いのちの養生

昨日は、堀池高菜の漬け直しを行いました。春先に漬け込んだものをこの時期に漬け直せば来春までまた漬かります。長いものでは9年目に入ったものがあり、3年目や今年のものもあります。長い時間をかけて漬け続けるにはコツがあります。

私はもともとこの堀池高菜は、供養のために続けています。採算度外視で儲けるためにやっているわけではありまんから唯一無二のものです。

例えば、30年以上農薬も肥料の入れない畑で自然農で行いこの地域にしかない伝統固定種の種のみでつくります。樽は吉野杉で塩も平窯天日塩、また天然秋ウコン、蓋は楮の和紙で閉じています。そして発酵場は林の日陰の風通しの良い場所で備長炭と共に寝かせ続けます。

こんな環境の中で育っていますから菌もイキイキしています。はじめて3年目くらいまでは腐敗することがありましたが今ではほとんどそれもありません。手塩にかけて塩梅をみながら丁寧に関わっていく。ずっと生きているものとして関わりますから大切に一緒に育っている家族のようなものです。

現代は、大量生産、大量消費で儲かるためにあらゆる作業を省いて効率優先、合理化優先していきます。すべては売り物、そして買い物にするために加工するのです。

私は加工することは儲かるためだとは思っていません。加工するのは、大切に扱うためのプロセスだと思っているのです。私が手掛けるこの堀池高菜は生産、加工という名の家族と共に暮らす豊かで仕合せな営みなのです。

その営みのなかで出来上がったものだからこそ、舌先三寸では味わえない深い滋味があります。その滋味を感じていただける人たちからは、本当に喜ばれ、運がよくなりそうだと感動されます。

この場所、この土地ならではの風味は風土がつくります。

そしてその風土で育ち、風味をわかる人だからこそ滋味が出せるのです。身土不二という言葉もあります。これは『体と土とは一つである』という意味です。私たちは土を食べる化け物ですからその土地の味はその土の味でもあります。

今では遠くの食べ物をどこでも便利に食べれるようになりました。しかし本来、食事というのは食養であり大切ないのちの養生の根源です。

だからこそこの土地に来て、この土地で自然に食べてもらうことこそがその土地のいのちを味わうことになります。

私がやっていることは、今の資本主義社会でやっている儲けるための食事とは異なるものになります。だからこそ儲からないし売れないし売らないのでは誤解され、道楽や趣味のようにいわれます。しかし本来、伝統文化や伝承というものはそのためにやっているのではなく、先祖代々、豊かに暮らし仕合せにいきる知恵を自分も同様に生きているということを守っているだけです。

子どもたちや次世代、子孫へ知恵が伝わり同じような仕合せが繰り返されるように今の時代の価値観に流されずに本質を保ち喜びを楽しむのです。これからますます遣り甲斐も生き甲斐も増えていきますから大切にいのちを養生していきたいと思います。

 

戦争の時代

ロシアとウクライナの戦争がさらに進行しています。世界を巻き込んだ戦争、第3次世界大戦はすでにはじまっています。もともと第一次、第二次世界大戦のときもやっている最中はそういう意識ではなく終わってみてあれは世界大戦だったとなっていたのです。

どの国が先に本気で火ぶたを切るのか、これはもはやロシアであることは間違いないことです。もう随分長い間、平和が続き私たちも戦争の記憶がなくなった人たちばかりです。まさか自分が戦争に巻き込まれるはずはないと考えるものですが、実際にはみんなそのまさかで巻き込まれます。

自分だけはみんな巻き込まれないはずと安全バイアスが働きますが実際には全体を巻き込んでいますから他人事ではありません。

昨日もニュースで、ロシアで召集令状が出され一日にして大勢の人たちが戦地に輸送されていきました。家族、恋人や妻子と別れていく様子は映像をみていて心が酷く傷みました。行きたくない戦争、政治的に行われた戦争に強制的に参加させる。参加しなければ刑務所で刑期10年といいます。この刑期も果たしてどのような刑期なのか、無理やり理由をつけては戦地に送り出されることも予想できます。すでに、10万人ほどのロシアの兵隊も死者がでていて戦況は悪くなるばかり。それでも諦めずに兵隊を送り続けてあとどれくらいの人が死ねば戦争をやめようとするのか。為政者によって戦争が行われるというのは歴史の事実であり時代が変わっても何も変わりません。

