何のメッセージだろうかと受け取ってみるとそれはほとんど自分の内面の問題であることが分かるものです。自分の内面の心やものごとの観方を転じない限り、それはいつも誰かのせいや何かのせいになってしまいます。

確かに環境を変えたり仕組みを変えることは大切ですが、その大前提に自分のものの見方を変えていないと環境のせいや仕組みのせいになってしまうかもしれないのです。

自分の価値観で自分が観ている世界が自分の置かれた世界であり、その世界の問題は自分が問題にしてしまうことで問題となります。人は観方によってそれを問題と観たり、チャンスと観たり、それはその人の心の状態に由って変わってきます。

心は車の運転と同じようにその人の癖が出てきます。ある人はスピードを出し過ぎたり、ある人は周りを見ずに暴走したり、またある人は自分で運転しようとしなかったり、またある人はクラクションばかり鳴らしたり、またある人は自信なさそうにノロノロ走ったり、その運転には癖があります。

この車の運転はまるで心の運転と同じようにその人の生き方の癖があるのだからそれを気を付けて練習を繰り返して心の運転を上手になっていくしかないのです。スピードを気を付けて安全運転をしたり、周りをよく見て確認したり、自分で苦手な縦列駐車を何度も練習してみたり、クラクションを鳴らさず譲ったり見守ったり、自信をつけたり、運転を通して生き方を磨く必要があります。

問題やトラブルは、自分の心の運転から発生することですから自分の心の状態を見つめ、生き方を省みて捉え方や観方を転じて行動していくことで問題やトラブルが意味があることになり本質的に自分を素直に成長していくことができるのです。

いつまでも誰かのせいや何かのせいにしていたら、停滞が続くだけで自分の観方の方だとは気づかなくなります。相手が変わるわけではなく、自分の心が変わったから相手が変わるのであり相手は変わることはありません。

相手を変えたいのなら自分を変える、世界を変えたいのなら自分が変わる、会社を変えたいのなら自分が変わると、変わることを楽しんでいく方が誰かや何かのせいにして煩悶するよりも心が穏やかになっていくものです。

心のコントロールをするためには、自分に矢印を向けてこれは観方を変えるチャンスであり、自分がもう一つ場を移す岐路だと肯定的に感じて、素直に自分の方を変えてみようと取り組むことで安心運転ができるように思います。

誰かのせいや何かのせいは、自分は変わらないから周りに変われと無言で強要していく行為です。世界は自分が主体的に創造していることを自覚し、自分が世界をよりよくしようと自分の観方を変えて世界をより楽しく美しくしていけば社會は調和して一人ひとりみんなが輝く世界になると思います。

理念や初心のせいにするような貧しい心ではなく、理念や初心の御蔭で自分の方を変えることができたという豊かな心をもって子どもたちに見守り合う安心社會を切り拓いていきたいと思います。

生き方=分けない

人は何かを分けることで本来の初心を忘れてしまうことが多いものです。それは生き方を分けてしまうということであり、本来分かれていないものを分けることで目的が手段にすげ換ってしまうことがあるのです。

例えば、これはプライベートでこれはビジネスなど自分の都合で分けた時点で生き方と働き方を分けていることになります。公私混同するなとか世の中では言われますが、実際には生き方は渾然一体になって混同しているものです。私たちは暮らしの中にこそ仕事があり、仕事があって暮らしがあるわけではありません。日々の暮らしを通して働いていくことは、生き方と働き方の一致ですがそれを分けてしまうところから暮らしは消失していくのです。

暮らしとは何か、それはその人が一日一日を何のために生きてどのように世の中で働いていくかということでもあります。働きとは、自然のハタラキのことですべての生命はそれぞれに唯一無二のハタラキをもって地球で貢献し共生していくものです。それは単に仕事をすることが目的ではなく、生き方として何を大切にして生きていくかということです。

嫌なことを我慢して生きている人は、嫌なことを忘れるためにプライベートとビジネスを分けていくことがあります。無理やりやりたくないことをやらされると感じるのは、そもそも何のためにそれをやるのかを忘れて手段にばかりに気を取られ本来の目的から遠ざかることで発生します。

我慢は我と慢心からできている言葉ですが、この自我慢心は言い換えれば初心を忘れるほど油断しているということでもあります。初心を忘れないでいれば、自分の目的に気づきやりたいことをやっていることを思い出し、我慢することはなくなります。

