最幸の学校~本物の実力~

昨日、3年間をかけてコンサルティングをしているある高校の卒業式に参加しました。ここは明確な理念を掲げを子どもたちと大人が一緒に学び合い成長していくことを実践している学校です。

世界が科学技術の発展によって一つにつながっていく時代、いかにグローバルな視座でこの先の時代を子どもたちが創造していくのか。それを深く考え抜いた現理事長が「心の持ち方を学ぶ」という一語に魂を籠めて具体的な教育方法として多様性の発揮や個性の尊重、主体性や協力といった本質的な人間の「成長」に軸足を置いて私たちの知恵の結晶でもある一円「対話」という仕組みを使い学校の改革に一緒に取り組んでおります。

私もこの3年間の集大成として、卒業式の一円対話に参加しましたが生徒たちは最初に打ち立てた自分の初心を見事に3年間守り通し、立派に人として「成長」していたのを実感しました。その証拠に、一人ひとりが丁寧に3年間の学びを発表していきましたがその非常にオープンで自由に発言していく人の言葉の中に「心の持ち方」をしっかりと学んだことが凝縮されていました。

そして生徒も先生も一緒に学ぶだけでなく、最後は保護者も一体になって心の持ち方を学び合う姿にこの学校の「本物の実力」を感じることができました。そして生徒たちが初心を語るとき、その初心がこの3年間で全員実現したと自分の言葉で語るその自信に溢れる姿に一人ひとりの「誇り」を感じました。「誇らしい」という言葉は、その人が自分らしく自分の足で歩んでいると感じた時、私はその言葉を用います。つまり生徒たちはみんなこの3年間の学校生活を通して自己と深く正対し「人としての自信」を身に着けたのです。これはこの先の未来において、何よりも重要な時間を過ごしたことになるのは明白です。学問本来の醍醐味とは、この「初心に費やした時間」を言うのです。それが「自ら道を拓く」ということだからです。

そして、私自身もまたこの生徒や先生、学校から深く学び直しています。なぜなら心の持ち方は生き方であり、生き方を学ぶのは決して能力や資格、知識なのではなく「共に今を生きる人間として学ぼう」とする生きた学問だからです。また単なる成功を望むのではなく、幸福を感じ直すための本物の学問です。このような学問を、現代のような一斉画一教育や知識偏重型の刷り込み教育が横行する世の中において、そのバランスを保ちながらも子どもの生きる力を尊重するこの実力がある学校が日本にあることが私の心の誇りにもなりました。

善い志事に恵まれ、善い同志に恵まれ、善い仲間に恵まれたことに何よりも感謝したいと思います。卒業というのは、次のステップ、次のステージに「挑戦するための門出」でもあります。

時空は前へ前へと進んでいきますから、振り返りをしつつも決して立ち止まることなく初心を守り続け夢の実現に向かって歩んでいきたいと思います。

このような一人ひとりの人生を尊重していくような最幸の学校が、世界に増えていくことを祈り、私も自分の使命に全うしていきたいと思います。

一期一会に深く感謝しています。

生き方を見守る仕事

人間の脳は、自分の見たいように変換し自分の都合の良いように現実を書き換えていく力を持っています。そのため、刷り込みなどの洗脳的な教育を受けるとそれが変えることができない現実であると認識してしまい自分に制限をかけてしまうことがあります。

自分の制限を自分にかけるということがどういうことかというと、いくら目の前に手が届くところに取りたい物が置いてあったとしてもどうしても心理的に取ることができないのです。その時の脳はいくらでも理由をつけて、その物を取ってはならないと制限をかけます。知識というものは脳が司るため、その知識を知っていることによってできないと思い込むことでそれが選択肢からも外れてしまうのです。

思い込みや偏見を作り出すこの脳とどのように付き合っていくか、これはこれからの時代の重要な要素になっていくように思います。なぜなら脳の状態が現実世界に反映されていき仮想の世界で生きていく人が増えていくからです。これだけ日々の情報が氾濫していけば脳の情報処理も追いつかなくなっていきます。人間はコンピューターではありませんから、脳で処理する以前に心が感知し感情で情報を調和していく作業が必要です。

現在、メンタルコーチングなどが必要になってきたのは多様性がさらに加速度的に発展していくこの時代のおいてこの感情の調和が追い付かない人が増えてきたからでもあります。幼少期から自分に与えた環境が性格に影響を及ぼしてきましたが、その性格を変えなければならないときにサポートが必要になってきたのです。