戦争の歴史を深めると、その理由はほとんどが為政者の都合です。皇帝といわれるような独裁者が権力を握りしめ独断で行うもの、あるいは内部が腐った組織、その民衆の依存した既得権益者たちの操り人形のような組織、他には集団的無責任で保身だけにひたすら走る組織、キリがありませんが発端は思考停止になっているところからはじまります。もっとシンプルにいえば「まともではない」状態に意識が入っているのです。

戦争をしている当事者、もしくは巻き込まれた人たちは保身がちらつきますから身の危険を感じてまともではなくなります。安心安全なところにいる人からすれば、そんなことはないだろうと思いますがまともではない人たちになっているのだからそんな理屈は通じません。気が付いたら巻き込まれているのです。

召集令状一つにしても、明治頃は市役所が赤紙といってそれを自宅にもって「おめでとうございます」とあいさつに来ます。それを受けて逃げれば家族全員が非国民として差別され、受けたら家に旗をたてて英雄と称えられます。もはやこれだけでもまともではありませんが、戦争とはそういうことです。ロシアでは、選択肢は戦争で罪のない人を殺すか、あるいは刑務所に入るか、もしくは海外逃亡しかありません。他にはいつも時代も同じですが、政治力や資金力、コネや賄賂などを渡して戦争でも死なないような職種や配属をさせたり、兵役を逃れられるように話をつける人たちが逃げられることです。実際に政治の中枢にいる家族や子どもは守られるという構図です。

人間はいつの時代も似たようなことを繰り返します。権力や権威は何のためにあるのか、本来は人々の生活を守るためにあるものが権力闘争や利権に巻き込まれ結果、大勢の人が悲惨な戦争に巻き込まれます。

そうならないように本来は、教育があり人間学があり道徳を習慣にする文化があったはずです。今思い返せば、世界経済が破綻寸前まで紙幣を発行し、感染症で人々のつながりが分断され、自然災害が追い打ちをかけ、大国間の戦争が発生する。もはや歴史通りであり、シナリオそのままです。

この先、どう生きるのか。

失敗から何も学ばない人間だとしても、失敗を未然に防ぐためにできることはあるはずです。それは現代のように情報で世界がすぐにつながるのだから、一人一人の意識と行動が変革を促すはずです。

私がDAOや徳循環、ブロックチェーンのテクノジーに可能性を見出すのもその部分です。気づいていないのだから、気づいた人が草莽崛起することしか今はありません。

残りの後半の人生、今まで学んだことを活かし、やるべきこと、使命を果たしていきたいと思います。

お手入れと対話

昨日は、秋晴れの気持ちいい天気のなか畑のお手入れを行いました。土に直接触ることで、土の状態はよくわかります。美しい畑に憧れてから、食べるだけでなく畑に入ることで心身がととのっていきます。私たちは自然に触れて自然から学ぶことで地球と対話していくことができます。

この地球との対話というのは、あらゆる五感の感覚を使うことですが私は暮らしフルネスを実践していますから手の感覚をとても大切にします。この手は、手触りというものです。手で触れるというのは、私たちが原始時代からずっと大切にしてきた感覚です。

もちろん耳も眼も鼻もありますが、手は対話につながります。最初に握手をするという文化もまた、手触りで心を伝え合う仕組みを用いています。最近は、量子力学で眼もまたお見合いするなかで触れ合うことができるともいわれます。花を見て心が触るように目でもいのちの存在に気づきます。しかしやはり、お手入れすることが私は人間に与えられた大きな力であるように思うのです。

自分の手を使って何に用いるか。

ある人はいのちを守り、ある人はいのちを奪います。それも全部手で行います。手作業というものは、温かみがあると今ではよく言われます。その反対が、機械で手が入っていない冷たいものとも。手を入れるというのは、人間の心が手から通して物質に宿るという仕組みがあるように思います。

便利になって、頭で考えたことがそのままデータとして転送されたり指示されたりする近未来も予測できます。そうやって手を使うことをやめていくのが便利さというものです。しかし大事なことを失います。それは自然や地球からまた遠ざかっていくということです。