苦労や忍耐は、目的に近づくための努力でありそ自分を鍛錬し成長していく発達発展の仕合せの実感にもなります。人間は辛いことや嫌なことから逃げようとするとき、すぐに割り切るために分けようとします。その時は分けて処理することで感情的には一時的に整理できるのかもしれませんがその時にこそもっとも大切な心を置き去りにしてしまうことを忘れてはならないように思います。本音と建前を分けていてはプライドばかりが高くなり自分を見失うだけでなく自分らしくあることができなくなるのです。

何のためにやるのかを常に忘れない人は分けない生き方を実践する人です。生き方を分けない人とは常に自分の本心や本音を大切にして生き切っている人であるとも言えます。

その時々に都合よく自分に嘘をつき納得させたり、自分の本心を自分自身が誤魔化して生きていては、自分の中にあるもう一人の真我との信頼関係も築けず共に手伝って協力することはできなくなります。そんな状態の人が周りの人と理念や目的を握り合って本心や本音で共に協働して目的に向かって力を合わせていくこともできなくなります。

誰かや何かに文句を言う前に常に自分が本心や本音で生きているか、つまりは本心が分かれていないか、決心した生き方を大切にして自分自身に正直に生きたかは何よりも重要な人生の羅針盤なのです。生き方は常に覚悟力が問われるのです。

最後に吉田松陰がこう言います。

「士の行(おこない)は質実、欺かざるを以て要と為し、巧詐(こうさ)、過ちを文(かざ)るを以て恥と為す。 光明正大(こうめいせいだい)、皆是れより出づ。」

意訳すれば、(志士たるもの自分を欺くことをなきよう、自分に嘘をつくことを恥ずかしいと思え、まさに生き方と働き方の一致は個々で決まるのです。)と。

自分の心に嘘をついて誤魔化して分けていくことで生き方と働き方は分離していきます。自分自身が決心したままに生きていけるようになるには、理念や初心を常に自分が確かめそれに対してどのような一日であったかを内省しすぐに改めることは改善していくことしかありません。

「生き方とは常に本心のままである」ということを大切にし、子どもたちが素直な心のままにあるがままの個性を発揮し成長していけるように常に生き方を優先する大人のモデルになっていきたいと思います。

 

頑張り過ぎない生き方~素直な心になるために~

人間は頑張りすぎるとき、スピードを上げてしまうものです。スピードを上げて仕事量が増えれば体調が崩すことがあります。私もよく何かをするときに、体を壊してブレーキをかけられたりしてじっとすることがありますがなぜだろうと思うとき焦りや恐怖があったことに気づきます。

人から期待されたことに応えるためにもっと頑張らなければと思ったり、もしくは期待に応えることができて自分も嬉しいと思えばさらに一生懸命にこのまま頑張ればきっともっと喜んでくれると思って気が付くと無理をして頑張ってしまいます。しかしその頑張りは言い換えれば、期待に応えられない恐怖や不安、喜んでもらえないのではないかという罪悪感、喜ばせることができた自我満足感などがさらなる頑張り過ぎの状況をつくっていくのです。幼い頃や子どもの頃に教育や環境の刷り込みを受けてしまうと誰かの期待に応えるために無理に頑張ってしまうということが当たり前になって心が縛られてしまうのです。それが日本人がマジメ過ぎる状況を生んでしまうのではないかとも思います。

頑張ることと頑張り過ぎの違いは、誠実かマジメかの違いに似ています。誠実にやっていれば真心を籠めて丁寧に心に寄り添いながら信じて楽しく取り組めばいいと心は落ち着きますが、マジメであればどうしても期待の物差しが入り評価や保身などの我が混じりあってしまい不安になり次第にやることばかりを増やしてしまうのです。

例えば、作業一つであっても信じていればしなくてもいい作業も信じられなくなると作業は増えていきます。人間は丸ごと信じていくことで、安心して取り組めるのに対して不安になればなるほどに取り組み方が「過ぎて」いくのです。

ここでの過ぎるは、スピードが上がるという焦りのことです。

頑張ることと頑張り過ぎは、焦るか焦らないか、もっと別の言い方をすれば目先のことを悩むか長期的なことを考えているかということでもあるのです。

不安や恐怖と立ち向かうばかり、頑張りすぎると身体を壊したり上手くいかないことばかりが起きたりとブレーキがかかります。しかしその時こそ、よく自分を見つめ直し、できないことを素直に受け容れ、本当は遣りたいと思っていることは何かと見つめ直し、ブレーキの御蔭で速度が調節できたと感謝して歩んでいけばいいのではないかとも思います。自分を大切にすることができてはじめて周りに誠実になることができますから、まずは自分自身の本心を整えることで頑張り過ぎないように気を付けていくことではないかと思います。