自分ではわからないことを導いてくれたり、トレーニングを手伝ってくれたり、適切なアドバイスで客観視を手伝ってくれたり、自己分析をしてくれたり、まさにコーチングが必要なのです。

生き方を転換するというのは、自分というものを見つめ直し新しい自分、本来の自分を取り戻し人格を磨き直すということなのでしょう。

自分の生き方と向き合い生き方を変えた人ほど、その人の取り組んできた過程は同様に生き方を変えたいと思っている人たちの勇気や自信になっていきます。メンターとも言いますが、このメンタルをコーチングする存在によって、自分自身の刷り込みを知り、自分自身の潜在意識を知り、自分自身の脳の癖や見え方を知り、自分自身の意識を知り、本当の自分自身という存在を確認できるのです。

一人で悩む必要はなく、同じように生き方を変えてきた人たちのアドバイスをもらいそれを素直に聴いて自分と正対していくことで歪みを矯正していくことはできます。人は後天的にも脳との折り合いをつけ、性格をいつからでも変えていくことはできるのです。

子どもたちが大人になる過程で刷り込まれた歪んだ様々な認識を、取り払い仕合せに生き方を変えていけるように見守る学びを深めていきたいと思います。

人生のスキル

2000年に労働に関する計量分析手法を発展させた実績でノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学教授のジェームズ・J・ヘックマン氏がいます。この方は、「5歳までの教育が人の一生を左右する」という言葉を残しています。

これはヘッグマン氏が研究した「ペリー就学前プロジェクト」「アベセダリアンプロジェクト」という2つの研究に因るものです。具体的には、恵まれない家庭の子どもたちを対象に2つのグループに分けて幼少期より成人するまでの期間に追跡調査を行い幼少期の環境を実質的に改善する事実を導き出すという研究です。ここでヘッグマン氏は5歳までに与えた教育がその後の人生に大きな影響を与えることと、5歳までに重要なのはIQに代表される認知能力だけでなく、忍耐力、協調性、計画力といった非認知能力がかなり重要になってくることに気づいたのです。

つまりは、5歳までにどのような教育環境があったか、その上でその子がどのような非認知能力を磨いたかということが一生を左右すると言及したのです。この非認知能力とは人格形成で得られる性格スキルのことです。具体的にはこの研究から下記の性格スキルに絞り込みました。

■粘り強さ、自己規律、これらが真面目の力。
■好奇心が強い、想像力に優れている、これらが開放性の力。
■明るい、積極的、外に興味を持つ、これらが外交的。
■思いやり、やさしさ、利己的ではない、これらが協調性。
■感情を整える、不安、イライラなどの衝動がない、これらが精神的安定。
となっています。これを現代の社会人でいえばいくら資格を持っていて実務能力だけが高くてもその知識や技能を活かしつつ、「他者と協力して一つの仕事を作り上げていく」というような協調性・社会性などが必要です。この単に知識や能力や資格などでいくら優秀だと評価されていたとしても、実際に仕事をしていていつも怒ってばかりや、いつもイライラしていたり、周りを威圧したり評価したり、文句を言ったり批判したりしていたらいくら優秀でもそれではみんな嫌がって仕事を創り上げていくことはできません。
仕事は、すべて性格があってのものです。人への気配りや、場を明るくしたり、目的を握り、視野を広げ、前向きに考え、みんなが快適であるように自分を使っていくなど、実際の実務以外にその器のようなものがあってみんなの協力を引き出していくのです。先ほどの性格スキルは、その非認知能力のことを言うのです。
大人になったとき、その力が存分に発揮されるのならその人は仕合せに豊かに、仲間と一緒に成長して成功も得る可能性が高いというのは自明の理です。
この非認知能力を伸ばすには、心の教育が必要だといいます。
心はどのように育つのか、それを向き合ってみるとわかります。様々な体験を通して振り返りその体験の意味を学び直したり、自分自身の性格をよりよく磨くために考え方を転じたり、新しい習慣や笑顔、そして周囲に気楽な雰囲気を与える人になろうと努めたりと、つまりは「生き方」をどうするかを決めるという学問をするということです。
そしてこれは教えられるものではなく、周囲の大人の生き方がもっとも影響を子どもに与えることはだれでもわかります。だからこそ私たちの会社は、子ども第一義の理念を実践すべく、生き方と働き方を分けないで取り組んでいくのです。これが人生のスキルなのです。
これは5歳までにできなかったから無理ではありません、人の一生は長く影響が大きかった5歳までが一区切りですが、それでも生き方を変えた大人の存在は人類全体に多大な影響を及ぼすのです。
引き続き何のために社業に取り組むのかを追求しながら、かんながらの道を切り拓いていきたいと思います。

