学問の本懐

日々の自修自謙は難しく、どうしても目先の問題に近視眼的になり右往左往してしまうものであろうとも思います。

特に理想を高く掲げて歩んでいても、その日々の小さな実践を怠るというのは単に目的を達したいだけで学問をしているわけではないと思えるからです。

学問というのは、本来は机上のもので読み書きするのではなく実体験から気づいたことを学び自らそれを徳化していくことのように思います。まず自ら日々の思いやりの実践を大切に、何事も手を抜かず丹誠を籠めて徳を積んでいくことのように思えます。

しかし実際はどうかといえば、外圧や刷り込み、世間の評価や自利の欲に押し込まれ本来の自分の実践が軽くなってしまうことがあったりするのです。それでも自分を正せるということが本来の自己管理であろうとも思います。

世間の波風がやや強いだけで遣ると決めたことをしないということは、最初から自分が決めたことにしないということになるのです。自分が決めたのだからを貫くというのは、誰のせいにもしないということでもあります。そしてそれこそが、論語にあるような学問を好む人であろうとも思います。

論語にこういうものがあります。

「君子は食飽くことを求るなく、居安きを求るなく、事に敏にして言に慎み、有道に就きて正す。学を好むというべきのみ」『論語』学而篇

学を好む人ということは、自らの頭で考えて安楽に流されるようなことはしないで日々、自らを正しく修め実践を続けている人という意味であろうとも思います。

少しリズムを崩してもそういうことができなくなることを思えば、如何に日々のことに正直に誠心誠意で実践を続けていかなければならないかと反省します。またさらに、続けて孔子は言います。

それだけ真面目に実践をやっている人でも単に学問が好きなだけの人ですと、それでは学問をまだ楽しむ人ではないとも。これには、学問の本質とは何かを改めて気づかされるのです。一生懸命に一心に生き切り体験を学び楽しむことができれば本懐を遂げているともいえるのがこの命の姿ではないでしょうか。

学問を楽しむ人とは、それ自体を楽しめるくらいの人であるということだと思います。
今の時代は、特に流されやすくまた学問が誤解されている時代です。

維新の時のような大義が必要で、その大義を学び楽しむくらいでないとと感じます。
奇妙な狂った人物と言われるくらいが いいのかもしれません。

まだまだ自分のことを明瞭にして行動を敏にしていきたいと思います。