人間が自然体に近づくまでには、こういう苦労はたくさん発生します。特に人間は加齢していきますから、経験してできるようになったかと思えば体の変化ですぐにできないようになっていったりもします。そうやって万物は変化し続けますから人間はどんなときにも心を柔軟にして真心や誠実、そして天の働きや他力を借りる御蔭様のことを学び、優しく成長していくのでしょう。

焦りや不安は、信じること、見守ることで払拭されていきます。信を贈る仕事は、相手の結果を見て一喜一憂するよりも自分の心の中の信じる気持ちを大切に調整することを優先していけば信は伸ばしていけます。

信を伸ばして素直な成長ができるように、頑張り過ぎない生き方を実践していきたいと思います。

伝統美の面白さ

昨日は新潟県十日町で古民家再生に取り組んでいるカールベンクス氏とお会いするご縁がありました。25年前にこの土地に移住してから現在までに50棟ほどの古民家を再生しており、カールベンクス氏が住む村には今ではたくさんの若い方々が同様に移住してきて奇跡の村と呼ばれています。

「日本の木造建築は世界一である」と語られこのような文化が失われていくのは何よりも残念であるといい、職人さんにとっても子どもたちにとっても絶やしてはいけないと仰られておられました。

本来は日本人の子孫である私たちが語るはずであろう言葉を、ドイツ人の方から直に聴くと目が覚める気持ちになります。

例えば、「日本人がドイツにいけばその土地に古い町並みや懐かしい風景を感じにいくのになぜ日本人は自分の国のそういうところに興味がないのか」という言葉であったり、「ドイツには昔から古い建物は壊してはいけないという法律がある、その法律によって子どもの頃から古民家は貴重なものであるという認識をみんな持っている」ということなどまさに何が本当の価値なのかを気づかせてもらう言葉ばかりです。

現代建築の日本の住宅はプレカット方式といって機械によって加工しやすいため外材を用い木材を人間の手を使わずにカットしていきます。大工さんは昔ながらの手仕事はほとんど必要なく、まるでプラモデルを組み立てるようにトタンや合板で効率よく作業していきます。このような仕事をしているうちに日本の大工さんの技術も心も伝統も失われていくことを嘆いておられました。世界一の木造建築を建てる心と技術と伝統を自分たちから捨てていき、古いものを壊して便利な新しいものばかりを建てようとするのは設計士たちの欲がやることであるとし「本来、家は財宝なのだからいつまでも大切にしなければならない」という言葉に徳の人柄と思いやりを感じました。

カールベンクス氏の設計された建物を具体的に見学すると、ドイツ人の感性で自由に古い日本の材料を用いて古民家を再生しておられました。現代人が住みやすいように断熱を工夫し、断熱に必要な窓や暖炉などはドイツから輸入しておられました。新築を建てるよりも古いものを用いた方が本来は費用がかからないといい、創意工夫をして扉を本棚にしたり、そこにもともとあった古材料や道具を別のものに見立てて家の改修やデザインに活用されていました。

家全体が昔からある日本の古い懐かしいものを活かしながらデザイン全体を楽しんでいるようにも観え、まるで「ドイツの伝統が日本に馴染んでいるような感覚」に新鮮さを感じました。一言でいえばそこは「ドイツ人の美意識が創造する日本の風土を取り入れた古民家」でした。

お互いの善いところを引き出し、持ち味を活かし新しい美意識を創造するというのは芸術そのものです。今まで設計やデザインというものを知りませんでしたが、カールベンクス氏の生き方を拝見することによって「伝統美の面白さ」を学び直した気がします。

未来の子どもたちの心に、大切な日本の心が遺せるように自由に伝統美の表現を楽しみ遺っている文化を上手に活かし和合させ復古起新していきたいと思います。

ありがとうございました。

 

価値と仕合せ

今の時代は物質的なもので幸福を手に入れることがすべてのようにテレビや新聞では報道されることがあります。現に人間には欲望も野心もありますから誰にしろ成功を求めて幸福を手に入れたいと願うものです。当人の野心が欲望が強いければ強いほどそれを欲しがり仕合せとはかけ離れた生活をしてしまうものです。自分に能力さえあればと能力を求めすぎるのも、他にも地位も名誉も権力もまた原点は幸福になりたいと思う野心や欲望から発しているものです。