自分自身をいじめない

世の中には「いじめ」というものが存在します。このいじめの定義は日本では、「いじめは「自分より弱い者に対して、一方的に身体的・心理的攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」とされています。これが英語のbullyingでは「1人またはそれ以上の者が、力の弱い者に対して脅かしたり身体的苦痛を与えたりすること」とされています。

このいじめは、誰かによっていじめられるという被害者と、誰かをいじめるという加害者で構成されていますが実際には「自分自身へのいじめ」をする者同士が関係性で引き合いに自分をいじめている状態になっているということでもあります。

この自分自身へのいじめとは何か、それは自分を傷つけるということです。人間は自分がそのままでも存在価値があると、自然の一部のように思っていれば認められ満たされ愛を感じますから劣等感などは持ちません。比較され、価値を他人に決められ、優劣によって存在をそのものを否定されれば自分のままでいることができなくなります。

本来は、何もなくても幸せである存在だったものがそうではなくなるのだからそれ自体に苦痛を感じるものです。苦痛を感じているから、いじめはじめるのであり、いじわるになるのはいじめによって耐えられない苦痛を他人に向けている状態をいうのです。

特に幼少期の子どもたちは無防備で心のままに素直です。その状態で周囲の大人や親がもしも子どもに容赦なく存在を否定したり、必要な時に愛を与えなかったとしたらその子どもは心に深い穴を持ってしまいます。穴はいつまでもなくならず、そして不完全ですからその自分自身の心の穴を埋めようとして現象として自他へのいじめやいじわるに発展していくのです。

自分というものを認めるというのは、自分を愛するということです。ここでの愛するは愛されている存在として認めるということです。これを他人に求めずに自分に求めるということ、つまり自分をいじめず自分を守る、自分にいじわるをせず自分を守るというように自分自身を自分を守ってあげることが自分を愛するということです。

追い込まれ自殺するまでになる前に、自分を守ってあげること。自分がいじめられないように逃げること、いじわるから守ってあげることをすることも自分を愛するということです。自分自身を自分がいじめることをやめることを何よりも優先にするのです。

このいじめは社會の寛容のなさ、また余裕やゆとりのなさが様々な大人たちの心を蝕みそれが子どもに影響を与えてしまいます。忙しすぎて、人としての暮らしや営みが消失してきているからこそいじめの環境はより悪化していきます。そしてトラウマとして残った親子の負の連鎖は、代々を継いでいきますから愛されなかったと思い込んだ思い込みはそのままループし続け周りを巻き込んでいじめを増やしていきます。

それを断つためにはあるがままを認め、愛されている存在だと気づかせるような環境が社會には必要です。教育は社會を変える仕事ですから、志を持って本業の成就に邁進していきたいと思います。

あるがままで生きること

何かの物事が発生した時、それをどのように受け止めるかはその後の未来を変えていくように思います。物事はありのままあるがままに発生しますが、人間は思い込みによってその事実を歪めていくものです。自分というものの価値観や考え方、その視野でのみ物事を捉えればより一層、視野は狭くなり自分の殻に閉じこもってしまうからです。

如何に自分の思い込みを取り払うか、この工夫が視野を広めるためのポイントになってくるように思います。

例えば、その具体的な方法論の一つに「天からのメッセージ」というものがあります。何か自分にとって感情が揺さぶられるような出来事に直面するとき、これは何のメッセージであろうかと自分の視野に囚われない視座を持つということです。人間は、メッセージを受け取れるか受け取れないかでその後の進路が変わっていきます。

現実というものは実は全てが過不足なく一切が現れており、その機縁を活かすも殺すも自分次第でもあります。機縁が熟すのをまったり、機会と捉えて機智を得るのもまた現実があるがままに鮮明に観えている人は融通無碍に自分の運命と道を楽しみます。

現実の苦しさばかりの日々は視野の狭さをさらに増大させ、固執固着した歪んだ観念によって現実を自分の思う世界に挿げ替えてしまいます。その挿げ替えがポジティブで豊かで楽しく自由であるのなら仕合せですが、思い通りにならないとばかりに抗っていても不安や怒りで健康を害するばかりです。