人類は不思議ですが、心の本体やいのちの正体である自然やいのち、地球からすぐに離れていこうとします。征服したり縛られたくないと抗ったり、まるで地球から逃れたがっているかのようです。そうやって逃れてみると、やっぱり地球が一番よかったとかなるのでまた可笑しなことをします。

手を使い地球と触れなくなることで私たちは何か大切な感覚を失っていきます。だからこそ私はお手入れの大切さを話し実践をします。掃除も、磨くことも、拭いて綺麗に整えることも手を使うためです。

手を使うことで私たちは自分の心との対話もできます。手は心が直に触れるものであり、自然と対話するための大切な命綱のようなものです。

子どもたちも手で色々なものに触れて心を育てます。どのような存在に触れるのか、できるだけ地球と対話できるような本物を、いつまでも生き続けているいのちのぬくもりを伝承していきたいと思います。

天災ではなく天福

自然の猛威が増しています。台風14号が上陸しましたが、遠くにあっても暴風で激しく家が揺れてあちこち軋む音が聞こえて眠れませんでした。

天災は忘れた頃にやってくるという格言があります。これは常に天災は人間の活動とは別に発生しているもので地震も台風等の自然災害が多い風土である日本では日常的です。

しかし人間の方は、そんなことよりも人間の欲を優先しお金を稼ぐことに意識を奪われ経済活動の方を最優先にしていくうちに自然災害が身近にあることすら忘れてしまうのです。これが本当の災害の正体であり、自然災害よりも人間の災害であることも歴史が証明しています。

まだむかしの方が、自然の身近に住んでいつ災害が来てもいい暮らしをしていましたから災害が来ることを常に意識して人間の災害を気を付けていたように思います。建物も住む場所も、そして常備食も保存食も災害に備えているような生活です。慎ましいけれど、災害に備えて暮らしをととのえていたのです。

それが文明の便利さに酔い、栄耀栄華に浸るうちに自然を征服できると思い込みあっという間に自然の畏敬を忘れていきます。これが人間の中にある性質というものなのでしょう。人間という特性の中にこの災害が組み込まれているということです。

人間の災害といえば、思いつくだけでも身近に様々にあります。

例えば、すぐに誰かのせいにすることだったり、自分の問題として考えなくなったり、目先の事象ばかりに囚われて目的を見失ったり、長いつながりやご恩や感謝を忘れたり、目には見えないものを存外に扱ったり、比較競争、嫉妬、差別やいじめ保身などもあります。

こういうものが本当の災害であり、それが増せば増すほどに自然災害の猛威は増していきます。人間が自然であること、謙虚であることを忘れたとき、本当の災害がやってくるということです。

自然災害は正しく恐れているのなら、避けようとすれば避けられるものです。自然の動物や昆虫、そして植物たちも日ごろから自然と共生して暮らしていますから自然災害は日常の一コマにすぎません。人間のように忘れるということはほとんどないのです。

何をしていたから人間が忘れるというのか。それをよく見つめなければ人間はこの先も自然災害の猛威に晒されます。謙虚さを失う時、私たちは自然に人間の持つ性質を思い知らされるのです。

本来、建ててはならないところに自然を征服できたような建物を立てて、住んではならないところに住んでいます。そして食べてはならないものを食べ、取り過ぎてはならないものをすべて取りつくします。歴史を省みることをやめてただ目先の欲望に流されています。そうして忘れるのです。

天災とは本当は何か、これは天の災いではなく天の恵みであり天の教えで天福であるかもしれません。むかしの人は、天に背いていないかを確認するために伝統文化を見つめてきました。今一度、子どもたちにも天災を忘れた日常や環境を与えるのではなく、人間の性質を自覚して自らを磨くような暮らしを学ぶ場を与えたいと切に思います。

子どもたちが天福をいつも感じられるように、生き方を見つめて見直していきたいと思います。

便利さの副産物

消費文明の中では、使うことや捨てることがよいことをされています。特に利便性というのは、便利であること。便利は誰にとって都合がいいかということ。それは使う人にとってメリットがあるということです。しかしなんでもそうですが、誰かにとって都合のいいことは誰かにとって都合が悪いことがあります。それが自然でいえば、人間にとって都合のいいことは自然にとっては都合が悪いものです。しかし自然は文句を言いませんから、人間が好き勝手に便利に走っても誰からも非難されることはありません。