そもそも何かの価値というものはその時代の「価値観」が決めます。その時代の価値観が何をもっとも幸福だと定義するか、その価値基準によって大多数の人はその時代の幸福を手に入れようとします。現代では成功者になることやお金持ちになること、有名になることや権力を持つことが価値があることだと信じ込まされているのです。

しかしきっと価値があると信じてそれを一度掴んでみないとわからないからと、本当の自分の価値観を捨ててでもそれを手に入れろうとすれば、その野心や欲望に呑まれ不平不満ばかりを募らせ世間の定義する価値の幸福を所有しているかどうかが仕合せだと勘違いしてしまうのです。

しかしふと、本当の仕合せとは何かと静かに思うときそれは決して能力や成果や成功などといった結果さえ手には入れればいいというものではないことに気づきます。その経過の中でどのような体験をするか、どのような仲間ができたか、どのような思い出があったかで人間は仕合せを感じます。つまりは経過、その物語をどのように創造したか、物語の中でどのように自分を磨けたかが仕合せの元になっていることに気づくのです。

昨年から暮らしの甦生に取り組む中で、人間の仕合せの意味が深まってきていますが本当の仕合せはどこか遠くにあるものではない身近な足元にあることに気づくのです。

禅語に「明珠掌に在り」という言葉があります。この「明珠」とは宝石のことを言います。「掌に在り」は「自分の手のひらの中にある」という意味です。つまり人間は仕合せを見失いがちだが、一番仕合せなものはもっとも身近なところにあると教えているのです。

例えば、仕事を道楽化することであったり誰かのために真心を盡すことであったり魂を磨いて人徳や人格を高めることだったり、つまりは努力できる仕合せというものがあります。努力が楽しいということほど仕合せなことはなく、自分のやっていることを天職だと受け容れ、その天命に従い使命を全うする仕合せはかけがえないのない価値です。

価値というものは、値する対価とも言いますがいのちを懸けるだけの対価に生きることができる歓びでもあります。人は遠くを見るばかりで本来の足元の幸福を感じなくなるのは、いのちから遠ざかるからかもしれません。もっと自分のいのちに向き合い、自分のいのちを何に使うか、自分のいのちをどう活かすか、いのちと出会う仕合せに目覚める方が本当の自分の価値に目覚めるように私は思います。

今の自分のやっていることはいのちを懸ける価値がある。

そう信じて生きている人は、世間の価値観はなんのそので自分の価値に生き切っていくものです。宝は常に自分の中にこそあると信じて、自分の天命に従い子ども心を見守りながら歩んでいきたいと思います。

 

心を磨く人

先日、久しぶりに那覇にある沖縄教育出版社を訪問するご縁がありました。社内はとても落ち着いていて居心地の善い空気が流れていました。「一人ひとりが輝く経営」を理念に掲げ、それぞれが心を寄せながら個性を発揮して働く姿に平和を感じます。

沖縄に行くと特に「平和」への祈りを感じますが、会社を経営しながら自分たちの生き方を磨き平和に貢献するために様々な実践に取り組む社風には学ばせていただくことばかりです。

特に印象に残ったのは、社内で最も高齢(75歳)で今も最前線でご活躍の方の御話しをお聴きしたことでした。その方は、以前会社で発刊されている新聞で紹介されており知っていたのですがお話を聴いて徳の高さを実感しました。

人は学ぶ意欲があることは素直さの顕れでもあります。素直であるからこそ学びたいと思うのであり、一生涯学びたいという心をもっている人は働く仕合せを感じている人だと感じます。

人間は周りからどう思われるかや評価されるかを基準にして選択肢ばかりを求めていたら今に生きることができません。今に生きることこそ素直な姿であり、今与えられていることに一所懸命に学んでいれば自ずから自分に与えられた使命を感じて仕合せを得られるからです。

心の健康というものは、生き方を直すことであり生き方を正すことです。正直ともいいますが、自他に正直に心を開いて素直に学んでいる人は謙虚であり成長を已めません。それは年齢の問題ではなく、生き方の問題だということの証明なのです。

私たちの沖縄に来た理由とそのお仕事の内容の話をすると、「沖縄を創りに来てくださったのですね、ありがとうございます」と御礼を仰られました。その視点や観点にも徳を感じますが、それよりも真摯に日々の実践に取り組んでおられる姿勢そのものを拝見し私自身まだまだ精進しなければと恥ずかしい思いになりました。