あるがままを受け容れる訓練というのは、全体の中にある自分に気づくことのように思います。あの花も、あの虫も、あの木々もあの人間も、すべては等しくこの世に存在しています。自分もまたその一つであり、何も変わらないその一部分です。特段、その花だけが世界を変えているのではなく、世界の中にその花もあるがままに咲いているだけです。

現実のただなかに生きていくということは、あるがままで生きていくということなのでしょう。生まれてきただけで愛され、生まれてきただけで自由、そういう慈愛をもって生きる人には感謝は離れないように思います。感謝を忘れないために人は痛みを感じます、痛みは感謝に気づくための貴重な種蒔きかもしれません。

最後にナポレオン・ヒル氏の言葉です。
「あらゆる逆境、心の痛みは、それと同等かそれ以上の恩恵の種を含んでいる」

引き続き、あの日々に仕合せで楽しく豊かに笑っている幼い子どもたちが憧れるような社會を創るために解き放ってみたいと思います。

むかしのお米とは

昨年より本格的に会社で「むかしのお米」というものに手掛けています。これは一般的な農業をするのではなく、むかしはどのようにお米作りをしていたかを現代に甦生させるものです。

ここでの「むかし」とは何であったかを少し書いてみようと思います。

このむかしとは、過去から今までどうであったかという意味でむかしという言葉を用います。つまりは今はむかしの連続であって今であるという意味です。日本の成り立ちは神話によると天地開闢以来、親祖が流水で禊をしてこの地を豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)にすると初心を掲げ、子孫代々繁栄と発展を現代まで実践されてきました。この豊葦原瑞穂国は辞書には「神意をもって豊かに稲が実り栄える国」という意味であると記されています。

むかしのお米とは、この神事として国造りを稲に倣い、稲に学び、稲を実らせるように行われたお米作りによってできたお米のことを言うのです。

ではむかしのお米作りは何かと言えば、日本的精神や伝統が入ったものであるのは自明の理です。そのむかしのお米作りの原点は、神話の中に籠められています。たとえば、八百万の神々と相談をしながら取り組むことや、流水に澄まし清め流すことで認め合うことや、協力協働し思いやりお互いに働くことなどがむかしから日本人としての精神性の原点を磨くことになっているのです。

現代では、そういう日本的なお米作りではなく単に収量を増やし評価が高まるようなお米作りが主流になっています。ここに日本人のお米作りの原点を思い出すこともなくなってきているように思います。これでは何のためにお米作りで国を造ろうとしたのかという初代の理念のチカラをお借りすることもできなくなります。私たち子孫は、先祖が立てた理念やビジョンによって方向性を確認し、かつて生存し命を懸けた方々の伝統の積み重ねによって得た力を継承して今を生きているのです。

その私たちが伝統を継がなかったら悲しむのは親祖から命がけで取り組んできてくださったご先祖様たちであるのは自分に置き換えればすぐにわかります。私がむかしのお米作りにこだわるのはそのような理由からなのです。

むかしのお米作りをしていくというのは、謙虚に生き方を見直して自分を修正し続けるということかもしれません。

引き続き子どもたちにご先祖様の遺志や力が伝承されていくように、むかしのお米を大切に育てて繋いでいきたいと思います。

一円和合

人間にはそれぞれ多様な個性があるように多様な偏りがあるものです。この偏りとは辞書でひけば「 1 真中からずれて、一方に寄る。「針路が北に―」 2 正しい状態からずれて、不公平・不均衡になる。偏する。」と書かれます。

この偏という字は、よく「偏見」という言い方もされますがこの偏の字の語源はどちらか片方の門から人が文字を見るという具合で成り立っています。

この偏見というものは、偏った見方をすることであり中正ではないときに使われます。この中正とは、本来は私がよく使う一円観で言う中庸・中心でありみんなで丸ごと受け容れた時の状態のことです。一人一人の意見をよく聴いて、みんなでその意見を聴いて判断していくのであればバランスが取れた中正的なものに近づいていくのです。

しかし今の世間での偏見は、何か一つの価値観だけで縛りこみ、その価値観に合わない人を裁くような偏見を用いられているように思います。偏りがある人を差別したり、排除したり、排斥したり、変人奇人だと決めつけて仲間外れにしたりすることは決して偏りを活かし合う本来の人類社會の在り方ではありません。