つまり非難されず文句を言えない相手なら便利であることは最善とも思うことがあるということです。子どもも同じく、大人の便利に左右されて色々なことに困っています。この逆に不便さというものは悪のようにいわれます。不便というのは、役に立たないことや都合よくないときに使われます。

世の中の不便を解消するためにビジネスを発展させるというのがこの前の時代の価値観でした。しかしよく眺めてみたら、これだけ便利になってもなおさらに便利になるように追及しています。これは確かに間違いとはいいませんが、その便利さによって発生する副産物によって私たちは大切なものを失います。

その一つは、時間というものです。時間を稼ぐためにスピードを上げる。そして便利なものを使う。しかしそれで時間が産まれるかというと消費されていきます。本来の時間はゆったりと充実して味わうものでかけがえのないものです。それは便利さと共に失われていくのです。

そして次に場です。便利であるがゆえに場がととのうことがありません。面倒なことを取り払い、場を磨き上げることを怠ることで自他がととのい、穏やかで豊かな関係が築けるご縁をも失います。

他にも健康というものがあります。便利になって健康が失われます。本来、不便というものは心身をバランスよく使い、丁寧に身体の声を聴きながら一つ一つの五感を活用して味わうものです。それを時間がないから、関係を重ねる暇もないからと便利に走っては健康まで失います。

もう少し不便を取り入れていこうとはなぜしないのか。

それは不便であることをよくないことだを刷り込まれているからです。私は暮らしフルネスの中で多くの不便を取り入れています。もちろん便利さも善いところもありますが同じくらい不便を取り入れます。それが喜びや豊かさ、古くて新しく、柔軟で謙虚でいられるからです。

時代は色々と問題をかかえているのはすぐにわかります。先ほどのことを大きくすれば、因果の法則で環境問題、自然災害。そして人災として戦争、飢饉。感染症や精神病もです。これは先ほどの便利さの副産物であるのです。

気づいた人から日々の暮らしを換えていくのが解決の近道です。次の時代の生き方、子どもが大切にされるような時代にしていきたいと思います。

水の知恵

水という存在はむかしからとても不思議です。いのちそのものであり地球を包んで循環しているものでもあります。この世の中は水が浸透し、水が巡ることで多くの生き物たちを育て助けています。つまり陰の立役者でもあり、欠かすことができないもっとも偉大な存在が水です。

しかも水というのは、目に見えるものもあれば空気中の湿度のように目には見えないものもあります。しかし明らかに私たちはこの水が通過しあうことでいのちを分け合っているのです。

例えば、雲が山に来て雨を降らします。その雨は山から流れ出て川になり海になります。そしてまた雲になり山にもどってきます。問題は、そういう水の流れを邪魔してしまうことが様々な問題を発生させます。

その代表的なものがダムです。水は本来は非常にシンプルで本質的な循環を産み出します。山から最初に流れ出てくる水が清らからで新鮮な水として流れ出します、山の麓ではその水を好む生物たちがその水の恩恵でいきいきと活動します。川エビやカニ、ヤマメやアユなどもいますし他にもその周辺には清流を好む存在がいます。そこから川に流れていきますがまずここにダムをつくればその周辺の生態系が変わっていきます。

水はすべての生命を通り、その生命を通る過程で必要ないのちを透過しながら次の養分へと結びます。水には、他のいのちと結合するという徳目がありそのすべてを通ることでいのち全体の流れを結ぶのです。

この結び目には、それぞれが水と共に生きる記憶があります。水がその記憶の間を伝いながら悠久の時間をかけて活動しているともいえます。つまり水は言い換えれば偉大な記憶装置のようなものです。記憶を留めて記憶を循環させていくことで、私たちはご縁の世界を生き、すべてを中和させていきます。

水には不思議な力がありますが私たちはまだその一端を知っているだけです。当たり前すぎてわからなくなっていますが、本来は水は神秘の塊です。

今回、鏡師と一緒に過ごしていくなかで改めて水の持つ神秘的な力を実感することができました。水にうつるあらゆる真実を深めて、子どもたちにその恩恵の偉大さを伝承していきたいと思います。

竹垣の修繕

昨日、聴福庵の竹垣の修繕を行いました。毎年、2回ほど柿渋を塗り棕櫚縄で結び直したりしていましたが少しずつ傷んできます。蔓が巻き込んで壊したり、雨風でどうしても木材が腐食してきます。竹も時間が経てば、表面にざらざらと埃がついたりして傷みます。