何かをやったからや何かをやるからいいのではなく、誰が見ていようが見ていまいが自分の本分に正直取り組んでいく、心を磨いていくその生き方そのものが美しいと思うからです。

沖縄教育出版社には心を磨く風土文化が育っており、存在自体に有難さを感じました。私たちの会社は魂を磨く風土文化ですが、心と魂を切磋琢磨させていただけるご縁に感謝し、私たちも迷わずに子ども第一義の理念を省みて子どもたちの未来のために仲間と一緒に一期一会の作品を育てていきたいと思います。

ありがとうございました。

縄の智慧

むかしから歴史を紐解けば社會というものはみんなで創るものであるという感覚がありました。自分だけで生きることはできないのだから、自分の居場所はみんなで創っていくという具合に社會をみんなで育てていきました。

現代は、社會だけではなく小さな組織でさえ自分さえよければいいと自分のことを主張してはかえって社會を崩して希薄している風潮もあります。自分が所属するこの社會を善くしていきたい、もっとみんなが居心地が善い環境になるように自分を活かしていきたいと思う、人間として当たり前の仕合せが忙しさと共に消失してきています。

人類は太古のむかしより社會を形成してみんなでお互いを見守り合いながらお互いの一生を充実させていきました。そして人類は助け合い思いやることで自然環境の中で今まで生き延びてきて、一緒に協働することで考えられないような大きな力を発揮してきました。それができたのは、みんなの居場所を用意し居心地が善い場をみんなで育ててそれが永続するように見守る「結び」の智慧を使ってきたからです。

現代はその結びつきが次第に解かれて、それぞれがバラバラになってきているように思います。歪んだ個人主義は人々を孤立させ、孤独にします。その穴を埋めるのをお金で行うことでより断裂は進んでいきます。

例えば「縄」を観てすぐにわかると思いますが、小さな糸も多くの糸と結びつき絡まり合いそして強く大きくしなやかな切れることのない縄になっていきます。出雲大社にあるしめ縄のように私たちは古来からその縄を結び続けて大切にしてきた民族です。

この「縄」は、「社會」のことを示すように私は思います。

縄をどのように結んでいくか、その結びつきや結び方にこそ民族の生き方がありお互いに見守り合い、心を寄せ合い、愛を与え合い、一緒に協働作業をしていくことによってその「縄=社會」を創造していくのです。

お米を育てるように子どもを育てること、しめ縄を結び神様に奉げ奉るように暮らしていくこと、古来から続いていく縄が切れてしまわないようにその時代時代の人々が子どもを見守っていく社會を育ててきたのです。

そういう意味では今の時代はかつてないほどに、人々の結びつきが失われてきている厳しい時代です。だからこそ私たちが取り組む「見守る」ということは、その結び直しをする大切な実践になるのです。

「縄」こそ、人類の智慧であるとし引き続き子どもの社會を見守る大人が増やしていけるように実践を積み重ねていきたいと思います。

農的生き方

昨日、自然農の畑にたくさんの野菜の苗を植えました。最初の土の手入れとその後の草の手入れ、あとはじっと育つのを見守るだけです。そのものが育つかどうかは野菜ですが育ててくれるのは自然ですから環境を整えるくらいしかできませんがそれが自然の力を活かす智慧になります。

農業は最初は技術から入り、知識などでどのように育つかは勉強できますが実際に育ててみるとその季節季節の日照りや雨の状況、気温によって発生する虫や病気もあることから同じことをしていても同じように育つことはありません。自分自身の観察力を磨き、どのような環境に適したものかを見極めていく努力が必要です。

思い返してみると、今では当たり前に続けている畑仕事もむかしは何もわからないままに育ててみるだけの繰り返しでした。一年のめぐりを通して、そのものがどのように育つのか、そして畑がどのような変化をしていくのか、またタイミングがどうなっているのかなどそれぞれに自分の接し方を学びます。

育てやすい野菜もあれば、育ちにくい野菜もある、素直になってこちらが自然から謙虚に学び直していかなければそれぞれの個性を活かすことができません。人間のもともと持っている調和力や和合のチカラはこの農にこそ原点があるように私は思います。