みんな似たような価値観を持たされ、みんな同じでないといけないような圧迫した環境を与えられれば偏りがある人である人ほどその価値観で生きていくことはできなくなります。つまり生きづらくなっていくのです。多様性を認め合う社會は、お互いの偏りを活かし合う社會です。

だからこそ、偏見で裁くのではなく偏見でみんなと折り合いをつけて丸ごと認め合おうという寛容さで社會を創造していくことが全体バランスを保ちながら人類が共存共栄をしていく仕組みになるのです。

この全体バランスとは何か、それはみんなが偏っていることがいいという状態です。人間は集団を創る生き物だからこそ、色々な人たちがいてその人たちがお互いにどう活かし合おうかと考えてここまで人類を発展させてきました。

一部の人たちにだけ都合が良い集団は、活かし合う集団ではないことはわかります。場合によっては活かし合うではなく殺し合うような集団や社会に育っていくかもしれません。

その人の持ち味を活かすか殺すかは、その集団が何を目指しているか、どのような社會を築こうとしているかに関わってきます。人本主義なのか拝金主義なのか、それもまた組織や集団の意識が決めます。人を大切にする組織、人を大切にする集団であればまず傾聴をし共感をし受容して感謝し合うような関係を築いていく必要があります。

そのためには、常識に照らして自分の意見が正しいと教え込むような環境ではなく、それぞれに一理あってみんな正しいといった一円和合する環境を用意し人類を見守り続けていくことだと私は思います。

一円和合の環境を子どもたちの現場に少しでも伝道していけるよう、社業を高めていきたいと思います。

 

 

心を許し合える環境

現代のような比較や競争社会の中で、素直に心を許せる関係が持てるというのは有難いことです。自分の長所や短所、情緒、人間性、癖や性格などもある程度は理解し合っていてそれでも本音で自分を明かすことができるような場所は安心基地でもあります。

そういう意味では人は警戒心をどこか持っていて、簡単に心を許すということは少ないように思います。誰を信じてよいのか、誰なら本当の自分の気持ちを理解してくれるのか、言い換えれば自分の深いところを分かり合える人に出会えることは仕合せなことかもしれません。

安心した環境というのは、警戒心がなくていつもの自分のままでいられる環境のことです。

人はどのような時に警戒するのかを考えればわかりますが、誰かに監視されている時や、痛めつけられるとき、無視されたりイジメられるとき、怖くて不安な時、敵がいると思ったとき、自分を守ろうとするとき、自信がないとき、つまり防衛しようと思って警戒が強くなり余計に不安な環境を産出してしまいます。

不安な環境というのは防衛の姿勢ですから、自分のポテンシャルも最大限発できませんし協力ができずパフォーマンスも落ち、仕事も成果も遣り甲斐もやる気も落ちていきます。

そういう意味では、一人一人が警戒しなくてもよい環境を醸成することがみんなが居心地がよい環境を創造していくことになるのです。警戒心を解くことができれば人は自分のあるがままで全体快適な環境の一部になっていくのです。

警戒心がない存在といえば、赤ちゃんです。

赤ちゃんをみれば私たちはすぐに警戒心を解き放って子どものように話しかけてしまいます。周囲も笑顔になり、つい安心できる温かな雰囲気に包まれます。赤ちゃんは防衛などしておらず、ありのままの自分で周りを信頼しています。

私たちは大人になっていく過程で、自分の身を守る術を身に着けて必死に自分を守るために生きていますがかつてはお互いに信じ合うことで助け合いより居心地の善い平和な協働社會を築いた時代もあったのです。

ひとりひとりが安心するというのは、それぞれの発達の特徴や個性、考え方や生き方、性格など丸ごと理解しお互いに打ち解け合う必要を感じます。いろいろな人がいるからこそ善い、多様な価値観があるからこそ助け合えるとお互いにみんなを徳を尊重するような意識を持つ必要があります。

徳の社會というものは、天が与えた恩恵をそのまま生かし合おうという自分をも許し、相手も許すといった「心を許し合う」社會にしていくということでもあります。

そのためには自分の間違いも素直に許し、相手の間違いも素直に許す思いやりがそれぞれに育つ必要があります。つまりは「一緒に学び合い正し合い成長し合おう」といった共存共栄していく環境があるということです。