お手入れをしていくことで長持ちしますが、油断していると急に壊れた気がしてきます。しかし実際には急にというのはなく、心を籠めて丁寧に観察していればどこが壊れてくるかなど次第にわかり早めにととのえておけばお手入れも少しで済みます。

もともと現代はやることが多く、少しでも気を抜けば忙しくなってしまいます。暮らしが消費に傾いていて、消費することで経済を活性化するというモデルですから世間の空気がそういう消費やスピードの空気です。特に都会に住めば、この空気はさらに密度が濃くなります。何かをやっていないと不安になるかのようにあらゆるものに手を出していきます。情報化がさらにそれに拍車をかけていきます。

本来、自然のリズムで生きていけば自然の循環を身近に感じてどのようにお手入れをしていけばいいかを暮らしをととのえながら組み立てていきます。それは今ではむしろ正反対、自然の利子で得た分をどうみんなで分け合うかという発想になります。なければないなりに工夫し、あればそれを使って修繕をしたり未来への徳を譲る活動をしてきたのです。

話を竹垣に戻しますが、聴福庵の竹垣は透かし垣です。もう一つの和楽の竹垣は遮蔽垣です。境界を示し風通しのよいものと、お庭の目隠しやプライバシーを守る意味もあります。

竹は天然の素材で毎年間引いていくことで美しい竹林ができます。またタケノコなども美味しく、旬を味わい健康にもなります。間引いた竹を家のあらゆるところに活用でき、しかも丈夫で長持ちし柔軟で使いやすい素材です。竹をつかった伝統工芸もたくさん出ていますがこれも自然のリズムと自然からの利子を活用した知恵です。

私たちはどうやったらこの地球で長く豊かに仕合せに暮らしていけるのかを考えて創意工夫して今があります。縄文時代より前、もう数万年も前からみんなで豊かに仕合せに生きていくためにあらゆることを実験して取り組んできたように思います。その知恵は古臭い過去の産物ではなく今でも最先端であり新しく、そして錆びつくことのない叡智そのものです。

竹垣は修繕したおかげでその場所にさらに深い愛着がわいてきます。さらにお手入れをして長持ちさせたいという気持ちも増えてきます。豊かさというものは、こういう物だけではなく心の豊かさや足るを知る感謝とともにあります。

子どもたちに暮らしの豊かさと仕合せ、暮らしフルネスの実践を伝承していきたいと思います。

仕組みと伝承

時代の変遷と共にあらゆる定義もかわりますが役割も同時にかわってきます。ちょうど、今週は鏡磨きのこともあり江戸時代くらいからのことを調べる機会が増えました。その中で、殉死というものがあったり、襲名など、そのころの特徴を考えることがありました。

今ではありえないことですが、その当時であれば当然だった背景には時代の価値観があったことは間違いありません。殉死であれば、戦国時代前からの死を共にするという忠義の思想があったこと。死が当たり前に身近にあったからこそ、真摯に生きるための仕組みとしての殉死があったように思います。あた襲名もまた家という仕組みで一族で助け合い生きる、またどのように生きるのかといった生き方も守ってきた価値観があることがわかります。一家の恥じや一家の名前に泥を塗るという言葉もあるようにその家に関わる一人がやったことは家全体に影響を与えました。それだけ家督というようにすべての家のことは一家長の責任であったことも観えてきます。

現代では、家や父親の役割なども変化してきました。昭和の頃、私が覚えている範囲でも祖父は厳格で怖い存在でした。祖父を中心に親族が集まり、法事を含め年間行事もたくさんありました。しかし祖父が亡くなってからはその仕組みもなくなり、たまに集まってもむかしのような形式的なものではなくなりました。

こうやって時代の背景と共に価値観も変化し、それまでの仕組みも変化してきます。この仕組みの変化というものを感じている人は少ないように思います。本来、私たちは時代の変化と呼んでいるものはこの仕組みの変化と価値観の変化が大きいように思います。

時代が変わるのは、それまでの仕組みが変わるということです。

仕組みが先にかわり、次第に環境に影響を及ぼし、そして価値観を換えていきます。そういうものをよく見抜いてこの先、どのように振る舞うか、そしてどのように予測するのかを省みるのです。