農を原点にすることを帰農とも言いますが、自分が食べるものを自分で育てる。育てる中で自分もその循環の一部になっていく。人間はその中で調和を創造することができる能力を持っているとも言えます。経営も社會も創造するのは人間ですが、その人間がどのように循環を司る力を持っているかが未来の環境を変えるとも言えます。

かつて、自然世を説いた安藤昌益という思想家がいます。この人の言葉にこういうものがあります。

「春夏秋冬、季節の移り変わりに応じて、人々は田畑を耕し、草を刈り、収穫し、次の春に備え、何の矛盾も破綻も不足もなく、始めも終わりもなく、無限に循環しながら、平和に、道徳的に生き存える社会。」

それを万人直耕ともいい、人々がみんな帰農していけば自ずから循環する自然の社會を創造できるといいます。しかしこれは単にみんな農民になれという意味ではありません。これは農的な生き方を大切にしながら、内省し文明の善いところも活かしながらむかしからある伝統的な暮らしを大切に生きていくことを言っているように私は思います。

今、私が実践しているのはこの自然真営道の一つでもあるように思います。

むかしから今に続く暮らしを伝承しながらも、新しい時代の経済を創造するのは私の思う農的生き方なのです。引き続き、農的生き方を磨きながら子ども第一義の理念を深くし弘めて厚く社會に影響を与えられるように精進していきたいと思います。

 

種と土の邂逅~つなぐチカラ~

私たちが今感じたり味わったりする文化や伝統は古来からずっと存在しているものです。その存在しているものを引き出し繋ぐことができれば、現代にもその初心を多くの人々と分かち合いみんなで引き継いでいくことができるように思います。

時と自然淘汰のめぐりによってその本体は次第に風化しその姿カタチは必ず失われてまた甦生を繰り返すのは循環のめぐりであり宇宙普遍の摂理です。目には観えなくなっていても確かに存在したものは人々の心に魂の記憶として伝承されており、その魂を思い出す人たちによって常に失われずに甦生していくのが人類の叡智と伝統文化の本質でもあります。

伝統には「古くて新しい」という言葉があります。

これは文化と文明の間の甦生を意味し、本来あった本質を今の時代につなぎ顕現されるといってもいいかもしれません。古代と現代をつなぐ、人と人の心をつなぐ、目に見えるものと目に観えないものをつなぐ、それはこの「言葉」(言霊)のチカラのように和合したものをはっきりと一つに融和し伝えることもまたつなぐチカラの役割です。

そのつなぐ方法や智慧は、代々その土地の風土や文化によって異なってきます。太古のむかしから私たちの国は「言葉の霊力が幸福をもたらす国」であると語られ、いのりの言葉によって永遠の今に言霊を奉げ祀ってきた民族であるともいえます。

それが発展し音楽や芸能とむすびつき、時には神楽になり、時には歌になり絵になり、それが心を顕し神を奉る工夫が発展してきたのです。

しかし時は無常ですから、その本質も広くなればなるほどに薄まっていき、増えれば増えるほどに擦れていき、その本質がたくさんの言葉によって隠れていくのです。

今の時代は情報化社会ですからより一層、スピードが増し、情報が氾濫する中で、私たちは大切な本質を敢えて選ばなければならなくなっているとも言えます。本来の姿、古代からある方向を見失わずに確かな足取りで前進していく必要があるのです。

そのために「つなぐ」ことは、とても大切な使命を帯びた志事です。

一人でも多くの人が、初心に目覚めそれぞれの方法で温故知新し、伝承をしていくことが未来の子どもたちのために確かな種を蒔いて遺していくことのように思います。自然は種があればまた根を張り成長していきます。一粒万倍とあるように、種さえ遺してそれを蒔いてまた育ててくれる人がいるのならその種は未来を自然に明るくしていくのです。

そのためにも「土」をつなぐことが大切です。土の上であれば種は根を張り太古の養分を受け取り成長していきます。しかし人間が身勝手な道路を舗装し、アスファルトで土の上を塗り固めていくことで土が隠れてしまっていますがそのアスファルトが取り払われれば元の土が出てきて地球は甦生します。種がちゃんと根を張れるようにしていく必要があるのです。自然のチカラを使って自然に回帰する、それが私が教育や保育の志事に私がいのちを懸けるのもその一点に集中しているかであり、子どもたちの未来のためにもその初心をつなぎたいのです。

今回の一期一会の沖縄での出会いに深く感謝しています、このご縁によって魂が揺さぶられ多くのインスピレーションをいただきました。引き続き種と土をつないでいきたいと思います。