安心できる環境とは共存共栄できる環境のことなのでしょう。

子どもが安心して自分らしく活き活きと仕合せに生きられる世界になるように社業の改善を続けていきたいと思います。

人類の過渡期~3つ子の魂~

人間が自然な存在としてこの世にあるのは、「生まれ持ったものを磨く」ときに認識するものです。その生まれ持ったものは、その人にしか与えられない天からの使命でもあり恩恵でもあります。人間はその生まれ持ったものを磨くことで世の中に役に立つ存在になれば自然体でこの世の中を自由に自立していくことができるからです。

誰もが正直に素直に自然体で生きられる、共存共栄する世の中はまずこの生まれ持ったものを磨くことを受容されている世の中かどうかで決まります。

私の本業で関わっている幼児の世界は、日本に古くからある諺の一つで「三つ子の魂百まで」と言われ、西洋の諺にも「The child is father of the man」(子どもは人類の父)」と言われ、それだけこの時期に与える影響は一生、また人類の未来に影響を与えると言われます。

その時期の子どもたちがどのような環境であったか、またどのような社會であったかは、人類をはじめ、その人の人生の左右する一大事であるのです。

脳のニューロンの数は1歳の時にピークを迎え、3歳までには個性の要になる人格形成や言語能力も形成されるほど急成長の時期です。この時期に、天性のものを磨くことを見守られるたかどうかはその後のその子の一生に大変大きな影響を与えてしまうのです。

また心においては、さらに影響が大きく心の根もその時期に育っていきます。だからこそその土壌がどのようになっているかが人類の未来を変えてしまうのです。私が乳幼児期にこだわる理由はここにあります。

この時期の子どもたちが自然体で正直で素直に健全に伸びるような見守られた環境があるかどうかで仕合せかどうかが決まり、世界が変わるかどうかが決まります。人類は長い時間をかけて伝承という仕組みを用いて今よりもさらに善くなる未来を創造してきました。この循環の仕組みは天の法理であり、いのちはこのようにバトンを繋ぎながら世界を創造し続けてきたからです。

子どもが天から与えられたものをどう削ぎ落さずに磨いていくことができるか、本来はそれが教育者の役割であったはずです。いつからか削ぎ落してはならないものを無理に削ぎ落させ、別の人生を刷り込み、その他大勢になるように洗脳するようになればその子らしさが失われるだけではなく、本来のその人が失われることもあります。

自分らしく生きるというのは、自然体のままでいい人を増やす社會にするということです。自然体のままで許される社會は、「それぞれが生まれ持ったものを磨き合う社會にする」ということです。

私が見守ることに人生を懸けるのもその理由に尽きます。

人類の過渡期に、今こそ子どもたちの環境を見直す必要性を感じています。長い目で観て、一緒にこの使命を共にしてくれる仲間を求めています。それぞれが安心して心の中の平和を保てる時代になるように協力していきましょう。

情報共有の本質

組織で協力しやすい職場環境を築くのに情報共有というものがあります。これは単に、自分の知っている情報を他と共有するという意味もありますが、他を巻き込んで一緒に情報を掘り下げていくという意味もあります。

この情報とは、日本で造られた造語で江戸時代には存在しなかった言葉です。実際には、軍隊の敵情報告という言葉の真ん中の2語を抜粋し「情報」と使ったことから生まれたそうです。

ではそれまではどのような言葉が、代わりに存在していたのか。

一説によれば現在の情報量は、平安時代の人の一生分、江戸時代の人の一年分であるとも言われます。つまり、むかしの人はそれだけ情報が少ない中で問題もなく生活をしてきたということです。知らなくてもいいことは知らなくても済む社會があったということです。

現代は、日々に猛烈な量の情報が黙っていても入ってきますから無人島や山奥で生活しない限りは情報が追いかけてくるものです。世界の隅っこで起きた事件ですら、翌日には世界中の人たちが知っているという事実。江戸時代は、飛脚で何日もかけて短い文章を一部の人たちの間で行われていたのを見ると如何に世の中が変わってしまったかも観えてくるものです。

むかしは少ない情報量であっても、それを察知するだけの信頼関係がありました。言い方を換えるのなら、心が通じ合っていたとも言えます。情報過多の時代は、心を通じ合わせるというコミュニケーションが頭で理解することばかりになり少なくなってきたように思います。

現代のように複雑になってくればくるほどコミュニケーションも複雑になります。どのように心を通じ合わせていくかは、それぞれの意識にかかっています。意識を合わせていくというのは心を通わせ合う情報共有をするということです。

子どもたちが安心して協力し合う社会になっていくように今の私たちが道筋をつけていきたいと思います。