現代は、コロナで仕事の仕組みも変わりました。そして人との接し方も変わりました。それがどのような変化になっていくのかを予想していくことは大切なことです。時代の変化に順応するところと、時代を新しく創っていくこと。自分たちがどんな時代にしていくのかという仕組みの中にこそ知恵があります。

子どもたちに遺したい未来を伝承創造していきたいと思います。

徳の循環する世

世界中で気候変動の影響を感じる映像が出てきます。どこかで大雨が降ればどこかが干ばつになります。地球は一つとしてバランスをとりますから、環境が変わっていくのは今にはじまったことではありません。

どの国境でどの立地にあるかで私たちは住みやすいところもあれば住みにくいところもでてきます。ある場所は極寒の地、またある場所は砂漠、またある場所は火山や湿地であったりもします。人類は、その場所を離れていくものもあればその場所で知恵を出し工夫して順応したものもあります。それもまた選択の歴史であり、今も私たちは新たに選択を迫られています。ひょっとしたらこの先、地中や地球外、あるいは仮想空間などに移動していこうなどという未来もあるかもしれません。栄枯盛衰、これは自然の摂理です。どの時代、どの場所にいても、如何に自然と共生していくかは私たちの使命でもあります。

そして環境の変化で大変苦難の時代があったとしても、人類はその中でも仕合せを求めて生を全うしていきました。私たちの生命はどんな環境下であっても仕合せに生きているものもあれば、その逆もあります。大事なのは、使命を全うするということです。

そして使命を全うするには自分というものを知る必要があります。自分を知るには、自分の根を知る必要があります。根は地球につながっているところに存在します。まるで先祖から今の私たちに結ばれているように根もまた張り巡らせています。

まさにこの時代、この変化の時をどのように協力して乗り越えていくか。自立分散型、いわゆるDAO的なつながりのなかでどうみんなで調和していくか。太古の時代から、私たちは「和」にその解決法を見出してきました。人間も喜び、また自然も喜ぶ道。かんながらの道です。

私が思う、自然との関わりというのは、私たちの暮らしを本来の全生命が喜び合えるものに還るものです。それは徳が循環するような世の中にしていくことです。これをもう忘れてしまっている現代においては、何が自然を喜ばせるのか、そして自然とは何かというところの定義から学び直す必要があります。

暮らしフルネスはその道に入るための一つの扉です。

子どもたちに、いつまでも仕合せや福が結ばれていくように徳の循環する世の中に近づけていきたいと思います。

稲への感謝

昨日は、福岡にあるむかしの田んぼで稲刈りを行いました。今年は紙マルチという自然に負荷をかけずに分解されるものを使ってみましたがもともと山の境界にあるような棚田の田んぼですから草の勢いが強くあまり防草の効果はありませんでした。

草とりが少なかった分、手間は減りましたがその分、稲の方は養分が少なく大変そうでした。しかし、それでも無事に収穫ができ実ることができたのは有難いことでした。

現在、ほとんどの田んぼでは肥料や農薬で簡単に稲が育ちます。しかしむかしの田んぼでは全然簡単には育ちません。しかも収量も少なく、これでは食べるほどのものも収穫できません。しかし、このむかしの作り方で一緒に稲を見守り育てることに心の収穫がとても大きいのです。

目に見える収穫が少なくても、目に見えない収穫が非常に豊かであるということ。これはやってみなければわからない境地ですが、心はとても安らかになります。

本来のお米づくりの意味を観て、本当の稲の持つ力と共生し感謝する。伝統の行事を大切にして、そこに秘められた知恵を感得していくこと。食べるものは人をつくるものですから、どのようなものを食べるのかが人生を左右します。その作られたものは、結果出来たものではなくどのようなプロセスで作られたかは目には見えませんがそれは必ず食べると感覚として伝承されるのです。

私たちが主食を稲にしたのには理由があり、この土地、この風土でどのように暮らしを仕合せにしていくかの知恵が溢れています。

暮らしフルネスの実践の中でもこの自然農でのむかしのお米づくりはとても中心的な役割を果たしてくれています。また今年も収穫した稲のはさかけを観ながら年を越すことができます。

一年のめぐりがとても豊かで幸福なのは、稲があるからです。稲に感謝して、これからのお月見や新嘗祭を楽しみたいと思います。